今日午後、安倍総理が設置した安保法制懇の報告書がようやく提出される運びになった。内容は、すでに朝日新聞が北岡座長代理から取材した結果としてスクープした、10日付け朝刊に掲載された報告書概要と同じである。やはり、取材先を特定してスクープした記事の信頼性は、特定しない(たとえば「政府高官」とか「関係筋」といった情報源の「秘匿」)記事の信頼性が極めて低いことを結果的に裏付けることになった。
昨日(14日)朝刊で朝日新聞は入手した報告書全文の要旨を明らかにした。確かにそうそうたるメンバーが1年以上かけて練り上げただけに、それなりに説得力を持ち得る内容になっている。
安保法制懇は過去6回行われた(第1次安倍内閣のときは除く)。そのすべてに安倍総理と菅官房長官(国家安全保障強化担当大臣を兼務)が出席している。この6回開かれた懇談会で座長の柳井元駐米大使が出席したのは1回目(昨年2月8日)と最後の6回目(今年2月4日)の2回だけである。ほかの4回は国際大学長の北岡座長代理が事実上座長として懇談会を仕切ってきた。安倍総理は毎回冒頭であいさつし、その日の会議のテーマを指示してきた。当初、報告書は昨年末には出る予定だった。が、出すことができず今年の4月に繰り延べされたが、それも不可能になり、ゴールデンウィーク明けにはと日延べされたが、さらに延期されようやく今日、提出されることになった。
集団的自衛権については、1981年に「固有の権利として有してはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」とした政府見解が33年間、変えられることはなかった。が、安倍総理は第1次安倍内閣のときから政府の「集団的自衛権解釈」の変更に強い意欲を示してきた。今回の報告書提出は、碁や将棋でいえば決め手の一手を指したことを意味する。素人の碁や将棋のような「待った」はもう出来ない。安倍総理の行方には、「政界からの永久引責辞任」しか待っていない。そのことを検証する。
報告書は集団的自衛権の行使について憲法9条との論理的整合性について次のように述べている。
憲法第9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」としていたのを、1950年代には「自衛のための抗争は放棄していない」とした。最高裁判所が、59年のいわゆる砂川事件大法廷判決において「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり
うることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない」
という法律判断を下したことは特筆すべきことである。70年代以降、政府は、憲法は自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じていないが、その措置は必要最低限度の範囲にとどまるべきであり、集団的自衛権の行使はその範囲を超えるものであって、憲法上許されない、との立場を示すに至り、政府の憲法解釈は、今日まで変更されていない。
国家の使命の最大のものは、国民の安全を守ることである。ある時点の特定の状況下で示された憲法論が固定化され、安全保障環境の大きな変化にかかわらず、その憲法論の下で安全保障政策が硬直化するようでは、憲法論のゆくえに国民の安全が害されることになりかねない。(※これは正論である。だから私は、現行憲法は占領下において制定されたものであり、日本が二度と軍事力を行使できないようにするために9条が設けられ、丸裸になった日本の安全を守るために連合軍(事実上米軍)が日本に駐留し、日本を防衛していたと、占領下における憲法の意味を何度も書いてきた。だから、日本が独立を回復した時点で、主権国家として「自分の国と国民の安全は自分たちで守る」という責任と義務を明確にした新憲法を制定すべきだったと主張してきたのである。もちろん、独立回復と同時に「無効」になったはずの現行憲法の平和主義の理念は継承することは大前提だが)
我が国を取り巻く国際環境が厳しさをましていく中で、将来にわたる軍事技術の変化を見通したうえで、我が国が本当に必要最小限度の範囲として個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点の論証はなされてこなかった。また、個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、前者のみが憲法上強要されるという分離解釈上の根拠は何も示されていない。(※これも正論である。だから私は集団的自衛権を定義した政府答弁書を作成した○○省○○局の幹部官僚に質問し、「安倍内閣が従来の集団的自衛権についての見解を変更していること、そのことを国民に全く説明していないこと」を事実かどうか聞いた時、間髪を入れず「その通りです」と答えたことでもはっきりしている。安保法制懇の報告書も、事実上、それを認めている。そこまで論理的な主張ができたのなら「個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け(た)…分離解釈の根拠は何も示されていない」の論理的延長として、個別的自衛権も集団的自衛権も、自国を防衛する手段として、国連加盟国のすべてに認められた固有の権利である、と解釈するのが論理的妥当性を持つことになぜ気が付かないのか)
