読者の皆さんにお約束した『社説読み比べ』の第1回を書く。取り上げた社説のテーマは集団的自衛権行使である。
安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二元駐米大使)が2月8日、5年半ぶりに再開され、今日的状況を踏まえて集団的自衛権についての論議を深めることになった。この懇談会の目的は、これまでの政府の憲法解釈(自国、すなわち日本への攻撃に対する自衛権は固有のものとして認められるが、同盟国といえども他国に対する攻撃に対して共同して軍事力を行使することは許されない)を改めるか、あるいは憲法を改正して公然と集団的自衛権を認めるようにするかの議論を行うことである。
これを受けて翌9日に社説で主張を述べたのは全国紙5紙のうち読売新聞と朝日新聞の2紙だけで、翌10日には産経新聞が主張(以下「社説」と記す)で述べただけだった。尖閣諸島問題をめぐり中国が軍事的挑発行動を繰り返し、北朝鮮が弾道ミサイルを発射し、さらに3回目の核実験を公言するなど、日本を取り巻く軍事的環境が緊張度を高めていく中で、なぜ日本経済新聞と毎日新聞がこの問題を社説で取り上げなかったのか理解に苦しむ。
そのことはさておいて、3紙の社説について論じる前提として、歴代政府が「集団的自衛権の行使は認めることができない」と解釈してきた日本国憲法第9条と、国連加盟国のすべてが集団的自衛権を有することを明文化した国連憲章第51条を転記しておこう。
[憲法第8条]
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段と
しては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
の交戦権は、これを認めない。
[国連憲章第51条]
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な処置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった処置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この処置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能および責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。(※国連憲章に限らず、英語で書かれた国際的文書の日本語訳の分かりにくさは何とかならないか、といつも思う。いっそのことスーパーコンピュータに自動翻訳させてみたらどうか、とさえ思う)
このように国連憲章は集団自衛権は国連加盟国の固有の権利として認めている。しかし、これまでは自民党政府も反自民党政府も、日本が集団的自衛権を行使することは憲法9条に違反するという解釈をとり続けてきた。この問題を論じる場合、論点を整理してから行わないと、平行線をたどるだけである。
まず、集団的自衛権が憲法9条に本当に違反しているのか、という問題である。違反しているという立場に立つと、そこから二つの議論が生じる。一つは違反しているから集団自衛権は認めるべきでないという主張。もう一つは、だから集団自衛権を行使できるよう憲法を改正しようという主張。
違反しているから集団自衛権は認めるべきではないという主張の代表的な日本共産党の考え方を、あくまで論理的に検証してみよう。同党の機関紙「しんぶん赤旗」はこう主張している(2001年5月17日付)。
小泉首相は、「日米が一緒に行動していて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが果たして本当にできるのか」といい、集団的自衛権の行使について検討していると表明しています。この発言に示されるように、集団的自衛権の行使とは、日本が外国から侵略や攻撃を受けた時の「自衛」の話ではなく、軍事同盟を結んでいる相手の国が戦争をするときに共同で戦争行為に参加することです。(中略)1999年、小淵内閣の時、憲法の戦争放棄の規定を踏みにじって、アメリカの軍事介入に自衛隊を参加させるガイドライン法=戦争法が作られました。しかし同法も憲法9条があるため、自衛隊の活動は「後方地域支援」に限るとされています。この制約を取り払い、自衛隊が海外で米軍と共同で武力行使ができるようにしたいというのが、今の集団的自衛権論の狙いであり、実際、この議論は、9条の明文改憲論と一体のものとして出されています。首相らの集団的自衛権発言の背景には、憲法上の制約を取り払って自衛隊が米軍の軍事力行使に共同で参加できるように集団的自衛権を採用すべきだというアメリカの圧力があります。これまでアメリカは、「自国の死活的な利益」を守るため、必要な場合、一方的な軍事力行使をすることを公式の戦略にし、99年のユーゴ空爆をはじめ、一方的な武力行使を繰り返してきました。集団的自衛権の行使は。無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同で参加するという危険な「集団的軍事介入」の道でしかありません。憲法の平和条項を葬り去るこのような企ては絶対に許せません。
かなり前の主張だが、この主張を変えていない以上、この主張について検証することにする。
日本共産党の主張には重大な論理のまやかしとすり替えがある。日本共産党が認めている小泉発言は「日米が一緒に行動していて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが果たして本当にできるのか」というものであって、米軍が攻撃を受けた場合という限定条件のもとでの集団的自衛権について語っていることは明白である。
この小泉発言を援用して、日本共産党は、無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同で参加するという危険な集団的軍事介入の道、と極端な拡大解釈をしている。確かにアメリカは冷戦時代、共産勢力の拡大を防ぐため、「集団的自衛権」を口実に世界各地で戦争を行ってきた(その戦争を「侵略戦争」と位置付けるか否かは議論の分かれるところだが、例えばベトナム戦争などは腐敗して民心を失っていたゴ・ディン・ジェム大統領が支配していた南ベトナムを、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムの侵攻から防ぐために軍事介入したようなケースも少なくなかった)。もっともソ連もハンガリー動乱やプラハの春を、やはり「集団的自衛権」を口実に戦車で踏みにじってきた。
