“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

安倍、自民党政権の憲法解釈改悪

2014年05月15日 19時11分42秒 | 臼蔵の呟き

安倍、内閣の私的諮問機関が安倍と事前協議を行った上で出した報告書です。まとめ、結論部分の記述です。 

憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文規定はなく、個別的自衛権の行使についても、政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することで認めた経緯がある。こうした経緯に鑑みれば、必要最小限度の範囲の自衛権行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることで可能であり、憲法改正が必要だという指摘は当たらない。」

 安倍、自民党政権、自民党は最高法規である憲法を一内閣の見解で勝手に解釈を変えることは当然のこととしています。このような憲法違反、憲法を無視するような政権を放置し、容認してはならないと思います。

憲法は、権力者の暴挙、暴走を縛るための機能を持っています。その機能を安倍、自民党政権は完全に無視しています。立憲主義のあきらかな否定です。憲法の条文を見て、どこに、自衛隊(軍事組織)が存在する根拠があるのか。また、その存在を認めていない自衛隊、軍事組織が集団的自衛権の名の下に、海外で武器を使用し、戦闘を行うことが憲法上も読み取れるとする報告書を書いた、私的有識者なるもの、集団とはどのような思考回路の持ち主たちなのかが問われるのだと思います。このような一部御用学者、一部有識者が12000万人日本人の行く末を勝手に危険な道に引き釣り込むことが許されるのかが問われています。

戦後、70年間この平和憲法があったからこそ、戦争を引き起こさず、戦争の巻き込まれることもなく、政治的な平穏と、平和を維持してきたことはあきらかです。その結果、巨額の軍事費を使うことなく敗戦後の国土の復興を進められたのだと考えます。それらの基礎となる憲法を敵視し、根本から否定するような諮問会議報告なるものが歴史的正当性を持つことなどはありえません。

平和を守り、海外で日本人、日本企業が攻撃されない最大の保障は、日本国憲法の不戦の近い、戦争放棄の意思です。アメリカと一緒になって、海外で戦争を行う日本、自衛隊に直面すれば、そのような当事国、周辺国は日本は危険な国家だとして、軍事的な対抗措置を講じるのはあきらかなことです。韓国、中国などが集団的自衛権行使容認の安倍、自民党政権を危険視した声明を出していることがそのことを証明しています。

記者会見での質問でも出ましたが、このような憲法会社の変更、憲法の改定に関する重大な変更を一内閣の閣議で進めることは許されないし、解散総選挙で信を問うべき重要な政治課題です。 

中央日報>集団的自衛権の推進 安倍首相 きょう公式化

安倍晋三首相が15日、記者会見を開き、集団的自衛権の行使を推進するという立場を公式化する予定だ。集団的自衛権とは、自国が攻撃されなくても、同盟国が攻撃を受ければ自国への攻撃と見なし、武力を行使できる権利。国際法上の権利だが、歴代日本政府は戦争を禁止する平和憲法の解釈上、「保有はするが行使できない」という立場を1981年以降維持してきた。安倍首相はその憲法解釈を変え、足かせを外すということだ。

安倍首相の私的諮問機構である安保法制懇談会が1年ほどかけて作成した報告書を15日に安倍首相に提出すれば、安倍首相が報告書に基づき政府の立場を記者会見で明らかにするという流れだ。懇談会のメンバー14人全員が安倍首相と似た考えを持つ人たちで、報告書自体も安倍首相との共感の中で完成された。

朝日新聞は14日付で安保法制懇談会の報告書全文を入手し、報道した。報告書は「憲法が定める『必要最小限度の自衛権』には集団的自衛権を含めて解釈するべき」と提案している。日本は集団的自衛権を行使できないという従来の憲法解釈については、「憲法論の下で安保政策が硬直化するようでは、憲法論のゆえに国民の安全が害されることになりかねない」と批判した。

特に報告書は「平和憲法9条が禁止している『国際紛争を解決する手段としての武力行使』は日本が当事者である紛争を対象にしたものであり、日本が当事国でない国際紛争には自衛隊を派遣することができる」という無理のある論理を展開した。