憲法前文は、平和的生存権を確認し、第13条は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利について定めているが、これらを守るためには、我が国が侵略されず独立を維持していることが前提条件であり(※これはウソ。現行憲法は日本が占領下にあるときに制定されており、独立主権国家を前提にしていない。だから9条の制定と引きかえに米軍が日本防衛の任に当たったのだ)、外からの攻撃や脅迫を排除する適切な自衛力の保持と行使が不可欠である。基本的人権と
同様の根本原則として理解されている国民主権原理の実現には主権者たる国民
の生存の確保が前提であり(※そのための全責任を負ったのが占領下=現行憲法下=においては米軍であった)、我が国の平和と安全が維持されその存立が確保されていなければならない(※この責任も現行憲法下では米軍が負うことになる)。国権の行使を行う政府の憲法解釈が国民と国家の安全を危機に陥れるようなことがあってはならない。憲法前文及び第98条の国際協調主義の精神から、国際的な活動への参加は、我が国が最も積極的に取り組むべき分野と言わねばならない。我が国の平和主義は、同じく日本国憲法の根本原則である国際協調主義を前提として解されるべきである。(※これは現行憲法の解釈変更によって実現されるべきことではなく、主権国家としての尊厳を前提に平和主義の理念を継承しつつ、日本が現在、国際社会において占めている地位や地理的環境にふさわしい、国際平和と安全に貢献すべき、主権国家の責務として新憲法に明記すべきである)
その後、集団的自衛権の行使が容認できる「具体的行動の事例」が六つ述べられているが、その内容はすでに朝日新聞が10日付朝刊でスクープした内容で、私もブログですでに書いたが、改めて簡略して述べる。
問題は「集団的自衛権」についての新解釈だ。従来の政府見解は「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」が集団的自衛権だった。その見解を報告書は政府が解釈変更した通りに変えたのである。それが行使容認の6要件だ。
NHKが5月6日午後6時10分から『大人のドリルスペシャル 今さら聞けない集団的自衛権のイロハ』という解説番組を放映した。これがおおよその集団的自衛権についての理解であろう。NHKが集団的自衛権について分かりやすく伝えようとした意図は理解できるが、とんでもない番組を作ってしまった。集団的自衛権を「正当防衛」と同一視して解説したのである。
私は集団的自衛権について、数えきれないほどブログを書いてきたので、いつのブログで書いたのかを調べるより、同じことをもう一度書いたほうが早いので再度書くが、前に政府の集団的自衛権解釈は「正当防衛」と同一視していることを指摘したことがある。正当防衛はおそらく民主主義国家のほとんどで罪に問われないが(「過剰防衛」として罪に問われることもある)、これは「防衛」の権利であって、「自衛」とは意味が多少違う。
正当防衛は、確かに他人が不当に誰かから暴力を振るわれた場合、その場に居合わせた人がその人を助けることを目的とした暴力的行為も正当防衛として罪に問われないことがある。これは個人間の、言うなら「ケンカ」のケースでの暴力行為のことである。国際紛争の解決手段としての「自衛権」と同一視して論じること自体、いくらわかりやすく解説したいという意図があったにせよ、視聴者を混乱させるだけで、番組制作者の見識が問われてもやむをえまい。
そもそも国連憲章が、いつ、どういう目的で作られたのかすら番組制作者は調べなかったのだろう。国連憲章は終戦前の2045年6月、枢軸国(日独伊)と第二次世界大戦を戦っていた連合国が、自分たちの戦争を正当化するために作ったものである。だから今でも改正されずに残っている条項に「敵国条項」があり、戦後の45年10月に国連憲章を国際社会のルールとして結成された国際連合(国連)にとって日独伊はいまだに「敵国」のはずである。いや、そもそも国連と日本語訳されている英語の原語は「連合国」であって「国際連合」ではない。だから「国連安保理常任理事国」は連合国の中枢であった米英仏ソ(今は露)中の5か国のままで、5か国は巨大な権能を持っている。
まず国連憲章は「国連」加盟国に、国際紛争の武力による解決を禁じている。実際に国際紛争が生じたときには平和的に解決することを義務付けている。が、平和的解決が困難な場合を想定して、国連憲章は国連安保理に経済制裁などあらゆる非軍事的措置を行うことを認めている(第41条)。それでも解決できなかった場合は、国連安保理にあらゆる軍事的措置を行うことも認めている(42条)。そうしたあらゆる国連安保理の機能を行使しても国際紛争を解決できなかった場合や、安保理が機能不全に陥るケースも想定して国連憲章は国連加盟国に「固有の権利」として「自衛権」を認めることにした。それが第51条である。
