小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

社説読み比べ(2) 読売新聞社説は剽窃だった 日本経済新聞社説は日本への警戒心をあおるだけだ

2013-02-18 07:31:22 | Weblog
 日本経済新聞が17日になってようやく集団的自衛権問題についての社説を発表した。これで全国紙のうちまだ集団自衛権問題についての社説を発表していないのは毎日新聞だけとなった。毎日新聞はなぜ自社の主張を表明しようとしないのか。一般的には全国紙5紙の中で最も左翼的と見られてきただけに、集団的自衛権問題についての議論をまとまり切れていないのだろうか。だとしたら、TPP交渉については一般の予想に反して『参加を決断する時だ』と題する社説を15日には発表している。なぜ毎日新聞が集団的自衛権問題について社内をまとめ切れないのか疑問を禁じ得ない。
 それはともかく、日本経済新聞の社説に対する論評を加える前に、読売新聞社説氏の「剽窃(ひょうせつ)」問題について指摘しておきたい。
 私は『社説読み比べ(1)』で集団自衛権問題について主張した3紙について論評した。その中で、私は読売新聞社説の一部を引用した個所に注釈(※の部分)を加えた。まず読売新聞の社説を再度転記する。

「集団的自衛権を持つが、行使できない」との奇妙な憲法解釈を理由に、日本が米韓防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ。

 この文章は形式上も、誰かの主張を引用したり、解説したものではなく、明らかに読売新聞社説氏による地の文である。私はこう批判した。

 この指摘には問題がある(※「日米同盟崩壊論」は5年半前に出された報告書をもとに、当時の安倍首相が述べた内容)。主張したい意図は理解できるが、「日米同盟が崩壊する」のは現憲法のもとで集団的自衛権を行使できるという憲法解釈が国民的合意を得たのちの話である。読売新聞が「奇妙」と呼ぼうが呼ぶまいが、憲法解釈上。集団的自衛権を行使できない現在、日本が米艦防護やミサイル迎撃を行えば。アメリカは喜ぶかもしれないが、日本政府は崩壊する。まず現行憲法下で集団的自衛権の行使を容認するべく国民的合意を得るか、「解釈改憲」はこれ以上無理ということになれば、極めてハードルが高い憲法改正を行うことが必要となる。ハナから「奇妙な憲法解釈」と決めつけ、自衛隊が「米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する」と主張するのはあまりにも論理が飛躍しすぎている。
 
 実はこのくだりで私がさりげなく読売新聞社説の内容に注釈を加えた部分が、「剽窃」に当たることがはっきりしたのだ。
 私がブログを投稿したのが2月11日の早朝(正確には午前5時50分)。このブログで取り上げた社説は9日付の朝日新聞、読売新聞と10日付の産経新聞の3紙である。事実上ブログの原稿を書き上げたのは10日の夕方。翌朝誤変換のチェックなど推敲したうえで投稿した。読売新聞の社説の表記について剽窃ではないかとの疑問は持ったが、確認する時間的余裕がなく、※印で注釈をつけるにとどめた。
 その後、重複記述になると思って、このブログでは書かなかったが、産経新聞が社説で安倍首相の、かつて「日米同盟崩壊論」を紹介しており、その内容が事実であることが自民党などへの問い合わせで明らかになった。産経新聞は社説でこう述べている。

 懇談会が平成20年にまとめた報告書は集団的自衛権の行使を容認すべき4類型を例示した。中でも「公海上での自衛隊艦船による米艦船防護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は、首相も「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と重視する。

 産経新聞の社説氏は平成20年に発表された集団的自衛権行使を容認すべきとした4類型のうちの二つについて、特に安倍首相が重要視したケースを紹介している。つまり、この文章は地の文ではなく、安倍首相の集団的自衛権についてに当時の発言を紹介したものである。
 一方読売新聞の社説氏は、安倍首相の発言要旨として「日米同盟崩壊」論を記述してはいない。明らかに社説氏が自らの主張として記述した地の文である。社説氏の「前後の脈絡の中で読んでほしい」という言い訳を完全に封じるため、この文章の前文を転載する(後文は社説氏が書いた問題の文章とは関係がないので転載しない)。