朝日新聞は「報告書の最大の問題は、安全保障論を理由に、国の最高法規である憲法を骨抜きにしてしまうことだ」と批判した。続いて「安倍首相が報告書の内容に従うなら(現職)首相の意向次第で憲法解釈を変えられる前例をつくる」と警告した。

安倍首相は集団的自衛権行使の推進に反対の立場を明らかにしてきた連立与党の公明党を説得するのに注力した後、9月の臨時国会前には新しい憲法解釈を閣議で確定する計画だ。

 <中国>意図と動向に警戒  集団的自衛権容認

 【北京時事】中国外務省の華春瑩・副報道局長は15日の記者会見で、集団的自衛権行使容認に向けた日本の動きに対し、「安倍政権は軍事安全保障の領域で過去にない措置を取ってきた。歴史問題でも否定的な動きが出ており、中国などアジア国家や国際社会は日本の真の意図と動向に高度の警戒を払う十分な理由がある」とけん制した。

 華副局長はその上で「日本は地域の国家の安全に対する懸念を尊重し、地域の平和と安定のために建設的な役割を果たすべきだ」と訴えた。 

「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告書の主な内容は次の通り。

【憲法解釈の変遷】

 憲法9条をめぐる憲法解釈は戦後一貫していたわけではない。1946年6月、当時の吉田茂首相は「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」と述べたが、朝鮮戦争が勃発し、自衛隊が創設されて、大村清一防衛庁長官は54年12月、「自衛のための抗争は放棄していない」と憲法解釈を大きく変えた。

 最高裁は59年12月の砂川事件大法廷判決で「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置を取り得ることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない」との法律判断を示した。司法府が初めて示した判断で大きな意義を持つ。集団的自衛権と個別的自衛権を区別して論じておらず、従って集団的自衛権の行使を禁じていない点にも留意すべきだ。

 政府は72年10月に参院決算委員会に提出した資料で、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛措置を取ることができることを明らかにする一方、必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、集団的自衛権の行使は許されないとの見解を示すに至った。

 81年5月の答弁書で、集団的自衛権を有することは主権国家である以上当然だが、行使することは必要最小限度の範囲を超え、憲法上許されないとの見解を示した。

 国家の最大の使命は、国民の安全を守ることだ。ある時点の特定の状況下で示された憲法論が固定化され、安全保障環境の大きな変化にかかわらず、安全保障政策が硬直化するようでは国民の安全が害されることになりかねない。個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、個別的自衛権のみが憲法上許容されるという文理解釈上の根拠は何も示されていない。

 憲法前文は平和的生存権を確認し、13条は国民の生命、自由、幸福追求の権利を定める。これらを守るには、わが国が侵略されず独立を維持していることが前提であり、外からの攻撃や脅迫を排除する適切な自衛力の保持と行使が不可欠だ。政府の憲法解釈が国民と国家の安全を危機に陥れるようなことがあってはならない。憲法の国際協調主義の精神から、国際的な活動への参加は、わが国が最も積極的に取り組むべき分野と言わねばならない。憲法の平和主義は「国際協調主義に基づく積極的平和主義」の基礎にある。

 わが国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増している。大量破壊兵器の拡散・高度化・小型化、国境を越える脅威の増大により、世界のどの地域で発生する事象でも直ちにわが国の平和と安全に影響を及ぼし得る。北朝鮮は弾道ミサイルを配備し、核弾頭の小型化に努めている。アジア太平洋地域で緊張が高まっている。中国の影響力の増大は明らかだ。

懇談会は2008年の報告書で(1)公海での米艦防護(2)米国に向かうかもしれない弾道ミサイルの迎撃(3)国際的な平和活動での武器使用(4)同じ国連平和維持活動(PKO)等に参加している他国の活動に対する後方支援―の4類型を提示した。

