小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

集団的自衛権――読売新聞にはジャーナリズムとしての良心のひとかけらもないことが分かった

2013-08-03 17:07:23 | Weblog
 7月23日(火)、読売新聞がとんでもない社説を書いた。「安倍政権の課題」として国力の向上へ経済に集中すべきだという主張が主で、おおむね同感できる内容だ。
 問題はこの社説の末尾に「集団的自衛権を見直せ」という見出しで付け足した個所である。短い文章なのでその主張を全文転記する。

「政府が、長年の懸案である集団的自衛権行使に関する憲法解釈の変更に取り組むのは当然だ。日米同盟の強化にもつながる。
 政府の有識者会議は、10月前半にも新たな報告書をまとめ、集団的自衛権の行使を可能にするよう提言する。政府はこれを受け、解釈変更を進めるべきだ。
 国家安全保障会議(日本版NSC)創設や、米軍普天間飛行場の辺野古移設の推進、新たな防衛大綱の策定と合わせ、安全保障体制を強化しなければならない。
 次の国政選挙までは最大3年ある。首相は経済政策とともに外交・安保の課題も段階を踏んで進めていくことが肝要だ」

「政府の有識者会議」は、政府の方針を決めるに当たって、権威あると認められる民間の専門家などに意見を集約してもらうために開催される。当然安倍政権の連立を成す公明が同意しなければ開くことはできない。憲法96条改正問題については前回のブログで散々述べたが、安倍総理の説得次第で公明は96条改正に賛成する可能性はある。だが、公明は環境権などを憲法に盛り込むべきだとは主張しているが、憲法9条の改正については慎重な態度を崩していない。果たして公明が政府の公的有識者会議(集団的自衛権の行使について)を認めるだろうか、疑問に思った私は公明に電話で聞いたが、そんな話は聞いていないという。また政府の諮問機関や有識者会議について実務面を担当する内閣府(内閣官房)にも、集団自衛権行使についての「政府の有識者会議」が存在するのか否かを聞いたが、そんなものはないという返事だった。
 ちなみに、私は2月11日と18日の2回に分けて投降したブログ『社説読み比べ』で、安倍総理が2月8日に再開した私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を再開したことについて全国紙5紙の社説について批評した。その私的諮問機関が政府の有識者会議に格上げされたのかというと、そういう事実は全くなく、現に安倍総理の私的諮問機関は今秋にも安倍総理に報告書を提出する予定だという。
 いわゆる「有識者会議」とは一般用語で、さまざまな組織が自由に開催できる。組織外の有識者たちによって調査・審議されることを強調する場合は「第三者委員会」と命名されることもある。最も重いのは国の政策・方針を決めるに当たって外部の専門家に諮問する有識者会議で、先に述べたように内閣府(内閣官房)が実務面を担当する。そういう場合に限って「政府の有識者会議」と
重い肩書が付く。また各省庁が、管轄する政策について「有識者会議」を開催することもあり、その場合も「有識者会議」が出した結論は重く、省庁の政策や法整備に反映される。それに準ずるのが「総理の私的諮問機関」とされている。たとえば皇太子に男子のお子様ができず、「男系男子」という天皇の継承問題が生じたとき、小泉総理の私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が設けられたこともある。
 安倍総理が2月に私的諮問機関として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」と称する諮問機関(一般名称として「有識者会議」と呼ぶマスコミもあったし、それは間違いではない)を設けたが、動きが遅いと思ったのか安倍総理が督促して8月から本格的に議論を再開して今秋に報告書を提出する運びになった。
 この「懇談会」は一般には総理の私的諮問機関と位置付けられているが、先に述べたように一般名称として「有識者会議」と呼ぶのは差支えないが、「有識者会議」に「政府の」という位置づけをすると、途端におかしなことになる。同じ名称の懇談会が、「総理の私的諮問機関」と「政府の有識者会議」の二つ併存し、しかも座長以下メンバーは全員同じということになるからだ。読売新聞も2月の時点では「総理の私的諮問機関」と位置付けており、それをなぜ突然「政府の有識者会議」に格上げしたのか、説明は何もない。おかしな話だが、その問題については後で再度書くことにして、前回のブログに追加したいことがあるので、それを先に書く。
 集団自衛権の行使については、少なくとも今日までの政府見解は「憲法9条を変えない限り無理」ということで定着しているので、やはり集団自衛権の行使は政府が解釈改憲で決めるべきことではなく、国民が決めることだと私は考えている。
 私は21日の参院選投票日の深夜、『参院選挙の自民大勝によって、憲法改正は実現に向けて大きな一歩を踏み出した』と題するブログを投稿した。その中で、現行憲法とくに9条がいかにしてつくられたかについて大筋の経緯を書いた。
