前回記事に書きました
「たかこの世界」
に、エッセイで参加させていただきました。
今回で5回目になりますか。。。
こんな機会をいただけて、ありがたいです。
「父の看取り」
父を実家で看取ってから、10年が経とうとしている。
母にとっても、私にとっても、最愛の存在であった父は若々しく、
70の声を聞くまでは、病気ひとつしたことがなかった。
定期的に経過をみていた父の肺の影に変化があり、
急ぎ精査となったのは、2013年12月4日のこと。
その同年6月に心臓の弁置換術を受けた母は、
術後のトラブルで一時は回復も危ぶまれ、約1ヵ月半はICU。
ようやく退院できたのは9月だった。
前年の夏には父の胃がんが見つかり、
内視鏡での胃粘膜剥離あと、開腹での胃切除が必要となり、
結局2度の手術に。幸い、経過は順調。
ほかに病気もなく、体力にも恵まれていた父は回復も早かった。
術後1年目が過ぎたこの頃、転移や再発の兆候はない。
ただ、胃がんの精査治療の経過中に、小さな肺の影が見つかっており、
以後フォローしていた。
母の長引く入院やその後の心配が、父の心身には大きな負担で、
免疫力や体力の低下が気になってはいた。
前年から続く、父と母の病と入院。
私たち家族には心配の絶えぬ日々だったが、
少しずつ生活のペースが戻り、今度は穏やかなお正月が迎えられるかと、
安心しかけたその矢先だった。
今回問題なければ、また半年後か、1年後のフォローでよくなるだろう。
そう信じたかった。
ところが、その日を境に、私たち家族の状況は一変し、
またもや試練の日々が始まる。
それから父を看取るまでの日々は、長くて濃密で、
それでいてあっというまの8ヶ月だった。
難しい肺がんでも、稀なる悪性の組織型でなければ、
術後も当分は元気でいてくれたことだろう。
発見も、手術も、これ以上ないほど早期に進められたのだ。
しかし、父の寿命はここで尽きてしまうことになる。
病を得てからの父は実に素直で、付き添う私に従い
通院を重ね検査を受け、薬もちゃんと服用してくれた。
痛み止めの麻薬を使い始めたから、運転はしばらくやめようね
と言えばそれに従い、そろそろ仕事も考える時期かもねと言えば、
取引先や関係者への迷惑が最小限になるようととのえ、
きちんと商売をたたんだ。
その過程において、愚痴や弱音はいっさい吐かず、わがままも言わなかった。
それでいて、歯をくいしばって耐えているという痛々しさも感じさせず、
病気以外はこれまでどおりの父であるように見えた。
在宅で緩和ケアを受ける父の、入浴介助は私の役目のひとつ。
父の体調をみながら入浴を勧めることもあれば、父からの希望で、
ということもあった。
父は最期まで寝たきりにはならず、できることは自分でしていた。
洗髪と、背中を流すこと、見守りと手伝い。
それが、入浴時の私の仕事だった。
母は、その間に清潔なシーツや枕カバーでベッドを整える。
父がなるべく体力を消耗しないための連携プレー。
今は元気でも、いつ急に悪くなるかわからない状態なので、
毎回、これが最後になるかも、最後となっても悔やむまい…
の思いで父の背を流した。
亡くなる5日前の日曜日、
父から入りたいと言われたのだったか、私が勧めたのだったか…
いつもと変わらぬ状態、変わらぬ流れの入浴だったが、
いつになく静かな父は、自分で身体を洗おうとはせず、
すべてを私にゆだねてくれているようだった。
「私が全部洗っていいの?」「うん」
静かに答える父。
父の命のエネルギーが、火が、小さく、弱まっていきつつあるような…
これが最後になる。予感があった。
父との忘れえぬひとときである。
そして、暦は立秋。
もう意識のない父は、私の目の前で、最後の息をしてその呼吸を止めた。
日付が8月8日に変わってまもない、午前1時37分。
そっとカニューレを外し、酸素を止める。
もう苦しくないね…
すべての苦痛から解放された顔で眠る父。73歳。
深呼吸して、ほんのひととき父と対峙してから、傍らの母を起こす。
2階の弟を呼びに行く。
下にいる母の慟哭に、しまった、ひとりにしてしまって…
と、自分のうかつさを責めた。
下りてきた弟が、母をしっかり抱いてくれた。
看取りの日まで、住み慣れた自宅で、貴重なときを
父とともに過ごせたことは、家族にとって大きな恵み。
父がもうこの世にいないことはさびしいが、
存在をいつも心に感じている。亡くなってから、より大きく。
母は、その後7年を生きて、父のもとへ旅立った。
さいごかも知れない父の背を流す さくら