 これに加え、安全保障環境の変化に鑑みれば従来の憲法解釈や法制度では十分に対応できず、具体的行動を取ることを可能とする憲法解釈や法制度を考える必要がある。

 事例(1)わが国の近隣で有事が発生した際の船舶の検査、米艦等への攻撃排除など(2)米国が武力攻撃を受けた場合の対米支援(3)わが国の船舶の航行に重大な影響を及ぼす海域(海峡など)での機雷除去(4)イラクのクウェート侵攻のような国際秩序の維持に重大な影響を及ぼす武力攻撃が発生した際の国連の決定に基づく活動への参加(5)わが国領海で潜没航行する外国潜水艦が退去の要求に応じず、徘徊(はいかい)を継続する場合の対応(6)海上保安庁などが速やかに対処することが困難な海域や離島などで、船舶や民間人に対し武装集団が不法行為を行う場合の対応。

【あるべき憲法解釈】

▽憲法9条第1項および第2項

 憲法9条は、自衛権や集団安全保障について言及していない。第1項がわが国による武力による威嚇または武力の行使を例外なく禁止していると解釈するのは、不戦条約や国連憲章などの国際法の歴史的発展、憲法制定の経緯から見て適切でない。同項規定は、わが国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇または武力の行使を禁止したものと解すべきで、PKOや集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきだ。PKOなどでの武器使用について、第1項を理由に制限するのは、国連活動への参加に制約を課している点と「武器使用」を「武力の行使」と混同している点で二重に適切でない。

 第2項は、第1項で武力による威嚇や武力の行使を「国際紛争を解決する手段」として放棄すると定めたことを受け「前項の目的を達するため」戦力を保持しないと定めた。わが国が当事国の国際紛争を解決するために用いる戦力の保持は禁止されているが、それ以外の自衛や国際貢献のための実力の保持は禁止されていないと解すべきだ。この考え方は08年の報告書でも取られていた。

 集団的自衛権の行使を可能とすることは、他の信頼できる国家との関係を強固にし、抑止力を高めることで、紛争の可能性を未然に減らす。

 これまでの「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」との解釈に立ったとしても、その「必要最小限度」の中に集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の解釈は適当でない。「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して行使を認めるべきだ。

▽憲法上認められる自衛権

 個別的自衛権は発動の3要件を満たす限り行使に制限はないが、実際の行使は必要性と均衡性を慎重、迅速に判断し、決定しなければならない。

 集団的自衛権について、わが国と密接な関係にある外国に対し武力攻撃が行われ、その事態がわが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、わが国が直接攻撃されていない場合でも、その国の明示の要請または同意を得て、必要最小限の実力を行使して攻撃の排除に参加し、国際の平和および安全の維持・回復に貢献することができるとすべきだ。わが国への直接攻撃に結びつく蓋然性が高いか、日米同盟の信頼が著しく傷つき、その抑止力が大きく損なわれるか、国際秩序が大きく揺らぐか、国民の生命や権利が著しく害されるか、その他わが国への深刻な影響が及ぶかといった諸点を政府が総合的に勘案しつつ、責任を持って判断すべきだ。集団的自衛権の行使に当たり第三国の領域を通過する場合は、その国の同意を得るものとすべきだ。事前または事後に国会の承認を得る必要がある。

 集団的自衛権は権利であって義務ではないので、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然だ。行使について首相主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきで、内閣として閣議決定で意思決定する必要がある。個別的または集団的自衛権を行使する自衛隊部隊の活動の場所に憲法解釈上、地理的な限定を設けることは適切でない。

▽軍事的措置を伴う集団安全保障措置への参加

 国連の集団安全保障措置は、わが国が当事国である国際紛争を解決する手段としての武力の行使に当たらず、憲法上の制約はないと解釈すべきだ。集団安全保障措置への参加は、国際社会での責務でもあり、憲法が国際協調主義を根本原則とし、憲法98条が国際法規の誠実な順守を定めていることからも、わが国として主体的な判断を行うことを前提に積極的に貢献すべきだ。国連への協力を安全保障政策の柱の一つとしてきたわが国が、国連の集団安全保障措置であるにもかかわらず、軍事力を用いた強制措置を伴う場合に一切の協力を行うことができない現状は改める必要がある。

 平和活動への参加に関しては、政策上わが国が参加することにどれだけ意味があるのか総合的に検討して、慎重に判断すべきだ。軍事力を用いた強制措置を伴う国連の集団安全保障措置に参加するに当たっては、事前または事後に国会の承認を得るものとすべきだ。