もう一度想起していただきたい。国連憲章が作られたのは45年6月であり、国連憲章作成の中心的役割を果たしたアメリカが広島と長崎に原爆を落として日本の息の根を止めたのは8月、そして第二次世界大戦が終結したのちに「国連」は結成されている。「第二次世界大戦のような悲劇を繰り返さないために作られたのが国連」というのは、後から作られた「神話」にすぎないのだ。
しかし、国際紛争を平和的に解決することは困難で(国連安保理で決議を行っても多数決では決められず、連合国の中枢であった5か国が常任理事国として拒否権を持っているため、米英仏露中の一国でも拒否権を行使すれば、紛争解決のために安保理に付与されたあらゆる権能(41条及び42条)の行使は不可能になる。実際国連安保理設置後、一度もその権能を行使したことはない。
そのため国連安保理が紛争解決の措置をとるまでの間、「国連」加盟国は憲章51条において自衛権(個別的又は集団的)を行使する権利を固有のものとして認めることにしたのである。つまり個別的も集団的も、ともに自衛の手段であり、それ以上でもなければそれ以下でもないのだ。そう考えると個別的自衛手段が日本の場合自衛隊や海上保安庁であり、集団的自衛権は有事の際日米安保条約に基づいてアメリカに「助けてくれ」と軍事的支援を要請する権利を意味
し、すでに持っていると考えるのが子どもでも分かる文理解釈だ。
それが、なぜ集団的自衛権は「密接な関係にある国を防衛する権利」などという個人のケンカでの正当防衛としての暴力の行使と同一視した解釈になってしまったのか――それが私にはどうしても理解できない。どこかの国が、意図的に集団的自衛権の意味を拡大解釈して他国のある勢力を軍事的に支援するために軍事介入する際の口実に「集団的自衛権」を持ち出したのかもしれない。それが日本でも集団的自衛権の解釈として定着してしまった可能性は否定できないが、いま一度頭を冷やして、個別的自衛権も集団的自衛権も、憲章51条が「固有の権利」として認めているのは「自衛」の範囲つまり自国の防衛に限定された権利であることを、まずもって認識する必要がある。
卑近な例でいおう。竹島は、歴史的にも日本の領土である。が、日本がサンフランシスコ条約に調印して独立を回復した直後、韓国はどさくさに紛れて竹島を不法に武力侵攻し、以降60年にわたって軍事占拠している。もちろん日本政府は直ちに韓国政府に抗議したし、当時はアメリカも日本の主張を支持していた。
以降60年間、日本は韓国に抗議を続け、国際司法裁判所で決着を付けようと
韓国に申し入れているが、韓国は「領土問題はない」と一切応じない。日本の裁判は相手の承諾がなくても告訴できるし、告訴に応じなければ原告の主張を見なしたとして被告は全面敗訴する。が、国際司法裁判所は当事国の一方が訴えても、相手国が応じなければ裁判を開くことすらできない。そうした場合、日本は安保理に非軍事的措置あるいは軍事的措置の行使による解決を依頼する権利が生じるはずだが、その権利は行使できない。中国やロシアではなく、日本の訴えを日本の「同盟国」アメリカが拒否権を行使することが間違いないからだ。日本の独立回復直後には全面的に日本の主張を支持していたアメリカがなぜ態度を豹変させたのか、日本政府は「蛇ににらまれた蛙のように」アメリカの態度豹変の理由を聞くことすらできない。日本にとってアメリカはいざというとき頼りにできるはずの唯一の「同盟国」だが、アメリカにとって日本は数多い同盟国のワン・オブ・ゼムにすぎないからだ。
そうなると日本にとって固有の領土である竹島を取り返すには国連憲章51条が規定している「自衛権」を行使するしかない。が、行使しようとするとアメリカが立ち塞がって日本の実力行使を阻止することは日米韓の関係を見れば一目瞭然だ。否応なく外務省北東アジア局は、「日本は平和的解決の努力を行っていますので」と個別的自衛権の行使をためらっている。60年間平和的解決の努力を重ねても一歩も前進しなければ、個別的自衛権の行使によって竹島を奪還することは、いくらなんでも国際法に違反した行為とはどの国も言えない。が、日本が実力行使に出れば、日米関係は戦後かつてないほど冷え込むことは間違いない。はっきり言えば、日本はアメリカのご機嫌を損ねないために今後も100年、200年、日韓のどちらかが地球上から消滅するまで「平和的解決のための無駄な努力の真似事」を続ける気なのだ。
しょせん、そういうパワー・ポリティクスが横行する国際社会で、いくら日本が集団的自衛権の行使容認を憲法解釈の変更によって決めてアメリカにおべっかを使おうとも、アメリカは国際的儀礼慣行として「日本の決定を歓迎する」とリップ・サービスは口にするだろうが、リップ・サービスというものは、それ以上でもそれ以下でもない。「何もわかっていない」とはそういうことを意味する。
尖閣諸島は、オバマ大統領が日本を訪問した際「尖閣諸島は日米安保5条の適用範囲だ」と明言したとしても、もともと尖閣諸島はアメリカにとって中国の海洋進出の軍事的防衛ラインとして中国による占領を許すわけがない軍事的要衝だ。そう考えないと、アメリカの竹島に対する態度と尖閣の対する態度の巨大な落差の説明ができない。だが、米政府もアメリカ国民に対して北東アジア方面の軍事的支配権を維持するために、日本とくに沖縄にタダで基地を貸してもらっているなどとは口が裂けても説明しない。あたかも日米安保条約に基づいて日本を防衛するために日本各地に基地を置いていると説明している。そのため米国内では日米安保に対して「不平等条約だ」という不満の声が根強くあり、オバマ大統領が訪日した際リップ・サービスとして口約束した「尖閣諸島は日米安保条約5条の適用範囲だ」との発言が米政府内で問題になった。「アメリカのために血を流そうとしない日本のために、アメリカだけがなぜ血を流さなければならないのか」という反発が、オバマ大統領の尖閣発言で噴出したのだ。
