私は子供のころから妙な性格で、つまらないこと(と、大半の人が思っていること)に何故かふと疑問を持ってしまう。で、「理屈っぽい」と嫌がられることがしばしばある。が、生まれついての性分なので、多分死ぬまでこのいやらしさは治らないだろう。
で、今もふと疑問に思ったことからネットでいろいろ調べだした。民主主義の基本原則とされている「三権分立」についてである。三権分立は言うまでもなく、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが1748年に『法の精神』で唱えた民主主義政治の基本原則で、立法権、司法権、行政権を分権させることで独裁権力を防ぐことを目的とした制度である。
●日本の「三権分立」とは?
私たちも子供のころ(小学校高学年くらいだったと思う)、日本も民主主義国家で、「三権分立」の制度です、と教えられてきた。が、最近の政治と官僚の関係を見ると、本当に日本は「三権分立」の国だろうか、と疑問に思いだした。「政治主導」の名のもとに、事実上「行政権」が失われつつあるのではないかと思えるのだ。
私はこの三権分立制度を政治システムとして最初に確立したのはフランス革命(1789年)で宣言された「フランス人権宣言」が最初だと思っていたが、ネットで調べてみると、フランス革命の2年前の1787年にアメリカで、立法権は連邦議会、行政権(執行権)は大統領、司法権は裁判所が有する制度を世界で初めて確立したようだ。アメリカの三権分立制度は徹底しており、行政権者の大統領は連邦議会(上院・下院)に出席すらできず、法案提出権も議決権もない。また議会は大統領を辞めさせることも出来ず、大統領が犯罪を犯した場合のみ上院で3分の2以上の賛成で弾劾裁判を行うことができる。また議会が優越的な権利を持つことを防ぐために、大統領は拒否権を行使できる。
アメリカと違って日本は議院内閣制である。つまり、立法府である国会で行政府の長である内閣総理大臣が選出され、総理大臣が内閣(行政府)をつくる(組閣)。一般には「政府」と故障しているが、正式には「行政府」である。
で、日本では議院内閣制と「三権分立」についてどう位置付けているのか、再びネットで調べてみた。首相官邸のホームページにはこう記載されている。
昭和22年(1947年)5月3日に現行憲法が施行され、また、同時に「内閣法」が施行されて、現在の内閣制度が確立した。すなわち、国民主権の下で、立法、行政及び司法の三権分立を徹底させるとともに、議院内閣制という基本的枠組みの下で、内閣は行政権の主体として位置付けられることとなった。
【日本国憲法下の三権分立 】 内閣総理大臣に「内閣の首長」たる地位が与えられ、内閣を代表するとともに、内閣の統一性と一体性の確保のために、その閣内における地位も高められ、権限も強化された。ただし、その権限も、国務大臣の任免権あるいは国務大臣の訴追に対する同意権など単独の権限であるものを除いては、閣議にかけて行使するのが原則である。
また、憲法上、行政権は内閣に帰属するものとされており、その意味で、国の一切の行政事務の遂行は内閣の責任に属するが、その具体的な行政事務は内閣自らがすべて行うというのではなく、内閣の統轄の下に内閣府及び11の省が設置され、さらに、これらの府又は省の外局として設置されている委員会又は庁などが分担管理するものとされている。
つまり、日本では立法府に行政府が設けられていることになる。そのおかしさは、裁判所に国会が属していると位置づけられたら、だれでも「そんな馬鹿な」と思うだろう。しかし裁判所は犯罪(刑事事件)や金銭的な争いなど(民事事件)だけでなく、法律や憲法解釈についての最高決定機関であるから、そういう意味では立法府の国会での立法権を裁判所の管轄下においても理論上はおかしくないことになる。
と考えたら、実は日本は「三権分立」制度の国ではなく、「二権分立制」の国で、「二権分立」を「三権分立」と説明するなら、本当は【裁判所→国会→行政府】という一元体制でないとおかしいということになる。
実は私は民主主義政治の基本制度としての「三権分立」はもはや制度疲労を生じていると考えており、これまでの『民主主義とは何かが、いま問われている』シリーズで何回となく主張してきたから、私の考え方をご存知の方もいると思うが、改めて私が主張してきた「六権分立」について整理しておく。
議院内閣制の下での「三権分立」の非整合性についてはすでに書いたが、とりあえず「立法」「行政」「司法」の三権に加え、「捜査・逮捕・起訴」(警察・検察)、「金融政策」(中央銀行=日本銀行)、「公共放送」(NHK)を従来の三権から独立した権限を持たせるべきというのが、私の「六権分立」論だ。ひとつずつ、その理由を書く。
●警察・検察の捜査・逮捕・起訴について