 まず現行憲法9条はGHQ(連合国総司令部)の占領下において、日本政府とGHQの合作として作られたことを述べた。そしてGHQの総司令官、マッカーサー元帥は当初憲法作成における三つの原則(マッカーサー三原則)をGHQの担当部門(具体的にはホイットニーが局長を務めた民政局)に指示していた。その中に「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する(以下略)」という条文が含まれていた。つまり自衛のための戦争すら放棄せよ、という、日本に対する「制裁的処置」としか考えようがない内容の憲法にするようGHQ民政局に指示していたのである。
 どうしてそのような制裁処置を行おうとしたかというと、そのことは前回のブログでは書かなかったが、第1次世界大戦で敗戦国ドイツに対し過酷な賠償金を課した結果、ドイツでナチスの台頭を生んだという反省から、日本に対しては過酷な賠償を求めないほうがいい、という考えにより連合国側は日本に対する賠償請求を放棄したという経緯があった。だから連合国のアメリカをはじめ英・仏・中国(現在の台湾)・ソ連は戦後賠償を放棄したのである。その代償として連合国側は日本を占領下に置き、徹底した武装解除、財閥解体、一連の民主化政策を行うことにしたのだ。
 一方日本政府は(占領下においても政府は存在した)、独自に大日本帝国憲法を改正した新憲法原案を作成し、GHQに提示していた。最初の改正案は1946年2月8日にGHQに提示されたもので、陸海軍をまとめて「軍」と規定し、
軍事行動には議会の賛成を必要とするという内容だった。
 だが、賠償請求権の放棄の代償として戦力の完全解体を目指していたマッカーサーが、そんな甘い憲法修正案を認めるわけがなく、ホイットニーにマッカーサー三原則を示してGHQ原案の作成を命じたという経緯がある。が、ホイットニーが「自己の安全を保持するための戦争をも、放棄する」という条文案に難色を示し、削除することにした。ホイットニーは自衛権まで放棄させると、国連憲章に抵触すると考えたのかもしれない。国連憲章は国際紛争の平和的解決を掲げる一方、個別的又は集団的自衛権は認めていたからである。
 その後日本政府はGHQの顔色をうかがいながら何度も修正案を作成してGHQに提示、最終的に現行憲法の条文が成立した。そうした経緯があるがために、現行憲法9条は矛盾だらけの条文になってしまった。つまりGHQは日本の自衛権を認めながら、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(全文ではない)という条文にし、しかも認めたはずの「自衛のための最低限の戦力」まで完全に解体してしまった。つまり自衛権はあっても自衛手段がない、というおかしな状態になってしまったのである。
 だから憲法制定の国会で、日本共産党の野坂参三衆院議員は「自衛権を放棄すれば、民族の独立を危うくする」と新憲法案に反対し、実際、共産は憲法法案採決の際、反対票を投じている。が現在、自民に次ぐ第2政党の民主が憲法改正について沈黙している状況の中で、形式的には自衛権の行使手段を否定している現行憲法の、改正反対派の事実上の最大勢力になっているのが共産というのも、皮肉といえば皮肉な話である。
 なお自民が公明を説得して96条改正勢力が衆参両院で3分の2を超える状況になった時、民主は間違いなく分裂する。なぜなら、民主には96条改正派と護憲派が混在しており、国会で採決に持ち込まれた際には反対派と賛成派の対立が表面化するのは避けられない。もし採決に際して民主としての態度を一本化できず、自由投票というようなことになれば、現在の民主支持者も一斉に民主離れを生じることは避けられない。野合政党がたどる道は、所詮細川野合政権と同じ運命になる。
 いま民主は参院選惨敗の責任のなすりつけ合いなどしている暇などないはずだ。直ちに改憲派と護憲派に分裂し、改憲派はとりあえず維新やみんななどの改憲派と緩やかな連携を図り、一致できる点は3者が一致して行動し、一致できない点はそれぞれの主張をぶつけ合って、議論を深めていけばいい。その先に新党結成があるのかないのか、今決める必要はない。政権獲得だけを目指すような野合は、三度繰り返せば「お前らアホか」と、国民からそっぽを向かれるだけだ。
 いずれにせよ、公明も憲法に「環境権」などの条項を加えるべきだと考えて
いる以上、自民の説得次第では憲法改正の要件を定めた96条の改正に最終的には賛成せざるを得ないだろう。もし、96条を改正せずに「環境権」だけを憲法に加えるべきだと主張し続けた場合、すでにがたがたになっている民主の中から96条改正賛成派が続出することは避けられず、そうなると維新、みんなを加えて公明抜きでも96条改正の可能性は相当濃厚になる。そうなっても公明が「加憲」だけにこだわり、96条改正後の9条改正を回避するために96条改正案に反対票を投じた場合、前回のブログで書いたように、ただでさえ政府の中で影が薄くなりつつある公明は政府与党にありながら村八分になる可能性が相当高くなる。
 そうなったら、自民は公明より維新、みんな、民主の保守グループと手を組んだ方が、今後の政局をスムーズに運営できると考えるのは、巨大政党となった自民にとって当然の選択肢である。読売新聞論説委員の方たちと違って、そうなる事態が読めない公明ではあるまい。
 読売新聞は社説で「政府の有識者会議は、10月前半にも新たな報告書をまとめ、集団的自衛権の行使を可能にするよう提言する。政府はこれを受け、解釈変更を進めるべきだ」と主張した。
 読売新聞はいったいどうやって「政府の有識者会議」なるものが10月前半(ということはまだ2か月半も先だ)にまとめる予定の報告書の中身を知り得たのか。すでに懇談会で報告書の内容がまとまっているのなら、何も10月まで待つ必要もないだろうに。
