“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

笑い話です。

2014年05月16日 12時59分05秒 | 臼蔵の呟き

ブログの投稿です。以下再録です。 

「なんで安保法制懇が報告書提出したその日に、安倍氏が方針説明できるんだ?:川口創弁護士」
http://sun.ap.teacup.com/souun/14184.html
2014/5/15 晴耕雨読
https://twitter.com/kahajime

なんで安保法制懇が報告書提出したその日に、安倍氏が方針説明できるんだ?

もちろん報告書は政府が作ってるから、安倍さんは内容分かってるのだろうが、国民向けに「少しは報告書読んで検討しました」というアリバイすら作らない。

もはや茶番ですらない。

安保法制懇が報告書出すその日に安倍首相が方針を述べるという。

「読んでしっかり検討する」という習慣がないから、つい「読んで検討する」というアリバイ造りを忘れてしまったのか。それとも「出来レースだ、茶番だ」と開き直ったのか。

「アベノミクス」によって、「格差」や「貧困」がなかったかのようにされている。1つのキーワードによって、他の事実が覆い隠されてしまう怖さ。

5月15日の安倍氏の会見では、記者の方々は中身について聞く前に、

「今日報告されたばかりの安保法制懇の報告書を、この会見までのわずかの間に読んだのか」

「読んだのは何分か」

「検討したのは何分か」

「閣僚間で議論したか」など、質問されたら良い。

安倍さんの会見では、

「安保法制懇の報告書は、事前に見ているのかいないのか」

「見ていない」とすれば、「今日受け取って、何分読んだか、閣僚間で何分検討したか、たったそれだけか」と追及し、「事前に見ていた」とすれば、「報告書は政府が作ったのではないか」など聞いたら良い。

安保法制懇の開催はわずか6回。各1時間半、その半分は政府事務方の報告。会議開催の最後は2月4日。メンバーで集まって報告書を議論してもいない。

しかも肝心の最終回の議事要旨http://t.co/DfaGtrARL0の日付が去年の2月4日なのが笑える


集団的自衛権 憲法を骨抜きにするな

2014年05月16日 10時59分24秒 | 臼蔵の呟き

琉球新報は、集団的自衛権の行使容認で、沖縄がその戦闘地域になるのではないかとの懸念を表明しています。沖縄米軍基地、尖閣列島の領土問題などで、中国、朝鮮半島など有事に即応する米軍海兵隊の存在が危機意識を持たせているようです。現実の軍事紛争に巻き込まれる懸念は、日本の中でも特別に高い確率で存在しています。

戦後68年間、日本は1人の戦死者も出さずにきたが、他国の戦争で自衛隊員に死者が出る可能性が高まる。その覚悟が安倍首相にも国民にもあるとは思えない。として、戦争後ごっこではすまない、危険性、戦争の危機に警鐘を鳴らす沖縄ならではの危機意識です。ここで言う、戦争は人間を殺し、自らも死に直面することを覚悟することです。イラク戦争でアメリカ軍兵士、自衛隊員が帰還後、精神障害に見舞われて、正常な日常生活が出来ない兵士、自衛隊員が多く発生していることが報告されています。実際の戦争、大規模な戦争による殺戮に耐えることが出来るのでしょうか。この戦争による殺戮、人を殺し殺されることを止めたいとしてできたのが9条の日本国憲法であったことを再認識すべきです。

<琉球新報社説>

集団的自衛権 憲法を骨抜きにするな「遠隔地の戦争」危うさ

 他国の戦争に連なって戦争できる国に転換する。その歴史的節目を日本も越えたのかもしれない。
 安倍晋三首相は、集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈変更を目指すと明言した。安全保障面で関係があるなら、別の国への攻撃に対しても武力を用いることになる。戦後68年間、日本は1人の戦死者も出さずにきたが、他国の戦争で自衛隊員に死者が出る可能性が高まる。その覚悟が安倍首相にも国民にもあるとは思えない。
 民主的な最低限の手続きも踏まず、時の首相の一存で解釈改憲に突き進む。戦後の平和を支えた立憲主義、法治主義の基盤を掘り崩す、あまりに危険な姿勢だ。

立憲主義に背向け

 各種世論調査では解釈改憲反対が多数を占めるだが、首相の私的諮問機関にすぎない「安保法制懇談会」は、集団的自衛権の行使を禁じた従来の憲法解釈を誤りと断定し、行使容認を求める報告書を出した。容認派ばかりの14人のメンバーは首相が選んだ。
 安倍氏による安倍氏のための憲法解釈変更を導き出す結論ありきの報告書だ。これを受け、首相は「確固たる信念を持ち、検討する」と宣言し、胸を張った。

