小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

現代の寵児・孫正義の「金儲けのためなら何でもやる」体質を暴く。

2013-08-25 04:37:32 | Weblog
 私がインターネットを始めたのは、1998年、インターネット時代が爆発的に始まった年だった。いまから15年前である。
 私がジャーナリストとして文章を書いていたころは、ワープロやパソコンは一切使わなかった。原稿はすべてシャープペンシルでの手書きだった。実際には、1990年代の初め、ワープロをやろうとチャレンジしたことはある。だが、当時のワープロは圧倒的に日本語入力が主流で、富士通の技術者・神田泰典氏が開発したキーボードの「親指シフト」がワープロの世界を席巻していた。このキーボードはJIS規格や新JIS規格とも違う独特の文字配列を考案したもので、当時毎年行われていたワープロコンテストで「親指シフト」のワープロが常にベストテンをほぼ独占していた時代だった。私も富士通のワープロ『オアシス』を買って、必死に「親指シフト」に取り組んでみたが、徒労に終わった。何しろ40代半ばになってひらがな50文字(正確には46文字)の配列を覚えること自体、少なくとも記憶力に乏しい私にはどだい無理な話だった。
 それに、当時の編集者の間には「ワープロを使うと文章が下手になる」という「神話」(実際にはワープロを使えない編集者の偏見だったと思う)が蔓延していた。私自身は手書きの時代も推敲という作業を一切したことがなかったので、なぜワープロを使うと文章が下手になるのか未だ理解できないが、今はパソコンを使うことで文字入力は簡単になり(句読点を別にすると実際に常時使うキーはローマ字27文字中24文字でしかないため)、書くスピードも格段に速くなったが、推敲という面倒な作業が不可欠になり、しかも推敲しても必ず見落としがある。
 ちなみに現在のパソコンのキーボードの文字配列は、アメリカの文字配列と全く同じで、日本語50音では絶対に使わない文字がキーボードにいくつか配列されている。たとえばq、l、x、vなどである。このうちvは次にiを入力すると「ヴぃ」となり、カタカナ変換すると「ヴィ」となる。「ヴィ」は今は日本語ひらがなの規格では「ビ」になっているが、慣例的に残っているだけである。同様に「ヴァ」も今は正確には「バ」と表記することになっている。
 なおxとlはその文字のあとに母音(本当は母音だけではないのだが)を加えると小文字になる。たとえばxとaを続けて入力すると「ぁ」となるわけだ。しかしxやlがなければ、普通に「あ」と入力した後「あ」だけ小文字変換すれば済むことで、あえてxやlを使わなければ日本語入力ができないわけではない。でも私もxは使うので、あったからといって不都合というわけではないが、q、l、vはキーボードの片隅に配置したほうがいいと思っているくらいだ(メールアドレスなどを入力することを考えるとなくしてしまうわけにはいかない)。ただ私が知っている限り、「つ」の小文字入力の方法を説明している入門書はない。たとえば一番売れている『できる』シリーズ(インプレスジャパン)のWord版には巻末に「ローマ字変換表」が載っているが、なぜか「あっ」とか「わっ」の入力方法が載っていない。たとえば「あっ」の入力方法には二通りあって、attuと入力すると「あっつ」となるので、最後の「つ」を消せば「あっ」となる。もうひとつはaxtuと入力すれば「あっ」となる。そんな簡単なことをインプレスの著者(あるいは編集者)はご存じないようだ。
 また「―」と「p」の入力にしばしば間違う。ブラインドタッチで実に打ちにくい場所にキーが配置されているからだ。国際化がますます進んでいく中で、キーボードのアルファベット配列は英語入力も考慮しながらも、やはりローマ字でひらがな入力するケースが圧倒的に多いことを考えると、日本人向きのローマ字入力がもっと容易なキー配列を考えてもらいたいと思う。
 キーボードの話はその辺でやめておく。本筋に戻って私のインターネットと
のかかわりに戻る。漫画ブームで職を奪われた私は1998年3月に光文社から上梓した『西和彦の閃き 孫正義のバネ』を最後に文筆活動を終えることになった。まだ57歳の若さだった私は、ワープロへの挑戦に失敗して以来、パソコンにも無縁の生活を送っていたが、インターネットが無限のビジネス・チャンスを生むだろうという予感はあった。そして私は二つのビジネス・アイディアを考えた。その二つのビジネス・アイディアは山内特許事務所(東京都新宿区代々木)の山内梅雄氏に頼んで特許を出願したので、資料は残っているはずだ。
 一つはインターネットでチラシを配布しようというアイディアで、実際に新宿に小さな事務所を構えて事業を始めたが、結局「武士の商法」で失敗に終わった。郊外の住宅地ではなく、なぜ新宿を選んだかというと、新宿という大商業地区は大小取り混ぜたビッグ・ショッピングセンターでありながら、その地区で店を出している商店主たちには「セール情報の発信手段がない」という最大の弱点を抱えていると考えたのである。
 新宿駅の乗降客は毎日数十万人いるという。彼らは本来最大の見込み客なのに、彼らに対して情報を発信する手段がない。大きなデパートだったら沿線の住宅街に新聞折り込みチラシを配布するという手段があるが、小さな専門店にはそのチャンスすらない。駅頭で配布するタウン誌はあったが、広告料がべらぼうに高いため(紙媒体で発行部数が多ければ広告料が高くなるのはやむを得ない)、粗利益率が非常に高く一度気に入ってくれれば常連客になってもらえるチャンスがある飲食店やエステティクなど広告主は限定されざるを得ない。しかしインターネットでセール情報を発信すれば、無数の見込み客がセール情報を手に入れることができるし、広告費も紙媒体に比べればべらぼうに安くすむ、というのが私のアイディアだった。