 もちろん安倍総理が集団自衛権を行使できるようにしたいというのは、第1次安倍内閣当時からの執念だった。だが、歴代自民政府がどうしても越えられなかったのが、憲法9条解釈の限界だった。つまり、個別的自衛権は「自然法」であり、すべての独立国はその権利を不文律として有するという立場をとってきた(すでに述べたように吉田茂内閣は自衛権すら否定していたが)。しかし憲法9条は「国際紛争(※当然だが他国からの侵害を受けるケースも含まれる)を解決する手段としての戦力は永久に放棄する」と、自衛のための戦力保持すら条文上では禁じている。実際、GHQは自衛のための最低限の戦力すら解体してしまった。
 実際前回のブログでも書いたが、当初、GHQ総司令官・マッカーサーは、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と新憲法作成についての三原則で明記していた。さすがに新憲法作成の実務部隊である民政局のホイットニーが、自衛権の否定は国連憲章に違反すると異を唱え、マッカーサー原案からこの部分を削除した。削除はしたが、9条において自衛のための戦力保持を認めず(実際には自衛の権利は認めていながら)、「前項の目的(国際紛争を解決する手段)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」として、自衛のための最低限の戦力すら全面的に解体してしまったのである。
 そのためGHQ占領下において朝鮮戦争が勃発した時、日本に駐屯していた米軍が次々に朝鮮半島に送られ、日本国内の安全にGHQが責任を持てなくなった時、マッカーサーは吉田内閣に命じて「警察予備隊」を創設させた。これが、結果的に「自衛隊」の前身になるのだが、その目的は米軍の朝鮮派遣によって日本における共産勢力による武力革命を防ぐことにあった。
 実際、この時期、共産勢力は東欧やアジアを席巻しつつあり、中国では連合国の一翼を占めていた中華民国の蒋介石総統派が毛沢東率いる共産勢力に敗れて台湾に政府を移したり、朝鮮半島でもソ連や「中共」(当時はそう呼ばれていた)の軍事的支援を受けた金日成が支配していた北朝鮮が、突如韓国に侵攻を始めて朝鮮戦争が勃発したのである。当然日本でもスターリンの命令を受けた日本共産党が武力革命を目指しており、共産勢力の武力蜂起を抑え込んでいた米軍がいなくなれば、日本でも共産勢力の活動が活発化することは十分考えられる状況にあった。それを恐れたマッカーサーが、通常の警察力を凌駕する戦闘能力を有する警察予備隊と海上警備隊(のち警備隊)を創設させたのである。
 この警察予備隊および警備隊が、サンフランシスコ講和条約(1951年)によって日本が独立した際、日米安全保障条約締結と同時に「保安隊」と改称され、それまでの陸上・海上部隊に加えて航空部隊も新設された。さらに54年7月1日の自衛隊法施行により、自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊に再編成されて今
日に至っている。
 この時定められた自衛隊法には、自衛隊の果たすべき使命として「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」と定められている。そこで大問題になったのが、自衛隊は合憲か違憲かということだった。
 何度も繰り返し述べてきたように、憲法9条は、「国際紛争を解決する手段としての戦力の保持」を明瞭に否定している。他国から侵害を受ける行為は、自衛の権利の有無とは関係なく、まぎれもない「国際紛争」である。GHQは、自衛の権利を承認しながら、憲法では自衛のための戦力の保持を否定してしまった。どうしてこういう矛盾を生じたのか、その経緯を解明すれば、間違いなくノンフィクション賞か同等の賞の受賞対象になる、と私は前回のブログで書いた。
 実際、自衛隊が合憲か否かは何度も提訴されている。が、現在に至るも最高裁判所は自衛隊についての憲法判断を下していない。ただ、砂川事件について東京地裁と、第二審の高裁を飛び越して上告された最高裁での判決が分かれたほど、国内で大激論を巻き起こしたケースがあるのみである。
 砂川事件とは、自衛隊の合憲性を巡っての訴訟ではなく、日米安保条約と米
駐留軍が憲法違反ではないかという訴訟のことを指す。1957年、東京調達局が行おうとした米軍基地拡張のための測量を阻止しようとした反対派のデモ隊の一部が、米軍基地内に突入して逮捕・起訴された事件。この訴訟(第一審の東京地裁)で、被告側は安保条約とそれに基づく米軍の駐留が憲法前文と9条に違反していると主張、伊達秋雄裁判長は59年3月、「日本政府が米軍の駐留を許容したのは、憲法9条によって禁止された戦力の保持に当たり、違憲である」との判断を下した(いわゆる伊達判決)。