前にも書いたが、オバマ大統領の尖閣発言は現在の中国の海洋進出政策に対する牽制球をとりあえず投げてみた、というほどの意味しか持たない。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん大統領の公式発言だから、それなりの重みはもつ。が、従来の集団的自衛権についての政府見解をいとも簡単に安倍内閣が覆そうとしているように、アメリカでも大統領が変われば尖閣問題に対する姿勢がどう変わるかわかったものではない。
いま、とりあえず日本政府が行うべきことは尖閣に恒久的な施設(小さな港や灯台のようなものでもいい)を作って実効支配に踏み切ることだ。中国は当然反発するだろうが、オバマ大統領の尖閣発言が有効性を維持している間が、尖閣諸島の領有権を確実なものにする唯一の方法だ。それすら日本政府がやらないということになると、有事の際、「日本が自己責任を果たしていないのに、なぜアメリカが尖閣を防衛しなければならないのか」という世論が、アメリカ国内に充満することは間違いない。沖縄米軍の高官が「中国兵が尖閣初頭に上
陸したら、海空からの砲爆撃で殲滅する」とのリップ・サービスも、「米軍はア
メリカ人の血を流さない範囲で」という意思の表明と受け止めるのが合理的だ。
国際社会、特に米欧が主導する国際関係はきわめて冷徹かつ合理的である。儒教的精神規範の残滓にいまだ縛られている日本の政府やメディアは何事も情緒的な判断を優先しているが、特に安倍総理は情緒的すぎる。あの柔らかな物腰やつねに絶やさないにこやかな笑みで、総理に対する好感度は歴代総理の中で群を抜いているが、日本国民は相当に成熟度を増している。安倍内閣の支持率は依然として高いものの、個別の政策に対する世論は集団的自衛権行使のための憲法解釈に対する支持率はかなり低い。原発政策についても同様だ。
今問題になっている健康食品の効能表示の自由化にしても政府は「効能表示はメーカーの自己責任において認める」という方針を打ち出しているが、私は消費者庁に昨日電話をして猛烈に抗議した。13日にNHKが『クローズアップ現代』でこの問題を取り上げた際にもNHKの番組制作担当者にクレームを付けたが、アメリカでは「自己責任で自由に効能を表示してもよい」ことになっているのは事実だが、アメリカにおける「自己責任」とは、過大な効能表示をして消費者から訴えられたらメーカーは莫大な損害賠償を請求されることを意味する。PL法(製造物責任法)ですら骨抜きにされた日本で、アメリカのように厳しいメーカー自己責任をどうやって問えるのか。
私は規制緩和については基本的に賛成の立場をとっているが、規制緩和・自由競争には、当然ながらきわめて厳しい「担保」が必要である。その担保が不備なまま、アメリカのやり方は何でも正しいかのような政策には疑問を感じる。
1989年から2年間にわたって5回開催された日米構造協議のことを読者は覚えておられるだろうか。直接の目的は日米貿易不均衡の是正を図ることにあったが、日米は双方の企業経営の在り方や政府の行政に至るまで、きわめて広範囲にテーマは及んだ。その協議の厳しさは現在のTPP交渉の比ではないほどであった。この協議で日本は最終的にアメリカ側の主張に屈服して大店法を廃止したり、大幅な規制緩和に踏み切らざるをえなくなった。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」日本人の体質の証明でもあるが、なぜ日本でコンビニがこれほど全国に拡大することになったのか、の原因が実はこの日米構造協議にあった。
別にアメリカ政府が日本にコンビニを拡大したいと考えていたわけではない。アメリカが主張したのは日本の流通市場の閉鎖性であり、大店法が閉鎖性の根っ子にあるという指摘だった。アメリカ政府はアメリカの流通大手が日本に進出できないのは日本の流通市場が大店法によって閉鎖的になっているからだと主張し、大店法の廃止を要求しただけである。いうなら内政干渉なのだが、日本のメディアがアメリカの主張を支持した。アメリカ側には「殺し文句」が用意されていたからである。
その「殺し文句」とは「日本の行政は生産者の立場に立っている。消費者の立場に立つべきだ」というものだった。この「殺し文句」にメディアが軍配を挙げ、日本政府は規制緩和に向けて行政の舵を大きく切った。大店法が廃止され、規制の下に保護されてきた酒店、米店、タバコ屋が姿を消していくことになる。タバコ屋は店舗の規模が小さかったからクリーニング店に業態転換したが、酒店や米店は軒並みコンビニに業態転換した。それがコンビニ急拡大の、そもそもの原因である。
それだけではない。大店法の廃止によって大規模スーパーの出店競争が激化した結果、地方都市の駅前商店街は軒並み空洞化していく。地域住民のコミュニケートの場でもあった零細小売店が姿を消すことによって、地域住民同士の「連帯感」も希薄になり、地方都市は魅力を失っていく。
