さくら・ことのは~川柳の部屋

言の葉はこだまことだまものおもひ…五七五の部屋へようこそ。

エッセイ「父の看取り」

2024-03-31 | エッセイ
前回記事に書きました
「たかこの世界」
に、エッセイで参加させていただきました。
今回で5回目になりますか。。。
こんな機会をいただけて、ありがたいです。


「父の看取り」

 父を実家で看取ってから、10年が経とうとしている。
 母にとっても、私にとっても、最愛の存在であった父は若々しく、
70の声を聞くまでは、病気ひとつしたことがなかった。

 定期的に経過をみていた父の肺の影に変化があり、
急ぎ精査となったのは、2013年12月4日のこと。
 その同年6月に心臓の弁置換術を受けた母は、
術後のトラブルで一時は回復も危ぶまれ、約1ヵ月半はICU。
ようやく退院できたのは9月だった。

 前年の夏には父の胃がんが見つかり、
内視鏡での胃粘膜剥離あと、開腹での胃切除が必要となり、
結局2度の手術に。幸い、経過は順調。
ほかに病気もなく、体力にも恵まれていた父は回復も早かった。
 術後1年目が過ぎたこの頃、転移や再発の兆候はない。
ただ、胃がんの精査治療の経過中に、小さな肺の影が見つかっており、
以後フォローしていた。
 母の長引く入院やその後の心配が、父の心身には大きな負担で、
免疫力や体力の低下が気になってはいた。 

 前年から続く、父と母の病と入院。
私たち家族には心配の絶えぬ日々だったが、
少しずつ生活のペースが戻り、今度は穏やかなお正月が迎えられるかと、
安心しかけたその矢先だった。
 今回問題なければ、また半年後か、1年後のフォローでよくなるだろう。
そう信じたかった。
 ところが、その日を境に、私たち家族の状況は一変し、
またもや試練の日々が始まる。
それから父を看取るまでの日々は、長くて濃密で、
それでいてあっというまの8ヶ月だった。

 難しい肺がんでも、稀なる悪性の組織型でなければ、
術後も当分は元気でいてくれたことだろう。
発見も、手術も、これ以上ないほど早期に進められたのだ。
 しかし、父の寿命はここで尽きてしまうことになる。
 病を得てからの父は実に素直で、付き添う私に従い
通院を重ね検査を受け、薬もちゃんと服用してくれた。
 痛み止めの麻薬を使い始めたから、運転はしばらくやめようね
と言えばそれに従い、そろそろ仕事も考える時期かもねと言えば、
取引先や関係者への迷惑が最小限になるようととのえ、
きちんと商売をたたんだ。  

 その過程において、愚痴や弱音はいっさい吐かず、わがままも言わなかった。
それでいて、歯をくいしばって耐えているという痛々しさも感じさせず、
病気以外はこれまでどおりの父であるように見えた。
 在宅で緩和ケアを受ける父の、入浴介助は私の役目のひとつ。
父の体調をみながら入浴を勧めることもあれば、父からの希望で、
ということもあった。
 父は最期まで寝たきりにはならず、できることは自分でしていた。
洗髪と、背中を流すこと、見守りと手伝い。
それが、入浴時の私の仕事だった。
 母は、その間に清潔なシーツや枕カバーでベッドを整える。
父がなるべく体力を消耗しないための連携プレー。
今は元気でも、いつ急に悪くなるかわからない状態なので、
毎回、これが最後になるかも、最後となっても悔やむまい…
の思いで父の背を流した。 
        
 亡くなる5日前の日曜日、
父から入りたいと言われたのだったか、私が勧めたのだったか…      
 いつもと変わらぬ状態、変わらぬ流れの入浴だったが、
いつになく静かな父は、自分で身体を洗おうとはせず、
すべてを私にゆだねてくれているようだった。
    
 「私が全部洗っていいの?」「うん」
 静かに答える父。
 父の命のエネルギーが、火が、小さく、弱まっていきつつあるような…
これが最後になる。予感があった。
父との忘れえぬひとときである。

 そして、暦は立秋。
もう意識のない父は、私の目の前で、最後の息をしてその呼吸を止めた。
日付が8月8日に変わってまもない、午前1時37分。
そっとカニューレを外し、酸素を止める。
もう苦しくないね… 
 すべての苦痛から解放された顔で眠る父。73歳。
 深呼吸して、ほんのひととき父と対峙してから、傍らの母を起こす。
2階の弟を呼びに行く。
下にいる母の慟哭に、しまった、ひとりにしてしまって…
と、自分のうかつさを責めた。
下りてきた弟が、母をしっかり抱いてくれた。