 「武力の行使との一体化」論は、わが国特有の概念で、国際法上も国内法上も実定法上に明文の根拠を持たず、最高裁で司法判断が行われたこともなく、国会の議論に応じて範囲が拡張され、安全保障上の実務に大きな支障を来してきた。憲法上の制約を意識し、新たな活動に慎重を期すために厳しく考えたことから出てきた議論だ。国際平和協力活動の経験を積んだ今日ではその役割を終えたものであり、政策的妥当性の問題として位置付けるべきだ。実際にどのような状況下で後方支援を行うかは、内閣として慎重に検討して意思決定すべきだ。

▽PKOなどへの協力と武器使用

 PKOの実態との相違ならびにPKOの任務、活動主体の多様化を踏まえた上で、より積極的な国際平和協力を可能とするためには何が必要かとの観点から、PKO参加5原則の見直しを視野に入れ、検討する必要がある。政府は、これまでPKOなどでの駆け付け警護や妨害排除に際しての武器使用は、相手方が「国家または国家に準ずる組織」である場合、憲法で禁じられた「武力の行使」に当たる恐れがあるので認められないとしてきた。しかしPKOの国際基準で認められた武器使用が「武力の行使」に当たると解釈している国はどこにもなく、自衛隊が駆け付け警護や妨害排除のために国際基準に従って行う武器使用は、憲法9条の禁ずる武力の行使には当たらないと解すべきだ。

▽在外自国民の保護救出・国際治安協力

 国際法上、在外自国民の保護・救出は、領域国の同意がある場合、領域国の同意に基づく活動として許容される。その一環としての救出活動や妨害排除に際しての武器使用も、領域国の同意がある場合は「武力の行使」に当たらず、当該領域国の治安活動を補完・代替するものにすぎないもので、憲法上制約はないと解釈すべきだ。

 在外自国民の保護・救出以外の活動であっても、領域国の同意に基づいて、同国の警察当局などが任務の一環として行うべき治安の回復および維持のための活動の一部を補完的に行っているものと観念される活動や、普遍的な管轄権に基づいて海賊などに対処する活動は、国連憲章第2条4で禁止されている国際関係における「武力の行使」にも当たらない。このような活動も「武力の行使」に当たらず、憲法上の制約はないと解釈するべきだ。

▽武力攻撃に至らない侵害への対応

 現行の自衛隊法の規定では、平素の段階からそれぞれの行動や防衛出動に至る間に権限上あるいは時間的な隙間が生じる可能性があり、結果として事態収拾が困難となる恐れがある。武力攻撃に至らない侵害への対応は、現代の国際社会で必要性が高まってきており、各種の事態に応じた均衡のとれた実力の行使も含む切れ目のない対応を可能とする法制度について、国際法上許容される範囲で充実させていく必要がある

【国内法制の在り方】

 集団的自衛権の行使、軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置への参加、一層積極的なPKOへの貢献を憲法に従って可能とするように整備しなければならない。いかなる事態でも切れ目のない対応が確保されることと合わせ、文民統制の確保を含めた手続き面での適正さが十分に確保されると同時に、事態の態様に応じ手続きに軽重を設け、特に行動を迅速に命令すべき事態にも十分に対応できるようにする必要がある。自衛隊法や武力攻撃事態法、周辺事態法、PKO協力法などは、規定ぶりや現在の安全保障環境の実態、国連での標準に倣った所要に合わせ、広く検討しなければならない。

【おわりに】

 憲法には個別的自衛権や集団的自衛権についての明文規定はなく、個別的自衛権の行使についても、政府は憲法改正ではなく憲法解釈を整理することで認めた経緯がある。こうした経緯に鑑みれば、必要最小限度の範囲の自衛権行使には個別的自衛権に加えて集団的自衛権の行使が認められるという判断も、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることで可能であり、憲法改正が必要だという指摘は当たらない。また国連の集団安全保障措置などへの参加についても同様に適切な形で新しい解釈を明らかにすることで可能だ。政府が本報告書を真剣に検討し、しかるべき立法措置に進まれることを強く期待する。〔共同〕