ちょっと話が広がりすぎたので、今日のブログはここで止める。安保法制懇の報告書の検証作業は、できれば(というのは今回のブログも9000字に達し、私も相当疲れたので、お約束ができない)明日続けたい。
昨日(14日)朝刊で朝日新聞は入手した報告書全文の要旨を明らかにした。確かにそうそうたるメンバーが1年以上かけて練り上げただけに、それなりに説得力を持ち得る内容になっている。
安保法制懇は過去6回行われた(第1次安倍内閣のときは除く)。そのすべてに安倍総理と菅官房長官(国家安全保障強化担当大臣を兼務)が出席している。この6回開かれた懇談会で座長の柳井元駐米大使が出席したのは1回目(昨年2月8日)と最後の6回目(今年2月4日)の2回だけである。ほかの4回は国際大学長の北岡座長代理が事実上座長として懇談会を仕切ってきた。安倍総理は毎回冒頭であいさつし、その日の会議のテーマを指示してきた。当初、報告書は昨年末には出る予定だった。が、出すことができず今年の4月に繰り延べされたが、それも不可能になり、ゴールデンウィーク明けにはと日延べされたが、さらに延期されようやく今日、提出されることになった。
集団的自衛権については、1981年に「固有の権利として有してはいるが、憲法9条の制約によって行使できない」とした政府見解が33年間、変えられることはなかった。が、安倍総理は第1次安倍内閣のときから政府の「集団的自衛権解釈」の変更に強い意欲を示してきた。今回の報告書提出は、碁や将棋でいえば決め手の一手を指したことを意味する。素人の碁や将棋のような「待った」はもう出来ない。安倍総理の行方には、「政界からの永久引責辞任」しか待っていない。そのことを検証する。
報告書は集団的自衛権の行使について憲法9条との論理的整合性について次のように述べている。
憲法第9条をめぐる憲法解釈は、戦後一貫していたわけではない。政府の憲法解釈は、終戦直後には「自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」としていたのを、1950年代には「自衛のための抗争は放棄していない」とした。最高裁判所が、59年のいわゆる砂川事件大法廷判決において「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとり
うることは、国家固有の権能の行使として当然のことと言わなければならない」
という法律判断を下したことは特筆すべきことである。70年代以降、政府は、憲法は自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じていないが、その措置は必要最低限度の範囲にとどまるべきであり、集団的自衛権の行使はその範囲を超えるものであって、憲法上許されない、との立場を示すに至り、政府の憲法解釈は、今日まで変更されていない。
国家の使命の最大のものは、国民の安全を守ることである。ある時点の特定の状況下で示された憲法論が固定化され、安全保障環境の大きな変化にかかわらず、その憲法論の下で安全保障政策が硬直化するようでは、憲法論のゆくえに国民の安全が害されることになりかねない。(※これは正論である。だから私は、現行憲法は占領下において制定されたものであり、日本が二度と軍事力を行使できないようにするために9条が設けられ、丸裸になった日本の安全を守るために連合軍(事実上米軍)が日本に駐留し、日本を防衛していたと、占領下における憲法の意味を何度も書いてきた。だから、日本が独立を回復した時点で、主権国家として「自分の国と国民の安全は自分たちで守る」という責任と義務を明確にした新憲法を制定すべきだったと主張してきたのである。もちろん、独立回復と同時に「無効」になったはずの現行憲法の平和主義の理念は継承することは大前提だが)
我が国を取り巻く国際環境が厳しさをましていく中で、将来にわたる軍事技術の変化を見通したうえで、我が国が本当に必要最小限度の範囲として個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか、という点の論証はなされてこなかった。また、個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け、前者のみが憲法上強要されるという分離解釈上の根拠は何も示されていない。(※これも正論である。だから私は集団的自衛権を定義した政府答弁書を作成した○○省○○局の幹部官僚に質問し、「安倍内閣が従来の集団的自衛権についての見解を変更していること、そのことを国民に全く説明していないこと」を事実かどうか聞いた時、間髪を入れず「その通りです」と答えたことでもはっきりしている。安保法制懇の報告書も、事実上、それを認めている。そこまで論理的な主張ができたのなら「個別的自衛権と集団的自衛権を明確に切り分け(た)…分離解釈の根拠は何も示されていない」の論理的延長として、個別的自衛権も集団的自衛権も、自国を防衛する手段として、国連加盟国のすべてに認められた固有の権利である、と解釈するのが論理的妥当性を持つことになぜ気が付かないのか)