まず警察・検察を独立した権力機構にすべきかは、「黒川事件」を思い起こせば理解できるはずだ。言うまでもないが、黒川事件は当時東京高検検事長だった黒川弘務氏を検事総長に昇格させるために、黒川氏の定年を無理筋で延長しようとした問題。理由は当時の安倍総理がモリカケ問題や「桜を見る会」前夜祭問題をもみ消すため、政権に近いとみられていた黒川氏の定年を延長したものの、たまたま「文春砲」が黒川氏の新聞記者たちとの常習的賭け麻雀をスクープしたため、黒川氏は引責辞任して安倍氏の悪だくみは泡と消えた。
政治権力による検察人事への政治介入は過去にもたびたびあり、なかでも有名なのは「ミスター検察」と呼ばれ、ロッキード事件で田中元総理を逮捕、リクルート事件の捜査・指揮、佐川急便からの金丸信・自民党副総裁への5億円やみ献金事件の捜査で辣腕を振るった故・吉永祐介氏を検事総長の座に就けることを自民党幹部が阻止しようとしたケースなど、数えきれないほどある。
こうしたことからも、警察・検察機構を政治権力から切り離して、法の正義の番人として独立した権限を持たせるべきだと、私は考えている。ただし、警察・検察の捜査・逮捕・起訴権を司法権に組み入れるのであれば、それでもいい。要は警察・検察に対する政治介入を防ぐことが重要なのだ。その点は、政治介入を絶対に許さない韓国の検察制度を見習うべきだ。韓国で大統領が辞めた後次々に逮捕され汚職などが暴かれることに、日本でも批判はあるが、それは日本の権力者も後ろめたいことがあるからだろう。自分に後ろめたいことがなければ、なにもお友達を無理筋で検事総長にする必要もないはずだ。
とくに政治家の汚職などを扱う東京・名古屋・大阪の地方検察庁に設けられている特別捜査部(特捜)の捜査権限を妨害したり、あるいはしようとしたりした場合も、そうした行為自体が犯罪行為として厳しく罰せられるようにすべきだとさえ、私は考えている。たとえば犯罪を隠すための口裏合わせなどを重罰にすれば、口裏合わせそのものが不可能になる。
●日銀の金融政策について
次に金融政策である。アメリカのケースと比較すればよく分かるのだが、アメリカの中央銀行であるFRBは政府から完全に独立して金融政策(主に政策金利)を決めている。実際、トランプ大統領が景気対策としてFRBにしつこく金融緩和を要求しても、パウエル議長は頑としてトランプの要求を撥ねつけてきた。ただし、コロナ禍で先進国の中で一人勝ちだったアメリカ経済に陰りが見えてきてからはFRBも金融緩和に踏み切っている。
一方日本の場合は、日銀・黒田総裁が安倍前総理と「二人三脚」で金融緩和・国債大量買入れによるマネーサプライ(通貨供給量)増大・株式大量購入による株価操作など、アベノミクスの見掛け上の「成功」を演出してきた。この稿では詳しくは触れないが、財務省や日銀はMMT(現代通貨理論)ではないと主張しているが、黒田総裁は「いくらでも国債を買い入れる」と公言しており、事実上のMMT宣言と私は理解している。
MMTについては以前もブログで書いたが、「独自通貨を発行できる国はハイパーインフレにならない限度までいくらでも国債を発行しても財政破綻は生じない」というバカげた理論で、この理論の前提は、自国通貨が国内での決済手段としての機能しか見ていない点に致命的欠陥がある。
為替が変動相場制に移行して以降、通貨は決済手段としての機能だけでなく、金融商品としての機能も持つようになった。ギリシャがデフォルトを起こしたのもそのためで、為替相場の動向によって通貨価値が一気に下落してハイパーインフレが生じるリスクをMMTはまったく無視しているのだ。高橋洋一氏などMMT信者は、通貨の二面性に全く気付いていない。MMTを可能にするには変動相場制をやめて固定相場制に戻すか、貿易をやめて鎖国経済にするしかない。
実経済では、需要と供給の関係は机上の計算通りにはならない。「豊作貧乏」という言葉があるが、供給量が2割増えたら机上の計算では価格は2割減になるはずだが、実際には2割減では収まらない。半値以下に暴落することもある。例えば最近の例だと、コロナ対策のマスクだ。一時ドラッグストアやスーパーの店頭から消え、転売ヤーがオークションに出品して落札価格が暴騰したことがある。オークション出品が禁止されるや、ネット・ショッピングで高価格販売していたが、供給量が増えすぎて値崩れを生じ、いまは送料込みでもドラッグストアで買うよりはるかに安価で買えるようになっている。
また供給量が増えて価格が安くなったことで、かえって需要が増大して価格が維持あるいは多少アップすることさえ実社会ではある。
逆に供給量が2割減ったら価格が2割上昇するかというと、そうもならない。2倍に高騰することもあれば、昨年のサンマ不漁でサンマ価格が供給量に応じて高騰したかというと、そうはならなかった。消費者が買い控えたため需要が減少し、スーパーでの店頭価格はそれほどには高騰しなかった。
これが現実の経済であり、MMTは単純に机上の計算で、過度のインフレにならない限り財政破綻しないという、砂に絵を描くような理論に過ぎない。こういうのを「学者バカ」という。
●公共放送の在り方について