「敗軍の将、兵を語らず」というが、私は兵を語ることにする。
 大企業がバックについているわけでもない、吹けば飛ぶような零細ベンチャー企業に優秀な人材が入社してくれるわけがなかった。いちおう開いた会社説明会にはかなりの若い人たちも集まってくれたのだが、私の会社設立の趣旨(先に述べたことがすべて)を理解してくれたような姿勢だけは見せてくれるのだが、全然理解していなかった。営業マンが「これからはインターネットでの情報発信が小売業、とくに零細専門店の優勝劣敗を決める」という単純な論理を商店主に説明できないのだ。
 また、少し時代が早すぎたのかもしれない。肝心の商店主は年配者が多く、商売を従来からの顧客に頼り切っていた。「ウチは常連客がついているから大丈夫」と、インターネットが従来の経営基盤を根こそぎ崩壊してしまうという危機感をまったく持っていなかった。でも、このビジネス・アイディアは全国で年に200~300社程度しか認定されなかった(当時)「中小企業創造活動促進法」(創活法)に認定され、石原慎太郎東京都知事署名入りの認定書を頂いた。実は簡単に認定されたわけではなく、当時はインターネットが世界をどれだけ変えるかという想像力に富んだ有識者は少なく、石原都知事が任命した有識者も全員が首をかしげたようで、何度も追加資料の提出を要求された、また実際問題として「画期的なビジネスアイディア』も一応認定対象に入っていたが、申請されるのは技術的な開発のアイディアばかりで、私のように純粋にニュービジネスのアイディアを申請した人は皆無だったようだ(認定後、東京都の担当職員から聞いた話)。
 それでも何とか認定を受け、東京信用保証協会から最大2億円までの信用供
与を貰った。つまり金融機関の融資に対し2億円までは東京信用保証協会が保証しますよ、というお墨付きなのだが、意気揚々と第一勧業銀行(現みずほ銀行)新宿西口支店に融資を願い出たら、けんもほろろに断られた。「いくら信用保証協会の保証があっても、事業実績のないところにはお貸しできません。いまの都銀の融資方針については小林さんもご存じでしょう」と、玄関払いされたのである。バブル崩壊の後遺症で、すべての都銀が「貸し渋り、貸しはがし」に奔走していた時代である。「お天気なのに傘を貸したがり、雨が降りそうになったら傘を取り上げる」とよく言われる銀行の体質をいやというほど味あわされた思いだった。いまネットでチラシ配信している会社は捨てるほどある。彼らの成功が、私にとってはせめてもの慰みでもある。
 もう一つは、もっと画期的なアイディアだった。生命保険の設計を、インターネットを利用して加入者自身が行えるシステムを開発するというアイディアである。生命保険にご加入の方ならご存知だが、保険の設計をするのは生保の営業者(大半が既婚の「セールス・レディ」)である。いかにも、加入者にとって最も有利な設計をするかのように加入者に思わせるのが、彼女(あるいは彼――最近は男性の営業マンもいるので)の手腕が問われるところである。もちろん彼らの目的は、加入者の最大利益の追求ではなく、彼らが属する生命保険会社の最大利益の追求である。つまり加入者にとって有利な設計ではなく、生保会社が最も利益を上げられる設計をして、その設計がいかに加入者にとって有利かを説得する手腕を競い合う世界なのだ。
 こうした生命保険会社にとって都合のいい保険設計から、加入者にとって本当に最も有利な保険を、生命保険会社の営業者任せにするのではなく、加入者自らがインターネットという手段を活用することによって設計することが可能になる――そういうシステムを作れば、おそらく保険金も半額程度にできるのではないかと私は考えたのである。
 しかし私はSEやプログラマーではないし、自分でそういうシステムを開発することは不可能だ。専門の会社に頼めば。莫大なシステム開発料がかかるだろう。そんな大金を私が持っているわけがなかった。そのため約100社の大企業(生保会社を除いて)の社長あてに、このアイディアを書いて手紙を出した。しかし、この手紙が社長やそれなりにが理解力ある実力者の手に渡ることはなかった。結局、どの会社からもなしのつぶてで、私のアイディアは煙と消えた。

 こうして私の夢はまさに幻のごとく消えた。私ごとの話はこの辺でやめておくが、日本にインターネットの風を持ち込んだのは今を時めくソフトバンクの孫正義社長である。
 私と孫氏との付き合いが始まったは意外と古く、パソコンの黎明期と言って
もいい1985年の春か夏頃ではなかったかと思う。その年11月に私は光文社から『日本電気が松下・富士通連合軍に脅える理由』という本を上梓していた。そのころ私は若いアントレプレナーたちとの交流の場として偶数月のその月の日に「ぞろ目会」という会を主催していた。その後うるう年の関係でぞろ目の曜日が一律ではなくなってしまったが、そのころは2月2日、4月4日、6月6日、8月8日、10月10日、12月12日はすべて同じ曜日だった。銀座で一流とまでは言いすぎだが、二流並み上の料亭の女将がなぜか私のことを気に入ってくれて、一人1万円ぽっきりの会費でコース料理を出してくれ、しかも飲み放題、時間無制限で10人ほど入れる個室を提供してくれた。その会に孫氏や西和彦氏、千本倖生氏などもたまに出てくれていた。そのころ孫氏は生きるか死ぬかと自分でも思っていたほど重病のB型肝炎で、入退院を繰り返していた。
 私の名誉のためにこの際明らかにしておくが、「ぞろ目会」を主催した私は1円たりとも自分の懐に入れていない。それどころか、1万円の会費すら私も払っていた。私が自分の財布から1万円を取り出すのを見た参加者の一人が見かねて、「小林さんは私たちのためにやってくれている。小林さんの会費くらい私が出すよ」と言ってくれた方がいたが、お断りした。「あなたからだけ頂いたら、ほかの参加者たちの立場がなくなる。みんな『俺が払う』と言い出して収拾がつかなくなる。私が自分のビジネスとして、この会を主催するなら10万円くらいの会費にするよ。それだけの価値のある会にしてきたつもりだ。お気持ちだけ頂いておく」とお断りした。