第二次世界大戦以降、米ソが対立する冷戦時代が長く続いたが、ソ連も直接アメリカを攻撃しようなどという無謀な試みを考えたことなど一度もない。ゆいつ米ソが直接対決する危険性が生じたのはキューバ危機の時だけだが、米ケネディ大統領の米ソ戦争も辞さずという強硬姿勢の前に、フルシチョフ・ソ連が全面的に屈服してキューバにミサイル基地を建設しようという野望を放棄した事件もあった。
いまアメリカと軍事的衝突をも辞さず、という馬鹿げた姿勢を見せているのは北朝鮮だけだが、これは国内にくすぶる金一族による世襲独裁政治に対する国民の不満が爆発するのを防ぐために「仮想敵国」に対する国民の危機感をあおることによって国内の治安を維持しようという独裁政権の常套的な古典的手法にすぎず、アメリカも国際協調による経済的制裁などによって北朝鮮の無謀な挑発を阻止しようとはしているが、北朝鮮を軍事力で侵略しようなどとはまったく考えていないことは明々白々である。またたとえ、将来の米大統領が、目障りな北朝鮮の金独裁政権を崩壊させてしまえ、と馬鹿げた軍事行動に出たとしても、それは「同盟国のアメリカが攻撃を受けた場合」という条件に該当しないから、日本が「集団的自衛権」によってアメリカの馬鹿げた軍事行動に共同歩調をとることなどあり得ない。
現に、冷戦時にアメリカやソ連が自国の勢力圏における反体制活動を抑止するために「集団的自衛権」を口実に軍事介入した多くのケースは、現在では、国連憲章が認めている外国からの侵略行為に対するものではないため「集団的自衛権」の行使には相当しないという解釈が国際的に定着している。例えば、日本で共産勢力が拡大して民主主義政治が危うくなったとしても、アメリカは軍事介入できないというのが国際的な合意事項になっている。まして、アメリカが仮に無法な侵略戦争を起こしたとしても、日本がそれに加担する義務などまったく生じない。
むしろ現行の日米安保条約は、日本が他国から攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務を負うが、日本はアメリカ防衛の義務を負わないという片務的条約になっており、アメリカ人の多くに「なぜアメリカのために血を流さない日本のために、アメリカだけが一方的に血を流さなければならないのか」という素朴な国民感情があることは否めない。そもそもそういう日本に対する侮蔑的感情が、沖縄などでの米軍兵士による婦女暴行の底辺に流れている対日感情の現れと言っても差し支えないほどである。
自国を外国からのいわれなき侵略から防衛するのはあらゆる国の固有の権利であり、また義務でもある。すでに日本の軍事力は、核攻撃を受けない限り、自衛隊の戦力だけで十分対抗できるだけの状況にある。また帝国主義(あるいは植民地主義)の時代と異なり、日本を植民地化しようなどと考える国はない。たとえばイラクのフセイン政権やアフガニスタンのタリバン勢力を攻撃したアメリカも、イラクやアフガニスタンを植民地化しようなどというばかげた発想はこれっぽっちも持っていない。そういう帝国主義的行動は、世界最大の軍事力を誇るアメリカでも、自由には行使できない時代が現在なのである。「集団的自衛権の行使は、無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同して参加するという危険な集団的軍事介入の道」という日本共産党の認識は、時代錯誤も甚だしいと言わなければならない。
政治勢力としてはほとんど無力といっても差し支えない日本共産党の主張の論理的破綻に、私がなぜこれだけのスペースを割く必要があったのかというと、共産党員あるいはシンパではなくても、事実上共産党の集団的自衛権解釈に毒されている人たちが日本にはまだ多数いるからである。例えば「憲法9条を守る会」などの市民団体の人たちもそうである。彼らは必ずしも共産主義者とは言えないが、「憲法9条があったから、戦後の日本は平和を守れた」と主張してはばからない。この主張も論理的には完全に破たんしているのだが、そのことに彼らは気づいていない。戦争体験・被爆体験を持たない若い人たちの間にも、日本人特有の遺伝子として刻み込まれている状況の中では、そうした考え方に同調する人たちが少なくないことも私は理解できる。
しかし、もう少し論理的に考えて見よう。独立国家はすべて自国の憲法を持っている。憲法は国の在り方を決める規範的制度であり、すべての法律や政治体制をはじめ国民生活に至るまで憲法の制約を受けている。だが、この制約は国内のみに適用される制約であって、外国の行動を縛る制約ではない。この論理は小学生でも理解できるはずである。
では「永世中立」を国際社会に向かって宣言しているスイスについて検証してみよう。スイスは1815年、当時の国際会議のウィーン会議で永世中立が承認され、今日に至るまで他国からの侵略を受けていない。しかしこの「永世中立」宣言が他国からの侵略を防いできたわけではない。他国からの侵略を防ぎ、自国の平和を守るためにスイスは並々ならぬ努力を重ねてきた。その最たるものは独自の国民皆兵制にある。「民兵組織による国民総武装制」とも言われている。具体的には国民皆徴兵制が原則で、すべての国民(障碍者は除く)は基礎訓練を受けたのちは一般市民として生活するが、定年(兵役終了年齢)になるまで定期的な再訓練を受ける。定年を迎えるまでは武器や戦闘装備は国民が個々人で管理しなければならない。そして万一他国から侵略された場合、兵役適用年齢の国民は一切兵役から逃れることはできない。つまり敗戦直前の日本の「全国民竹槍武装」のような防衛体制をとってきたのである。もっとも最近は国民皆兵制は金がかかりすぎる、また国際情勢の変化によって無法な侵略を受けるリスクが軽減したという理由で民兵制から通常の軍隊制に比重を移しつつある。