最後に公共放送だ。日本の場合、NHKがそれに相当するが、公共放送の使命とは何か、どういうコンテンツが公共放送として必要かと考えたら、現在のNHKを公共放送局として認めるには相当の無理がある。
私が子供だった頃、まだ家にはテレビがなく娯楽手段といえばラジオしかなかった時代、NHKの紅白歌合戦や素人のど自慢、プロ野球や大相撲の中継、落語や講談、浪曲、漫才は貴重な娯楽手段だった。
NHKがジャーナリズムであるべきか否かについては議論があるとは思う。ジャーナリズムの使命は権力の監視と民主主義の砦という2大機能だと私は考えているが、政治的に公平・中立が義務付けられているためNHKはジャーナリズムの2大機能を果たすことは困難かもしれない。そうなると公共放送はいま必要なのか、という疑問すら生じる。
NHKは公共放送の必要性について「大災害が発生したとき、いち早く国民に情報を提供できる機能」をつねに持ち出すが、民放もそうした機能を今は拡大している。それとも大災害時の情報機能をNHKに集約するというのであれば、放送法を改正して大災害時にはすべての民放番組やスマホにNHKの放送を強制的に割り込ませるようにすべきだろう。
事件や火事がしょっちゅう起きるわけでもないのに、警察署や交番、消防署が要所要所に配置されているのは、突発的な事件や火事に対処するためだ。NHKもそうした機能に徹するべきかもしれない。全国の警察署か消防署内に1部屋借りて、非常時の時の取材要員だけ配置しておけばいいことになる。そうなれば、公共放送というより国営放送の方がふさわしくなる。
が、いまのNHKが放送しているコンテンツは、ドラマ・スポーツ・バラエティが3本柱だ。民放との差はまったく見いだせない。あえて民放との差を指摘すると、民放が報道系番組にいま力を入れており、かつ政権に対してかなり厳しい監視機能を重視しているのに対して、NHKの報道番組も少なく、また報道内容もかなり政権寄りと言わざるを得ない。
実際、ニュース番組は共同通信や時事通信、ロイター、ブルンバーグといった通信社から配信されたニュースをアナウンサーが棒読みすれば十分。つまりNHKに記者など全く必要ない。
実際、知る人ぞ知る話だが、森友事件は朝日新聞のスクープということになっているが、実際にはNHK大阪放送局の記者だった相澤冬樹氏が追っていた事件だった。が、相澤氏のスクープ記事に激怒した報道局トップが相澤氏を考査部と称する窓際部門に異動し、怒った相澤氏は辞表をたたきつけてNHKを辞めた。なお相澤氏は現在、大阪日日新聞の編集局長兼一記者である。
すでに述べたように、公共放送はジャーナリズムであるべきではないという考え方もあり、私は必ずしも否定しない。が、そうであれば記者は不必要だし、報道局は通信社が配信する記事からニュースとして報道すべき記事だけを選択し、その記事をアナウンサーが棒読みすればいいだけの話だ。ただし、アナウンスするとき「〇〇通信によれば、……」と情報源を明確にしておくこと。政治介入はそれで防げる。
またドラマ・スポーツ中継・バラエティ部門はNHKから分離独立させて民営化したらいい。こういうコンテンツの制作に、税金に近い性質の受信料を使うべきではないからだ。
NHKをそのように改変すれば、政治圧力を受ける心配もなくなるし、NHKも政権への忖度を働かせる必要もなくなる。そのうえ、おそらく9割以上の人員削減もできるし、所有する不動産(放送局ビル)を貸しビルにすれば、受信料を取らなくても悠々やっていけるはずだ。「スクランブルにしろ」といった批判も完全に封じることができる。とにかくNHKに記者は必要ない。NHKでは、記者として生き残るためには政治家がらみの取材は厳禁で、絶対に手を出してはならない。相澤氏のケースでも、NHKの労働組合(日放労)ですら相澤氏を救済しようとすらしなかったのだから。
●日本企業の従業員が会社へのロイヤリティを失った理由
民主主義を一歩前進させる手段として私は「六権分立」論を書いたが、日本の現状は「三権分立」ですらない。事実上、行政権などないからだ。
かつて日本が高度経済成長を遂げ、GDPでアメリカに次ぐ世界2位に躍り出たころ、日本の官僚は世界中から賞賛の的だった。実際、戦後の政治は官僚主導で行われ、官僚主導で奇跡の経済成長を成し遂げてきた。
本来「三権分立」制度では立法機関の国会議員が法案を作成・提案・採決・成立しなければならないのだが、日本の場合は官僚が原案を作成し、自民党政策調査会、総務会を経て国会に提出する流れになっていた。そのため「省益あって国益なし」と言われたほどで、野党やメディアからしばしば「官僚主導」と批判されていた。霞が関が力を持ちすぎたせいもある。
で、旧民主党政権が誕生したとき、民主党は「政治主導」を標榜した。が、実際に政治主導で立法できるかというと、政策実現のための法律作成に向けて官僚との関係構築のノウハウの蓄積もなく、国民の間に不満が広がった。当時の民主党幹事長代理・枝野氏(現・新立憲代表)は「与党がこんなに忙しいとは思わなかった。政治主導などと迂闊なことを言った」と愚痴ったくらいだった(11年11月14日)。