 このブログにしてもそうだ。もし私がこのブログを私の金儲けの手段にしようとしたら、それなりの書き方をする。つまり、これ以上書かれたくなかったら話し合いに応じるよ、といった誘い水をそれとなく文章の中で匂わせる書き方をする。私はこの世界でそういう連中をいやというほど見てきたから、そういう手法はいくらでも知っている。が、私は過去も現在も文筆活動の中で、そういうことは一切したことがなかったし、今後も絶対にしない。残り少ない人生の末路をはした金で汚すようなことは、私の生き様が許さない。
 それはともかく、孫氏がそんな状況の中で「ぞろ目会」に出席してくれたのは状況から考えて85年の12月12日だったのではないかと思う。彼はすでに『日本電気が松下・富士通連合軍に脅える理由』を読んでいてくれていたようで、「松下が富士通と組みますかねぇ」と疑問を投げかけてきた。私はこう答えた。
「それはわかりません。ただ、松下も富士通も連合軍を組んで闘わない限り、日本電気の牙城を崩すことはできない、という私の提案です」
 孫氏は「確かにそう言えるかもしれない」と言った。この本のまえがきの一部を転記しておこう。まえがきの書き出しから挑戦的だった。
「わが国。パソコン業界の盟主、日本電気が、一つの影に脅えている。
 その影は、我が国電機業界で圧倒的な販売力を誇る松下電器グループと、我
が国コンピュータ業界のトップ富士通の対日本電気『連合軍』結成の動きであ
る。
 その動きが現在、表面化しているわけではない。しかし、ワークステーションと呼ばれる16ビット・パソコンの上位機種(※サーバーの前身)では、富士通と松下はすでに同じ機種を別々のブランドとそれぞれの販売ルートで売っているのである。これが、パソコン戦争での松下と富士通の全面的な提携に進んでもまったくおかしくないのである。(中略)
 C&C(コンピュータ&コミュニケーション)を企業戦略とする日本電気は、通信の分野では常に我が国のリーディング・カンパニーとして確固たる地位を築いてきた。しかし、コンピュータの分野では、大中型汎用機でIBM互換路線をとらなかったこともあって、常に富士通、日本IBM、日立の後塵を拝し続けている。
 日本電気のコンピュータ事業がここ数年急伸し、日立を抜いて日本IBMまでとらえることができたのは、言うまでもなくパソコンのおかげである。中大型機市場での劣勢を早急に回復することがきわめて難しい現在、パソコンは日本電気にとってコンピュータ事業部門での最後の砦なのだ。
 その日本電気を急追しているのが富士通。初期戦略を誤ったためパソコン戦争では日本電気にかなりの差をつけられたが、来るべき高度情報化社会のキーをパソコンが握るとあっては、日本電気との差をいま詰めておかなければ大変なことになる。
 我が国家電の盟主、松下電器も、日本電気の独走を指をくわえて見ているわけにはいかない。
 松下電器は昭和39年、松下幸之助の決断で、いったんコンピュータ事業から撤退した。そのツケをいま払わなければならなくなっている。
 パソコンを手掛かりに、コンピュータへの再参入を図ろうとしている松下電器だが、20年近くもの間、汎用のコンピュータ事業にソッポを向いてきただけに、一朝一夕では先発メーカーとの技術格差は埋められない。
 しかし、家電で培った販売のノウハウと流通チャネルは、ライバルが束になってもかなわないものがある。(※当時はまだ家電量販店は家電流通のほんの数%のシェアしか握っていなかった。家電流通の主流は自動車と同じくメーカー系列の小売店だった)
 その松下電器の販売力と富士通の技術力がドッキングすれば、パソコン戦争に大波乱が起こることは必至である。日本電気が両社の動きに戦々恐々とするわけだ。                        昭和60年10月」
 実は水面下で松下と富士通が連携を模索していたわけではない。このような
書き方は、ジャーナリズムとして許容限度ぎりぎりのレトリックであると私は考え、こういうショッキングなまえがきを書いた。だから本文では、松下電器と富士通は連合軍を組み、それに日立や東芝、三菱などを巻き込むべきだという趣旨の提案をしている。その部分も転記しておく。
「(逆立ちしても日本電気には勝てない)富士通と松下電器にも、起死回生の手が一つだけある。パソコン事業に関して両社が全面的に提携することだ。具体的には、16ビット機及び次世代の32ビット機を共同開発するのだ。その舞台はパナファコムであってもいいし、新しい共同開発体制を作り上げてもいい。
 もちろん、共同開発した機種は松下電機、富士通の販売ルートに同時に乗せる(ブランドは別でもよい)。そのうえで、開発したマシンのアーキテクチャーを思い切って公開してしまうのだ。松下・富士通連合軍に他のパソコン・メーカーを取り込むためである。そうなればサードパーティや他メーカーも無視できなくなる」
 これで、私が極秘情報を入手してスクープしたものではないことが明白になったと思う。で、結果はどうなったか。このブログの読者も興味をそそられるであろう。私の提案は実現したのである。ただ、時間がかかりすぎた。私が提案したのは85年11月で、この時期だったらまだ日本電気の独走に「待った」をかけるチャンスが多少はあった。が、松下と富士通が連合軍を組んでクローンなパソコンを売り出したのは87年10月だった。その2年の間に、日本電気のPC98シリーズはパソコン市場の90%近くを占めてしまっており、PC98用のアプリケーション・ソフトが“万里の長城”として機能し、ライバルを市場から締め出していた。そうなってしまってから松下と富士通が手を組んだところで、それは負け犬の遠吠えほどの威力もなかった。実際、連合軍は敗北に次ぐ敗北を続けた。