 この判決に対し、検察は高裁に上告せず、最高裁に審判を委ねるという挙に出た。当時は、通常の裁判の慣行に従わずにいきなり最高裁に跳躍上告したことについて様々な憶測が飛んだが、現在ではその間の事情がアメリカ側公文書の公開によってかなり明らかになっている。現在の段階で明らかになっている事実は、60年安保改定を目前にしていた米政府が駐日大使のダグラス・マッカーサー2世を通じ、伊達判決を早期に破棄させるため、藤山愛一郎外相に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけ、さらに最高裁長官・田中耕太郎氏と密談するなどの介入を行った結果によるということだ。米政府としては何が何でも安保改定前の59年内に米軍駐留は合憲との最高裁判決を引き出させる必要があったのだ。実際、田中氏は裁判長としてこの上告を担当し、59年12月、「憲法9条は日本が主権国家として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力に当たらない」としたうえで、「高度な政治性を持つ条約については、一見して極めて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」と、判断能力が最高裁にはないことを自虐的に明らかにした。当然最高裁判決に対し強い批判が浴びせられたが、ひるがえって衆議院議員の「一票の格差」問題について、「格差を生んだ原因である一人別枠方式の廃止」に踏み込んだ現在の最高裁判事の矜持の高さを見るとき、隔世の感を私は否めない。
 とまれ、そういえば、「一人別枠方式の廃止」を求めた最高裁に対し読売新聞は「出過ぎた真似をするな」と言わんばかりの主張を社説でしたっけね。
 言っておくが、私は護憲論者ではない。むしろ解釈改憲を重ねて、憲法の尊厳を損ない続けてきた状況に、やっと終止符を打てる機会が戦後初めて訪れたことに、大きな感慨を抱いている人間だ。現に(公明も含めればの話だが)憲法96条改正賛成派が衆参両院で3分の2を超える可能性が生じ、また世論も憲法96条の改正に理解を示しつつあることを喜ばしく感じているくらいだ。
 なお、先に述べたように、自衛隊についての合憲・違憲の判断は最高裁もま
だしていない。していない、というより「できない」というのが正確な言い方
だろう。というのは砂川判決(最高裁)が、解釈改憲の足がかりを作ったのと同様、皮肉なことに砂川判決が自衛隊の合憲性を最高裁すら判断することを不可能にしてしまったからである。
 砂川判決は、今まで誰も指摘したことがないようだが、二つの要素から成り立っている。一つは「憲法9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定していない」という憲法の条文からは見いだせない根拠のない判断を下しておきながら、ふたつ目の要素として「9条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから」と、日本が指揮・管理できる戦力の保持を否定してしまったため、政府はいまだに自衛隊を「軍隊」「戦力」と公認することができず、「実力」といった意味不明な言葉を使ってきた。しかし国際法上は自衛隊は軍隊として扱われており、自衛官は軍隊の構成員に該当するものとされている。実際、日本政府は自衛隊の英訳名称をJapan Self-Defense Forcesとしているが、海外ではその名称ではなくJapan Army(日本陸軍)Japan Navy(日本海軍)Japan Air Force(日本空軍)と呼ばれている。日本領土への侵害と日本国民の安全のために命をかけるべく、いざという時に備えて血と汗のにじむ訓練に日々を過ごしてくれている自衛隊員を、これ以上日陰者の状態に置き続けることに、私は日本国民の一人として忍び難く耐え難いものを感じる。
 政府は防衛庁を防衛省に格上げしたが、そんな小手先の行為で自衛隊の国際
的権威や尊厳が高まったとは到底考えられない。いま述べたように、海外では自衛隊をすでに軍隊とみなしており、庁が省に名称変更したからと言って、たとえば同盟国のアメリカの主要紙、ワシントン・ポストやニューヨーク・タイムス、ウォール・ストリート・ジャーナルなどが高く評価してくれただろうか。おそらく日本で言う3行記事扱いですら報道していないのではないだろうか。
 私は、集団的自衛権を法的に確立することの重要性は、これまでブログで何度も主張してきた。
 まず日米安保条約について言えば、条約そのものが「双務的」ではなく「片務的」であることから様々な問題を生じてきた。「双務的」条約は、条約締結国の双方が互いに同じく責任を持ちあうことを意味し、「片務的」条約は条約締結国の一方だけが相手国に責任を持つが、もう一方は相手国に責任を持たないという関係を意味する。日米安保条約に関して言えば、アメリカは日本に対し集団的自衛権に基いて日本が外国から侵害を受けた際、日本の自衛隊と一緒になって日本を防衛する義務を負う。が、(現実的にありうるか否かは別にして)アメリカが外国から侵害を受けても、日本は集団的自衛権を憲法で禁じられているから(現在の政府解釈)、アメリカ軍に協力してアメリカを防衛する義務も責任もないし、また協力したくてもできないということを意味するのである。
 一般論として言えば、こういう関係が存在しうるケースには二つが考えられる。一つは言うまでもなく、たとえば親と子供の間の関係が相当する。親が行った行為に対して子供は何ら責任を負う必要もないが、未成年の子供が行った行為に対しては親が子供の年齢などの成長度合いに応じて責任を持たなければならない。このケースの典型として、中学校で社会現象化している「いじめ」問題がある。いじめによって子供が自殺した場合、いじめた子供の親の責任、いじめを防止できなかった学校や教育委員会が所属する市町村の責任が裁判でしばしば争われている。