日本でも格差は広がる 欧米で話題

2014年05月15日 12時59分56秒 | 臼蔵の呟き

このコメントの範囲であれば、その通りと言う話です。新自由主義経済、市場万能論、規制緩和の徹底、世界で一番企業が活動しやすい社会構造を作ると言う安倍、自民党政権の政策の真髄はここでしてされる社会を容認すると言うことです。このことは別にこの経済学者が指摘しなくても分かることです。

問題は、そのことを容認し、拡大し、助長する政治を促進させるか、反対し、日本経済の構造を変えて、多くの国民が豊かになるような政治経済構造を作るのかではないかと思います。

<wsj記事>日本でも格差は広がる 欧米で話題「21世紀の資本論」

フランスの経済学者でパリ・スクール・オブ・エコノミクスの教授、トマ・ピケティ氏の新刊書『21世紀の資本論』(Capital in the Twenty-First Century)が欧米で話題を呼んでいる。700ページにわたるこの著作では格差の拡大が避けられないと結論づけられているが、日本もこの流れの例外ではないという。

日本は長年にわたって比較的平等な社会を誇っており、ピケティ教授の母国フランスとともに、米国と比べて貧富の格差がかなり小さかった。ただ、教授は向こう数十年にわたり、日本でも格差が広がると主張している。

こうした結論は、安倍晋三首相の政策議論に一石を投じそうだ。法人税率の引き下げや消費増税など、安倍首相の推進する成長戦略が格差拡大を後押しする可能性がある。

残念なことに、ピケティ教授の著作が日本語に翻訳されるまでしばらく時間がかかる。日本での版権を持つみすず書房は、翻訳者の手配が最近終わったばかりで、まだ日本語版の出版日程は決まっていないと話した。フランスの出版社Editions du Seuilによると、日本語版は2017年3月に出版されるという。

ピケティ教授の主張の核心は、21世紀には小さな経済エリート集団に富が集中するため貧富の格差が拡大するというもの。これについて、米国や欧州では経済学者やジャーナリストらの間で議論が沸騰している。

日本の読者のためにピケティ教授の著作から主なポイントを列挙してみよう。同書には19世紀までさかのぼった日本の税務書類などから集められたデータが含まれている。

格差は新しい問題ではない。欧州との文化的相違にかかわらず、日本では20世紀初頭に欧州と同じくらい高い水準の格差が存在していた。ここでは一握りの富裕層が国民所得の大部分を独占していた。教授は著作の中で「所得構造と所得格差の両面で、日本が欧州とまったく同じ“古い世界”だったことを、あらゆる証拠が示している」と指摘。二つの世界大戦を経て格差は急速に縮小したが、これは戦争がエリートの富の大部分を破壊してしまったからだ。

日本では富裕層がゆっくりと富を拡大させている。日本では過去20年間にわたってじわりと富の集中が進んできたが、米国ほどの大きさではなかった。現在、日本の高所得層の上位1%が占める国民所得シェアは約9%に上り、1980年代の7%から2ポイント拡大。フランスやドイツ、スウェーデンは日本とほぼ同じペースでシェアが拡大したが、米国ではこれが10-15ポイント上昇した。高所得層の上位0.1%が占める国民所得のシェアは今の日本では2.5%ほどで、1980年代初めの1.5%から拡大したが、またしても拡大ペースは米国に追いつかなかった。

今後は日本も安穏としていられない。ピケティ教授は、日本と欧州を取り巻く潮流を無視することはできないと警告。教授によると「それどころか(日本と欧州が持つ)軌道はいくつかの点で米国と似通っており、10年から20年遅れている」という。「この現象が、米国の懸念するマクロ経済面での重大事となって表面化するまで待つべきではない」と教授は指摘する。

ピケティ教授の著作を読んだ数少ない日本人の中に、経済学者でブロガーの池田信夫氏がいる。池田氏は人気の高い言論プラットフォーム「アゴラ」を運営。同氏は最近、5月7日から全4回にわたる『21世紀の資本論』読書セミナーの広告を掲載した。受講料は2万円(女性と学生は1万円)。定員は20名だったが早くも35人が登録して、現在は応募を締め切っている。