 第1次安倍内閣が設置した懇談会は、首相退陣後の2008年6月に報告書をまとめたが、具体化されなかった。安倍首相にとっては今回が「再チャレンジ」だ。
 日本の安全確保に画期的な意義を持つ報告書であり、本格的な法整備につなげてもらいたい。
 報告書は、共同訓練中の米軍艦船が攻撃された際や、米国へ弾道ミサイルが発射された際、日本が集団的自衛権を行使し、反撃・迎撃を可能にするよう求めた。
 国際平和活動では、近くの他国軍が攻撃された際の「駆けつけ警護」を自衛隊が行えるようにする。「武力行使と一体化する」他国軍への後方支援は憲法違反とする政府解釈も見直すとしている。(※ここまでは2008年6月の懇談会報告書の要約と、多少意見を加えたことを明らかにしており、問題はない。問題はこの報告書を受けて社説氏が書いた次の地の文にある)
「集団的自衛権を持つが、行使できない」との奇妙な政府の憲法解釈を理由に、日本が米艦防護やミサイル迎撃を見送れば、日米同盟は崩壊する。国際平和活動で自衛隊だけが過剰に法的制約を受ける現状も早急に改善すべきだ。

 産経新聞の社説は安倍首相の発言として、繰り返しになるが、こう紹介している。

「公海上での自衛隊艦船による米艦船防護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」は、首相も「もし日本が助けなければ同盟はその瞬間に終わる」と重視する。
 
 もう誰の目にも読売新聞社説氏が安倍首相の発言を剽窃したことが明らかになったであろう。社説は、どの新聞でも論説委員という記者集団のトップクラスが、各自が記者時代に担当してきた専門分野に応じて書く。社説氏は、「公海上での」とか「米国に向かう弾道」という表現を省略し、「その瞬間に終わる」という安倍首相の発言を「崩壊する」と言い換えることによって、あたかも自らの主張であるかのように言いつくろっているが、このような手法は記者として最も恥ずべき破廉恥な剽窃行為である。読売新聞の論説委員の国語能力についてはこれまでもさんざん指摘してきたが、これはもはや国語能力の問題ではない。はっきり言えば懲戒解雇に相当する行為である。またこのような剽窃行為を見逃した論説委員室責任者の責任も免れ得まい。
 週刊朝日の連載企画『橋下 奴の本性』で朝日出版の社長や週刊朝日編集長の首が飛び、著者で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した佐野眞一氏はおそらくノンフィクション作家として再起することは不可能と考えられている状況をかんがみれば、読売新聞が行うべき処分と、社説氏や論説委員室責任者が自ら取るべき責任はおのずと明らかであろう。

 さて読売新聞社説氏の剽窃問題はこの辺で終え、日本経済新聞の集団的自衛権についての社説を考察する。
 集団的自衛権についての説明は、他紙の説明に比べ(というより、他紙は集団的自衛権について中学生にも理解できるようなやさしい解説をしていない)、まず集団的自衛権について非常にわかりやすい説明から始めた。そうした書き出しには好感が持てる。その部分を引用しよう。

 集団的自衛権とは、日本の同盟国などが攻撃された時、たとえ日本が直接攻撃されていなくても自国への武力行使とみなし、反撃する権利である。

 これ以上簡潔で分かりやすい説明はないといえよう。ただ引っかかる個所が一か所だけある。「同盟国が」ではなく「同盟国などが」と記述された箇所である。「同盟国」といえば、現在は安全保障条約を締結しているアメリカだけが対象になる。現に安倍首相も集団自衛権行使のケースとして想定しているのは「公海上での自衛隊艦船による米艦船防護」や「米国に向かう弾道ミサイルの迎撃」などである。なぜ日本経済新聞社説氏は、「同盟国」に「など」という複数を意味する言葉を付け加えたのか。
 実は、日本経済新聞社説が「など」と複数化を意味する表記をした理由は、そのあとに述べられている。他紙の社説と大きく一線を画する重要な主張である。その個所を転記する。

 日本の周辺では、さまざまな安全保障上の火種がくすぶっている。北朝鮮は核とミサイルの開発を加速し、挑発を強めている。尖閣諸島への中国の姿勢も止まる気配がない。
 これらの危機に対応するため、日本は米国や他の友好国との安保協力を強めなければならない。集団的自衛権についても、行使に道を開くときだ。