 もう一つのケースは、両者が完全に支配・被支配の関係にある場合である。国の関係で言えば植民地・保護下にある国(あるいは地域)などの統治権はいわゆる「本国」が持つ。だから日本が先の大戦に敗れて連合国(GHQ総司令部)の占領下に置かれていた間は、日本政府は形式上存在してはいたが、統治権はGHQにあり、そのため日本国憲法も文章は日本政府が最終的に作成した形にはなっているが、内容は日本を統治していたGHQの指示をいちいち仰がねばならないという状況にあったのである。憲法9条の文脈が矛盾だらけになってしまったのはそういう作成プロセスがあったためである。
 だから本来、サンフランシスコ講和条約締結によって日本が独立した時に政府が「現憲法は無効になった」と宣言し、新たに9条の矛盾をなくした新憲法制定に着手すべきだったのだ。なお同じく先の大戦で連合国に敗れたドイツは基本法(事実上の憲法)を西ドイツ時代に35回、東西ドイツ統一後も12回改正している。イタリアも現在までに15回改正を行っている。
 日本では現行憲法が施行された1947年5月3日以来66年を経たが、66年間、憲法をまったくいじらなかった国は日本以外にあるだろうか。護憲派が日本国憲法以上に硬性憲法だと主張しているアメリカ合衆国ですら過去18回、27か条を修正・追補している。確かにアメリカ合衆国の憲法改正要件は厳しく、上下両院の3分の2以上の賛成を経て発議でき、全50州の4分の3以上の州議会(もしくは憲法議会)の賛成を経なければならないことになっているが、「改正」ではなく「修正・追補」が可能になっている。つまり「改正」ではなく、「修正」や「追補」という形式をとることで事実上憲法を改正できるようにしているのだ。その場合の要件も「改正」と同じだが。
 憲法を簡単に変更できないものにすることは、憲法がその時々の政権によって都合のいいように変更できないように、普遍性の高い条文については改正要件を特に厳しくすれば済む話で、公明が主張している「環境権」などは比較的容易な手続きで「追補」できるようにすればいい。憲法9条などは、条文自体が矛盾だらけで最高裁すら合憲か違憲かの判断を下せないような状況にあることを考えれば、矛盾が生じないように修正できるようにするか、あるいは9条に第3項を加え(「追補」)「ただし、前項の規定は、自衛のための最低限の戦力の保持及び行使まで認めないものではない」という一文を加えればよい。それなら護憲派も「否」とは言うまい。
 日本で憲法改正が困難になっているのは、単に96条が定めた改正要件(両院で3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の賛成を必要とする)だけにあるわけではない。原発の「安全」神話と同様、日本の憲法に対する「平和」神話が国民の間に根付いてきたことも大きな要因を占めている。「大きな」というより「最大」の要因といった方が正確かもしれない。たとえば朝日新聞すら現行憲法を「平和憲法」と定義してはばからない。
 護憲派はしばしば「戦後、日本が平和を維持してこれたのは平和憲法のおかげ」と、お経の文句のように繰り返しているが、いったい外国人のだれが日本の憲法9条の不戦主義を知っているというのか。第一、日本人の何人が、同盟
国アメリカの憲法の1条だけでも知っているだろうか。アメリカ合衆国憲法は、前文・本文・修正条項の三つからなるが、私のブログを読んでくださっている方にお聞きしたい。
 アメリカ合衆国憲法の前文をなんかの機会に読まれたことがありますか。学校で学んだことがありますか。いま前文の中身の一部でも覚えていますか。アメリカ合衆国憲法の本文に至ってはたったの7条しかありませんが、そのことを知っていましたか。全7条のうち1条でも何らかの機会に読んだことがありますか。読んだことがあるとして、その一部でも覚えていますか。
 そのことを自分の胸に問いかけるだけで、日本の憲法に対する「平和」神話が音を立てて崩れ去ることがお分かりいただけると思う。福島原発の事故が起きて初めて「安全」神話が崩壊したのと同様に、日本が外国から侵害を受けるまで日本国憲法の「平和」神話にしがみつくのだろうか。
 実際、竹島が韓国に実効支配され、尖閣諸島周辺の日本領海域を中国の公船によって何度も侵犯されている。一昔前だったら間違いなく戦争になっていたケースだ。が、海上保安庁の巡視船が中国船を追尾し、領海から出るよう警告を発するだけで、それ以上の行動には出れない。肝心のアメリカは、尖閣諸島は日本の領土だと認めながら、領土問題は二国間で解決してくれ、とそっけない。日本の海上自衛隊も、中国船が武力攻撃を仕掛けているわけではないから動きが取れない。
 当初、東京都知事時代の石原氏が魚釣島などを所有者から買い取ることを決めたが、そこに政府が割り込み、政府が買い取ることになった。それはそれでいいのだが、政府は中国に遠慮して(?)実効支配に乗り出そうとしない。それをいいことにして中国は挑発行動をますますエスカレートさせている。
 おそらく日本政府は、もし日本が、漁船停泊用の港を造ったり、港に出入りする船を監視するための人員(公務員あるいは公務員に準ずる人)を常駐させ、中国が実力行使に出て日本の海上自衛隊が実力で対応した場合、アメリカは日米安全保障条約に基づいて実力行使に出てくれるか、といった打診くらいはしているだろう。その程度のことは、政府が尖閣諸島を買い取ることを決めたとき、当然アメリカ側に打診しているはずだ。そんなことは安全保障に関する外交の基本中の基本だからだ。