が、民主党政権の失敗から官僚の動かし方を学んだのが、皮肉にも自民党だった。14年に内閣府に人事局を設置して官僚人事を掌握したのだ。
じつは日米貿易摩擦が激化していた時期、アメリカの企業経営者や経営評論家たちは「日本型経営から学ぶべきこともある」といった主張もあった。「日本の従業員はどうして会社に強いロイヤリティを持つのか」という疑問が彼らの根底にあった。が、日本型経営を学ぶといっても、ロイヤリティがどういう人事システムから生まれるかまでの考察ができなかった。
ちょうど日米構造協議が行われていた時期、私はアメリカに進出していた大企業をいくつか取材した。そのとき、日本から派遣されていた現地工場のトップに取材して、日本人従業員とアメリカ人従業員はロイヤリティの対象が違うだけだということを知った。
日本では「年功序列終身雇用」制度の下、従業員の雇用と処遇については会社(人事部)が責任を持っている。が、アメリカの場合は雇用や待遇、解雇に至るまで直属の上司が権限を持っている。だから上司に恵まれたら、上司にロイヤリティを示していれば、上司の出世と一緒に自分も出世できる。ただし、自分より能力が高そうな人は絶対に採用しない。いつ、自分にとって代わろうとするかわからないからだ。
そういう意味では織田信長は人事の天才でもあった。一人のナンバー2を置かずに、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀など数人を横並びでナンバー2的ポジションに配置し、相互にけん制させ合うことで自分に対する忠誠心を競わせた。自分自身が織田家で権力を争奪する過程で血も涙もないやり方をしてきたから、いつ自分が同じ目にあうかもしれないと危惧していたのだと思う。そうした状況下で明智光秀が信長を討てたのは、ほかのナンバー2的ポジションにいた武将たちが信長から遠くの戦場で戦っていたことが大きなチャンスになったのだろう。光秀が反逆した理由については諸説あるが、信長を討つチャンスはそうはなかったはずで、そういう意味では信長の油断が招いた結果と言えなくもない。
それはともかく、いま日本でも大企業で「年功序列終身雇用」の雇用関係が崩れつつある。富士通やトヨタ、川崎重工といった大企業も年功序列型雇用関係を見直しつつある。従業員のほうも、とっくに終身雇用など当てにしていない。そのうえ年功序列まで奪われたら、会社に対するロイヤリティなど維持できるわけがない。
●日本は「三権分立」の国ではない
ところが、日本には特殊な世界が存続している。霞が関村だ。この村にだけは依然として「年功序列終身雇用」の雇用が維持されている。いまのところは、だが。
が、内閣人事局ができて、今まであまり波風が立たなかった霞が関村に、おかしな風が吹き出した。省内の上のほうだけ向いて仕事をしていればよかった村人が、内閣人事局というお代官様の顔色を窺わないと将来が約束されないという空気が生まれたのだ。
たぶん、いまでも大学を卒業して入省したときに聞かされる訓示は「国のため、国民のために奉仕する気持ちを忘れないように」だと思うが、ホンネは「政府のために仕事をするという気持ちを忘れないように」だ。だから入省して間もない若手官僚の退職率が最近極めて高いようだ。それも優秀な若手ほど、早めに見切りをつけて辞めていくという。
そうなると、「行政権」はどこに行ってしまったのか、ということになる。たとえばコロナ・ワクチン。すでに医療従事者への接種は始まっているというが、対象の医療従事者はコロナ患者を受け入れている病院だけではない。
歯医者や整形外科、耳鼻咽喉科や美容整形まで優先的ワクチン接種の対象に含まれている。それも医師や看護師だけでなく、患者の治療には一切タッチしない、つまり医療業務の資格すら持っていない受付窓口の人まで「医療従事者」の範疇と位置づけ、優先的にワクチン接種の権利があるという。
何故か。医師会が自民党の重要な票田だからだ。
政治主導という名において行われている行政の実態とは、そういうものなのだ。いったい、どこに「行政」の独立性があるのか。
はっきり言う。日本は「三権分立」の国ではない。立法と行政が一体化し、いちおう独立性を維持している司法と合わせて「二権分立」の国だ。イギリスも「二権分立」の国なので、一概に「二権分立」を否定するわけではないが、私たちが子供のころにならってきた民主主義制度としての「三権分立」についての記述は、子供たちが大人になったとき混乱することになるだけだから、削除すべきである。
で、今もふと疑問に思ったことからネットでいろいろ調べだした。民主主義の基本原則とされている「三権分立」についてである。三権分立は言うまでもなく、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが1748年に『法の精神』で唱えた民主主義政治の基本原則で、立法権、司法権、行政権を分権させることで独裁権力を防ぐことを目的とした制度である。
●日本の「三権分立」とは?