 それはともかく、松下と富士通がパソコン事業で連携するというのは、パソコン業界のビッグニュースだった。両社のトップが顔をそろえた記者発表の会場には外国人特派員も含め数百人の記者が押し寄せ、会場に入れない記者が出る騒ぎとなった。当然日本経済新聞は1面トップで大々的にこのビッグニュースを取り上げ、一般紙も経済面のトップは言うまでもなく、1面でもかなりのスペースを割いて報道したくらいだった。NHKも7時のニュースのトップで報道したと記憶している。
 実はそのことで私は妻からえらく叱られた。せっかくそれだけの記者会見に出ていながら、なぜあなたが松下・富士通連合軍を2年前に提案していたことを会見の席上で言わなかったのか、というのである。私はすごくシャイな性格で、ものを書くときはきわめて厳しい書き方をするが、自分を売り込むことになんとなく恥ずかしさを感じてしまう性分がある。たとえば処女作の『徳洲会の挑戦』を出した時、竹村健一氏のテレビ番組にゲストとして呼ばれ(祥伝社の伊賀編集長が竹村氏に頼んでくれたのだと思う)、収録が終わった後竹村氏から呼び止められ、名刺をくれて「君は面白い発想をするね。私の事務所に遊びに来なさい」と言ってくれたが、私は一度も竹村氏の事務所に足を運んだことがない。この損な性格は一生、治らないだろう。
 孫氏との付き合いは、彼が重い病を患っていたこともあって、その後、途絶えていた。そして漫画ブームによってものを書く機会を失い、無為な日々を過ごしていた時、ふとパソコン戦争に関する本はかなり書いてきたのに、パソコンの黎明期を走り抜けていった「神童と天才」のライバル物語はだれも書いていないことに気づいた。で、急にそのライバル物語を書きたくなり、親しかった光文社の編集長に持ちかけたところ、二つ返事でOKをくれた。それが私の最後の著作となった『西和彦の閃き 孫正義のバネ』である。同書のまえがきで私はこう書いた。
「私はライバルを否定的な関係ととらえていない。相手から刺激を受け、互いに切磋琢磨することで自らを向上させ合うような関係であるべきだと考えている。
 日本では競争するというと、互いに足の引っ張り合いをするという関係のように思われがちだが、これはフェアな競争の仕方ではない。フェアな競争とは、相手をつまずかせることではなく、知恵と努力によって相手の優位に立つことでなければならない。だから最大のライバルとは、互いに尊敬し合える関係でなければならない。私はそういう関係として西と孫の二人をとらえ、二人がパーソナル・コンピューティング革命の影の仕掛け人としていかに競い合ってきたかを書きたいと思う。(中略――このあと西と孫が直面している重大な難問について書いたが、長くなるので省略する)
 たとえそうした問題を抱えていようと、西と孫の二人は依然として日本の輝けるベンチャーの足であり、のちに続く若者たちのためにもジャパニーズ・ドリームの芽を摘んではならないと思う。
(※私の最後の著作になるかもしれないという予感を込めて)最後に、ジャーナリストとしての私の信条を述べておく。
 批判する時は愛情を持って、評価する時は批判精神を持って――」
 さて、書き終えた後のあとがきではどう書いたか。
「私は本書の執筆に際し、二人のアントレプレナーに対してここまで厳しく迫るつもりは、当初はなかった。西も孫も私の取材に気持ちよく応じてくれた。
 ただ私のスタンスは、二人のアントレプレナーのほうにではなく、私の本を、お金を出して買い求めてくださるだろう読者の方に向いていたというだけのことである。
 今さら言うまでもなく、一歳違いの西と孫は、日本の産業史の中でも一つの
エポックを築いた時代を、自らがその担い手になることで風のように駆け抜け
ていこうとしている。
 新しい時代の風を肩に背負う人間は、どの時代でも、古い時代にしがみつこうとする人たちからの抵抗を受ける。孫の好きな坂本龍馬や織田信長がそうだったし、私はこの二人に高杉晋作も加えたい。高杉晋作は坂本と同じく若くして人生を閉じたが、彼は明治維新が成る前にすでに士農工商の封建的な身分制度を排した軍隊を創設し、長州藩の長老たちから命を狙われた。そういう意味では、坂本が仕組んだ薩長連合より、思想的には一歩先に維新を実現していたと言えなくもない。
 西和彦も、そして孫正義も、これから旧勢力との骨身を削る戦いの秋(とき)を迎えようとしているように、私には思える。その中を、彼らがどんな羅針盤を操って乗り切っていくか、彼らの本当の真価が問われるのは、これからの10年間である。(後略)」
 読者の皆さんはすでにご承知のように西氏は経営していたアスキーの粉飾決算が税務当局によって摘発され、責任をとってアスキーの経営から身を引いただけでなく実業界からも姿を消した。孫氏は同書で私が徹底的に批判した、「メディアの帝王」と呼ばれていたルパート・マードック氏と組んで始めたデジタル衛星放送のJスカイB(のちのスカパー)の社長の座を追われ、デジタル衛星放送の世界から追放された。そして現在は携帯電話市場(スマホも含む)で先行していたNTTドコモやKDDIとしのぎを削る戦いをしている。
 当時、孫氏は自らの企業理念について「デジタル情報革命のインフラ事業で世界一を目指す」と豪語していた。そのころ彼はやたらめったらM&Aを繰り返していて、マスコミから「マネーゲームだ」と批判を浴びていた。その批判に対する孫氏の反論が、「私が買収しているのはデジタルインフラの会社だけだ」だったのである。その当時はまだ日本長期信用銀行の買収に乗り出していず、彼の言い分の化けの皮はまだかろうじて剥がれていなかった。