 尖閣諸島の領有権問題だけでなく、いま中国は世界最大の帝国主義的国家といっても過言ではあるまい。尖閣諸島が属する東シナ海だけでなく、南シナ海においても東南アジア各国と島嶼の領有権をめぐって争いを演じている。中国は空母など海軍力をはじめ軍事力の拡大に血道を上げており、経済成長に鈍化の兆しが顕著なのに、軍事予算だけは増大し続けている。いまのところ領海侵犯や軍事演習の常態化などの挑発行為にとどめているが、いつどの国と軍事的衝突を生じてもおかしくない状況にある。「平和憲法」のおかげで日本は安全だと「平和ボケ」していると、「安全」神話に寄りかかって原発事故への備えを怠ってきた二の舞を踏まないという保証は一切ない。
 そういう意味では、いざというときに備えた安全保障策について危機感を持って対策を考えなければならない時期であることは間違いない。だから私はこれまでブログで「集団的自衛権」の法的確立の必要性を主張してきたのである。
 現在の日米安保体制が片務的であることはすでに述べた。米政府は、日本国憲法制定の経緯を承知しているため、片務的であることにあからさまな不満を表明したことはないが、片務的であることの代償として基地協定や沖縄への過大とも言える軍事基地の配備、さらに「思いやり」予算の押しつけなどを既成事実化してきた。
 日本が憲法を改正して、自衛(あるいは国防)のための最低限の戦力保持に加えて、同盟国との集団的自衛権の確立を法的に整備すれば、日本の軍と米軍との関係は対等の協力関係になり、基地協定の廃止もしくは改定をはじめ、沖縄への過大な軍事基地の配備は日本の安全保障のためではなく、アメリカの東南アジアにおける軍事的支配力維持のためであるから、もし日本に協力を求めるなら「思いやり」予算の要求どころか、逆にアメリカが沖縄県民に対して相応の「迷惑料」を支払う義務が生じることになるし、沖縄県民の同意が得られない場所には基地を設けることができなくなる。「片務的」関係を「双務的」関係に変えるということはそういうことを意味するということを、政府は誠意を持って国民に訴えるべきだ。
 もう一つ言っておかなければならないことがある。護憲派は「集団的自衛権を確立すれば、日本がアメリカが行う戦争に巻き込まれる」という虚偽に満ちた説明についてである。なぜその説明が虚偽かというと、集団的自衛権は同盟国の一方が侵害を受けたときにのみ、侵害した相手国に対して共同して戦う義務があるという意味で、たとえばアメリカがイラクに対して起こした戦争に日本が加担しなければならないということではない。あたかもアメリカが全世界で行う戦争のすべてに、同盟国として日本がアメリカと同じ歩調をとらなければならなくなるかのような説明は、国民を騙すことを目的にする以外の何物でもない。日本が集団的自衛権を行使する義務を負うケースは同盟国(現時点ではアメリカのみ)が侵害を受けた場合だけである。たとえば9.11のようなテロ行為に対して、アメリカがタリバン勢力に報復手段に出たとしても、テロ行為に対しては集団的自衛権の行使は義務付けられないというのが国連憲章における集団的自衛権の解釈である。さらに集団的自衛権は、同盟国が第三国から攻撃を受けた場合でも、絶対に同盟国を防衛する義務を負わなければならないものではない、というのが国連憲章51条解釈の通説である。アメリカが第三国から攻撃を受けたとしても、その原因がアメリカの不正義にあると日本が判断した場合、集団的自衛権を行使する義務はないのである。
 ただし、日本政府は集団的自衛権について答弁書でこう定義している。
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利」
 この解釈は問題である。同盟国ではなくても、政府が「密接な関係にある国」
と位置付ければ、自衛隊が他国間の紛争に軍事介入できてしまうからである。
 実際冷戦時代に米ソは自国の影響下にある勢力を防衛するために「集団的自衛権」を濫用してきた。ハンガリー動乱やプラハの春を戦車で踏みつぶしたソ連や、ベトナム内乱に軍事介入したアメリカなどはいずれも「集団的自衛権の行使」を口実にしており、日本政府の「集団的自衛権行使の対象を日本と密接な関係にある国」といった、あいまい極まりない定義は改める必要があるし、同盟国(TPP交渉が参加各国の同意を経て成立に至れば、日本もアメリカだけでなくTPP参加国との同盟関係を結ぶ可能性や必要性が生じると思う)との間で集団的自衛権を行使する権利と義務の範囲を明確にする必要が生じるだろう。集団的自衛権行使の権利を法的に整備する場合、絶対それは避けてはいけない条件であることを私は強く主張しておきたい。

 何かを得んとすれば、何かを失う。この原則はいかなるケースにも当てはまる。日本には「二兎を追うもの一兎も得ず」ということわざがあるではないか。憲法というものは、その国の権力をしばることと、基本的人権など国民の権利・義務・責任の関係を定めたものであり、他国の行動に対して規制力を持つものではない。護憲派が言ういわゆる「平和憲法」を守るために日本は何を失ってきたか。基地協定、沖縄県民の苦しみ、「思いやり」予算……それらのすべてに、護憲派(政党や市民団体だけでなく、護憲主義マスコミも)は責任を負わねばならない。
 翻って読売新聞の社説を改めて検証してみよう。社説氏は、ありもしない「政府の有識者会議」なるものをでっち上げ、まだ結論が出ていないはずの報告書(読売新聞によれば報告書は10月前半にまとまるようだ)の提言を受け、集団的自衛権行使を可能にするよう憲法解釈を変更すべきだとのたまう。