 報告書の最大の問題は「安全保障環境の変化」を声高に叫び、最高法規である憲法を骨抜きにしたことだ。完全に安保が憲法を凌駕(りょうが)している。不戦を誓い平和憲法を保ってきた国が、立憲主義に自ら背を向ける本末転倒の発想だ。
 自民党中心の歴代政権は「集団的自衛権を持っているが、行使できない」という解釈を固持してきた。憲法が権力の暴走を抑止する立憲主義をわきまえた内閣法制局の見解に従ってきたのだ。
 イラク戦争で米軍などの支援のために自衛隊を派遣した小泉純一郎元首相でさえ、行使できないという解釈を崩すことはなかった。
 安倍首相の会見は本質をぼかす印象操作そのものだった。紛争地で救出した邦人を乗せた同盟国の船が攻撃を受けたとし、武力を使って守ることが許されないのか-と問い掛けて見せた。よく考えてみたい。他国とは米国を念頭に置いていることは間違いない。世界最大の武力を有する国に対し、宣戦布告に等しい攻撃を仕掛ける国がどこにあるだろうか。

 集団的自衛権行使の例として示された6類型は従来の個別的自衛権での対処が可能なものが多い。現実的にあり得ない仮想現実を国民にすり込み、勇ましい言葉で集団的自衛権行使の必要性を説く手法は欺瞞(ぎまん)に満ちている。

攻撃対象になる沖縄

 会見で首相が用いたパネルの日本地図には、なぜか沖縄だけが抜け落ちていた。集団的自衛権の行使は米国の軍事行動との連携が念頭にある。もし行使されれば、本土から遠く、米軍基地と米兵が集中する遠隔地の沖縄が攻撃対象になる危険性が高まるだろう。
 1982年に起きたフォークランド紛争で、支持率低迷にあえいでいたサッチャー首相はアルゼンチンの侵攻に対抗して、遠く離れた領土を守る戦争に踏み切った。
 英本国には影響が乏しい「遠隔地の戦争」はナショナリズムを高揚して支持率を押し上げた。安倍氏が2004年にイギリスに送った腹心議員らの視察団は「フォークランド紛争を機に英国民が誇りを取り戻し、『自虐偏向教科書の是正』などの改革へ続いた」と評価する報告書を提出していた。
 「遠隔地での戦争」を通じてサッチャー長期政権に道を開いた史実を首相が認識していないはずがない。遠隔地はどこか。中国との領有権問題を抱える沖縄の「尖閣諸島」の名が第一に挙がるはずだ。
 「他人のけんかを買って出る」(評論家の内田樹氏)集団的自衛権行使は泥沼の戦争を招きかねない。世界では抑制的な流れが顕在化しているが、日本は逆に「戦争をしたがる国」との印象を持たれよう。基地の島・沖縄から歴史に根差す反対の声を上げ、解釈改憲の愚に歯止めをかけたい。

<信濃毎日社説>手段的自衛権 危険な本質を覆い隠すな

 集団的自衛権の危険な本質を覆い隠そうと腐心した―。そんな表現がぴったりくる。安倍晋三首相のきのうの記者会見だ。

 憲法解釈を変更し、自衛隊が他国のために海外で武力行使する道を開こうとしているのに、「国民の命と暮らしを守る」ためであると繰り返し強調した。抵抗感を和らげるためだろう。例として、紛争国から日本人を救助、輸送する米艦船の防護を挙げた。

   <抑制的と印象付け>

 首相は、報告書で二つの異なる考え方が示されたと説明した。

 (1)個別的か集団的かを問わず自衛のための武力の行使は禁じられていない。国連の集団安全保障措置への参加など国際法上合法な活動に憲法上の制約はない。

 (2)わが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許される。

 このうち(1)の集団安全保障などでの戦闘参加については、これまでの政府の憲法解釈と論理的に整合しないとして「政府として採用できない」と述べた。不採用とする判断自体に異論はない。問題は、その裏にある意図だ。報告書を「丸のみ」にしないことで、抑制的な姿勢をアピールする狙いがうかがえる。

 さらに、(2)との兼ね合いが見過ごせない。(1)と対置することで(2)はこれまでの憲法解釈と整合するかのように受け取れる。

   <小さく産んで…の恐れ>

 政府の憲法解釈上、自衛のための必要最小限度の実力行使は認められている。この中に集団的自衛権の一部も含めようというのが安倍政権の考え方だ。

 自衛権という字面から一見、筋が通っているように思えるかもしれない。実際は違う。これまでの解釈で必要最小限度の実力行使は日本への攻撃を前提としている。直接攻撃されていないのに武力を使える集団的自衛権が認められないのは、そのためだ。