 実際、孫氏は毀誉褒貶が多く、多くのノンフィクション・ライター(私のよ
うなジャーナリストではない)が、彼の評伝を書いていた。彼らのすべてが、孫氏の事業やM&Aはすべて「デジタル情報インフラの構築のため」という主張の虚構を見抜けなかった。その虚構を初めて明らかにしたのが私である。そのため私は孫氏から、その後取材拒否宣告を受けた。とりあえず私が孫氏の化けの皮を剥いだ個所を同書から転記しておこう。

 ところが、キングストン・テクノロジーはアメリカの増設メモリボードの最大手メーカーである。パソコンのハードウェアの心臓部はもちろんMPUだが、MPUだけではパソコンは動かない。MPUにどういう演算をさせるかという命令を蓄えるメモリがパソコンには必要不可欠だ。だから、どんなに安いパソコンでも必ず、ある程度の量のメモリが搭載されているのだが、メーカーはパソコンのハード・コストを安く抑えるためメモリの容量をできるだけ小さくする(※今はそういうパソコン・メーカーはほとんどない。最初からある程度の容量のメモリを搭載しておいた方がかえって安上がりになり、消費者から歓迎されることにようやく気づいたからだ)。たとえばウィンドウズ95を動かすには最低でも16メガバイトのメモリが必要で、ウィンドウズ95の上で動かすアプリケーションによっては32メガバイト以上のメモリ容量が必要となる。そこでパソコン本体に内蔵されているメモリ容量では不足することになるため、ユーザーは増設メモリボードを買うことになる。キングストン・テクノロジーはこの分野で世界のトップに位置し、シェアは60%に達しているといわれる。
 しかし、それにしても、なぜ孫は増設メモリという異質なビジネスに手を出したのか。孫はこう釈明した。
「パソコンが情報を提供するメディアだとするならば、情報の容れ物に相当するのがメモリボードで、その分野のナンバーワンがキングストンです。たとえば出版の世界で言えば紙に相当するのがメモリ。つまりメモリはデジタル情報のインフラの一つなんです」
 しかし、これはどう贔屓目(ひいきめ)に見てもこじつけでしかない。で、私はこう批判した。
 ――孫さんの説明には無理がある。これまで孫さんがやってきたのはデジタル情報のインフラ。シスコシステムズのルーターだけが例外でハードウェアだが、実際に付加価値を持っているのはルーターに組み込まれているソフトだというから、私は納得した。しかしキングストンがやっているのはパソコンの周辺装置で、それをあえてインフラと位置付けるならパソコン関連のビジネスはすべてインフラということになるではないか。
 孫は私の主張に何度も頷いた。
「おっしゃる意味は非常によくわかります。実はキングストンは厳密な意味で
は製造業ではないんです。工場を持っていませんからね。メモリボードは半導
体メーカーに外注しているんですよ。
 ではキングストンの製品にはどんな付加価値があるかというと、パソコンの種類は全部で2千機種ほどあって、皆少しずつ違う。そのためメモリボードも相手の機種に合わせてサイズとかスピードを少しずつ変えなければならない。そしてキングストンはその設計技術で世界一なんです。だからわれわれはテクノロジー・サービス・カンパニーという位置づけをしているんですよ。建築でいえば設計事務所みたいなものです」
 ――かと言ってインフラ・ビジネスではありませんよね。
「実はキングストンを買収した理由は三つあります。
 一つはJスカイBの創業赤字をどうやって埋めるかということです(※このインタビューの時点では孫氏はデジタル衛星放送で先行していたパーフェクTVやディレクTVの2社と競争して勝てると、まともに考えていたことのれっきとした証拠である)。おそらく2~3年間はソフトバンクだけで年間100~200億円の赤字を覚悟しなければならない。で、その赤字を埋める収益源がどうしても欲しかったのです(※この発言こそマネーゲームのれっきとした証拠だ)。
 二つ目は、ソフトバンクはソフトだけを流通させてきただけではなく、現在では売上の5割以上がハードになっていて、その中心がメモリボードなんです。だから、いずれはやりたいとずっと思っていたんです。
 最後に、キングストンの二人のオーナーとずっと付き合ってきて、かなり意気投合していました。彼らなら安心してそのまま経営を任せることができると思いました」(※最後はキングストン買収の理由にはならない。こじつけもいい加減にしろと言いたいくらいの詭弁でしかない)(中略)
 私がアスキーの西和彦を取材した時、「孫さんのM&Aは基本的には理解できるが、キングストンだけはわからない」と言ったら、西は「ボクが半導体に手を出したから対抗意識でキングストンを買ったんじゃないの」とうがったことを言った。案外、それが真相なのかもしれない。

 同書で、私は「JスカイBは絶対失敗する」とも書いた。それが、孫氏の逆鱗に触れたようだ。ゲラを広報に渡して「読んでいただいた」直後、孫氏から呼び出された。
 私がゲラを「読んでいただいた」と書いたのには私なりのジャーナリストとしての良心の表れである。なぜ「読んでいただく」必要があると私が思ったのか。私は孫氏や西氏のための本を書いたのではなく、貴重な金を出して買ってくださる方のために、万一私の思い違いや独りよがりの思い込みで間違ったことを書いたら取り返しがつかないことになる、と考えたからである。そうした考え方はしばしばジャーナリスト、とくに新聞社系の先輩諸氏から批判を受けた。だが、私は自分の信念を最後まで曲げなかった。私のスタンスは取材対象にも、出版社にも、顔を向けないという主義だからだ。私が顔を向ける相手は常に金を払って私の本を読んでくださる読者である。