私たちも子供のころ(小学校高学年くらいだったと思う)、日本も民主主義国家で、「三権分立」の制度です、と教えられてきた。が、最近の政治と官僚の関係を見ると、本当に日本は「三権分立」の国だろうか、と疑問に思いだした。「政治主導」の名のもとに、事実上「行政権」が失われつつあるのではないかと思えるのだ。
私はこの三権分立制度を政治システムとして最初に確立したのはフランス革命(1789年)で宣言された「フランス人権宣言」が最初だと思っていたが、ネットで調べてみると、フランス革命の2年前の1787年にアメリカで、立法権は連邦議会、行政権(執行権)は大統領、司法権は裁判所が有する制度を世界で初めて確立したようだ。アメリカの三権分立制度は徹底しており、行政権者の大統領は連邦議会(上院・下院)に出席すらできず、法案提出権も議決権もない。また議会は大統領を辞めさせることも出来ず、大統領が犯罪を犯した場合のみ上院で3分の2以上の賛成で弾劾裁判を行うことができる。また議会が優越的な権利を持つことを防ぐために、大統領は拒否権を行使できる。
アメリカと違って日本は議院内閣制である。つまり、立法府である国会で行政府の長である内閣総理大臣が選出され、総理大臣が内閣(行政府)をつくる(組閣)。一般には「政府」と故障しているが、正式には「行政府」である。
で、日本では議院内閣制と「三権分立」についてどう位置付けているのか、再びネットで調べてみた。首相官邸のホームページにはこう記載されている。
昭和22年(1947年)5月3日に現行憲法が施行され、また、同時に「内閣法」が施行されて、現在の内閣制度が確立した。すなわち、国民主権の下で、立法、行政及び司法の三権分立を徹底させるとともに、議院内閣制という基本的枠組みの下で、内閣は行政権の主体として位置付けられることとなった。
【日本国憲法下の三権分立 】 内閣総理大臣に「内閣の首長」たる地位が与えられ、内閣を代表するとともに、内閣の統一性と一体性の確保のために、その閣内における地位も高められ、権限も強化された。ただし、その権限も、国務大臣の任免権あるいは国務大臣の訴追に対する同意権など単独の権限であるものを除いては、閣議にかけて行使するのが原則である。
また、憲法上、行政権は内閣に帰属するものとされており、その意味で、国の一切の行政事務の遂行は内閣の責任に属するが、その具体的な行政事務は内閣自らがすべて行うというのではなく、内閣の統轄の下に内閣府及び11の省が設置され、さらに、これらの府又は省の外局として設置されている委員会又は庁などが分担管理するものとされている。
つまり、日本では立法府に行政府が設けられていることになる。そのおかしさは、裁判所に国会が属していると位置づけられたら、だれでも「そんな馬鹿な」と思うだろう。しかし裁判所は犯罪(刑事事件)や金銭的な争いなど(民事事件)だけでなく、法律や憲法解釈についての最高決定機関であるから、そういう意味では立法府の国会での立法権を裁判所の管轄下においても理論上はおかしくないことになる。
と考えたら、実は日本は「三権分立」制度の国ではなく、「二権分立制」の国で、「二権分立」を「三権分立」と説明するなら、本当は【裁判所→国会→行政府】という一元体制でないとおかしいということになる。
実は私は民主主義政治の基本制度としての「三権分立」はもはや制度疲労を生じていると考えており、これまでの『民主主義とは何かが、いま問われている』シリーズで何回となく主張してきたから、私の考え方をご存知の方もいると思うが、改めて私が主張してきた「六権分立」について整理しておく。
議院内閣制の下での「三権分立」の非整合性についてはすでに書いたが、とりあえず「立法」「行政」「司法」の三権に加え、「捜査・逮捕・起訴」(警察・検察)、「金融政策」(中央銀行=日本銀行)、「公共放送」(NHK)を従来の三権から独立した権限を持たせるべきというのが、私の「六権分立」論だ。ひとつずつ、その理由を書く。
●警察・検察の捜査・逮捕・起訴について
まず警察・検察を独立した権力機構にすべきかは、「黒川事件」を思い起こせば理解できるはずだ。言うまでもないが、黒川事件は当時東京高検検事長だった黒川弘務氏を検事総長に昇格させるために、黒川氏の定年を無理筋で延長しようとした問題。理由は当時の安倍総理がモリカケ問題や「桜を見る会」前夜祭問題をもみ消すため、政権に近いとみられていた黒川氏の定年を延長したものの、たまたま「文春砲」が黒川氏の新聞記者たちとの常習的賭け麻雀をスクープしたため、黒川氏は引責辞任して安倍氏の悪だくみは泡と消えた。