憲法前文は、平和的生存権を確認し、第13条は、国民の生命、自由及び幸福追求の権利について定めているが、これらを守るためには、我が国が侵略されず独立を維持していることが前提条件であり(※これはウソ。現行憲法は日本が占領下にあるときに制定されており、独立主権国家を前提にしていない。だから9条の制定と引きかえに米軍が日本防衛の任に当たったのだ)、外からの攻撃や脅迫を排除する適切な自衛力の保持と行使が不可欠である。基本的人権と
同様の根本原則として理解されている国民主権原理の実現には主権者たる国民
の生存の確保が前提であり(※そのための全責任を負ったのが占領下=現行憲法下=においては米軍であった)、我が国の平和と安全が維持されその存立が確保されていなければならない(※この責任も現行憲法下では米軍が負うことになる)。国権の行使を行う政府の憲法解釈が国民と国家の安全を危機に陥れるようなことがあってはならない。憲法前文及び第98条の国際協調主義の精神から、国際的な活動への参加は、我が国が最も積極的に取り組むべき分野と言わねばならない。我が国の平和主義は、同じく日本国憲法の根本原則である国際協調主義を前提として解されるべきである。(※これは現行憲法の解釈変更によって実現されるべきことではなく、主権国家としての尊厳を前提に平和主義の理念を継承しつつ、日本が現在、国際社会において占めている地位や地理的環境にふさわしい、国際平和と安全に貢献すべき、主権国家の責務として新憲法に明記すべきである)
その後、集団的自衛権の行使が容認できる「具体的行動の事例」が六つ述べられているが、その内容はすでに朝日新聞が10日付朝刊でスクープした内容で、私もブログですでに書いたが、改めて簡略して述べる。
問題は「集団的自衛権」についての新解釈だ。従来の政府見解は「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が攻撃されたら、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」が集団的自衛権だった。その見解を報告書は政府が解釈変更した通りに変えたのである。それが行使容認の6要件だ。
NHKが5月6日午後6時10分から『大人のドリルスペシャル 今さら聞けない集団的自衛権のイロハ』という解説番組を放映した。これがおおよその集団的自衛権についての理解であろう。NHKが集団的自衛権について分かりやすく伝えようとした意図は理解できるが、とんでもない番組を作ってしまった。集団的自衛権を「正当防衛」と同一視して解説したのである。
私は集団的自衛権について、数えきれないほどブログを書いてきたので、いつのブログで書いたのかを調べるより、同じことをもう一度書いたほうが早いので再度書くが、前に政府の集団的自衛権解釈は「正当防衛」と同一視していることを指摘したことがある。正当防衛はおそらく民主主義国家のほとんどで罪に問われないが(「過剰防衛」として罪に問われることもある)、これは「防衛」の権利であって、「自衛」とは意味が多少違う。
正当防衛は、確かに他人が不当に誰かから暴力を振るわれた場合、その場に居合わせた人がその人を助けることを目的とした暴力的行為も正当防衛として罪に問われないことがある。これは個人間の、言うなら「ケンカ」のケースでの暴力行為のことである。国際紛争の解決手段としての「自衛権」と同一視して論じること自体、いくらわかりやすく解説したいという意図があったにせよ、視聴者を混乱させるだけで、番組制作者の見識が問われてもやむをえまい。
そもそも国連憲章が、いつ、どういう目的で作られたのかすら番組制作者は調べなかったのだろう。国連憲章は終戦前の2045年6月、枢軸国(日独伊)と第二次世界大戦を戦っていた連合国が、自分たちの戦争を正当化するために作ったものである。だから今でも改正されずに残っている条項に「敵国条項」があり、戦後の45年10月に国連憲章を国際社会のルールとして結成された国際連合(国連)にとって日独伊はいまだに「敵国」のはずである。いや、そもそも国連と日本語訳されている英語の原語は「連合国」であって「国際連合」ではない。だから「国連安保理常任理事国」は連合国の中枢であった米英仏ソ(今は露)中の5か国のままで、5か国は巨大な権能を持っている。
まず国連憲章は「国連」加盟国に、国際紛争の武力による解決を禁じている。実際に国際紛争が生じたときには平和的に解決することを義務付けている。が、平和的解決が困難な場合を想定して、国連憲章は国連安保理に経済制裁などあらゆる非軍事的措置を行うことを認めている(第41条)。それでも解決できなかった場合は、国連安保理にあらゆる軍事的措置を行うことも認めている(42条)。そうしたあらゆる国連安保理の機能を行使しても国際紛争を解決できなかった場合や、安保理が機能不全に陥るケースも想定して国連憲章は国連加盟国に「固有の権利」として「自衛権」を認めることにした。それが第51条である。
もう一度想起していただきたい。国連憲章が作られたのは45年6月であり、国連憲章作成の中心的役割を果たしたアメリカが広島と長崎に原爆を落として日本の息の根を止めたのは8月、そして第二次世界大戦が終結したのちに「国連」は結成されている。「第二次世界大戦のような悲劇を繰り返さないために作られたのが国連」というのは、後から作られた「神話」にすぎないのだ。