 看取りの日まで、住み慣れた自宅で、貴重なときを
父とともに過ごせたことは、家族にとって大きな恵み。
 父がもうこの世にいないことはさびしいが、
存在をいつも心に感じている。亡くなってから、より大きく。
 母は、その後7年を生きて、父のもとへ旅立った。


 さいごかも知れない父の背を流す さくら



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おまけ写真です。。。

2023-09-26 | エッセイ
 

 

お目よごしたいへん恐縮ですが;;
いかにも昭和、という感じですねえ^^;

前の記事に書きましたエッセイの着物を
はたちの頃に着た写真。
袖を切る前の振袖です。

お正月と謝恩会、
同じ日の写真ではないのですが、
どちらも亡き母に着せてもらいました。

母が本を見ながら一生懸命、
ふくら雀の応用編?
ひばりという形だったと思いますが
帯を結んでくれました。

懐かしいです。


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エッセイ「振袖その後~幸せな一日」

2023-09-25 | エッセイ
すずか川柳会でお世話になっております、
会長たかこさんの「たかこの世界」13号に
またまたエッセイで参加させていただきました。
今年3月の、とある1日のおはなしです^^


「振袖その後~幸せな一日」

 前々回に書かせていただいた振袖のエッセイの、その後のお話。
 袖丈を詰め訪問着となった、もと振袖に再び手を通す
ことができた、私の幸せな一日のことを書こう。

 着物の手直しができあがってきた日、
たまたまご一緒していた着付けの教室の先生は、
そのエッセイも読んでくださっていた。
 そして言われたことには、
「素敵なお話ね。お着物、ぜひ着てあげないとね。
よかったら近いうちに、私に着付けさせてもらえないかしら?
私自身のお勉強にもなるしね」
 それはもう、願ってもないうれしいお話で、
ぜひお願いします!となり、具体的な日も決まる。
 昨年の十二月に、その楽しみな日は予定されていた。

 ところが、なんということだろう。
 十一月末、自転車に背後から追突され転倒するという、
思わぬ事故に遭った私は、左膝を骨折。
 年内は休職を余儀なくされ、自宅療養の身となった。          
 楽しみにしていた着付けの予定は、もちろん延期で、
いくつかほかの予定もキャンセル。残念なことが続く。                

 まあ、治るケガでよかった、入院や手術も必要なかったし…
頭も打撲していたので、ひとつ間違えば命を落としていたかも
しれないのだからと自分をなぐさめた。
 幸い回復は順調で、年明けからぶじ仕事も再開でき、
着物のお稽古にもそろそろと通い始めた。
 そして春も近い頃、川柳マガジンに書く記事の依頼があり、
表紙に載せる写真を撮りに来てくださるとのこと。
もったいないお話だ。

 そうだ、この機会にぜひあの着物を着せていただこう!
うまく合う日があるかしら。
 編集部の松岡さんご提案のうちの一日は、
私の休日を考慮してくださった水曜日。
 場所を貸してくださる教室のおかみさんも、
着付けてくださる先生もOKで、幸運にも都合がついた。
 ケガをして延期になったからこそのめぐりあわせ。
「怪我の功名」とは、まさにこのこと??
 うれしいめぐり合わせに、私は感謝した。

 まだ肌寒い時期だったが、あたたかくお天気に恵まれた当日は、                     
「見学させてください、今度娘の着付けがあってね」
と来られるかたや、
「どれどれ、見せてくださいな~」
と集まったお仲間さんたちで、思いのほか賑わった。
 私の顔立ちに合うように、アップの髪やメイクがととのえられ、
手際よく、気持ちよく進んでゆく着付け。
 お太鼓でなく、ちょっと華やいだ文庫結びに仕上げられた帯も、
きれいに決まる。
 帯や小物も、若かりし二十代の頃に、この着物と一緒に
身につけた懐かしいもの。
 ただ帯締めは、鮮やかな朱色だったものを、
おかみさんのアドバイスで薄いブルーにする。
そして、
「これも使ってね」と添えてくださった真珠の帯留め。           
「櫛はこれがいいわよ。角度はこうよ」
「はいかんざし。これが似合うと思うわ」
 いつのまにか、重ね襟や帯揚げの色に合わせた、
ブルーの縁どりのある扇子まで帯に納まり、
仕上げには、
「はい、このバッグを持って!」