ではスイス以外の「永世中立」宣言した国の運命はどうだったか。ベルギーとルクセンブルグの例を見てみよう。両国ともスイスのように永世中立を宣言していたが、第一次世界大戦でドイツの侵攻を受け、ベルギーは国土の大半を占領されながらも国民が抵抗を続けて何とか凌いだが、ルクセンブルグは全土が占領された。この時はドイツの敗戦により独立をいったん回復したが、1940年にはナチス・ドイツにより両国とも占領された。日本の憲法9条が日本の平和を守って来たという屁理屈は真っ赤な嘘にすぎないということがお分かりだろう。日本という国が勝手に作った(アメリカに押し付けられたという説については後述する)憲法をどの国が尊重してくれるというのか。
日本が戦後、他国からの侵略を受けなかったのは、簡単に侵略戦争ができなくなったという国際情勢の変化と、アメリカの核の傘で守られてきたという二つの要因によるというのが、日本が平和を維持できた正確な理由である。
日本がアメリカの核の傘で守られてきたというのは、独立国にとっては最大の弱みでもあった。そして憲法9条で日本の再軍備を事実上不可能にしたため、アメリカの占領下時代は日本防衛の任に米軍が当たってきた。だからサンフランシスコ条約によって日本の独立が国際社会から承認されたのちも、アメリカは日本の安全を自らの責任で守ることを約束する必要が生じ、日米安全保障条約を締結したのである。
もう一度憲法9条の第2項を読んでほしい。こう書いてあるではないか。
「前項(国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」
この中(第1項)で「国際紛争を解決する手段としては」という条件はなぜつけられたのか。国内における治安維持ための警察組織や共産勢力によるクーデターを防ぐための最小限の軍事力は除く、ということを意味しているのである。
第1次世界大戦の戦後処理の中で、戦勝国側は敗戦国ドイツに対し過酷な賠償責任を負わせた。それがドイツでナチスの台頭を招き、第2次世界大戦を引き起こす要因の一つになったという反省から、第2次世界大戦の戦後処理で連合国側は敗戦国の枢軸3国(日本・ドイツ・イタリア)に対し、過酷な賠償請求は行わないことにした。その代り国の尊厳を奪う方法で、敗戦国が二度と大国になれないような手段を講じたのである。
その手段の一つが、日本の場合、憲法9条の制定であった。独立が国際社会からまだ認められていなかった占領下においては軍事力の解体はやむを得ないとしても、それだけでなく近い将来の独立を前提にして、憲法改定が極めて困難になる条件を憲法の中に盛り込んだのである。具体的には憲法96条で①両議院において総議員(出席議員)の三分の二以上の賛成によって国会が憲法改正を発議し、②国民投票の結果、有効投票の二分の一以上の賛成によってのみ憲法の改正ができる、という極めて高いハードルを設定したのである。こうして事実上日本を丸裸の無防備状態にするという、損害賠償に代わる報復的意味合いが濃厚な憲法をGHQは制定したのである。GHQが日本に押し付けたのは憲法9条というより、憲法96条によって、憲法改正に極めて高いハードルを設定したことのほうが大きな意味を持ったと言ってもよいだろう。
いわゆる「平和主義者」は、憲法9条を世界に例を見ない「平和憲法」と高く評価しているが、憲法9条を平和憲法と解釈しているのは日本の「平和主義者」だけで、世界中どの国も日本の憲法9条を「平和憲法」などという評価はしていない。当然、戦後の日本が平和状態を維持できたのは、憲法9条があったからではない。
しかし戦後、急速に勢力を拡大していった共産勢力の脅威に欧米戦勝国は直面することになった。アメリカが日本の再軍備化を容認、というより日本政府に働きかけて憲法9条の骨抜き化を図りだしたのは、日本を防共ラインのかなめにするためであったことは否定できない。
日本が自衛隊という名の、事実上憲法違反の「陸海空軍その他の戦力」を保有する「解釈改憲」はこうして始まり、今問題になっているのは集団的自衛権について、憲法を改正しない限り無理だという従来の説と、いやまだ解釈改憲で集団的自衛権を固有の自衛手段として認めることができるという説に分かれており、その両論の決着をそろそろつけなければならないという判断に至ったのが、安倍総理が私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(以下、懇談会と記す)を5年半ぶりに再開させた最大の理由である。もちろん、その背景にはすでに核を保有し、少なくとも日本全土を射程距離に入れる弾道ミサイルを開発した北朝鮮の軍事的脅威に対する備えや、日本の固有の領土である尖閣諸島をめぐる中国の軍事的挑発に対する備えを万全なものにしたいという、安倍総理の執念ともいうべき政治姿勢がある。そうした位置づけを前提にして、すでに社説で基本的主張を明らかにした3紙を読み比べてみよう。
まず朝日新聞。『首相は何をしたいのか』というタイトルからも読み取れるように批判的主張を展開している。まず、現行憲法について「平和憲法」と位置付けていることからして、朝日新聞のスタンスが透けて見える。同紙社説はこう主張する。
「(集団自衛権に道を開くこと)によって日米同盟を強化するのだと安倍首相は言う」「では、日米同盟をどう変えたいのか。平和憲法の原則をなし崩しにすることはないか。議論の出発に当たり、首相はそのことをまず明確にすべきだ」
そんなことは自明だろう。朝日新聞は北朝鮮の軍事的脅威をまったく感じていないのか。だとしたら、「鈍感」を通り越した無感覚としか言いようがない。
朝日新聞はこうも言う。
「日本は戦後、憲法の制約のもと、自衛のための必要最小限の武力行使しか許されないとの立場をとってきた」「日本が直接攻撃されていないのに米国を守るのはこの一線を越え、憲法違反だというのがこれまでの政府の解釈である」
これまでは、確かにそうだった。北朝鮮が核や弾道ミサイルを持つまでは。朝日新聞も安倍総理が懇談会を再開するに至った日本を取り巻く軍事的環境の変化は認めている。
「東アジア情勢は大きく動いている。日米協力のあり方も、状況にあわせて変える必要はあるだろう。だからといって、なぜ集団的自衛権なのか」「自民党は、その行使を幅広く認める国家安全保障基本法の制定をめざしている」「これによって、憲法が求める『必要最小限の自衛』という原則や、それを具体化するために積み上げてきた数々の歯止めを一気に取り払おうとしているのではないか」「だとすれば、かえって国益を失うだけである」