しかし、国際紛争を平和的に解決することは困難で(国連安保理で決議を行っても多数決では決められず、連合国の中枢であった5か国が常任理事国として拒否権を持っているため、米英仏露中の一国でも拒否権を行使すれば、紛争解決のために安保理に付与されたあらゆる権能(41条及び42条)の行使は不可能になる。実際国連安保理設置後、一度もその権能を行使したことはない。
そのため国連安保理が紛争解決の措置をとるまでの間、「国連」加盟国は憲章51条において自衛権(個別的又は集団的)を行使する権利を固有のものとして認めることにしたのである。つまり個別的も集団的も、ともに自衛の手段であり、それ以上でもなければそれ以下でもないのだ。そう考えると個別的自衛手段が日本の場合自衛隊や海上保安庁であり、集団的自衛権は有事の際日米安保条約に基づいてアメリカに「助けてくれ」と軍事的支援を要請する権利を意味
し、すでに持っていると考えるのが子どもでも分かる文理解釈だ。
それが、なぜ集団的自衛権は「密接な関係にある国を防衛する権利」などという個人のケンカでの正当防衛としての暴力の行使と同一視した解釈になってしまったのか――それが私にはどうしても理解できない。どこかの国が、意図的に集団的自衛権の意味を拡大解釈して他国のある勢力を軍事的に支援するために軍事介入する際の口実に「集団的自衛権」を持ち出したのかもしれない。それが日本でも集団的自衛権の解釈として定着してしまった可能性は否定できないが、いま一度頭を冷やして、個別的自衛権も集団的自衛権も、憲章51条が「固有の権利」として認めているのは「自衛」の範囲つまり自国の防衛に限定された権利であることを、まずもって認識する必要がある。
卑近な例でいおう。竹島は、歴史的にも日本の領土である。が、日本がサンフランシスコ条約に調印して独立を回復した直後、韓国はどさくさに紛れて竹島を不法に武力侵攻し、以降60年にわたって軍事占拠している。もちろん日本政府は直ちに韓国政府に抗議したし、当時はアメリカも日本の主張を支持していた。
以降60年間、日本は韓国に抗議を続け、国際司法裁判所で決着を付けようと
韓国に申し入れているが、韓国は「領土問題はない」と一切応じない。日本の裁判は相手の承諾がなくても告訴できるし、告訴に応じなければ原告の主張を見なしたとして被告は全面敗訴する。が、国際司法裁判所は当事国の一方が訴えても、相手国が応じなければ裁判を開くことすらできない。そうした場合、日本は安保理に非軍事的措置あるいは軍事的措置の行使による解決を依頼する権利が生じるはずだが、その権利は行使できない。中国やロシアではなく、日本の訴えを日本の「同盟国」アメリカが拒否権を行使することが間違いないからだ。日本の独立回復直後には全面的に日本の主張を支持していたアメリカがなぜ態度を豹変させたのか、日本政府は「蛇ににらまれた蛙のように」アメリカの態度豹変の理由を聞くことすらできない。日本にとってアメリカはいざというとき頼りにできるはずの唯一の「同盟国」だが、アメリカにとって日本は数多い同盟国のワン・オブ・ゼムにすぎないからだ。
そうなると日本にとって固有の領土である竹島を取り返すには国連憲章51条が規定している「自衛権」を行使するしかない。が、行使しようとするとアメリカが立ち塞がって日本の実力行使を阻止することは日米韓の関係を見れば一目瞭然だ。否応なく外務省北東アジア局は、「日本は平和的解決の努力を行っていますので」と個別的自衛権の行使をためらっている。60年間平和的解決の努力を重ねても一歩も前進しなければ、個別的自衛権の行使によって竹島を奪還することは、いくらなんでも国際法に違反した行為とはどの国も言えない。が、日本が実力行使に出れば、日米関係は戦後かつてないほど冷え込むことは間違いない。はっきり言えば、日本はアメリカのご機嫌を損ねないために今後も100年、200年、日韓のどちらかが地球上から消滅するまで「平和的解決のための無駄な努力の真似事」を続ける気なのだ。
しょせん、そういうパワー・ポリティクスが横行する国際社会で、いくら日本が集団的自衛権の行使容認を憲法解釈の変更によって決めてアメリカにおべっかを使おうとも、アメリカは国際的儀礼慣行として「日本の決定を歓迎する」とリップ・サービスは口にするだろうが、リップ・サービスというものは、それ以上でもそれ以下でもない。「何もわかっていない」とはそういうことを意味する。
尖閣諸島は、オバマ大統領が日本を訪問した際「尖閣諸島は日米安保5条の適用範囲だ」と明言したとしても、もともと尖閣諸島はアメリカにとって中国の海洋進出の軍事的防衛ラインとして中国による占領を許すわけがない軍事的要衝だ。そう考えないと、アメリカの竹島に対する態度と尖閣の対する態度の巨大な落差の説明ができない。だが、米政府もアメリカ国民に対して北東アジア方面の軍事的支配権を維持するために、日本とくに沖縄にタダで基地を貸してもらっているなどとは口が裂けても説明しない。あたかも日米安保条約に基づいて日本を防衛するために日本各地に基地を置いていると説明している。そのため米国内では日米安保に対して「不平等条約だ」という不満の声が根強くあり、オバマ大統領が訪日した際リップ・サービスとして口約束した「尖閣諸島は日米安保条約5条の適用範囲だ」との発言が米政府内で問題になった。「アメリカのために血を流そうとしない日本のために、アメリカだけがなぜ血を流さなければならないのか」という反発が、オバマ大統領の尖閣発言で噴出したのだ。