 だからゲラを広報に渡す時、「読んでください」とお願いしてきた。その上で、「ただし、私が修正するのは事実に関する間違いの部分だけです。私の主張は私自身のものであり、私の主張を変えてほしいと言われても、私が納得できる理由がないかぎり変えません」と申し上げてきた。実は三菱重工の広報にゲラを渡して間違いがないかどうかのチェックをお願いしたとき、「小林さんと全く同じご依頼をされた方がいます。柳田邦男さんです」と言われて、私は自分の姿勢が間違っていなかったと、涙が出るほど嬉しくなったことを昨日のように覚えている。
 しかし、こうした行為はしばしば取材相手とのトラブルを引き起こすことになる。事実についての間違いに対する指摘だったら、私は一も二もなく訂正するのだが、「都合の悪いことは書いてほしくない」といった要求を取材相手からされることがあるのだ。「そういうたぐいの要求には一切応じられない」と、広報には伝えてあるのだが、広報が取材相手にゲラを渡す時、「小林さんから、そう釘を刺されていますから」と説明していないことが多いのである。そのためゲラを読んだ相手は、「検閲する権利がある」とでも勘違いしてしまうようだ。
 この本の場合も、そうだった。実は孫氏に対する批判より西氏に対する批判のほうがはるかに手厳しかったのだが、西氏は「間違いはまったくありません。このままで結構です」と電話してきた。が、孫氏のほうは一筋縄ではいかなかった。私が日本という狭い市場で、しかも地上波やWOWOWによっていやというほどエンターテインメントのコンテンツが溢れている。そうした日本の放送事情を知りながら、新たに1基で100~150チャンネルをカバーできるデジタル放送衛星(正確には放送ステーション)が3基も競争して、共倒れしないわけがない、というのが私の論理的結論で、だから孫氏がマードック氏と組んで始めようとしているJスカイBは間違いなく失敗に終わると結論付けたのである。
 その主張が孫氏のご機嫌を損ねた。彼はソフトバンク本社の社長応接室で、3時間に及んで私を何とか説得しようとした。
 孫「私はゴルフが大好きだ。暇なときにいつでもゴルフのコンテンツを見ることができるようになったら、こんな素晴らしいことはない」
 私「それは孫さんの個人的事情でしょう。日本人の何人が孫さんのような個人的事情を持っていますか。何人が孫さんのように特定のコンテンツにこだわりますか。そういう調査をしたうえでの主張でしたら、調査結果に基づいて成功する可能性についても書きますよ」
 孫「……」
 私「あるいは、私の論理的結論の出し方について批判がおありなら、孫さんの主張も書き加えますが……」
 孫「小林さん、わかってくださいよ。私はこのビジネスに命をかけているんです。本当に命がけでやっているんですよ」
 私「私も、命がけで本を書いています。だけど命がけで書けば本が売れると
は限らない。事業経営者はみな命がけで経営に取り組んでいる。命がけで取り
組めば成功するなら、失敗する経営者はいませんよ」
 どうしても私を説得できないことを悟った孫氏は、とんでもないことを言い
出した。
 孫「じゃあ小林さん、賭けをしよう。もし来年中に会員が150~200万人になったら私の勝ち。そこまでいかなかったら小林さんの勝ち。掛け金は、そう、私が負けたら30万円払う。私が勝ったら貰うのは3万円でいい」
 私は呆れるしかなかった。孫氏の最後の捨て台詞がこの賭けの約束を私に勝手に押し付けたことだった。もちろん、私は無視した。まさか、と思われる方が多いと思うが、このやり取りは当時の広報室長が同席し、録音もしている。孫氏は私を名誉棄損で告訴することもできない。
 ついでに書いておくが、彼はこの話し合いの席で、突然席を立つと、1冊の薄っぺらな本を持ってきた。
「これは孫家の系図に代々の孫家の人間がどういうポジションにあり、何をしてきたかを書いた世界に1冊しかない本です。私は日本国籍を獲得するまでは、在日韓国人三世だったと思われているけど、孫家のルーツは韓国ではなく中国の由緒ある名家なんです。たまたま先祖が中国国内での権力闘争に負けて韓国に逃れ、祖父の代に日本に来たから在日韓国人ということになってしまったんです。当時は日本では孫姓を名乗れないため、便宜上安本という姓を名乗ってきたけど、私は孫家のルーツに誇りを持っているから、安本姓を捨てて孫姓にこだわって日本国籍を獲得したんですよ」
 何が目的で、「今まで家族以外にだれにも話したことがない」という、そんな孫家のルーツをこの場で持ち出したのかは知る由もないが、孫氏としては私を泣き落としたかったのかもしれない。いずれにせよ、そんな話はスクープにもならないと思ったので同書に書き加えることはしなかったが、それほど私を説得することに孫氏は必死だったということだけは言える。
 ちなみに、その後、孫氏は命をかけたはずのデジタル衛星放送の事業から完全に手を引いた。孫氏は、いったい、いくつ命を持っているのだろうか。彼のルーツに伝わる中国伝来の不老長寿の妙薬を服用しているのかもしれない。
 これまでは、武士の情けでこの話は墓場まで持っていくつもりだったが、孫
氏が社長を務めるソフトバンクBBから私は詐欺に会いかけたため、孫氏の人
間性をこの際、明らかにすることにしたというわけだ。

 さて私が被害に会いかけたソフトバンクBBの組織的詐欺行為について書く時が来た。私はインターネットを始めた当初は、パソコンショップが設定してくれたNTT系のプロバイダーを使っていた。が、友人からソネットがいいという話を聞いてソネットに乗り換えてかれこれ10年近くになっていた。ソネットはきわめて良心的で、技術サポートもしっかりしており、ずっと信頼してきた。
 私はNTTやNTTの代理店や光とセットでパソコンをディスカウント販売し
ている量販店やパソコンショップが推進しているひかりをまったく信用していない。それにインターネットとセットでしかひかり電話に加入させないNTT商法に指をくわえている消費者庁や公正取引委員会に疑問を持たざるを得ない。