では、朝日新聞に聞きたい。解釈改憲で行くか、あるいは憲法を改正するかの議論は別としても、集団的自衛権を持つと、なぜ国益が失われるのか。集団的自衛権を日本が持つと、「平和憲法の原則がなし崩しになる」からか。朝日新聞は「平和憲法があれば、北朝鮮の核や弾道ミサイル、恐るるに足らず」という理論的根拠をまず明らかにすべきだろう。「平和憲法」の条文を守ることと、日本が現に直面している北朝鮮や中国の軍事的脅威に対する抑止力として日米同盟をより強固なものにするために集団的自衛権を確立することと、どちらが大事か、よーく考えてほしい。
次に読売新聞。社説のタイトルは『集団自衛権 安全保障体制を総点検したい』である。この問題についての発想の原点は私と近い。同紙の書き出しはこうだ。
「安全保障政策の立案では、『現行の憲法や法律で何ができるか』にとらわれるだけでなく、『何をなすべきか』を優先する発想が肝要だ」
この書き出しで多少気になるのは、「とらわれるだけでなく」という表現である。おそらく社説氏自身が悩んだと思うが、私なら「とらわれるのではなく」と言い切ってしまう。確かに「とらわれるのではなく」と言い切ってしまうと、「では現行の憲法や法律をハナから無視していいのか」という反発が生じるだろう。たとえそうであっても、私は無理に無理を重ねてきた「解釈改憲」にそろそろ見切りをつけないと、いつまでたっても真の独立国家としての尊厳を回復することができないと思うからである。法を順守する精神は大切だが、条文の解釈を変えてさらに無理を重ねることは、かえって国家の尊厳を損なうのではないか。
ちょっと気になった表現はともかく、読売新聞の主張にはおおむね同意できる。ただ読売新聞は5年半前に提出された報告書を前提に論じている。これから再開される懇談会は、第1次安倍内閣時代に作られた報告書の内容を踏まえ、当時とは激変した軍事的環境下における日本の安全保障体制の再構築がテーマになる。したがって、5年半前の報告書を踏まえながら、今日的課題を明確にし、集団的自衛権の中身をどう具体化すべきかを提言してほしかった。今さら過去に提出された報告書を再評価しても、あまり意味を持たないと言わざるを得ない。もちろん、読売新聞も再構築についての課題も一部提言している。その部分はこうだ。
「『集団的自衛権を持つが、行使できない』との奇妙な政府の憲法解釈を理由に、日本が米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ」
この指摘には問題がある(※「日米同盟崩壊論」は5年半前に出された報告書をもとに、当時の安倍首相が述べた内容)。主張したい意図は理解できるが、「日米同盟が崩壊する」のは、現憲法のもとで集団自衛権を行使できるという憲法解釈が国民的合意を得たのちの話である。読売新聞が「奇妙」と呼ぼうが呼ぶまいが、憲法解釈上、集団的自衛権を行使できない現在、日本が米艦防護やミサイル迎撃を行えば、アメリカは喜ぶかもしれないが、日本政府は崩壊する。まず現行憲法下で集団的自衛権の行使を容認するべく国民的合意を得るか、「解釈改憲」はこれ以上無理ということになれば、極めてハードルの高い憲法改正を行うことが先決である。いきなり「奇妙な政府の憲法解釈」と決めつけ、自衛隊が「米艦防護やミサイル要撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」と主張するのはあまりにも論理が飛躍しすぎている。
米政府も日本政府の憲法解釈を理解しており、仮に読売新聞の社説氏が想定したような事態(日本が米艦防護やミサイル要撃を見送った)としても、それで日米同盟が崩壊するようなことはありえない。もちろんそのような事態が生じたら、米国内で「日本がアメリカのために血を流してくれないのに、なぜ我々だけが日本のために血を流さなければならないのか」といった片務的日米安保条約に対する国民感情の反発が生じるのは当然考えられる。しかし、残念ながら現在の日本人の国民感情は「二度と戦争に巻き込まれたくない」という方向に向いており、日本がアジアの平和と安全のためにどのような寄与ができるか、また責任を持つべきか、という議論ができる雰囲気ではない。日本というアジアの大国が、アジアの平和と安全を守るためにどのような責任を持ち、そして果たすべきかを国民レベルで議論できるのは、おそらく私たちの孫の世代まで待たなければならないかもしれない。
最後に産経新聞である。朝日新聞や読売新聞に1日遅れて発表したせいかもしれないが、論点のまとめ方も一番しっかりしており、主張も論理的かつ明確である。産経新聞はこう主張した。
「尖閣諸島に対する中国の力ずくの攻勢は、度重なる領海・領空侵犯に加え、海上自衛隊護衛艦への射撃管制用レーダー照射で深刻の度を増した」「首相が日米共同の抑止力強化を重視するのは当然といえる。課題は多いが、可能なものから早急に実現することが必要だ」「とりわけ核心的な課題は『保有するが行使できない』とされてきた集団的自衛権の行使容認だ」
「懇談会が新たな報告書をまとめるのは今夏の参院選前となる。集団的自衛権の行使容認の関連法となる国家安全保障基本法を早急に成立させるのは簡単ではない」「懇談会や政府内の議論を加速する一方、行使容認に慎重な公明党を説得し、憲法解釈の変更にいかに踏み切るかが問われる」「首相が『国民の生命と財産、領土・領海・領空を守る上でどう対応していくかをもう一度議論してもらう』と安保政策の総点検を求めていることにも注目したい」「政府が直ちに取り組むべき課題は、ほかにもある」「国連海洋法条約が『領海内の無害でない活動に対して必要な処置をとれる』と規定しているのに、日本が国内法で領海警備法を制定していないことはその一例だ。中国公船による主権侵害を排除できない状況が続き、個別的自衛権が不十分な点を示している」
産経新聞の社説には無駄が一切ない。問題点をわかりやすく整理し、主張も明確で説得力がある。
懇談会の報告は今夏の参院選前には出されるという。その報告に対し、安倍首相がどういう見解を表明するか、参院選での大きな争点になる可能性は高い。野党も日本という国の形を決めるきっかけになる問題だけに、党利党略であら探しをするのではなく、独立国としての日本の尊厳をどうやって守っていくか、という視点を与党と共有して議論を深めてもらいたい。