池田氏は「すごい勢いで申し込みがきたのでびっくりした。これはきわめてアカデミックで難しい本なのに」と話す。出席者の多数が30代から40代のビジネスマンだという。

池田氏は、企業がキャッシュをため込んで賃上げを抑制していることを理由の一つに挙げ、ピケティ教授の著作が次第に日本との関連性を増してくると指摘。「もしかしたらこれから日本でも、普通の労働者と企業との間で階層間の格差が広がってくるかもしれない。ピケティは日本でも受けると思う」と話した。


中国とベトナム

2014年05月15日 10時58分47秒 | 臼蔵の呟き

中国とベトナムの海洋権益をめぐる衝突は、今後の東アジア、東南アジアにおける政治経済に大きな影響を与えるものとなるだろうと考えられます。この報告、分析では軍事衝突は起こりにくいと分析をしています。歴史的関係からも軍事衝突は起こりにくいとの結論です。ベトナムはフランス、アメリカによる支配を受けて、独立の戦いを行ってきた国家であり、しなやかに大国との関係を調整しながら、生きるすべを知っていると言うことのようです。世界最大の軍事大国とベトナム戦争を闘い、南ベトナムを開放した政治力は尊敬に値するようなものであったと思います。

中国が問答無用の姿勢をとり続けて、周辺国と紛争を起こし続けることは良いことではありません。中国にとってもベトナムは貿易相手国として大切にしなければならない国家です。冷静な対応と、話し合いを粘り強く行って欲しいと考えます。

<FT記事>中国とベトナムの軍事衝突はあるのか?

中国とベトナムをめぐる南シナ海の状況が緊迫している――。5月3日、中越間での領土帰属問題がある南シナ海の西沙諸島近海において、中国海洋石油が大規模な石油掘削を発表したのが事の発端である。

 両国とも、掘削予定エリアは、それぞれの排他的経済水域にあたるとしてお互いを批判。その後、ベトナムと中国の船舶が衝突する事態に発展した。

南シナ海に眠る巨大な資源

 同地域がセンシティブなのは資源埋蔵量が巨大と言われているためだ。報道によれば、中国海洋石油は、石油が世界最大級の産油国サウジアラビアの埋蔵量のほぼ半分に相当する1250億バレル、天然ガスも500兆立方フィートと試算している。

 石油はベトナムにとっても重要な資金源で、国有石油会社ペトロベトナムは国の歳入の3分の1近くを担う。

 これまで、南シナ海の領土をめぐる小競り合いは中越間で何度もあった。しかし、ベトナムは中国共産党との関係を考慮し、中国の動きを牽制しつつも表面上は友好関係を保ってきた。ただし、今回は資源が絡んでいるため、ベトナム政府は公式に中国を批判、反中国デモも容認する構えを取っている。

 しかし、南シナ海問題でベトナム政府が中国との対立を単純に先鋭化させる可能性は、現実的にはほとんどないだろうと推測する。同じく中国との領土問題を抱えるASEAN各国プラス日米と共同で、中国にプレッシャーをかけるというのが、ベトナム政府が取りうる唯一の現実的な対抗手段だろう。

 こうしたベトナム政府の考え方を理解するために、ベトナムにとっての中国関係をもう少し掘り下げてみたい。

ベトナムの歴史は対中抗争の歴史

 ベトナムの歴史は、19世紀後半にフランスの植民地支配が始まるまでは、うんと大雑把に言ってしまえば、中国との戦いの歴史である。

 丁(Dinh)王朝が966年に初めて独立王朝を成立させるまで、ベトナムは約1000年にわたり中国の支配下にあった。

 ハイ・バー・チュン(チュン姉妹)やバー・チュウなど、今もベトナム主要都市の目抜き通りに名前を残すベトナムの古代の英雄は、中国との戦いで活躍した人々である(余談ながら、この3名の戦士は女性である。ベトナムは今でも女性の方が優秀な人物が多いが、歴史的に見て著名な将軍が女性だったということと相関がある気がする)。