 実は第1次安倍内閣の時作られた安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長=柳井俊二・元駐米大使)がまとめた報告書は、安倍総理が体調を崩して退陣した後、福田総理に提出されたが、福田総理が握りつぶしてしまった。その報告書に以下の一文がある。

(憲法9条の)国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を「国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」ものであって、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障への参加を禁ずるものではないと読むのが素直な文理解釈であろう。

 第2次安倍内閣の発足により、安倍総理は直ちに今年2月8日、やはり総理の私的諮問機関(「政府の有識者会議」ではない)の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を再開させることにした。が、その後、懇談会は2,3回開かれたものの事実上休眠状態になっていた。で、先の参院選の結果を見て安倍総理がせっついたのであろうか、懇談会の議論が8月に再開され、報告書作成作業が本格化し、今秋にはまとめられる見通しとなっている。
 懇談会の議論がこれから本格化するというのに、読売新聞は7月23日の社説で「政府の有識者会議は、10月前半にも新たな報告書をまとめ、集団的自衛権の行使を可能にするよう提言する。政府はこれを受け、(憲法9条の)解釈変更を進めるべきだ」と主張した。まるで懇談会を読売新聞が仕切っており、かつ総理の私的諮問機関を「政府の有識者会議」に格上げする権利を持っているかのような書き方である。
 今秋にまとめられるという報告書は、おそらく社説氏の読み通りになるだろう。というのは懇談会の座長以下メンバー全員が、第1次安倍内閣時に設けられた懇談会と同じだからだ。だが、たとえそうであったとしても、報告書をま
とめるための本格的議論はこれから再開される段階だ。それを先取りして勝手に報告書の「結論」を決め、かつ総理の私的諮問機関よりはるかに重い(つまり政府に対して相当程度の強制力を持つ)「政府の有識者会議」に格上げするといったことが読売新聞には可能なのか。それほどの権限を読売新聞は持っているのか。のぼせ上がるのもいい加減にしろ、と言いたい。
 そもそも読売新聞は集団的自衛権確立の必要性についての論理的主張をしたことなど一度もない。2月18日に投稿したブログ『社説読み比べ 読売新聞社説は剽窃だった。日本経済新聞社説は日本への警戒心をあおるだけだ』で明らかにしたように、第1次安倍内閣の時の安倍総理の発言を剽窃し、あたかも読売新聞独自の主張であるかのごとき社説を発表するくらいしか能がないのだ。私の主張と読売新聞の主張のどちらに論理的説得力があるか、読者に判断を仰ぎたい。
 
 と、ここまで書いて昨日(8月2日)このブログを投稿するつもりでいたが、2日の朝刊を見てびっくりし、追記する必要が生じたので投稿を1日延ばすことにした。安倍総理が内閣法制局長官の山本庸幸(つねゆき)氏を退任させ、駐仏大使の小松一郎氏を後任の長官に抜擢する人事を固めたというのだ(山本氏は最高裁判事に転出の予定)。読売新聞によれば、こういう理由のようだ。
「集団的自衛権を巡る憲法解釈の見直しを進めるため、従来の政府解釈を堅持する立場だった山本氏を退任させ、解釈見直しに前向きな小松氏を起用することで、態勢一新を図る」ためということである。小松氏は外務省出身で法制局勤務の経験はないという。異例の人事のようだ。
 安倍内閣の支持率は6月まで60%台の高い支持率を維持してきた。アベノミ
クスの効果がある程度明らかになり、自動車や家電など輸出産業の経営が相当程度改善し、株価もミニバブル的現象を呈してきたことによると思われる。が、「得るものがあれば、必ず失うものもある」の原則通り、円安による物価上昇が家庭の台所を直撃した。富裕層は株価上昇の恩恵を受けて高級マンションや高級自動車の購買力が増えたようだが、固定為替制度(1ドル=360円という超円安)だった高度経済成長期のように国民各界層に広く内需が拡大しているわけではない。安倍総理は大企業に対して、「収益増大を先取りして社員の給与をアップしてくれ」と異例の要望をしているが、為替の変動は実体経済を反映したものではなく、投機筋(ヘッジファンド)のマネーゲームによって左右されているのが実態である。だから大企業も今期は円安効果によって増収増益になったが、来年以降もその傾向が続くという保証がないため、「はい、わかりました」と二つ返事で給与の大幅アップには二の足を踏まざるを得ない。しかも異常気象によって野菜類の高騰、夏物衣類の売れ行き不振などで内需はむしろ下降線をたどっているように思われる(データが公表されていないので、はっきりしたことはわからないが)。
 そのせいかどうか、7月に入って、それまで順調だった安倍内閣の支持率も初めて60%を割った。安倍内閣としては景気回復のために打てる手はすべて打ち尽くした感もあり、さらなる景気回復のための妙手も見当たらない。
 デフレと円高からの脱却、名目経済成長3%以上を目標として掲げたアベノミクスの具体的経済政策は「3本の矢」と呼ばれている。具体的には①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資を喚起する成長戦略、がその骨子だが、この「3本の矢」の中で残されているのは②の財政出動による公共事業投資だけだが、これは私が当初から「先進国にはケインズ循環経済論」は効果を発揮しないと主張してきたことに安倍総理もようやく気付いたようで、事実上棚上げとなっている。