 私個人としては同感を表したい。だが、日本は「あの戦争」による重い荷物を今も負い続けている。その荷の重さは日本経済新聞社説氏が考えている以上に重たいものがある。
 日本もアジアの大国としてアジアの平和と経済的繁栄、アジアの発展途上国へのあらゆる援助を通じて、アジア諸国に残る貧困層の撲滅や民主主義の定着なども含めた貢献活動をすべきことは疑いを入れない。
 だが、日本がアジアのために何かしようとしても、必ずしもアジア諸国のすべてから善意を持って受け止められるとは限らない。というより、やることなすこと警戒心を持って受け止められるケースがいまだ後を絶たないのが現実である。そういう状況の中で、安全保障体制をアメリカ以外の他の友好国との間にも確立し、その安全保障体制の中で集団的自衛権行使への道を開くべきだという主張が、アジア諸国から、たとえ友好国からであっても善意を持って迎えられるとは到底考えられない。日本経済新聞が望むような時代がいずれくるだろうことは私も大きな期待を持って望んでいるが、そういう時代が来るのは早くても私たちの孫の世代だろう。私たちの孫の世代にそういう日本が実現できるよう、道しるべを用意するのが私たち世代の責任だと思う。
 そういう意味で、いま私たちの世代が実現すべきは、日米安保条約を片務的条約から双務的条約に変えることが最優先されるべきではないか。
 私も日本経済新聞社説に倣って、中学生にも理解できるように現在の日米安全保障条約の問題点を明らかにしておこう。
 まず「片務的」というのは、アメリカだけが日本を防衛する義務を負い、日本は同盟国のアメリカを防衛する義務を負わないという意味である。
 それに対して「双務的」というのは同盟国同士が互いに相手を防衛する義務と責任を分かち合うという意味である。日米間で言えば、アメリカが日本防衛の義務を負うと同時に日本もアメリカ防衛の義務を負うということである。二国間の安全保障体制の在り方としては当たり前すぎるほど当たり前の話だ。
 しかし、現在の日米安全保障関係は、その当たり前の関係にない。アメリカだけが日本防衛の義務を負い、一方日本はアメリカが攻撃されても知らん顔をしていてもいい、という関係なのだ。
 そういう関係が永続的に続くという保証は全くない。今は、アメリカにとっても片務的な安保条約のほうが自国の利益にかなっているから、日本に対し「安保条約を双務的なものにすべきだ」という要求はしてこないが、アメリカが自国の安全性に不安を抱くような事態が生じたら、間違いなく日本に安保条約を双務的なものに改定することを要求してくる。
 ではアメリカにとって、片務的な日米安保条約が現時点では自国の利益にかなっているという理由を、これまた中学生にでもわかるようにやさしく説明しておこう。
 現在日本の米軍専用基地の74%は沖縄に偏在している。首都圏にも基地はあるが、米軍専用基地はキャンプ朝霞(埼玉)だけで、木更津飛行場(千葉)、横田飛行場(東京)、厚木海軍飛行場・キャンプ座間・横須賀海軍施設(以上神奈川)の5基地は自衛隊との共用施設である。首都・東京を防衛すべき6基地に配備されている陸上戦力はほぼ皆無で、事実上空軍・海軍基地化しているのが現状である。
 ではなぜ米軍は沖縄に基地を偏在させているのか。そこにアメリカの極東戦略が透けて見える。中学生にでも理解できることだが、沖縄方面から日本を侵略する可能性がある国は皆無である。日本にとっての現時点での軍事的脅威の対象は①北朝鮮②中国③ロシアくらいで、この3国が仮に日本を侵略しようとしたとしても、わざわざ沖縄を経由する必要性は皆無である。それにこれらの国が沖縄を占領したところで得るものは何もない。
 ではなぜアメリカは沖縄に専用基地の74%も集中しているのか。その目的は沖縄・韓国・フィリピン・グアムを結ぶ東南海の制海・制空権を堅持することにあるのだ。はっきり言えば日本を防衛するための基地ではなく、アメリカの制海・制空権を守るための基地なのである。だからアメリカにとっては日本が集団的自衛権を行使できるように憲法解釈を変えたり、あるいは憲法そのものを改正して集団的自衛権の行使を固有の権利として確保して、日米安保条約を双務的なものに変えようとすると、沖縄に米軍基地を偏在させる理由がなくなり、かえって困るのはアメリカなのだ。
 所詮、日本もアメリカも、国家としてはエゴ原理の上で外交・軍事・経済etcの諸関係を結び、双方が妥協点を探りあいながら「友好関係」を維持しているのである。日米同盟が永遠に続くなどと考えるのは愚の骨頂である。
 だからと言って、私は日米同盟を軽視せよなどと主張しているわけではない。少なくとも現時点においてアメリカは日本にとって最大の友好国であり、かつ唯一の同盟国である。アメリカとの友好関係を損なうようなことは厳として慎むべきだと考えている。ただ現在のアメリカとの友好関係が永続的に続くという保証は何もないことを日本人は理解しておくべきだということである。そのうえで日本は日本の国益のために日米同盟をどう継続・発展させていくべきかを考えるべきで、集団的自衛権問題を論じる場合も、日本の国益とアメリカの極東戦略とのバランスをどうとるかを抜きに語っても意味がないのである。
 ちなみにアメリカ政府も日本の憲法上の制約は百も承知している。だから日本に対して過剰な双務的関係を求めたりはしていない。だが、個々のアメリカ人はアメリカ政府と同じような理解をしてくれているわけではない。むしろ「アメリカのために血を流そうとしない日本のために、なぜ我々だけが血を流さなければならないのか」と考えても不思議ではない。むしろ人間の心理としてそう考えるほうが自然であろう。沖縄で米兵がしばしば起こす犯罪行為の心理的背景には、そういった米兵の個人的心理が働いていると考えたほうがいい。
 実際、双務的な関係を結んでいる他の国の米軍基地に配属されている米兵が、沖縄のような事件を頻繁に起こしているだろうか。日本も同盟国アメリカが攻撃された時は、自ら血を流してアメリカを守るという姿勢を明らかにすれば、沖縄の米軍基地に配属されている米兵も日本の尊厳を冒すような行為には出ないであろう。集団的自衛権問題を考える場合、そういった米兵の人間としての自然な心理に対する作用も考慮のうちに入れる必要がある。
 東京大学法学部教授で憲法学者として有名な長谷部恭男(やすお)氏はこう語っている(朝日新聞2月14日付朝刊)。