前にも書いたが、オバマ大統領の尖閣発言は現在の中国の海洋進出政策に対する牽制球をとりあえず投げてみた、というほどの意味しか持たない。それ以上でもそれ以下でもない。もちろん大統領の公式発言だから、それなりの重みはもつ。が、従来の集団的自衛権についての政府見解をいとも簡単に安倍内閣が覆そうとしているように、アメリカでも大統領が変われば尖閣問題に対する姿勢がどう変わるかわかったものではない。
いま、とりあえず日本政府が行うべきことは尖閣に恒久的な施設(小さな港や灯台のようなものでもいい)を作って実効支配に踏み切ることだ。中国は当然反発するだろうが、オバマ大統領の尖閣発言が有効性を維持している間が、尖閣諸島の領有権を確実なものにする唯一の方法だ。それすら日本政府がやらないということになると、有事の際、「日本が自己責任を果たしていないのに、なぜアメリカが尖閣を防衛しなければならないのか」という世論が、アメリカ国内に充満することは間違いない。沖縄米軍の高官が「中国兵が尖閣初頭に上
陸したら、海空からの砲爆撃で殲滅する」とのリップ・サービスも、「米軍はア
メリカ人の血を流さない範囲で」という意思の表明と受け止めるのが合理的だ。
国際社会、特に米欧が主導する国際関係はきわめて冷徹かつ合理的である。儒教的精神規範の残滓にいまだ縛られている日本の政府やメディアは何事も情緒的な判断を優先しているが、特に安倍総理は情緒的すぎる。あの柔らかな物腰やつねに絶やさないにこやかな笑みで、総理に対する好感度は歴代総理の中で群を抜いているが、日本国民は相当に成熟度を増している。安倍内閣の支持率は依然として高いものの、個別の政策に対する世論は集団的自衛権行使のための憲法解釈に対する支持率はかなり低い。原発政策についても同様だ。
今問題になっている健康食品の効能表示の自由化にしても政府は「効能表示はメーカーの自己責任において認める」という方針を打ち出しているが、私は消費者庁に昨日電話をして猛烈に抗議した。13日にNHKが『クローズアップ現代』でこの問題を取り上げた際にもNHKの番組制作担当者にクレームを付けたが、アメリカでは「自己責任で自由に効能を表示してもよい」ことになっているのは事実だが、アメリカにおける「自己責任」とは、過大な効能表示をして消費者から訴えられたらメーカーは莫大な損害賠償を請求されることを意味する。PL法(製造物責任法)ですら骨抜きにされた日本で、アメリカのように厳しいメーカー自己責任をどうやって問えるのか。
私は規制緩和については基本的に賛成の立場をとっているが、規制緩和・自由競争には、当然ながらきわめて厳しい「担保」が必要である。その担保が不備なまま、アメリカのやり方は何でも正しいかのような政策には疑問を感じる。
1989年から2年間にわたって5回開催された日米構造協議のことを読者は覚えておられるだろうか。直接の目的は日米貿易不均衡の是正を図ることにあったが、日米は双方の企業経営の在り方や政府の行政に至るまで、きわめて広範囲にテーマは及んだ。その協議の厳しさは現在のTPP交渉の比ではないほどであった。この協議で日本は最終的にアメリカ側の主張に屈服して大店法を廃止したり、大幅な規制緩和に踏み切らざるをえなくなった。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」日本人の体質の証明でもあるが、なぜ日本でコンビニがこれほど全国に拡大することになったのか、の原因が実はこの日米構造協議にあった。
別にアメリカ政府が日本にコンビニを拡大したいと考えていたわけではない。アメリカが主張したのは日本の流通市場の閉鎖性であり、大店法が閉鎖性の根っ子にあるという指摘だった。アメリカ政府はアメリカの流通大手が日本に進出できないのは日本の流通市場が大店法によって閉鎖的になっているからだと主張し、大店法の廃止を要求しただけである。いうなら内政干渉なのだが、日本のメディアがアメリカの主張を支持した。アメリカ側には「殺し文句」が用意されていたからである。
その「殺し文句」とは「日本の行政は生産者の立場に立っている。消費者の立場に立つべきだ」というものだった。この「殺し文句」にメディアが軍配を挙げ、日本政府は規制緩和に向けて行政の舵を大きく切った。大店法が廃止され、規制の下に保護されてきた酒店、米店、タバコ屋が姿を消していくことになる。タバコ屋は店舗の規模が小さかったからクリーニング店に業態転換したが、酒店や米店は軒並みコンビニに業態転換した。それがコンビニ急拡大の、そもそもの原因である。
それだけではない。大店法の廃止によって大規模スーパーの出店競争が激化した結果、地方都市の駅前商店街は軒並み空洞化していく。地域住民のコミュニケートの場でもあった零細小売店が姿を消すことによって、地域住民同士の「連帯感」も希薄になり、地方都市は魅力を失っていく。
ちょっと話が広がりすぎたので、今日のブログはここで止める。安保法制懇の報告書の検証作業は、できれば(というのは今回のブログも9000字に達し、私も相当疲れたので、お約束ができない)明日続けたい。