 実はソネットもひかりのキャンペーンをした時期があって、私もひかり回線にしたことがある。キャンペーンの一つにNTTの工事費が無料ということだったが、その代わり6か月以内に解約すると工事代金が発生するということだったので、やむを得ず6か月間契約を続けたが、6か月後には直ちに契約を解消した。何のメリットもなかったし、ひかり電話ではかけられない先もあり(初期にはフリーダイヤルの0120やナビダイヤルの0570、他社の携帯電話やIP電話にもかけられなかった)、かえって不便になった。そういうデメリットをNTTも代理店も一切説明せず、ひかり電話は安いというメリット(これも誇大広告)だけを強調していた。
 結局12メガのADSLに戻したが、ひかりよりADSLのほうが有利なこととADSLを普及させるために、例えば携帯電話の基地局のように無人の基地局を多く配置したほうが理にかなっていることを、2009年10月18日に投稿したブログ『インターネット接続を最も早くする方法をお教えします』で詳述したので、まだお読みになっていない方はぜひ読んでいただきたい。
 私がプロバイダーをソネットからソフトバンクBBに代えたのは、「ヤフオク(ヤフー・オークション)」に金額制限がなく入札できるためだった。送料を考えるとディスカウント・ショップで買った方が安いケースもあるが、出品商品の大半は送料を加算してもオークションで買った方が有利である。また12メガADSLの料金も、ソネットよりかなり安いキャンペーンをソフトバンクBBはしていた(現在も継続中だと思う)。
 で、ソネットに解約を申し出ると、「もし料金のことならご相談に応じさせていただきますが」と言われたが、私の最大の目的はいつでもヤフオクに入札できることにあったので、考えを変える余地はなかった。
 契約を申し込むため私が電話したソフトバンクBBの契約窓口の女性は実にフェアだった。キャンペーン内容の確認はもとより付帯の各種セットについてもきちんと説明してくれた。彼女からまず、現在のインターネット使用状況を尋ねられた。私は目が悪いので(そのため自動車運転免許も更新できなかった)、新聞などは拡大鏡を使って見ているほどだと伝え、だからパソコンもノート型は無理で、21インチのディスプレーとDELLのデスクトップ・パソコンにしていると答えた。
「では無線LANはお使いですか」と聞かれたので、「いや、壁の電話ジャックから直接電話線でモデムにつないでいます」と答えたら、彼女は「それなら無線LANパックは必要ないですね。本当のところ、無線にされる場合でも量販店でLAN機器をお買いになったほうが、うちのパックよりはるかに有利ですからね」と丁寧に説明してくれた。私は「無線は必要ないが、IP電話だけ付けてください」とお願いして、基本的な契約内容の確認はすんだ。またソネットから切り替える時期も、私にとって最も有利な時期にしてくれた。雑談で、ひかりよりADSLのほうがはるかに合理的で有利だという私の持論にも大賛成してくれ、本当に客の立場になって考えてくれる方だった。
 ところが実際には、私の知らないところでとんでもないことがソフトバンクBBの内部で進行していた。私がまったく覚えのない契約をさせられていたことを知ったのは、まったくの偶然からだった。
 実は8月の初めに、私は個人的事情で転居した。転居することをソフトバンクBBに電話連絡したところ「契約内容にご変更はありませんか」と聞かれたので、ふと不安を感じ、「どういう契約になっているか教えてほしい」と言ったところ、「お調べします」と言って少し待たされた後「無線LANパックをご利用ですが、それは継続されますか」と聞かれ、私はびっくりした。
 当然私は「無線LANなんか使っていないよ。私はモデムを直接電話ジャックから電話コードでつないでいる。ソフトバンクBBさんに契約を申し込んだ時点で、そのことはお話してあるはずだ」と言ったが、相手は「でも無線LANパックに申し込まれています。モデムをお送りした箱にLANカードが入っていま
せんでしたか」と聞かれ、覚えがなかったので「そんなの知らない」と答えた。
 歳なので忘れてしまっていたようで、あとで書くがLANカードがモデムと一緒に送られていて、私はソフトバンクBBに送り返していたようだった。
 いずれにせよ、無線LANは使っていなかったが、転居先ではパソコンを使う予定の部屋に電話ジャックがないので、何らかの方法を考える必要があった。で、ヤフオクで無線LAN用の親機と子機のセットの相場を調べてみたらせいぜい3000円程度だった。買ってもその程度の値段ならソフトバンクに「無線LANセット」を申し込んでも月額せいぜい100円くらいだろうと思い、「転居先では無線LANを使いたいのだが、ソフトバンクBBさんにお願いするといくらするんですか」と聞いて、再び仰天した。「月額1000円ちょっとです」と、いけしゃあしゃあと答えたからだ。「買っても3000円くらいのものだよ」と言ったが、相手は動じない。「当社の無線LANパックはその料金をいただいております」「そんなパック料金払う人がいるの?」「さぁ、ほかの会員さまのことについてはお答えしかねます」「じゃ、いい。自分で対策を考えるから」と言い、ソフトバンクBBに無線LANパックを申し込むのはやめることにした。
 その直後、ソフトバンクBBから電話があり、「確認したところ、無線LANパックのご契約はされていないことがわかりました。ただ、お客様はクレジット払いにされており、すでに8月請求分がクレジット会社にわたってしまっています。そのため、ご請求を取り消すことができませんので、クレジット会社を経由してお返しするか、来月以降の請求分で調整させていただいてよろしいでしょうか」ということだった。私は「契約をしていないことさえ分かれば、どちらでも構わない」と申し上げ、この問題は解決したと思っていた。