今回のブログは『社説読み比べ』の第1回目である。国民的関心度がそれほど高いとは思えないテーマをあえて取り上げたのは、平和ボケしている日本人に警鐘を鳴らす意図もあった。
安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二元駐米大使)が2月8日、5年半ぶりに再開され、今日的状況を踏まえて集団的自衛権についての論議を深めることになった。この懇談会の目的は、これまでの政府の憲法解釈(自国、すなわち日本への攻撃に対する自衛権は固有のものとして認められるが、同盟国といえども他国に対する攻撃に対して共同して軍事力を行使することは許されない)を改めるか、あるいは憲法を改正して公然と集団的自衛権を認めるようにするかの議論を行うことである。
これを受けて翌9日に社説で主張を述べたのは全国紙5紙のうち読売新聞と朝日新聞の2紙だけで、翌10日には産経新聞が主張(以下「社説」と記す)で述べただけだった。尖閣諸島問題をめぐり中国が軍事的挑発行動を繰り返し、北朝鮮が弾道ミサイルを発射し、さらに3回目の核実験を公言するなど、日本を取り巻く軍事的環境が緊張度を高めていく中で、なぜ日本経済新聞と毎日新聞がこの問題を社説で取り上げなかったのか理解に苦しむ。
そのことはさておいて、3紙の社説について論じる前提として、歴代政府が「集団的自衛権の行使は認めることができない」と解釈してきた日本国憲法第9条と、国連加盟国のすべてが集団的自衛権を有することを明文化した国連憲章第51条を転記しておこう。
[憲法第8条]
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段と
しては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
の交戦権は、これを認めない。
[国連憲章第51条]
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な処置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった処置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この処置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能および責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。(※国連憲章に限らず、英語で書かれた国際的文書の日本語訳の分かりにくさは何とかならないか、といつも思う。いっそのことスーパーコンピュータに自動翻訳させてみたらどうか、とさえ思う)
このように国連憲章は集団自衛権は国連加盟国の固有の権利として認めている。しかし、これまでは自民党政府も反自民党政府も、日本が集団的自衛権を行使することは憲法9条に違反するという解釈をとり続けてきた。この問題を論じる場合、論点を整理してから行わないと、平行線をたどるだけである。
まず、集団的自衛権が憲法9条に本当に違反しているのか、という問題である。違反しているという立場に立つと、そこから二つの議論が生じる。一つは違反しているから集団自衛権は認めるべきでないという主張。もう一つは、だから集団自衛権を行使できるよう憲法を改正しようという主張。
違反しているから集団自衛権は認めるべきではないという主張の代表的な日本共産党の考え方を、あくまで論理的に検証してみよう。同党の機関紙「しんぶん赤旗」はこう主張している(2001年5月17日付)。
小泉首相は、「日米が一緒に行動していて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが果たして本当にできるのか」といい、集団的自衛権の行使について検討していると表明しています。この発言に示されるように、集団的自衛権の行使とは、日本が外国から侵略や攻撃を受けた時の「自衛」の話ではなく、軍事同盟を結んでいる相手の国が戦争をするときに共同で戦争行為に参加することです。(中略)1999年、小淵内閣の時、憲法の戦争放棄の規定を踏みにじって、アメリカの軍事介入に自衛隊を参加させるガイドライン法=戦争法が作られました。しかし同法も憲法9条があるため、自衛隊の活動は「後方地域支援」に限るとされています。この制約を取り払い、自衛隊が海外で米軍と共同で武力行使ができるようにしたいというのが、今の集団的自衛権論の狙いであり、実際、この議論は、9条の明文改憲論と一体のものとして出されています。首相らの集団的自衛権発言の背景には、憲法上の制約を取り払って自衛隊が米軍の軍事力行使に共同で参加できるように集団的自衛権を採用すべきだというアメリカの圧力があります。これまでアメリカは、「自国の死活的な利益」を守るため、必要な場合、一方的な軍事力行使をすることを公式の戦略にし、99年のユーゴ空爆をはじめ、一方的な武力行使を繰り返してきました。集団的自衛権の行使は。無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同で参加するという危険な「集団的軍事介入」の道でしかありません。憲法の平和条項を葬り去るこのような企ては絶対に許せません。
かなり前の主張だが、この主張を変えていない以上、この主張について検証することにする。
日本共産党の主張には重大な論理のまやかしとすり替えがある。日本共産党が認めている小泉発言は「日米が一緒に行動していて、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが果たして本当にできるのか」というものであって、米軍が攻撃を受けた場合という限定条件のもとでの集団的自衛権について語っていることは明白である。
この小泉発言を援用して、日本共産党は、無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同で参加するという危険な集団的軍事介入の道、と極端な拡大解釈をしている。確かにアメリカは冷戦時代、共産勢力の拡大を防ぐため、「集団的自衛権」を口実に世界各地で戦争を行ってきた(その戦争を「侵略戦争」と位置付けるか否かは議論の分かれるところだが、例えばベトナム戦争などは腐敗して民心を失っていたゴ・ディン・ジェム大統領が支配していた南ベトナムを、ホー・チ・ミン率いる北ベトナムの侵攻から防ぐために軍事介入したようなケースも少なくなかった)。もっともソ連もハンガリー動乱やプラハの春を、やはり「集団的自衛権」を口実に戦車で踏みにじってきた。
