我・愛・ 泉州 信太の森 【信太山丘陵】

~恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉~
★★森羅万象・自然・人生 ★ 凡人の散歩絵日記★★

坐摩神社行宮  !

2010-05-14 06:38:59 | 番外編
今週は、名古屋への出張や沖縄からの顧客来阪などでバタバタとし、
丘陵散歩・JOGがとうとう出来なかった。週の始めにこんな事があった。
集金取立て・・・・・。未入金の客、会社的には未入の了解はもらって
おり特に問題なく社内処理は済んでいるのだが、自分的には納得出来ず
腹立たしい思いで集金催促を続けていた大阪は北浜の会社。月曜日にも
訪問してみたが、電話は不通!会社は無人で施錠され、ポストにはその
他の会社だろう、請求の催促状らしき封筒が沢山溜まっていた。

やはり逃げたか・・・。腹立たしい思いで歩いていると府立労働センター
ビルの真東(中央区石町二丁目付近)に坐摩神社行宮!!があった。
どこかで聞いた覚えが。そうだ我が和泉市を通る「熊野古道」の出発点!
といわれている渡辺津の辺りだ!!

京から四天王寺・住吉大社・熊野へ詣でる際は淀川からの船をこの辺り
で降りていたらいしい熊野古道はこの渡辺津が起点で、熊野九十九王子
の1番目がここだ。現在その跡には坐摩神社行宮が建っている。
因みに現存の坐摩神社は中央区久太郎町4丁目渡辺3号に鎮座している。
ヘエ~!知らなかったけど偶然通りかかったので、写真撮影とお賽銭を入
れ拝礼をして帰って来た。・・・



※熊野詣
熊野三山への参詣が頻繁に行われるようになったきっかけは、1090年
の白河上皇の熊野行幸からと言われている。白河上皇はその後あわせ
て9回の熊野行幸を行った。これにより京都の貴族の間に熊野詣が行わ
れるようになった。その後、後白河上皇も33回の熊野行幸を行っている。
江戸時代に入ると、伊勢詣と並び、熊野詣は、広く庶民が行うようにな
ったといわれている。一時は、熊野付近の旅籠に1日で800人の宿泊が
記録されたこともあったようだ。明治維新後、神仏分離令により熊野
古道周辺の神社の数は激減。熊野詣の風習も殆どなくなってしまった。
熊野古道自体は、大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲
の生活道路として使用されつづけた。



・・・会社へ戻って驚いた。経理の担当者が!!
「@@さん!きょう例の未入金!全額振り込まれました!・・」と
マジ!!諦めていた売掛金が本日入金だと・・・
そんな・・「坐摩神社」のご利益か??いやそうに違いない。(^^;)













コメント (1)
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