 真珠の帯留めに、美しい桜の装飾のある櫛や、赤い玉かんざし。
素敵なビーズ刺繍のセカンドバッグ。 
 壊したり汚したりしてしまったらどうしよう、
と思いつつも、ありがたく感謝しながらお借りした。
 撮影は、表紙になった「すっぽん料理遠山」前のほか、
場所を変えては臨んだが、カメラマンの松岡さんに続き、
おかみさんや、お仲間さんたちが各々スマホを構え、
着付けてくださった先生も、たえず私の髪の乱れや櫛の位置、
襟元などを直しながら練り歩く。

 お祭りのような騒ぎの一行に、ご近所の人には
「今日は何かあるんですか? 」とたずねられ、
「いえ、ちょっとした記念撮影でして…」
と、照れながら答える私だった。

 生まれ変わった振袖は、めったとないハレの日に、
また私の晴れ着となってくれた。
 数年後には還暦という身になって、この着物を再び着られるとは、
むかしには想像もしなかったことだ。
 こんな若々しいピンクだが、ここは大目に見てもらおう。      
 多くの人のあたたかい心に包まれ、忘れがたく幸せなこの日は、
誕生月三月の素敵なプレゼントだった。
 父と母も、見てくれているといいな。
                         
 晴れの日の着物こころにサクラサク さくら


 
 
 

 


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エッセイ「はじまりは第九~歌との出会いと再会」

2023-03-28 | エッセイ
すずか川柳会でお世話になっております、
会長たかこさんの「たかこの世界」12号に
またエッセイで参加させていただきました。
10号、11号に続き3回目の参加です。


 「はじまりは第九~歌との出会いと再会」

「こんなのがあるのよ。あなたも歌ってみない?」
と渡された1枚のチラシ。それが始まりだった。
「阪神・淡路大震災3周年 復興を願う第九」

 歌は好きだが、楽譜が読めない。できる楽器もない。
それに、ドイツ語で歌う?無理よね…と、思いながら見れば、
楽譜が読めなくても参加できます、とある。
本当に?ならば、歌ってみたい。
 震災復興への思いを込めた第九。
このタイミングでご縁のあった今、一生に一度くらい、
ドイツ語で第九を歌うというのも、心ときめく経験かもしれない。
 そんな思いで飛び込んだ合唱だが、さて入ってみれば、
厳しくコワイ先生の指導のもと、苦労の連続。
自主練習も不可欠だった。
 それでも、少しずつ歌えるようになるごとに楽しく、
四声でぴたっとハモれた時の快感(実際、感動で鳥肌が立つ)
を体感すると、もうやめられない。
 それまで、職場と家を忙しく往復するばかりだった私に
もうひとつ、たいせつな世界ができた。     

 一生に一度のつもりだった第九は、その後気がつけば毎年のように、
そしてミサ曲やレクイエムなど、多くの合唱曲を歌う機会にも恵まれた。
 最初の合唱団が解散のようなかたちとなったあと、
また歌いたいねと集まったメンバーから生まれ、育っていった小編成の合唱団は、
私にとって、もうひとつのホームのような存在になった。
 ご縁のできた方々の演奏会に足を運ぶ機会も増えた。
合唱だけでなく、歌曲、オペラ、オーケストラ、室内楽など、
美しい音楽とのたくさんの出会い。
 1枚のチラシがきっかけとなった、よき先生方やお仲間との出会いのおかげで、
歌はすっかり私の生活の一部となった。
そしていつしか、ソロや二重唱にも取り組むように。
 いつも何かしら、次に歌う曲の課題があり、聴きに行く演奏会の予定がある、
音楽で彩られた日常だった。 

 ところが、コロナ禍の世となり、また母の病と看取りの時期があり、
まったく歌えず、歌わずの日々に。
鼻歌さえも出てこない。
ずっと生活の一部となっていた歌や音楽から遠ざかり、
それでも淡々と生きていた。
歌えないつらさを、切実に感じている自覚もなかった。
 今思えば、できない状況でできないことを、強く望む
ということに蓋をしていたのかもしれない。
 歌を再開したのは、今年になってから。
長く休講状態だったドイツリート(リート=歌曲)の会が、
再開されたタイミングで、だった。
 毎日のように歌っていた日々から、まったく歌わずにいた2年間。
久しぶりに発声して、かぼそい自分の声にあきれつつも、
歌えるだけでしあわせ、と感じる自分がいた。
 そして、またいちから、歌に取り組んでみたいと。 

