七草セリと猫の部屋

猫と料理に夢中な漫画家のグダグダ日記

変わるということ

2019-11-10 09:21:45 | 日記
昨日の投稿の続きです。
住職の説教に「変わるということ」をテーマにした話がありました。

あるところに、姑と合わなくて悩んでいるお嫁さんがいました。
姑があまりにも意地悪で、我慢の限界を超えたお嫁さんは、お寺の住職に相談に行きます。
それは大変ですね。
ならば、と住職はこれで御姑さんを殺せば良いでしょう、と毒薬だという頓服薬を渡します。
すぐ死んではお嫁さんが疑われる。
なので、毎日少しずつ飲ませ続けて、一年後に亡くなるというこの頓服薬が良いでしょう。

早速お嫁さんは食べ物などに振りかけて、この頓服薬を毎日姑に飲ませます。
あと一年で死んでしまうんだ、あと一年の辛抱だ、と思えばどんな意地悪をされても優しく接することができます。
そろそろ一年という時に、姑が優しくなってくるのです。
これで着物を作るといい、と高い生地を買って嫁に渡したりします。

罪の意識に苛まれて、嫁はまたお寺に行って住職にどうしましょう、と相談します。
そこで毒薬だと思っていた頓服薬は、ただの小麦粉だとネタバラシをされる、というお話でした。

変わったのは姑ではなくて、嫁の方だったんですね。
優しくされ続けて、さすがの姑も心に変化が生じたのです。
変わって欲しい、のではなくまず自分が変わる、という説教でした。

肝に銘じた話はもう一つ。
「脚下照顧」
自分の足もとを照らして、自分をよく顧みること。
「足もとにこそ、大切なものが転がっているんですよ」
よそ見していると発見できない大切なもの。
まずは「靴を揃えておく」
履く時困らないように、揃える習慣をつける。
そういう心がけも大切なんだそうです。

なるほど。
今は日々スリッパなども揃えるように努力しています。 
でも、一緒に行って説教を聴いていたはずの姉が脱ぎ散らかすんです(涙

実行するかしないかは、その人次第。
とりあえず私は実行しますよ〜。



白かった頃のチャムちゃんです。



今はこんなですけどね。


追わない心

2019-11-09 10:57:00 | 日記
先日「教区護持会集会 特派布教」なるものに参加。
いわゆる曹洞宗の布教会みたいな感じかな?
巡回特派布教師という方がいて、説教して下さるわけです。
会場となったお寺に行って、説教を聴いて最後はお弁当(すごく豪華でした!)までいただくというありがたい布教会。

今回は川崎市の住職の方が説教にお見えになりまして。
その中で「追わない心」を持つことは大切である、という話が心に響きまして。
知らず知らずのうちに、私も「追う心」を持って日々追いかけていたのだな、と目からウロコでした。

お寺で修行をしているとお腹が空きます。
そこで、あれが食べたいこれが食べたい、
と自分の心を追ってしまうとさらに辛くなってしまう。
だから「お腹が空いた」で心を止めてしまう。
あとはひたすら、目の前のやることに集中すればよいのです。
自分で、追ってしまうから自分が辛くなる。
これはよくあることかもしれない、と思っていたら、また同じような記事に出くわす。
「一ノ矢と二の矢」という話です。

誰かに何かを言われる。
自分にとって厳しい言葉かもしれない。
それはそうか、そう思われたのだな、とその場で受け止めておしまいにする。
その言葉をもう「追わない」ということです。
面倒なのはその次に「二の矢」を自分に放ってしまうこと。
あれはこういうことか?それともこういう意味か?つまり自分はこう思われているのか?と
悶々と考えることによって「二の矢」を自分に打ちこむのです。
「二の矢」は自分が自分を痛めるために放つ矢です。

よく行く店で、たまたま可愛い店員さんに愛想よく微笑まれた、嬉しいな
というのも「一ノ矢」です。
もしかしたらあのコは自分に気があるんじゃないか?と思い始めるのが「二の矢」
なのに思いが伝わらないと分かると相手を恨み始めたりします。
「二の矢」で自分の気持ちをえぐってしまうのです。

嬉しいな、で止めておけば楽しかった話で終わりなのに。
「追う心」が自分を追い詰めるのです。

布教師の住職の言う通り、気持ちを止めたら、あとはやるべきとことに向き合えばいいだけなのです。
なるほどな、と深く思い知ったお話でした。
他にもよいお話がありましたので、また書きます。






今年に入って、また新たな猫が参入しました。
牛模様のウッチーくん。
多分まだ一歳くらい。
この間去勢手術を済ませたばかりです。
8番目のネコ、8番目のウッチーです。
ヨロシク〜