第二次世界大戦以降、米ソが対立する冷戦時代が長く続いたが、ソ連も直接アメリカを攻撃しようなどという無謀な試みを考えたことなど一度もない。ゆいつ米ソが直接対決する危険性が生じたのはキューバ危機の時だけだが、米ケネディ大統領の米ソ戦争も辞さずという強硬姿勢の前に、フルシチョフ・ソ連が全面的に屈服してキューバにミサイル基地を建設しようという野望を放棄した事件もあった。
いまアメリカと軍事的衝突をも辞さず、という馬鹿げた姿勢を見せているのは北朝鮮だけだが、これは国内にくすぶる金一族による世襲独裁政治に対する国民の不満が爆発するのを防ぐために「仮想敵国」に対する国民の危機感をあおることによって国内の治安を維持しようという独裁政権の常套的な古典的手法にすぎず、アメリカも国際協調による経済的制裁などによって北朝鮮の無謀な挑発を阻止しようとはしているが、北朝鮮を軍事力で侵略しようなどとはまったく考えていないことは明々白々である。またたとえ、将来の米大統領が、目障りな北朝鮮の金独裁政権を崩壊させてしまえ、と馬鹿げた軍事行動に出たとしても、それは「同盟国のアメリカが攻撃を受けた場合」という条件に該当しないから、日本が「集団的自衛権」によってアメリカの馬鹿げた軍事行動に共同歩調をとることなどあり得ない。
現に、冷戦時にアメリカやソ連が自国の勢力圏における反体制活動を抑止するために「集団的自衛権」を口実に軍事介入した多くのケースは、現在では、国連憲章が認めている外国からの侵略行為に対するものではないため「集団的自衛権」の行使には相当しないという解釈が国際的に定着している。例えば、日本で共産勢力が拡大して民主主義政治が危うくなったとしても、アメリカは軍事介入できないというのが国際的な合意事項になっている。まして、アメリカが仮に無法な侵略戦争を起こしたとしても、日本がそれに加担する義務などまったく生じない。
むしろ現行の日米安保条約は、日本が他国から攻撃されたときはアメリカが日本を防衛する義務を負うが、日本はアメリカ防衛の義務を負わないという片務的条約になっており、アメリカ人の多くに「なぜアメリカのために血を流さない日本のために、アメリカだけが一方的に血を流さなければならないのか」という素朴な国民感情があることは否めない。そもそもそういう日本に対する侮蔑的感情が、沖縄などでの米軍兵士による婦女暴行の底辺に流れている対日感情の現れと言っても差し支えないほどである。
自国を外国からのいわれなき侵略から防衛するのはあらゆる国の固有の権利であり、また義務でもある。すでに日本の軍事力は、核攻撃を受けない限り、自衛隊の戦力だけで十分対抗できるだけの状況にある。また帝国主義(あるいは植民地主義)の時代と異なり、日本を植民地化しようなどと考える国はない。たとえばイラクのフセイン政権やアフガニスタンのタリバン勢力を攻撃したアメリカも、イラクやアフガニスタンを植民地化しようなどというばかげた発想はこれっぽっちも持っていない。そういう帝国主義的行動は、世界最大の軍事力を誇るアメリカでも、自由には行使できない時代が現在なのである。「集団的自衛権の行使は、無法なアメリカの侵略と武力干渉に日本が共同して参加するという危険な集団的軍事介入の道」という日本共産党の認識は、時代錯誤も甚だしいと言わなければならない。
政治勢力としてはほとんど無力といっても差し支えない日本共産党の主張の論理的破綻に、私がなぜこれだけのスペースを割く必要があったのかというと、共産党員あるいはシンパではなくても、事実上共産党の集団的自衛権解釈に毒されている人たちが日本にはまだ多数いるからである。例えば「憲法9条を守る会」などの市民団体の人たちもそうである。彼らは必ずしも共産主義者とは言えないが、「憲法9条があったから、戦後の日本は平和を守れた」と主張してはばからない。この主張も論理的には完全に破たんしているのだが、そのことに彼らは気づいていない。戦争体験・被爆体験を持たない若い人たちの間にも、日本人特有の遺伝子として刻み込まれている状況の中では、そうした考え方に同調する人たちが少なくないことも私は理解できる。
しかし、もう少し論理的に考えて見よう。独立国家はすべて自国の憲法を持っている。憲法は国の在り方を決める規範的制度であり、すべての法律や政治体制をはじめ国民生活に至るまで憲法の制約を受けている。だが、この制約は国内のみに適用される制約であって、外国の行動を縛る制約ではない。この論理は小学生でも理解できるはずである。
では「永世中立」を国際社会に向かって宣言しているスイスについて検証してみよう。スイスは1815年、当時の国際会議のウィーン会議で永世中立が承認され、今日に至るまで他国からの侵略を受けていない。しかしこの「永世中立」宣言が他国からの侵略を防いできたわけではない。他国からの侵略を防ぎ、自国の平和を守るためにスイスは並々ならぬ努力を重ねてきた。その最たるものは独自の国民皆兵制にある。「民兵組織による国民総武装制」とも言われている。具体的には国民皆徴兵制が原則で、すべての国民(障碍者は除く)は基礎訓練を受けたのちは一般市民として生活するが、定年(兵役終了年齢)になるまで定期的な再訓練を受ける。定年を迎えるまでは武器や戦闘装備は国民が個々人で管理しなければならない。そして万一他国から侵略された場合、兵役適用年齢の国民は一切兵役から逃れることはできない。つまり敗戦直前の日本の「全国民竹槍武装」のような防衛体制をとってきたのである。もっとも最近は国民皆兵制は金がかかりすぎる、また国際情勢の変化によって無法な侵略を受けるリスクが軽減したという理由で民兵制から通常の軍隊制に比重を移しつつある。
ではスイス以外の「永世中立」宣言した国の運命はどうだったか。ベルギーとルクセンブルグの例を見てみよう。両国ともスイスのように永世中立を宣言していたが、第一次世界大戦でドイツの侵攻を受け、ベルギーは国土の大半を占領されながらも国民が抵抗を続けて何とか凌いだが、ルクセンブルグは全土が占領された。この時はドイツの敗戦により独立をいったん回復したが、1940年にはナチス・ドイツにより両国とも占領された。日本の憲法9条が日本の平和を守って来たという屁理屈は真っ赤な嘘にすぎないということがお分かりだろう。日本という国が勝手に作った(アメリカに押し付けられたという説については後述する)憲法をどの国が尊重してくれるというのか。