 さまざまな事情から、現在通っているのはドイツリートの会ひとつだけ。
年に2~3回ある門下生のコンサートは、歌曲、オペラ、ミュージカルと
何でもありで、私は主に、ドイツ歌曲と日本歌曲を歌っている。
 川柳もそうだが、人前で歌うのも、自分がまるはだかにされるよう。
特に、ピアノ1台と歌い手ひとりというかたちだと、歌声だけではなく、
容姿も性質も、すべて隠せない気がする。
私は性懲りもなく、なんてマゾヒスティックなことをしているのだろうかと、
時々思ったりもする。
 本番では、愛情をもって合わせてくださるピアニストの先生が支えで、
のびのびと楽しく歌えれば、こんないいことはないのだが、
治らないあがり症もあって、思うようにはなかなか歌えない。
そのたび、
「あーあ、またか…」
とめげたり落ち込んだりするのだが、気を取り直し、
「この次は、今より少しでもましに」
と、望みをつないでは、こりずにまた歌う。
 振り返れば、初めての第九から30年近く。
相変わらず満足に読めない楽譜とにらめっこしながら、
今も私は歌っている。
 あがったままでも、いつか笑顔で自然に歌いたい。
たったそれだけのことが、私にはとても大きな課題だが、
いつか、本当にいつか、そんな日が来たらいいな。


 密になり歌う第九が懐かしい さくら             


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エッセイ「母の着物と、生まれ変わった振袖」

2022-09-29 | エッセイ
すずか川柳会でお世話になっております、
会長たかこさんの「たかこの世界」11号に
またエッセイで参加させていただきました。
10号に続き2回目の参加です。


「母の着物と、生まれ変わった振袖」 

 何につけ捨てられぬ性質である私の、捨てられぬもののひとつが、
若かりし頃の母が着ていた着物。
そして、私のためにと作ってくれた着物たち。

 私が幼い頃には、普段にもよく着物を着ていた母。
着物姿の母に、父がひとめぼれしたとかなんとかいう話もある。
 私の幼い頃の記憶でも、着物を着た母はきれいだった。
 ほっそりした体型がふっくらになり、
四十を過ぎてから出産した、年の離れた私の弟の子育てもあったりで、
それ以降ほとんど着なくなってしまったのだが。     
 私も、着る機会は少なかったが、着物は好きだった。
いつも母に着心地よく着せてもらっていた。
なんとか自分で着られるようになって、長くたいせつに着ていきたいと思っている。

 母の残した着物は、どれもきちんとたたまれ保管されていたが、
みんな古いもので、中にはとれない染みのついたものもある。
 けれど、古い着物こそ貴重なのだと、教えてくださる人がいて知った。
 昭和五十年代以降の絹は、昔の絹とは違うらしい。                       
 それ以前は桑の葉を食べさせて育てたお蚕さんだが、
今は人工飼料で育てるそうで、以前のような強い絹ではないものだから、
化学繊維を混ぜないと、たやすく切れてしまうのだとか。
 それでも、「正絹」の表示が許されるらしいのだ。
長く着物に親しみ、たしなみ深い、敬愛するおかみさんは、

「むかしの着物は、もう作れないものだから、絶対に捨ててはだめよ。
 たいせつにね」

と言われた。

 着物は、着る人さえいれば、何代でも着られるものだそうで、
手直ししてまた着物として着ることはもちろん、
どうしても着られなくなった着物や羽織、帯は
他のものに仕立て直して身につけたり、
いろいろな雑貨にリメイクしたりして、いつまでも生かしていく
という姿勢を教えられた。

 ところで、私には、父母が買ってくれた、愛着ある振袖があった。
成人式、お正月、謝恩会、友人の結婚式、
そして沖縄・宮古島の従兄の地元での結婚式では、
新郎である従兄の自宅で三々九度の盃のお酒を酌む巫女役?
を仰せつかったとき…              
 何度も着せてもらい、若かった私の晴れの日を彩ってくれた、
思い出ぶかい絞りの振袖。
 袖の下部にきれいな刺繍があり、それを切ってしまうのが惜しい気がして、
また、誰かあとに着てくれる人がいるかも知れないとの思いから、
ずっと袖を切る決心がつかなかった。               