政治権力による検察人事への政治介入は過去にもたびたびあり、なかでも有名なのは「ミスター検察」と呼ばれ、ロッキード事件で田中元総理を逮捕、リクルート事件の捜査・指揮、佐川急便からの金丸信・自民党副総裁への5億円やみ献金事件の捜査で辣腕を振るった故・吉永祐介氏を検事総長の座に就けることを自民党幹部が阻止しようとしたケースなど、数えきれないほどある。
こうしたことからも、警察・検察機構を政治権力から切り離して、法の正義の番人として独立した権限を持たせるべきだと、私は考えている。ただし、警察・検察の捜査・逮捕・起訴権を司法権に組み入れるのであれば、それでもいい。要は警察・検察に対する政治介入を防ぐことが重要なのだ。その点は、政治介入を絶対に許さない韓国の検察制度を見習うべきだ。韓国で大統領が辞めた後次々に逮捕され汚職などが暴かれることに、日本でも批判はあるが、それは日本の権力者も後ろめたいことがあるからだろう。自分に後ろめたいことがなければ、なにもお友達を無理筋で検事総長にする必要もないはずだ。
とくに政治家の汚職などを扱う東京・名古屋・大阪の地方検察庁に設けられている特別捜査部(特捜)の捜査権限を妨害したり、あるいはしようとしたりした場合も、そうした行為自体が犯罪行為として厳しく罰せられるようにすべきだとさえ、私は考えている。たとえば犯罪を隠すための口裏合わせなどを重罰にすれば、口裏合わせそのものが不可能になる。
●日銀の金融政策について
次に金融政策である。アメリカのケースと比較すればよく分かるのだが、アメリカの中央銀行であるFRBは政府から完全に独立して金融政策(主に政策金利)を決めている。実際、トランプ大統領が景気対策としてFRBにしつこく金融緩和を要求しても、パウエル議長は頑としてトランプの要求を撥ねつけてきた。ただし、コロナ禍で先進国の中で一人勝ちだったアメリカ経済に陰りが見えてきてからはFRBも金融緩和に踏み切っている。
一方日本の場合は、日銀・黒田総裁が安倍前総理と「二人三脚」で金融緩和・国債大量買入れによるマネーサプライ(通貨供給量)増大・株式大量購入による株価操作など、アベノミクスの見掛け上の「成功」を演出してきた。この稿では詳しくは触れないが、財務省や日銀はMMT(現代通貨理論)ではないと主張しているが、黒田総裁は「いくらでも国債を買い入れる」と公言しており、事実上のMMT宣言と私は理解している。
MMTについては以前もブログで書いたが、「独自通貨を発行できる国はハイパーインフレにならない限度までいくらでも国債を発行しても財政破綻は生じない」というバカげた理論で、この理論の前提は、自国通貨が国内での決済手段としての機能しか見ていない点に致命的欠陥がある。
為替が変動相場制に移行して以降、通貨は決済手段としての機能だけでなく、金融商品としての機能も持つようになった。ギリシャがデフォルトを起こしたのもそのためで、為替相場の動向によって通貨価値が一気に下落してハイパーインフレが生じるリスクをMMTはまったく無視しているのだ。高橋洋一氏などMMT信者は、通貨の二面性に全く気付いていない。MMTを可能にするには変動相場制をやめて固定相場制に戻すか、貿易をやめて鎖国経済にするしかない。
実経済では、需要と供給の関係は机上の計算通りにはならない。「豊作貧乏」という言葉があるが、供給量が2割増えたら机上の計算では価格は2割減になるはずだが、実際には2割減では収まらない。半値以下に暴落することもある。例えば最近の例だと、コロナ対策のマスクだ。一時ドラッグストアやスーパーの店頭から消え、転売ヤーがオークションに出品して落札価格が暴騰したことがある。オークション出品が禁止されるや、ネット・ショッピングで高価格販売していたが、供給量が増えすぎて値崩れを生じ、いまは送料込みでもドラッグストアで買うよりはるかに安価で買えるようになっている。
また供給量が増えて価格が安くなったことで、かえって需要が増大して価格が維持あるいは多少アップすることさえ実社会ではある。
逆に供給量が2割減ったら価格が2割上昇するかというと、そうもならない。2倍に高騰することもあれば、昨年のサンマ不漁でサンマ価格が供給量に応じて高騰したかというと、そうはならなかった。消費者が買い控えたため需要が減少し、スーパーでの店頭価格はそれほどには高騰しなかった。