「たかこの世界」
に、エッセイで参加させていただきました。
今回で5回目になりますか。。。
こんな機会をいただけて、ありがたいです。
「父の看取り」
父を実家で看取ってから、10年が経とうとしている。
母にとっても、私にとっても、最愛の存在であった父は若々しく、
70の声を聞くまでは、病気ひとつしたことがなかった。
定期的に経過をみていた父の肺の影に変化があり、
急ぎ精査となったのは、2013年12月4日のこと。
その同年6月に心臓の弁置換術を受けた母は、
術後のトラブルで一時は回復も危ぶまれ、約1ヵ月半はICU。
ようやく退院できたのは9月だった。
前年の夏には父の胃がんが見つかり、
内視鏡での胃粘膜剥離あと、開腹での胃切除が必要となり、
結局2度の手術に。幸い、経過は順調。
ほかに病気もなく、体力にも恵まれていた父は回復も早かった。
術後1年目が過ぎたこの頃、転移や再発の兆候はない。
ただ、胃がんの精査治療の経過中に、小さな肺の影が見つかっており、
以後フォローしていた。
母の長引く入院やその後の心配が、父の心身には大きな負担で、
免疫力や体力の低下が気になってはいた。
前年から続く、父と母の病と入院。
私たち家族には心配の絶えぬ日々だったが、
少しずつ生活のペースが戻り、今度は穏やかなお正月が迎えられるかと、
安心しかけたその矢先だった。
今回問題なければ、また半年後か、1年後のフォローでよくなるだろう。
そう信じたかった。
ところが、その日を境に、私たち家族の状況は一変し、
またもや試練の日々が始まる。
それから父を看取るまでの日々は、長くて濃密で、
それでいてあっというまの8ヶ月だった。
難しい肺がんでも、稀なる悪性の組織型でなければ、
術後も当分は元気でいてくれたことだろう。
発見も、手術も、これ以上ないほど早期に進められたのだ。
しかし、父の寿命はここで尽きてしまうことになる。
病を得てからの父は実に素直で、付き添う私に従い
通院を重ね検査を受け、薬もちゃんと服用してくれた。
痛み止めの麻薬を使い始めたから、運転はしばらくやめようね
と言えばそれに従い、そろそろ仕事も考える時期かもねと言えば、
取引先や関係者への迷惑が最小限になるようととのえ、
きちんと商売をたたんだ。
その過程において、愚痴や弱音はいっさい吐かず、わがままも言わなかった。
それでいて、歯をくいしばって耐えているという痛々しさも感じさせず、
病気以外はこれまでどおりの父であるように見えた。
在宅で緩和ケアを受ける父の、入浴介助は私の役目のひとつ。
父の体調をみながら入浴を勧めることもあれば、父からの希望で、
ということもあった。
父は最期まで寝たきりにはならず、できることは自分でしていた。
洗髪と、背中を流すこと、見守りと手伝い。
それが、入浴時の私の仕事だった。
母は、その間に清潔なシーツや枕カバーでベッドを整える。
父がなるべく体力を消耗しないための連携プレー。
今は元気でも、いつ急に悪くなるかわからない状態なので、
毎回、これが最後になるかも、最後となっても悔やむまい…
の思いで父の背を流した。
亡くなる5日前の日曜日、
父から入りたいと言われたのだったか、私が勧めたのだったか…
いつもと変わらぬ状態、変わらぬ流れの入浴だったが、
いつになく静かな父は、自分で身体を洗おうとはせず、
すべてを私にゆだねてくれているようだった。
「私が全部洗っていいの?」「うん」
静かに答える父。
父の命のエネルギーが、火が、小さく、弱まっていきつつあるような…
これが最後になる。予感があった。
父との忘れえぬひとときである。
そして、暦は立秋。
もう意識のない父は、私の目の前で、最後の息をしてその呼吸を止めた。
日付が8月8日に変わってまもない、午前1時37分。
そっとカニューレを外し、酸素を止める。
もう苦しくないね…
すべての苦痛から解放された顔で眠る父。73歳。
深呼吸して、ほんのひととき父と対峙してから、傍らの母を起こす。
2階の弟を呼びに行く。
下にいる母の慟哭に、しまった、ひとりにしてしまって…
と、自分のうかつさを責めた。
下りてきた弟が、母をしっかり抱いてくれた。
看取りの日まで、住み慣れた自宅で、貴重なときを
父とともに過ごせたことは、家族にとって大きな恵み。
父がもうこの世にいないことはさびしいが、
存在をいつも心に感じている。亡くなってから、より大きく。
母は、その後7年を生きて、父のもとへ旅立った。
さいごかも知れない父の背を流す さくら