 が、このたびついに一大決心。
 娘も孫娘も、どうやら姪っ子も授からないめぐり合わせとなったらしい私。
 それならば、もういちど自分で着られないだろうか。  
袖を惜しんで振袖のまま置いていても、箪笥で眠らせておくしかない。
だったら、自分が着られるかたちにしてもらえたら。
そんな思いから、その袖を切り、今とこれからの自分が着られるよう、
お直ししてもらった。
 切った袖からは、可愛い手提げがふたつできた。
同じく切った長襦袢の袖部分は、余すところなく裏地に使われている。

 姿を変えて、生まれ変わった振袖を、これからも着物として着たり、
手提げの袋として使えるしあわせ。

「おかあさんが残してくれた着物、これからもたいせつに着てあげてね。
 きっと喜んでくださっているわよ」

 おかみさんや着物の先生がた、お仲間のみなさんから、
いつもいただくうれしい言葉。
                         
 まわりにモノが多く、それをえいやと捨てることができない、
断捨離にはほど遠い自分を反省してはいる。
いつかは、これらを手離すときが来るのだと覚悟もしている。                       
 けれども、もうしばらく、もうしばらくの間、
父母が私にのこしてくれたものや、まだ捨てられぬ愛着あるものたちとの暮らしを楽しんで、
生きていたいと思う。


 母辿るように和服に袖通す さくら        



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たかね~鰹さんがくれたご縁

2022-05-05 | エッセイ
先月に、静岡たかね5月号の巻頭文をと依頼があり、
鰹さんのことを書きました。
鰹さんのことは、ずっと以前にこちらのブログでも書いたことがありますが、
あらためて振り返ってみました。

 「たかね~鰹さんがくれたご縁」

 静岡から遠く兵庫に住む私が、誌友として仲間入りさせていただいているたかね。
 そのご縁のきっかけは、加藤鰹さん。
 二〇一五年の終わりごろ…ブログを通じて知り合い、まだ数か月の鰹さんだったが、
お人柄にひかれ、句を読んでますますファンに。
 豊橋番傘の大会が近かった。
やはりこちらも人がつないでくれたご縁から、誌友となって長い。
それまで、ほとんど大会に出かける機会も勇気もなかったが、その時は状況に恵まれ、
行ってみようかな、という気持ちになった。
 手紙でそれを伝えた私に、鰹さんは、
「そうですか、思いきっていらっしゃいますか。僕も必ず行きますので…」
と、答えてくださった。添えられた句は、

 すきま風入らぬように抱きあおう

 たかねの新年句会にも、欠席投句で参加できますか、とうかがうと、
どうぞどうぞ歓迎しますよと、たかね誌最新号とともに、
投句の要領を丁寧に書いて送って下さった。
それがはじまりで誌友となり、今日に至っている。
 新年句会のあとまもなく、鰹さんが入院されたことを知る。
膵臓がんで余命三ヶ月と言われていた鰹さんが、体調をくずして入院されたと聞けば、
その病状のきびしさは想像に難くない。それでも希望を持ち回復を祈った。
きっと誰もがそうだったと思う。
 そして一月二五日。鰹さんは旅立ってしまわれた。
初めてお会いできるはずの二月一四日は、永遠に来ない日になってしまったが、
いつか、鰹さんをよく知る方々に、たくさんお話をうかがえたらうれしい。

 泣かないでくれよ桜は散る定め
 めぐり遇おう今度生まれて来る時も

はい、きっと今度はお会いしましょうね。たかねとのご縁を、ありがとうございます。

 ひとと会うことはハレの日こんなにも さくら


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エッセイ「はるかな尾瀬」

2022-04-04 | エッセイ
すずか川柳会でお世話になっております、
会長たかこさんの「たかこの世界」10号に、
初めてエッセイで参加させていただきました。


「はるかな尾瀬」

 夏が来れば思い出す…はるかな尾瀬 遠い空…
で始まる「夏の思い出」は有名な歌だが、尾瀬がどこにあるか、
正確には知らない人も多いのではないだろうか。
 尾瀬は、福島・新潟・群馬の3県にまたがる高地にある
盆地状の高原であり、日本百景に選定されている。

 忘れえぬ風景というものが、人それぞれにあると思う。
私にとってそれは、初めて訪れた夏の尾瀬。
360°見渡す限り、湿原いっぱいに群生したニッコウキスゲ。
 突然ひらけたこの景色に、私は言葉を失くした。    
 これは、本当にこの世のもの…?           
ここに至るまでの尋常ではなかった疲れが、一瞬で消えた。