 近代になって、同じ社会主義を標榜する国家が各々に成立してからも、両国関係は対立する。

 ベトナム戦争中、中国は北ベトナムに対して多額の軍事援助を行っていた。しかし、1972年、北ベトナムの頭越しに中国が米国と和解を進めたことで関係が悪化。北ベトナム軍は中国の進言を聞き入れず、武力で南ベトナムを制圧する。

 さらに、1979年にはカンボジアへの対応の対立をめぐり、中国軍がベトナム領内に短期間だが軍事侵攻した(中越戦争)。

 中越国交が正常化したのは、1991年。今からわずか20年前に過ぎない。しかし、その後も南シナ海の領土をめぐっての小競り合いが続いている。こうした歴史的な深い因縁は、現代のベトナム人に2つの影響をもたらしている。

 1つ目は、一般国民の圧倒的な反中国感情である。これは、昨今の日本人の対中感情の比ではない。日本人はいろいろな感情はありながらも、自分たちの思想の源流となっているかつての中国文明に敬意を持っている人も多いと思う。しかし、同じように中国文明の影響を多大に受けているベトナム人の間には、こうした考え方は希薄な印象を受ける。

ベトナム人は、決して政治的な国民ではない。むしろ、現在でもベトナム人には国民国家の意識が醸成されていない。ただし、対中感情という意味では、彼らは突如として政治的・国民国家的な色彩を帯びる。

 「フランスや日本の支配はせいぜい数十年だが、中国は1000年居座る」とベトナム人は中国への警戒感を表現する。

 長い中国との抗争のもう1つの影響は、「中国には勝てない」という極めてプラグマティックな考え方をベトナム人の間に浸透させたことだろう。ベトナムは小国であることを認識し、国際社会の力学の中で胞子のように浮遊して生き残る術を学んできた。

 その結果、もし南シナ海で中国がさらに強気な行動に出ても、諸外国との協調によって戦闘は避けるというのがベトナム人のDNAには刷り込まれているという印象を受ける。

強い中国との経済関係

 

 一方、経済的に見ても、中国は年間貿易額が500億ドルになるベトナムの最大の貿易相手国である。

 中国からはベトナム北部を中心に生活雑貨品などが大量に輸入されている。工業化の遅れているベトナムでは、簡単な工業製品でも国内で作れないことが多いため、中国からの廉価な商品に頼らざるを得ない。

 こうした中国との経済的なつながりも、対中関係の悪化を抑止する要因である。ただし、ベトナム経済の場合、国内の華僑による影響がきわめて少ないという点は、他の東南アジア諸国と事情が異なる。

 ホーチミンの南西部に広がるチョロンという華人居住地区がある。明末に亡命してきた華僑によってつくられた街で、華僑人口は1970年代には50万~100万人と言われていた。

 フランス植民地時代は、ベトナム人の経済活動には強い制限があったが、中国人に対してはその制限が弱かったため、メコンデルタの大穀倉地帯で米の流通を握ったのは華僑であった。

ベトナム人は頭の良い民族だと思うが、当時はほぼ全国民が農民でしかない。農民に高度な商業統治機能はなく、少なくとも華僑商人ほど商業には精通していなかった。

 

 しかし、この巨大な華僑人口は1975年のベトナム戦争終了直後に霧消する。ベトナム共産党がチョロンに住む中国人の財産を没収し、強制的に国外退去させた。その結果、ベトナムは、東南アジア諸国の中で圧倒的に華僑人口の少ない国となった。

 このベトナム政府による華僑に対する弾圧は、政治的には両国にとっての遺恨となった。また、多数の華僑が国外追放されたことは、ベトナム国内で反中感情を形成しやすい要因にもなっていると思える。

日本やフィリピンの対中方針との違い

 要約すれば、国民の間での対中感情は非常に険しいが、南シナ海問題でベトナム政府が中国との対立を先鋭化させる可能性は、政治的にも、経済的にも、非常に小さい。これは、中国との間に同じように緊迫した領土問題を抱える日本やフィリピンとは少し異なる点である。