 日本国憲法はアメリカの贈り物である。日本の憲法原理はアメリカのそれと等しい。個人を尊重し、多様で相対立する世界観・価値観の存在を認め、その公平な共存を目指す立憲主義の憲法原理である。

 この指摘に異存があるわけではないが、アメリカがなぜそうした憲法原理を作る必要があったのかについて、長谷部氏はご存じないようだ。あるいはお忘れなのかもしれない。
 アメリカが「人種のるつぼ」「多民族国家」という事実は誰でも知っている。そういう国が軍事力という暴力によらず、星条旗のもとに一つの国民として、ことあるときには一致団結した行動をとれるようにするためには、特定の人種・民族の宗教・価値観・文化的伝統・歴史認識(あるいは歴史観)などを国家原理として他の人種・民族に押し付けることを防ぐ方法を国の社会的規範として確立することが絶対的な条件になる。アメリカを建国したアングロサクソン族が、自分たちの民族原理を国の社会的規範として他民族に押し付けていたら、アメリカという国は今存在していなかったであろう。
 その大元はイギリスからの独立戦争にあった。長谷部氏は南北戦争にアメリカの憲法原理の原点を見ているようだが、アメリカ歴史についての不勉強のそしりを免れえないだろう。アメリカ独立戦争について詳しく述べる必要はないが、この戦争でアメリカ軍にとってショックだったのは、先住民のインディアンがイギリス側についたことだった。またアフリカ系奴隷黒人の多くもイギリス側でアングロサクソン族を中心としたアメリカ軍に反旗を翻した。
 しかしカナダを勢力圏においていたフランス軍がアメリカ独立軍側につき、さらにスペイン、オランダもアメリカ側についた結果、当初は軍事力で圧倒的に劣勢だったアメリカが8年半の長きにわたる戦争で最終的に勝利を収め、初代大統領になったジョージ・ワシントンが『独立宣言』を発表した。ワシントンは独立戦争を通じ、自国民(インディアンや黒人)の多くがイギリス側についたことから、自国民が一つにまとまるための社会的規範としての国家原理を確立する必要性を強く感じた。それが『独立宣言』における有名な言葉「すべての人間は平等に造られている」と、不可侵の自然権として「生命・自由・幸福の追求」を宣言したことであった。
 この『独立宣言』は福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭でも紹介され、さらに現憲法第13条にも「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由、及び幸福の追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」という条文に引き継がれている。
 長谷部氏は朝日新聞への寄稿文『米と同じ憲法原理 あえてなぜ変える それで何をするのか』と題して。先述した日米共通の憲法原理を冒頭に持ち出したが、この憲法原理を変えようなどと考えている人は誰もいない。アメリカ独立宣言に端を発した国民の権利は、今や自由世界共通の社会的規範として確立しており、不可侵な普遍的原理としてだれも否定したりしていない。
 だが、長谷部氏はこの憲法原理の延長上で集団的自衛権問題を論じている。しかもこの論文のタイトルにもあるように、集団的自衛権行使は憲法原理の変更にあたると主張する。そう論じるのは勝手だが、それなら、集団的自衛権行使がなぜ憲法原理に違反するのかを論理的に説明していただかないと、「はい、そうですか」と簡単に納得するわけにはいかない。長谷部氏の主張に少し耳を傾けてみよう。