日本が戦後、他国からの侵略を受けなかったのは、簡単に侵略戦争ができなくなったという国際情勢の変化と、アメリカの核の傘で守られてきたという二つの要因によるというのが、日本が平和を維持できた正確な理由である。
日本がアメリカの核の傘で守られてきたというのは、独立国にとっては最大の弱みでもあった。そして憲法9条で日本の再軍備を事実上不可能にしたため、アメリカの占領下時代は日本防衛の任に米軍が当たってきた。だからサンフランシスコ条約によって日本の独立が国際社会から承認されたのちも、アメリカは日本の安全を自らの責任で守ることを約束する必要が生じ、日米安全保障条約を締結したのである。
もう一度憲法9条の第2項を読んでほしい。こう書いてあるではないか。
「前項(国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」
この中(第1項)で「国際紛争を解決する手段としては」という条件はなぜつけられたのか。国内における治安維持ための警察組織や共産勢力によるクーデターを防ぐための最小限の軍事力は除く、ということを意味しているのである。
第1次世界大戦の戦後処理の中で、戦勝国側は敗戦国ドイツに対し過酷な賠償責任を負わせた。それがドイツでナチスの台頭を招き、第2次世界大戦を引き起こす要因の一つになったという反省から、第2次世界大戦の戦後処理で連合国側は敗戦国の枢軸3国(日本・ドイツ・イタリア)に対し、過酷な賠償請求は行わないことにした。その代り国の尊厳を奪う方法で、敗戦国が二度と大国になれないような手段を講じたのである。
その手段の一つが、日本の場合、憲法9条の制定であった。独立が国際社会からまだ認められていなかった占領下においては軍事力の解体はやむを得ないとしても、それだけでなく近い将来の独立を前提にして、憲法改定が極めて困難になる条件を憲法の中に盛り込んだのである。具体的には憲法96条で①両議院において総議員(出席議員)の三分の二以上の賛成によって国会が憲法改正を発議し、②国民投票の結果、有効投票の二分の一以上の賛成によってのみ憲法の改正ができる、という極めて高いハードルを設定したのである。こうして事実上日本を丸裸の無防備状態にするという、損害賠償に代わる報復的意味合いが濃厚な憲法をGHQは制定したのである。GHQが日本に押し付けたのは憲法9条というより、憲法96条によって、憲法改正に極めて高いハードルを設定したことのほうが大きな意味を持ったと言ってもよいだろう。
いわゆる「平和主義者」は、憲法9条を世界に例を見ない「平和憲法」と高く評価しているが、憲法9条を平和憲法と解釈しているのは日本の「平和主義者」だけで、世界中どの国も日本の憲法9条を「平和憲法」などという評価はしていない。当然、戦後の日本が平和状態を維持できたのは、憲法9条があったからではない。
しかし戦後、急速に勢力を拡大していった共産勢力の脅威に欧米戦勝国は直面することになった。アメリカが日本の再軍備化を容認、というより日本政府に働きかけて憲法9条の骨抜き化を図りだしたのは、日本を防共ラインのかなめにするためであったことは否定できない。
日本が自衛隊という名の、事実上憲法違反の「陸海空軍その他の戦力」を保有する「解釈改憲」はこうして始まり、今問題になっているのは集団的自衛権について、憲法を改正しない限り無理だという従来の説と、いやまだ解釈改憲で集団的自衛権を固有の自衛手段として認めることができるという説に分かれており、その両論の決着をそろそろつけなければならないという判断に至ったのが、安倍総理が私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(以下、懇談会と記す)を5年半ぶりに再開させた最大の理由である。もちろん、その背景にはすでに核を保有し、少なくとも日本全土を射程距離に入れる弾道ミサイルを開発した北朝鮮の軍事的脅威に対する備えや、日本の固有の領土である尖閣諸島をめぐる中国の軍事的挑発に対する備えを万全なものにしたいという、安倍総理の執念ともいうべき政治姿勢がある。そうした位置づけを前提にして、すでに社説で基本的主張を明らかにした3紙を読み比べてみよう。
まず朝日新聞。『首相は何をしたいのか』というタイトルからも読み取れるように批判的主張を展開している。まず、現行憲法について「平和憲法」と位置付けていることからして、朝日新聞のスタンスが透けて見える。同紙社説はこう主張する。
「(集団自衛権に道を開くこと)によって日米同盟を強化するのだと安倍首相は言う」「では、日米同盟をどう変えたいのか。平和憲法の原則をなし崩しにすることはないか。議論の出発に当たり、首相はそのことをまず明確にすべきだ」
そんなことは自明だろう。朝日新聞は北朝鮮の軍事的脅威をまったく感じていないのか。だとしたら、「鈍感」を通り越した無感覚としか言いようがない。
朝日新聞はこうも言う。
「日本は戦後、憲法の制約のもと、自衛のための必要最小限の武力行使しか許されないとの立場をとってきた」「日本が直接攻撃されていないのに米国を守るのはこの一線を越え、憲法違反だというのがこれまでの政府の解釈である」
これまでは、確かにそうだった。北朝鮮が核や弾道ミサイルを持つまでは。朝日新聞も安倍総理が懇談会を再開するに至った日本を取り巻く軍事的環境の変化は認めている。
「東アジア情勢は大きく動いている。日米協力のあり方も、状況にあわせて変える必要はあるだろう。だからといって、なぜ集団的自衛権なのか」「自民党は、その行使を幅広く認める国家安全保障基本法の制定をめざしている」「これによって、憲法が求める『必要最小限の自衛』という原則や、それを具体化するために積み上げてきた数々の歯止めを一気に取り払おうとしているのではないか」「だとすれば、かえって国益を失うだけである」