これが現実の経済であり、MMTは単純に机上の計算で、過度のインフレにならない限り財政破綻しないという、砂に絵を描くような理論に過ぎない。こういうのを「学者バカ」という。
●公共放送の在り方について
最後に公共放送だ。日本の場合、NHKがそれに相当するが、公共放送の使命とは何か、どういうコンテンツが公共放送として必要かと考えたら、現在のNHKを公共放送局として認めるには相当の無理がある。
私が子供だった頃、まだ家にはテレビがなく娯楽手段といえばラジオしかなかった時代、NHKの紅白歌合戦や素人のど自慢、プロ野球や大相撲の中継、落語や講談、浪曲、漫才は貴重な娯楽手段だった。
NHKがジャーナリズムであるべきか否かについては議論があるとは思う。ジャーナリズムの使命は権力の監視と民主主義の砦という2大機能だと私は考えているが、政治的に公平・中立が義務付けられているためNHKはジャーナリズムの2大機能を果たすことは困難かもしれない。そうなると公共放送はいま必要なのか、という疑問すら生じる。
NHKは公共放送の必要性について「大災害が発生したとき、いち早く国民に情報を提供できる機能」をつねに持ち出すが、民放もそうした機能を今は拡大している。それとも大災害時の情報機能をNHKに集約するというのであれば、放送法を改正して大災害時にはすべての民放番組やスマホにNHKの放送を強制的に割り込ませるようにすべきだろう。
事件や火事がしょっちゅう起きるわけでもないのに、警察署や交番、消防署が要所要所に配置されているのは、突発的な事件や火事に対処するためだ。NHKもそうした機能に徹するべきかもしれない。全国の警察署か消防署内に1部屋借りて、非常時の時の取材要員だけ配置しておけばいいことになる。そうなれば、公共放送というより国営放送の方がふさわしくなる。
が、いまのNHKが放送しているコンテンツは、ドラマ・スポーツ・バラエティが3本柱だ。民放との差はまったく見いだせない。あえて民放との差を指摘すると、民放が報道系番組にいま力を入れており、かつ政権に対してかなり厳しい監視機能を重視しているのに対して、NHKの報道番組も少なく、また報道内容もかなり政権寄りと言わざるを得ない。
実際、ニュース番組は共同通信や時事通信、ロイター、ブルンバーグといった通信社から配信されたニュースをアナウンサーが棒読みすれば十分。つまりNHKに記者など全く必要ない。
実際、知る人ぞ知る話だが、森友事件は朝日新聞のスクープということになっているが、実際にはNHK大阪放送局の記者だった相澤冬樹氏が追っていた事件だった。が、相澤氏のスクープ記事に激怒した報道局トップが相澤氏を考査部と称する窓際部門に異動し、怒った相澤氏は辞表をたたきつけてNHKを辞めた。なお相澤氏は現在、大阪日日新聞の編集局長兼一記者である。
すでに述べたように、公共放送はジャーナリズムであるべきではないという考え方もあり、私は必ずしも否定しない。が、そうであれば記者は不必要だし、報道局は通信社が配信する記事からニュースとして報道すべき記事だけを選択し、その記事をアナウンサーが棒読みすればいいだけの話だ。ただし、アナウンスするとき「〇〇通信によれば、……」と情報源を明確にしておくこと。政治介入はそれで防げる。
またドラマ・スポーツ中継・バラエティ部門はNHKから分離独立させて民営化したらいい。こういうコンテンツの制作に、税金に近い性質の受信料を使うべきではないからだ。
NHKをそのように改変すれば、政治圧力を受ける心配もなくなるし、NHKも政権への忖度を働かせる必要もなくなる。そのうえ、おそらく9割以上の人員削減もできるし、所有する不動産(放送局ビル)を貸しビルにすれば、受信料を取らなくても悠々やっていけるはずだ。「スクランブルにしろ」といった批判も完全に封じることができる。とにかくNHKに記者は必要ない。NHKでは、記者として生き残るためには政治家がらみの取材は厳禁で、絶対に手を出してはならない。相澤氏のケースでも、NHKの労働組合(日放労)ですら相澤氏を救済しようとすらしなかったのだから。
●日本企業の従業員が会社へのロイヤリティを失った理由
民主主義を一歩前進させる手段として私は「六権分立」論を書いたが、日本の現状は「三権分立」ですらない。事実上、行政権などないからだ。