 入山後すぐから苦しく、長い道のりだった。
2泊分の荷を背負ってひたすら歩く、高低差のある慣れぬ山道。
ガレ場やぬかるみ。最後まで歩けるのだろうか。
こんな調子では、これが最初で最後の尾瀬になってしまうだろう…
そう思っていた私を一瞬で魅了した湿原の風景。
 澄み切った空気の中、ただ静かに自然だけがある。
 その神々しく、揺るぎのないうつくしさ。
 世界でたったひとり、自分がそこに立っているような気がした。                 

 その時の私は、体力は万全だったつもりだが、良性では
ない病を抱えており、手術を前にしていた。
 深刻にではなくても、死を意識しなかったとは言えない。
初めて見たニッコウキスゲの群生は、より美しくまぶしく
目に映ったのかも知れない。けれどもそれは、私にとって、
 必ず治って、生きて、またここに来よう。
 もういちど、この景色の前に立たせてもらおう。
と、つよく思わせてくれるのにじゅうぶんなものだった。
 そして私は、それ以降17年間に12回ほども、尾瀬を 
訪ね歩くことになる。
                
 ところで、関西からの尾瀬行きは遠い道のりで、まさに
「はるかな尾瀬」だということを実感させられる。
 夜行バスで大阪を出発し、早朝東京に到着。
さらにバスや鉄道で移動して、昼前にやっと着くのが尾瀬の入り口だ。
 入山口は、福島側・群馬側から5か所あり、
その時のコースにもよるが、私はたいてい群馬の大清水から入山する。
大学時代、尾瀬のサブレンジャーを経験し、
以来ほとんど毎年尾瀬を訪れるという、頼もしい存在の友人がおり、
私の尾瀬の旅は、いつもその友人とともにある。     
 入山後は、沼と原の山小屋で1泊ずつが定番だ。
 東京からなら日帰りもできる尾瀬だが、
関西からはるばるとなれば、車中泊含め3泊は欲しい。
1年に1度行けるかどうかの旅、沼も原も、思いきり堪能したいというもの。

 春、夏、秋…どの季節も味わい深いが、最も花の種類が多く、
好んで訪ねるのは夏だろうか。
 ニッコウキスゲ真っ盛りの7月、訊ねられることがある。
「あの…ミズバショウはどこで見られますか」                

 ああ、この人も「夏」に水芭蕉を見に来たのだなあ。 
 実は、水芭蕉は雪解けとともに顔を出す、尾瀬では早春の花。
 花と認識されている、あの白い「苞」という部分は
7~8月にはとうに枯れてなくなり、その後もどんどん成長して
赤ちゃんを包めるほどに大きくなった葉っぱだけが、
沼や湿原のそこかしこに自生して(はびこって?)いる。

 訊ねられた登山者に、私は伝える。
「今の季節はもう、白い水芭蕉は見られません。
 5~6月頃にいらっしゃるといいですよ。でも今頃にしか 
 見られない花も多いですから、どうぞ楽しんでくださいね」

 けれどもこの水芭蕉、歳時記では夏の季語。
そして、二十四節気では、5月に入ればすぐ立夏。それにあの歌だ。
むりもない。
 作詞者江間章子さんは、
「尾瀬で水芭蕉が最も見事な5~6月を私は夏と呼ぶ」
と語られたとか。
 そんなこんなが、実際に白い水芭蕉を見られる時期の勘違い、
思い込みを生んでいるのだろう。
 見たいと思っていた花に出逢えなくても、その年その季節、
その日のその時間でしか見ることのできない風景、花、
生きものや人との、一期一会の出逢いがある。
 晴れもよいが、曇りもよい。そして、雨もまたよし。
よく出遭うが、雷はちょっと…できれば遠慮したい。熊も。
いつか、ぜひ逢ってみたいのはオコジョという、イタチ科の小動物だ。

 尾瀬への旅の機会に、この先恵まれるだろうか。
ご縁とタイミング、そして、自分の荷を背負い歩き通せるだけの
体力があるか、それら次第だろう。
 けれど、これまで訪れた尾瀬を、私はいつでも思い描ける。
もし、もう二度と尾瀬を訪ねることがなくても、初めての夏に出逢った、
あのニッコウキスゲのみごとな風景を、生涯忘れることはない。


  いつの日も遥かな尾瀬が胸にある  さくら    



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