安倍、自民党政権は大手企業、多国籍企業、経営者のお気に入り政策を何のためらいもなく、法制化しようとしています。労働時間の規制を取り外し、成果主義、ゼロ時間契約など、企業経営者、雇用者の使い勝手の良い制度を導入しようとしています。
そもそも、労働時間規制、労働法規の多くは、規制しない、労働法規がなければ、多くの労働者が最悪の生活環境に陥るからでした。資本主義社会の初期において弱者である働くものは、長時間労働(8時間労働、残業時間の上限設定)、低賃金(最低賃金)、雇用期間(短期労働への規制)などにより都合よく使い捨てにされました。たこ部屋などはその当時の劣悪な労働環境を表現したものでした。労働分野における法規制は、弱者である労働者が最低限度のルールの下で、働くことを実現しようとする社会的縛りです。その最低限度の規制を、取り払おうとする経団連、その意向を受けた、安倍、自民党の対応は歴史の教訓をまったく、無視し、政治の責任を放棄するものと言えます。
弱者である労働者、少数民族、差別される人々の権利は、常に攻撃され、危機にさらされるのでしょうが、その攻撃を跳ね除け、維持し、権利の拡大する闘いが必要になっているのだと思います。
21世紀、22世紀がどのような社会になるかは今後の課題ですが、20世紀までに必要とされた原理、原則がより発展して、すべての国家、人民が平等で、基本的人権を擁護される社会であることを願うものです。
<毎日新聞識者コラム:危機の真相>浜のり子教授
「ヤナやつら、考えること皆同じ」。二つの新聞社説を読んで、そう思った。大急ぎでお断りしておく。社説の執筆陣をヤナやつらだといっているのではない。社説の糾弾対象がヤナやつらなのである。
社説その1が、4月24日付本紙の「労働時間規制緩和〜成果主義賃金の危うさ」である。社説その2は、英国の経済紙、フィナンシャル・タイムズ(FT)の5月11日号に掲載された。タイトルを翻訳すれば「ゼロ時間方式の乱用は許されない〜柔軟な雇用契約が搾取の道具となってはならない」となる。(“Zero−hours abuses must be stopped−Flexible working contracts should not be tools to exploit”)
本紙の社説が問題にしているのは、安倍政権が成長戦略に盛り込もうとしている労働規制の緩和構想だ。労働基準法が定める法定労働時間規制に、例外を設けようとしている。例外扱いの対象者については、働いた時間の長短とは無関係に、成果に応じて給料を支払うという。例外対象として想定されているのは、高額所得者やさまざまな理由で働ける時間あるいは働きたい時間に限りがある人々だ。
FT紙が警告を発している「ゼロ時間契約」とは、いわば「声かけ型」の雇用形態だ。雇用契約の中に、特定の労働時間が書き込まれない。労働時間への言及がないから、「ゼロ時間」契約である。労働者に対して、雇い主は必要に応じて声をかける。声かけに応じて働いた時間数に対してのみ、賃金が支払われる。
成果主義とゼロ時間。この両者が、いずれも多様な就労とか、柔軟な雇用という言い方の下で正当化されていく。こんなことで本当にいいのか。
成果主義は、労働の生産性上昇につながるという。短時間で成果を上げれば、給料もしっかりもらえて、しかも、自由時間が多くなる。だから、労働者たちは効率的に働くようになる、というわけだ。本当にそうか。実際に短時間で成果が上がればいい。だが、思うように効率が上がらない場合には、逆に、成果が出るまで何時間でも働き続けなければいけないことになる。効率が上がるにせよ、上がらないにせよ、何やら、ストップウオッチを片手に働かされるような案配だ。
ここで頭に浮かぶのが、ガレー船のイメージだ。ガレー船は古代ギリシャ・ローマ時代の軍船だ。手こぎの巨大帆船である。こぎ手は奴隷もしくは囚人が務める。
映画好きの方なら、ここですぐにかの大作、「ベン・ハー」を思い出されるに違いない。ユダヤの王子、ベン・ハーはローマ帝国への反逆者に仕立て上げられて、ガレー船のこぎ手とされてしまう。ガレー船の船底でベン・ハーを待ち構えていたのが、徹底的な成果主義の労働環境だった。
早く目的地に着きたければ、必死で生産性を上げるしかない。そして、目的地に達するまでは、いくら長時間でも、ひたすらこぎ続けるしかない。生産性を上げるために頑張り過ぎれば、心臓が破れる。生産性が上がらないから、延々とこぎ続ければ、過労死だ。いずれにせよ、この雇用形態は死に至る。
ゼロ時間契約には少々、昔の飯場(作業員宿舎)のイメージがある。かつて、飯場には労働者の強制収容所的側面があった。いわゆる蛸(たこ)部屋である。仕事があるまで、労働者たちは、そこでひたすら待機していなければならなかった。そこでは、怖い飯場頭が常に目を光らせている。
さすがに、現代英国のゼロ時間契約に、飯場方式が盛り込まれているわけではない。暇人の小遣い稼ぎには、ゼロ時間契約も悪くないかもしれない。だが、どうしても仕事が欲しい人の場合はどうか。
正社員はダメ。だけど、ゼロ時間方式なら雇ってあげるよ。そういわれれば、就職難民たちは、同意せざるを得ないだろう。かくして、ゼロ時間契約にサインした途端、彼らの時間は、彼らのものではなくなってしまう。
いつ、仕事の声がかかってくるか分からない。夜中かもしれない。明け方かもしれない。子どもが病気の時かもしれない。大事な人とのデートの日かもしれない。久々に、親に会う約束の日かもしれない。だが、仕事に飢えた人々は、雇い主の一声を断れない。物理的に居場所を制約されていなくても、ゼロ時間契約は、弱者たちから自由を奪う。
柔軟な雇用という言い方は、一体、誰のための柔軟性を指しているのか。成果主義にせよ、ゼロ時間契約にせよ、これらは、いずれも、労使関係において、リスクを一方的に使用者側から労働者側に転嫁する突破口となりかねない。
労働価値説という言葉がある。この概念は、経済学の生みの親であるアダム・スミスの「国富論」に出発点がある。モノの価値は、そこに投入されたヒトの労働によって決まる。そういうことだ。初めにヒトありきだ。成果や便利さから、ヒトの価値を逆規定されてはたまらない。
■人物略歴 ◇はま・のりこ 同志社大教授。