 日本は、自国を守るための個別的自衛権についてさえ、抑制的な姿勢を取っている。そうすることで戦争放棄、戦力不保持を定めた憲法9条と自衛隊との折り合いを何とか付けようとしてきた。

 限定的であれ、行使を認めれば9条の縛りはなくなる。「わが国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき」といった条件を付けたとしても、歯止めにはならない。後は政権の判断で対象を広げられる。小さく産んで大きく育てるつもりではないのか。

 そもそも集団的自衛権が平和や安定に資するか、疑問だ。例えば米国への攻撃に対して日本が反撃する場合、相手国からの報復を覚悟しなくてはならない。争いを呼び込むことになる。国民を危険にさらす結果になりかねない。

 懇談会や首相は、行使を容認して他国との関係を強固にすることで抑止力が高まり、紛争の可能性が下がると主張している。果たして、そうか。軍事への傾斜は軍拡競争をあおり、かえって緊張を高める恐れがある。

 日本が行使を容認すれば、米国が自衛の名目で武力行使に踏み切ろうとするとき、自衛隊の派遣を求められる可能性が高い。戦争への加担を余儀なくされる事態も想定しなくてはならない。

 首相は「日本が再び戦争をする国になるといった誤解がある」とした。「そんなことは断じてあり得ない」とも述べている。そう言い切れるのは、なぜか。根拠を示すことなく断言したところで説得力はない。

 集団的自衛権は米国や旧ソ連などが軍事介入の口実として、しばしば使ってきた。乱用の歴史も忘れてはならない。

   <期限ありきが本音か>

 限定的な行使容認について、首相は「今後、さらに研究を進めていきたい」と述べた。憲法解釈の変更を急がないかのような言い方だ。実際は自民党に対し、秋の臨時国会までに公明党との協議を決着させるよう指示している。

 年内には自衛隊と米軍の役割分担を定めた防衛協力指針(ガイドライン)を改定することになっている。それに間に合うよう、与党の合意を取り付けて解釈変更を閣議決定し、必要な法整備を進めたい―。それが本音だろう。

 政府は、集団的自衛権だけでなく、国連平和維持活動(PKO)などでも自衛隊の活動を拡大しようとしている。個別的自衛権に関しては、漁民を装った武装集団が離島に上陸するといった場合の対応を検討課題に挙げる。

 与党協議で自民は、慎重姿勢の公明を説得するため個別的自衛権の議論を先行させ、突破口にしようとしている。海外での交戦を可能にする集団的自衛権は全く別の問題だ。関連付けるような進め方で国民を欺くことは許されない。


集団的自衛権報告書 行使ありきの危うさ

2014年05月16日 08時43分13秒 | 臼蔵の呟き

憲法を解釈により、内容を空文化することは許されない。これは、独裁者が該当国の憲法を無視して、独裁政治、侵略戦争に進むときに用いる手法であることは過去において指摘されてきました。ドイツのナチスヒトラーが行った事例、ワイマール憲法を機能停止にし、非常大権を使って、政治弾圧と、戒厳令を引き、侵略戦争に進んだことを見ればあきらかです。その手法を安倍、彼の私的諮問機関メンバーも良く知っているのだと思います。彼らの姑息さはこの社説が示すとおりです。多くの学者、憲法学者が違憲だ、違法性があると指摘しているにも関わらず、その忠告、指摘を無視してこのような答申を「出来レース」で出したことは彼らが正式の法的手続きを行い、彼らが狙う9条の改定は国民的理解が得られないことを良く知っているからだと考えられます。

胡散臭い答申書、政権の忠実な僕などがしたり顔で、国家の最重要課題についての見解を出したこと。その答申が正当性を持ち、憲法を越えるような真実、真理であるかのような扱いをするところに安倍、自民党政権の姑息さ、反国民性があります。

軍事力の強化により、平和が維持、守られるかの安倍、自民党政権の政治姿勢は、歴史の事実とは全く相反する見解です。第一次大戦、第二次大戦は多くの国家の社会基盤を破壊し、多くの人間、非戦闘員を死に追いやりました。このことを見ただけでも彼らが言う積極的平和主義なるものが欺瞞に満ちた宣伝であることはあきらかです。