 日本・フィリピンの両国は、ベトナムのように中国と陸続きでなかったこともあり、中国に対する軍事的な従属意識が歴史的に形成されることはなかった。また、現在は、同盟関係による明確な米軍の後ろ盾があるため、ベトナムと比べて対中国戦略は相対的にかなり強気である。

 ベトナムは中国との国力の差を強く認識し、小国としてのプラグマティックな考え方に徹している。そういう意味では、メンツなどあまり意識していない。また、ベトナム戦争の経緯もあるため、これまで米国との軍事的関係を強化するのは、なかなか難しかったという事情もある。

 なお、ここ最近、米国とベトナムとの軍事的な結びつきは拡大している。中国政府からの抗議を受けつつも、2010年以降、米軍艦がベトナム中部のダナン港やカムラン港(日露戦争当時のロシア軍のバルチック艦隊が日本海海戦を前に補給を行った港として有名)に寄港し、米越間の共同演習や軍事交流の実績が積み重ねられてきている。

 すぐに中越間での紛争が現実化する可能性は低い。ただし、中国の南シナ海への膨張は明らかになりつつあり、ベトナム政府は今後政治的に慎重な舵取りが要求されるだろう。


安保をただす 集団的自衛権 容認ありきが明白

2014年05月15日 06時00分12秒 | 臼蔵の呟き

非常にまともな見解、政権の動きに対する指摘です。憲法を一内閣が解釈でころころと見解を変える。そんなことができれば、法治国家とはいえませんし、安倍、自民党中枢の独善と、おごりは頂点に達している感があります。

彼らは、たった一回の選挙で、しかも、小選挙区制というゆがんだ選挙制度、民主党政権の公約違反が重なり、衆議院の多数派になっただけの話です。その偶然に出来上がった結果を利用して何でも出来るかのごとき憲法改悪の策動は許せないと思います。歴史は、必ず、彼らの蛮行とおろかな行為を後世まで語り継ぐことでしょう。

<信濃毎日社説>安保をただす 集団的自衛権 容認ありきが明白

 集団的自衛権の行使容認へ、なりふり構わずということか。安倍晋三首相があす有識者懇談会の報告書を受け、その日のうちに見解を表明する。

 報告書が出た後に政府内で議論する―。首相は、そう説明していた。実際は報告書を先取りする形で着々と準備している。懇談会と政権が一体だと、よく分かる。あらためて出来レースの議論であることがはっきりした。

 集団的自衛権は、他国を守るために武力を行使する権利だ。歴代の政府は憲法上、行使できないとしてきた。懇談会の報告書は、この憲法解釈の変更を主張するものになる。行使容認の具体例として公海上での米艦船の防護などを列挙する見通しだ。

 報告書を受け、首相は政府の検討の進め方について基本的方向性を示すという。集団的自衛権などの課題について事例を示し、必要な法整備を与党に求める。

 懇談会はもともと、行使容認派で固められている。首相が第1次政権で設け、2008年に容認の報告書を出した。この時は、安倍首相の退陣後だったため棚上げされた経緯がある。首相の返り咲きにより、ほぼ同じ顔触れで再び報告書をとりまとめてきた。著書で集団的自衛権の行使容認を主張するなど、いずれも首相と考え方の近い人たちだ。政府はきのうの閣議で「深い見識を有する者で構成しており、『偏ったメンバー』で議論されているとの指摘は当たらない」との答弁書を決定したものの、説得力がない。

 首相は、憲法解釈の変更について「期限ありきではない」と明言していたのに、その姿勢も転じている。秋の臨時国会までに公明党との協議を決着させるよう自民党に指示した。首相の見解表明を受け、与党協議が本格化する。

 解釈変更への反対論は強い。集団的自衛権の行使を認めれば、憲法9条は歯止めとしての意味を失う。政権の判断で憲法解釈が二転三転するようでは、法治国家としての安定性が揺らぐ。自国が攻撃を受けていないのに反撃するのは争いを呼び込むことになる。

 報告書は一つの参考意見にすぎない。妥当性はあるか、従来の憲法解釈と整合が取れるのか、安全に資するのか…。集団的自衛権に反対する憲法学者らを交え、深い議論をし直すべきだ。既に方向付けがなされたかのような政府の進め方は認められない。