 自民党が最近用意した改憲草案を見ると、9条を改正して「国防軍」とする一方、その出動について国会の事前の同意を憲法原則としてはおらず、具体の制度は法律に委ねることとされている。(中略)
 憲法による政府の権限抑制は、手続きではなく内容面でなされることもある。日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であり、集団的自衛権は認められないとされてきた。国際上認められている権利を自国の憲法で否定するのは背理だと言われることもあるが、これは背理ではない。(※その理由を長谷部氏は説明していない)
 
 ここで長谷部氏の主張の矛盾点を一つだけ指摘しておくが、日本国憲法9条は、国の自衛権も否定しているという厳然たる事実である。9条を指して「平和憲法」と勝手に解釈している日本人は少なくないが、少なくとも国際的に日本の憲法を「平和憲法」と認めている国は一つもない。なぜなら憲法9条第2項は「(戦争放棄を定めた)前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と軍隊の保持も禁じている。実際、吉田茂首相は国会答弁で「自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した」と述べている。これが憲法9条の真の目的であって、軍隊である自衛隊の存在そのものがすでに憲法に違反しているのである。
 戦後、GHQがなぜ、そんな憲法を日本に押し付けたかというと、前回のブログでも書いたように、戦後賠償を放棄する代償として日本を永久に軍事的無力国家にしてしまえ、という日本に対する制裁目的で作った憲法だったからだ。だから、憲法改定にめちゃくちゃ高いハードルを設けたのである。長谷部氏は、「日本国憲法9条の下では、国に自衛権はあるものの、それは個別的自衛権であり、集団的自衛権は認められないとされてきた」と、従来の憲法解釈の変更は認めながら、新たな解釈改憲は認められないとする論理的根拠を明らかにしていない。
 実際、中国で毛沢東率いる共産軍が勝利し、朝鮮が南北に分断され、ソ連を中心とする共産勢力の南下作戦に直面しなければ、アメリカが日本に「自衛のための軍隊まで憲法で禁止していない」と自衛隊創設を日本に働きかけたりしていなかっただろう。
 アメリカの憲法も日本と同様硬性(硬直的という意味)とされているが、それはアメリカの憲法が原理的な要素にとどめ、かつ個別的要素については解釈の幅を大きくしているため世界環境の変化に応じて憲法をその都度いじる必要がないためである。憲法で個別的要素まで細かく定めている国もあるが、そういう国は改憲のハードルを低くして(軟性)、容易に憲法改正ができるようにしている。自民党はこれまで何度も解釈改憲で、事実上憲法9条を骨抜きにせざるを得なかった経緯にかんがみ、憲法改正のハードルも低くしようとしている。
 憲法そのものは硬性を維持しながら、憲法改定の必要性を少なくするよう憲法の条文を原理的要素にとどめ、また憲法で規定する個別的要素は解釈の幅をはじめから広げておくか、あるいは改憲のハードルを低くして個別的要素も細部にわたって定めるようにするか(軟性)、それこそ国民的議論をあまねく巻き起こすべき時期かもしれない。
 憲法9条だけがクローズアップされがちな今日だが、憲法の在り方という本質的議論を避けて、集団的自衛権問題だけを論じても、日本経済新聞のような集団的自衛権の超拡大解釈も出てくることを考えると(私は先述したように、現時点では非現実的だが、孫の世代まで考えて議論を重ねておくことまで否定しているわけではない)、やはり憲法の在り方という原理原則を国民的同意を得て確立することが喫緊の課題ではないかと思う。
 今回で集団的自衛権問題についての私論はほぼ語りつくしたと思う。毎日新聞が想定外の社説を書けば、再び論じることもありうるが、想定内の主張であったら無視することにする。またまた長文のブログになってしまったが、読者にはご容赦願いたい。