このような安倍、自民党が政権を担当する政治が如何に危険であるかはあきらかであり、このような政権は打倒する必要があり、総選挙により国民の信を問うべきです。

<東京新聞社説>集団的自衛権報告書 行使ありきの危うさ

 「出来レース」の誹(そし)りは免れまい。安倍晋三首相に提出された報告書を「錦の御旗」に、集団的自衛権の行使容認に踏みきることなど断じて許されない。

 報告書を提出したのは“有識者”らでつくる「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」だ。第一次安倍内閣で設けられ、第二次内閣でも再開された安倍首相の私的諮問機関である。

 報告書では、政府が憲法違反としてきた「集団的自衛権の行使」を認めるよう、憲法解釈の変更を求めた。集団的自衛権の行使も「自衛のための必要最小限度」の枠内という理屈だ。

◆大国の介入を正当化

 集団的自衛権とは例えば、米国に対する攻撃を、日本が直接攻撃されていなくても反撃する権利である。政府は国際法上、権利を有しているが、その行使は憲法九条で許される実力行使の範囲を超える、との立場を堅持してきた。

 この権利は、報告書が指摘するように、一九四五年の国際連合憲章起草の際、中南米諸国の求めで盛り込まれた経緯がある。安全保障理事会の常任理事国に拒否権が与えられ、発動されれば国連の安全保障措置が機能しない懸念があるとして、中小国が集団で防衛し合う権利を認めさせたのだ。

 しかし、国連に報告された行使の事例をみると、米国などのベトナム戦争、旧ソ連のハンガリー動乱やプラハの春への介入など、大国による軍事介入を正当化するものがほとんどだ。このような「戦争する」権利の行使を今、認める必要性がどこにあるのか。

 中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発が現実的な脅威だとしても、外交力を駆使して解決するのが筋ではないのか。軍事的な選択肢を増やしたとしても、軍拡競争に拍車を掛ける「安全保障のジレンマ」に陥るのが落ちだ。

◆正統性なき私的機関

 戦争放棄と戦力不保持の憲法九条は、第二次世界大戦での三百十万人に上る尊い犠牲の上に成り立つことを忘れてはなるまい。

 その九条に基づいて集団的自衛権の行使を認めないのは、戦後日本の「国のかたち」でもある。

 一九八一年に確立したこの憲法解釈を堅持してきたのは、ほとんどの期間政権に就いていた自民党中心の歴代内閣にほかならない。憲法解釈自体は内閣法制局が担ってきたが、国民に選挙で選ばれた国会議員と政府が一体で三十年以上積み上げ、国会での長年の議論を経て「風雪に耐えた」解釈でもある。それを一内閣の判断で変えてしまっていいはずがない。

 もし、集団的自衛権を行使しなければ、国民の命と暮らしを守れない状況が現実に迫りつつあるというのであれば、衆参両院での三分の二以上の賛成による改正案発議と国民投票での過半数の賛成という九六条の手続きに従い、憲法を改正するのが筋である。

 そうした正規の手続きを経ない「解釈改憲」が許されるのなら、憲法は法的安定性を失い、憲法が権力を縛るという立憲主義は形骸化する。それでは法の支配という民主主義国家共通の価値観を、共有しているとは言えない。

 安保法制懇のメンバー十四人は外務、防衛両省の元事務次官、国際政治学者ら外交・安全保障の専門家がほとんどだ。憲法という国の最高法規への畏敬の念と見識を欠いていたのではないか。その上、集団的自衛権の行使容認を目指す安倍首相への同調者ばかりである。バランスのとれた議論などできるわけがない。そもそも、この“有識者”懇談会の設置に法的根拠はない。

 首相は記者会見で、今後実現を検討すべき具体例として、邦人輸送中の米艦船防護や、国連平和維持活動(PKO)の他国部隊が武装勢力に襲われた際の自衛隊による「駆け付け警護」を挙げた。

 国民の命と暮らしを守る方策を検討するのは当然だ。しかし、現行憲法の枠内でも可能とされるこれらの事例と、憲法解釈の変更を前提とする報告書の事例とは、あまりにも懸け離れている。

 混然一体とした例示で、集団的自衛権の行使容認の必要性を印象づけようとするのは姑息(こそく)だ。

◆守るべきは平和主義

 首相は会見で「憲法の平和主義を守り抜く」「自衛隊が湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」とも述べた。これ自体は評価したい。ぜひ実践してほしい。

 しかし、公明党や自民党の一部など与党内でも、解釈改憲という安倍内閣の政治手法に対する危機感が高まっているのも事実だ。

 カギを握るのは公明党である。戦後日本の「専守防衛」政策を根底から変えようとする安倍内閣に、政権内部からどう歯止めをかけるのか、日本の命運を左右する正念場と心得るべきである。