 その後、転居当日、電話の工事に来たNTTの下請けの方が、「電話ジャックがあるのは隣の部屋だし、ドアの下に多少隙間があるから電話コードを引くのが一番安上がりですよ。コードの長さは5mもあれば十分でしょう。1000円もかかりませんよ」とアドバイスしてくれ、インターネット環境の問題は解決した。
 ところが、転居して数日後、転居先にソフトバンクBBからとんでもない通知(張り合わせハガキ)が届いた。宛名面には「無線LANパックご利用継続についてのお伺い」とあった。貼り合わせを剥がした中には以下の文面が書かれていた。

「平素は弊社サービスに格別のご高配を賜り深く御礼申し上げます。
 さて、お客様は『無線LANパック』にお申し込みをされておりますが、この
たび無線LAN機器が弊社に返却されておりましたので、確認のためご連絡差し
上げました。
 機器を返却された状態では、『無線LANパック』をご利用いただくことがで
きません。ご利用を継続される場合は、弊社インフォメーションセンターまでご連絡ください。
 なお、誠に恐れ入りますが、お客様からご連絡をいただけない場合は、下記期日にご利用を停止し、オプション解除の手続きを進めさせていただきます。
 何卒ご理解、ご了承いただけますようお願い申し上げます。
オプション利用停止日
2013年09月01日
ご解約日
上記ご利用停止日を含む月の末日」

 これはいったいどうなっているのか。私は怒り心頭に発した。
 もちろん、私は直ちにソフトバンクBBに電話をした。「こういう通知が来たが、話がまた振出しに戻ってしまった。いったいお宅の顧客管理はどうなっているんだ」と怒鳴った。
 電話に出た女性は「お調べします」と言って、少し待たされた後「お客様はまだ無線LANパックの契約を解約されていらっしゃいません。解約されますか」と、白々しくも言い放った。「ふざけるな。もう一度調べなおせ」と言って電話を切った。
 しばらくたって、その女性から電話があり、「申し訳ありませんでした。私ど
ものミスでございました」と謝ってきた。が、私はこのミスはケアレスミスではなく、ソフトバンクBBの組織的詐欺行為だと確信した。そのため「社長の孫が謝罪に来い。そうでなければ、この経緯をブログで告発するぞ」と怒りをぶちまけた。彼女は「しばらくお待ちください」と言って、いったん電話を切った。数分後、再度電話があり「孫は確かに当社の社長ですが、お客様に謝罪はいたしません。お客様にお送りした文書は私どものミスですので破棄してください」と言ってきた。
 私は「分かった。ブログにすべて書く。なお文書は重要な証拠物件だから破棄はしない」と言い、彼女は「ブログをお書きになるのはお客様の自由ですから、私どもがとやかく言えません」と答えた。
 実際、冗談もいい加減にしろ、と言いたい。転居後に送ってきた文書には「「お客様は『無線LANパック』に申し込みをされておりますが、この度無線LAN機器が当社に返却されておりました」「機器を返却された状態では、『無線LANパック』をご利用いただくことができません」と書かれており、かつ利用停止日は9月01日で解約日は9月末というふざけた内容だった。私はLANカードについては覚えがないと先に書いたが、ソフトバンクBBからの文書には「返却されている」と明記してある。もし返却していたのなら、モデムが届いた直後のはずで(その後私が返却したのは6月2日か3日だったことが分かった)、今頃になって「返却されているが、9月末までの料金は取る」という。豊田商事顔負けのあくどさだ。これが詐欺でなかったら、世の中に詐欺罪は存在しないことになる。
 まだある。私が今日(19日)不要になった品物をヤフオクに出品しようとしたが、どうしても出品できない。何度パソコン操作を繰り返しても出品が完了できないのだ。で、ためしに「プレミアム会員に申し込む」のボタンをクリックしたとたん出品ができた。ヤフオクのマイオークションには、プロバイダーがソネットだった時から、「今月の残り出品無料回数あと10回」と常に表示されていた。だが、ソフトバンクBBに加入後、「今月の残り出品無料回数あと30回」に増え、ヤフーのサービスもいいなと思った矢先だったので、やり方の汚さに怒りが倍加したというわけだ。
 なおソフトバンクBBのこういう営業手法(「無料出品回数あと○○回」と、あたかも無条件で無料出品できるかのような「プロポーズ」をしておきながら、実際には有料のプレミアム会員になることが条件だったという詐欺そのものの表示は、ソフトバンクが携帯電話の広告で公正取引委員会から厳重警告を受けたように、孫正義氏の常とう手段であり、その手法はおそらく彼がアメリカに留学中に身に付けてしまった体質的なものと言っても差し支えないだろう。 
 前回のイオンに関するブログは消費者庁の表示対策課に原文をFAXしたが
(ブログでは「公取委」に告発すると書いたが、管轄が消費者庁に移ったということなので、消費者庁にFAXした)、今回のブログも当然消費者庁に告発する。「赤子の魂百まで」と言われるが、仮に孫氏がソフトバンクから手を引いたとしても、彼のDNAはソフトバンクグループに当分の間継承されるだろう。企業文化というものはそういうものだからだ。
 おそらく私の年齢が若ければ、ソフトバンクBBもこうしたあくどいやり方はしなかったと思う。年寄りだから簡単に騙せると思ってやった組織犯罪だと私は確信した。つまり「振り込め詐欺」と同じ手口なのだ。そうした組織的詐欺行為の責任は、当然最高責任者の孫にある。孫が指図していなければ、このような組織的詐欺行為はできないはずだからだ。
 孫は高校卒業後、渡米して名門カルフォルニア大学バークレー校で学んだ。が、彼がアメリカで学んだことは、ビジネス社会でのアメリカ人の最も汚いやり方でしかなかったようだ。