では、朝日新聞に聞きたい。解釈改憲で行くか、あるいは憲法を改正するかの議論は別としても、集団的自衛権を持つと、なぜ国益が失われるのか。集団的自衛権を日本が持つと、「平和憲法の原則がなし崩しになる」からか。朝日新聞は「平和憲法があれば、北朝鮮の核や弾道ミサイル、恐るるに足らず」という理論的根拠をまず明らかにすべきだろう。「平和憲法」の条文を守ることと、日本が現に直面している北朝鮮や中国の軍事的脅威に対する抑止力として日米同盟をより強固なものにするために集団的自衛権を確立することと、どちらが大事か、よーく考えてほしい。
次に読売新聞。社説のタイトルは『集団自衛権 安全保障体制を総点検したい』である。この問題についての発想の原点は私と近い。同紙の書き出しはこうだ。
「安全保障政策の立案では、『現行の憲法や法律で何ができるか』にとらわれるだけでなく、『何をなすべきか』を優先する発想が肝要だ」
この書き出しで多少気になるのは、「とらわれるだけでなく」という表現である。おそらく社説氏自身が悩んだと思うが、私なら「とらわれるのではなく」と言い切ってしまう。確かに「とらわれるのではなく」と言い切ってしまうと、「では現行の憲法や法律をハナから無視していいのか」という反発が生じるだろう。たとえそうであっても、私は無理に無理を重ねてきた「解釈改憲」にそろそろ見切りをつけないと、いつまでたっても真の独立国家としての尊厳を回復することができないと思うからである。法を順守する精神は大切だが、条文の解釈を変えてさらに無理を重ねることは、かえって国家の尊厳を損なうのではないか。
ちょっと気になった表現はともかく、読売新聞の主張にはおおむね同意できる。ただ読売新聞は5年半前に提出された報告書を前提に論じている。これから再開される懇談会は、第1次安倍内閣時代に作られた報告書の内容を踏まえ、当時とは激変した軍事的環境下における日本の安全保障体制の再構築がテーマになる。したがって、5年半前の報告書を踏まえながら、今日的課題を明確にし、集団的自衛権の中身をどう具体化すべきかを提言してほしかった。今さら過去に提出された報告書を再評価しても、あまり意味を持たないと言わざるを得ない。もちろん、読売新聞も再構築についての課題も一部提言している。その部分はこうだ。
「『集団的自衛権を持つが、行使できない』との奇妙な政府の憲法解釈を理由に、日本が米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ」
この指摘には問題がある(※「日米同盟崩壊論」は5年半前に出された報告書をもとに、当時の安倍首相が述べた内容)。主張したい意図は理解できるが、「日米同盟が崩壊する」のは、現憲法のもとで集団自衛権を行使できるという憲法解釈が国民的合意を得たのちの話である。読売新聞が「奇妙」と呼ぼうが呼ぶまいが、憲法解釈上、集団的自衛権を行使できない現在、日本が米艦防護やミサイル迎撃を行えば、アメリカは喜ぶかもしれないが、日本政府は崩壊する。まず現行憲法下で集団的自衛権の行使を容認するべく国民的合意を得るか、「解釈改憲」はこれ以上無理ということになれば、極めてハードルの高い憲法改正を行うことが先決である。いきなり「奇妙な政府の憲法解釈」と決めつけ、自衛隊が「米艦防護やミサイル要撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」と主張するのはあまりにも論理が飛躍しすぎている。
米政府も日本政府の憲法解釈を理解しており、仮に読売新聞の社説氏が想定したような事態(日本が米艦防護やミサイル要撃を見送った)としても、それで日米同盟が崩壊するようなことはありえない。もちろんそのような事態が生じたら、米国内で「日本がアメリカのために血を流してくれないのに、なぜ我々だけが日本のために血を流さなければならないのか」といった片務的日米安保条約に対する国民感情の反発が生じるのは当然考えられる。しかし、残念ながら現在の日本人の国民感情は「二度と戦争に巻き込まれたくない」という方向に向いており、日本がアジアの平和と安全のためにどのような寄与ができるか、また責任を持つべきか、という議論ができる雰囲気ではない。日本というアジアの大国が、アジアの平和と安全を守るためにどのような責任を持ち、そして果たすべきかを国民レベルで議論できるのは、おそらく私たちの孫の世代まで待たなければならないかもしれない。
最後に産経新聞である。朝日新聞や読売新聞に1日遅れて発表したせいかもしれないが、論点のまとめ方も一番しっかりしており、主張も論理的かつ明確である。産経新聞はこう主張した。
「尖閣諸島に対する中国の力ずくの攻勢は、度重なる領海・領空侵犯に加え、海上自衛隊護衛艦への射撃管制用レーダー照射で深刻の度を増した」「首相が日米共同の抑止力強化を重視するのは当然といえる。課題は多いが、可能なものから早急に実現することが必要だ」「とりわけ核心的な課題は『保有するが行使できない』とされてきた集団的自衛権の行使容認だ」
「懇談会が新たな報告書をまとめるのは今夏の参院選前となる。集団的自衛権の行使容認の関連法となる国家安全保障基本法を早急に成立させるのは簡単ではない」「懇談会や政府内の議論を加速する一方、行使容認に慎重な公明党を説得し、憲法解釈の変更にいかに踏み切るかが問われる」「首相が『国民の生命と財産、領土・領海・領空を守る上でどう対応していくかをもう一度議論してもらう』と安保政策の総点検を求めていることにも注目したい」「政府が直ちに取り組むべき課題は、ほかにもある」「国連海洋法条約が『領海内の無害でない活動に対して必要な処置をとれる』と規定しているのに、日本が国内法で領海警備法を制定していないことはその一例だ。中国公船による主権侵害を排除できない状況が続き、個別的自衛権が不十分な点を示している」
産経新聞の社説には無駄が一切ない。問題点をわかりやすく整理し、主張も明確で説得力がある。
懇談会の報告は今夏の参院選前には出されるという。その報告に対し、安倍首相がどういう見解を表明するか、参院選での大きな争点になる可能性は高い。野党も日本という国の形を決めるきっかけになる問題だけに、党利党略であら探しをするのではなく、独立国としての日本の尊厳をどうやって守っていくか、という視点を与党と共有して議論を深めてもらいたい。
今回のブログは『社説読み比べ』の第1回目である。国民的関心度がそれほど高いとは思えないテーマをあえて取り上げたのは、平和ボケしている日本人に警鐘を鳴らす意図もあった。