 そうした状況の中で安倍総理が揺れだした。当初はとりあえず憲法96条を改正して改憲要件を緩やかにする(衆参両院で3分の2以上の賛成で発議できるという要件を2分の1以上に下げる)ことを目的としたはずだ。これはあくまで「発議」のための要件であって、国会が発議しても国民投票で有効投票数の過半数の賛成が得られなければ改正はできない。
「国民主権」とか「主権在民」などと言われながら、実際に国民が政治に関与できる機会は国会議員を選出する時だけである。66年間も憲法の一条一句改正(修正・追加を含む)していない国は日本だけだろうことはすでに述べた。公明が主張している「加憲(環境権)」は「追加」になるが、そういうことすら現行憲法下では極めて困難である。まして自衛権を認めながら自衛のための戦力の保持を否定している9条の拘束を受けて、政府はこれまで自衛隊を「戦力」
には当たらない「実力」という奇妙な言い訳をして正当化してきた。だが、集団的自衛権を行使するということになると、これは他国の防衛のために自衛隊を出動させるということになるわけだから、「実力」などという言葉でごまかすことは不可能になる。
 やはり、無理に無理を重ねた解釈改憲でつぎはぎするのではなく、憲法96条を改正し、国会の憲法改正発議要件を緩やかにすることによって、国民が自ら自国の憲法に国民の総意(民主主義のもとでは過半数の意見を以て「総意」とするしかない)を反映できるようにするのが政治の王道ではないだろうか。
 96条の改正なら、維新やみんなも賛成しているし、民主にも賛成派が相当いるから、安倍総理が誠意を持って公明を説得したら両院で3分の2以上の賛成で発議できる可能性が高い。世論調査でも96条改正については国民の過半数が支持しているから、国会が発議できれば憲法改正への道はほぼ開けると考えていいだろう。その後、自衛のための最低限の戦力の保持(個別的自衛権)及び自衛力強化のため集団的自衛権を有することを認める旨、9条を改定もしくは第3項として追加すると同時に、集団的自衛権の行使要件についても明確な歯止めをかけておく必要があるだろう。

 ここまで補足して今朝(3日)、投稿しようと準備しておいたところ、また今日の読売新聞朝刊1面トップ記事を見てびっくりした。見出しは「集団自衛権 全面容認提言へ」とあり、リードでこう書いている。
「集団的自衛権を巡る憲法解釈見直しを検討するため安倍首相が設置した有識者会議『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)』(座長=柳井俊二・元駐米大使)が第1次安倍内閣の際に検討した『公海における米艦の防護』などの4類型の憲法解釈見直しにとどまらず、集団的自衛権の行使を全面的に容認する新たな憲法解釈を提言することが2日、わかった」
 私がなぜびっくりしたか。
 読売新聞は「安保法制懇」について「政府の有識者会議」と位置付けていたはずだ。もともと第1次安倍内閣の時から「安保法制懇」は総理の私的諮問機関として設置されたものだった。「諮問機関」を「有識者会議」と称してもあながち誤りとは言えないが(実際、読売新聞に限らず「諮問機関」を「有識者会議」と記している新聞もある)、その「有識者会議」(諮問機関)を設置したのが総理であるのか政府なのかで、重みが月とすっぽんほど異なる。総理が個人的に設置したのであれば当然、政府は拘束されない総理の私的なものであり、政府が設置したのであれば当然のことだが政府の方針を左右するだけの重みをもつ。
 読売新聞はこの記事の本文で、こう書いている。
「政府は、新たな報告書の提言を受け政府としての憲法解釈の見直しを検討するが、政府内には『安保法制懇の提言がそのまま政府の憲法解釈見直しになるわけではない』との意見もある。安保政策上の重要性を踏まえ、検討は慎重に進める方針だ」
 なんじゃ、これは ? 私は思わず目を疑った。
 読売新聞は安倍総理が私的に設置した「安保法制懇」を政府の公的な有識者会議に格上げしたはずだ。読売新聞は政府に君臨できるほどの権力を持っているからこそ、そういう常識的にはありえないことをやってのけることが出来たのではなかったのか。
 それなのに今度はまた「安倍首相が設置した有識者会議」に格下げし、かつ政府内には「安保法制懇の提言がそのまま政府の憲法解釈の見直しになるわけではない」との意見もある、とこれまでの主張を一変してしまった。
 私があっちこっちに電話して、安保法制懇を設置したのは安倍総理なのか、それとも政府なのかと、読売新聞の表記の真偽を聞きまくったため、何らかの筋から「政府の有識者会議ではない」と、読売新聞に訂正を求めたからかもしれないが、それならそれで、表記の誤りの訂正文を載せるべきだろう。
「読売新聞にはジャーナリズムとしての良心のひとかけらもない」
 私は、そう断定せざるを得ない。読者の皆さん、どう思われますか。

 なお、もし安倍総理が「安保法制懇」の提言を採用して憲法解釈で集団的自衛権を認めるよう政府を動かすようなことをしたら、間違いなく公明は閣外に去るだろうし、参院では自民党は過半数を獲得していないから不信任決議案が通る可能性も出てくる。そうなれば96条改正についても維新やみんなの協力も得られなくなるだろうし、国民の安倍離れは一気に加速することも疑いを容れない。