<毎日新聞社説>根拠なき憲法の破滅

 憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にし、他国を守るために自衛隊が海外で武力行使できるようにする。安倍政権は日本をこんな国に作り替えようとしている。

 安倍晋三首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が、集団的自衛権の行使容認などを求める報告書を提出した。法制懇の委員14人は、外交・安全保障の専門家が大半で、憲法学者は1人だけだ。全員が行使容認派で、結論ありきといえる。

 歴代政府は、憲法9条を次のように解釈してきた。

 9条解釈の180度転換だ

 9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし、自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきだ。個別的自衛権は必要最小限度の範囲内だが、自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、その範囲を超えるため憲法上許されない。

 つまり個別的自衛権と集団的自衛権を必要最小限度で線引きし、集団的自衛権行使を認めてこなかった。

 報告書はこの解釈を180度変更し、必要最小限度の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈することによって行使を認めるよう求めた。

 これは従来の憲法解釈の否定であり、戦後の安全保障政策の大転換だ。それなのに、なぜ解釈を変えられるのか肝心の根拠は薄弱だ。

 報告書は根拠材料として、9条の政府解釈は戦後一貫していたわけでなく、憲法制定当時は個別的自衛権の行使さえ否定していたのが、自衛隊が創設された年に認めると解釈を大きく変えたことを指摘している。

 現在の憲法解釈は歴代政府が30年以上積み上げ、国民に定着したものだ。戦後の憲法解釈が定まっていない時代に変遷を遂げた経緯があるから、変えてもいいというのは理屈が通らない。その時々の内閣が憲法解釈を自由に変えられるなら、憲法への信頼は揺らぐ。憲法が権力を縛る立憲主義にも反する。

 それでも行使できるようにしたいというのなら、国会の3分の2の賛同と国民投票という手続きを伴う憲法9条改正を国民に問うのが筋だ。

 何のために行使を認めるのか、現実に必要があるのかも明確でない。

 報告書は、中国や北朝鮮情勢など厳しさを増す安全保障環境を指摘し、「安全保障環境の大きな変化にかかわらず、憲法論の下で安全保障政策が硬直化するようでは、憲法論のゆえに国民の安全が害されることになりかねない」と警告した。

憲法の平和主義が果たしてきた役割への言及は極端に少なく、まるで憲法を守って国を滅ぼしてはならないと脅しているようだ。そして検討の具体的事例として「公海上の米艦防護」「米国向け弾道ミサイルの迎撃」「シーレーン(海上交通路)の機雷除去」などを挙げた。

 安倍首相も記者会見で二つの事例をパネルにして説明し、現在の憲法解釈のままでは自衛隊がそれらの活動を行うことができないと訴えた。 しかし、首相が挙げた一つ目の事例の、朝鮮半島有事を念頭に避難邦人を輸送する米艦船が攻撃された場合の防護は、集団的自衛権を認めなくても、個別的自衛権などで十分に対応できるという指摘も多い。

 二つ目の、国連平和維持活動(PKO)に参加している他国軍の部隊などが襲われた場合の駆けつけ警護は、そもそも集団的自衛権とは関係がないPKOの武器使用の問題だ。

 本質そらす首相の会見

 集団的自衛権問題の本質からそれた国民に理解されやすい事例をあえて選び、首相自ら「命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのか」と情緒的に訴えることで、集団的自衛権の行使容認に向けた空気を醸成する狙いがにじむ。

 報告書は、実際の行使にあたっては「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性がある」などの要件を満たした場合、政府が総合的に判断して必要最小限度の行使をするか否かを決めるよう提言している。いわゆる限定容認論といわれる考え方だ。

 裏返せば、政府が日本の安全に重大な影響を及ぼすと判断すれば何でもできるということだ。実質は全面容認と変わらない。報告書は、地理的限定は不適切とも言っている。

 首相は記者会見で、法整備により「抑止力が高まり、紛争が回避され、戦争に巻き込まれなくなる」と強調した。だが歴史を顧みれば、自衛の名のもとに多くの侵略戦争が行われてきた。集団的自衛権が戦争への道をひらく面があることを忘れてはならない。

 報告書は、国連の集団安全保障への参加、PKOでの武器使用の見直し、グレーゾーン事態と呼ばれる武力攻撃に至らない侵害への対応なども検討するよう求めた。

 このうち湾岸戦争やイラク戦争のような集団安全保障の戦闘参加について、首相は提言を採用しない考えを示した。与党協議では、日本の安全や国益に必要なことは何か、憲法解釈変更でなければ実現できないのか、近隣諸国との関係にどんな影響が出るのかなど、現実を踏まえた具体的で冷静な議論を求める。