かつて日本が高度経済成長を遂げ、GDPでアメリカに次ぐ世界2位に躍り出たころ、日本の官僚は世界中から賞賛の的だった。実際、戦後の政治は官僚主導で行われ、官僚主導で奇跡の経済成長を成し遂げてきた。
本来「三権分立」制度では立法機関の国会議員が法案を作成・提案・採決・成立しなければならないのだが、日本の場合は官僚が原案を作成し、自民党政策調査会、総務会を経て国会に提出する流れになっていた。そのため「省益あって国益なし」と言われたほどで、野党やメディアからしばしば「官僚主導」と批判されていた。霞が関が力を持ちすぎたせいもある。
で、旧民主党政権が誕生したとき、民主党は「政治主導」を標榜した。が、実際に政治主導で立法できるかというと、政策実現のための法律作成に向けて官僚との関係構築のノウハウの蓄積もなく、国民の間に不満が広がった。当時の民主党幹事長代理・枝野氏(現・新立憲代表)は「与党がこんなに忙しいとは思わなかった。政治主導などと迂闊なことを言った」と愚痴ったくらいだった(11年11月14日)。
が、民主党政権の失敗から官僚の動かし方を学んだのが、皮肉にも自民党だった。14年に内閣府に人事局を設置して官僚人事を掌握したのだ。
じつは日米貿易摩擦が激化していた時期、アメリカの企業経営者や経営評論家たちは「日本型経営から学ぶべきこともある」といった主張もあった。「日本の従業員はどうして会社に強いロイヤリティを持つのか」という疑問が彼らの根底にあった。が、日本型経営を学ぶといっても、ロイヤリティがどういう人事システムから生まれるかまでの考察ができなかった。
ちょうど日米構造協議が行われていた時期、私はアメリカに進出していた大企業をいくつか取材した。そのとき、日本から派遣されていた現地工場のトップに取材して、日本人従業員とアメリカ人従業員はロイヤリティの対象が違うだけだということを知った。
日本では「年功序列終身雇用」制度の下、従業員の雇用と処遇については会社(人事部)が責任を持っている。が、アメリカの場合は雇用や待遇、解雇に至るまで直属の上司が権限を持っている。だから上司に恵まれたら、上司にロイヤリティを示していれば、上司の出世と一緒に自分も出世できる。ただし、自分より能力が高そうな人は絶対に採用しない。いつ、自分にとって代わろうとするかわからないからだ。
そういう意味では織田信長は人事の天才でもあった。一人のナンバー2を置かずに、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀など数人を横並びでナンバー2的ポジションに配置し、相互にけん制させ合うことで自分に対する忠誠心を競わせた。自分自身が織田家で権力を争奪する過程で血も涙もないやり方をしてきたから、いつ自分が同じ目にあうかもしれないと危惧していたのだと思う。そうした状況下で明智光秀が信長を討てたのは、ほかのナンバー2的ポジションにいた武将たちが信長から遠くの戦場で戦っていたことが大きなチャンスになったのだろう。光秀が反逆した理由については諸説あるが、信長を討つチャンスはそうはなかったはずで、そういう意味では信長の油断が招いた結果と言えなくもない。
それはともかく、いま日本でも大企業で「年功序列終身雇用」の雇用関係が崩れつつある。富士通やトヨタ、川崎重工といった大企業も年功序列型雇用関係を見直しつつある。従業員のほうも、とっくに終身雇用など当てにしていない。そのうえ年功序列まで奪われたら、会社に対するロイヤリティなど維持できるわけがない。
●日本は「三権分立」の国ではない
ところが、日本には特殊な世界が存続している。霞が関村だ。この村にだけは依然として「年功序列終身雇用」の雇用が維持されている。いまのところは、だが。
が、内閣人事局ができて、今まであまり波風が立たなかった霞が関村に、おかしな風が吹き出した。省内の上のほうだけ向いて仕事をしていればよかった村人が、内閣人事局というお代官様の顔色を窺わないと将来が約束されないという空気が生まれたのだ。
たぶん、いまでも大学を卒業して入省したときに聞かされる訓示は「国のため、国民のために奉仕する気持ちを忘れないように」だと思うが、ホンネは「政府のために仕事をするという気持ちを忘れないように」だ。だから入省して間もない若手官僚の退職率が最近極めて高いようだ。それも優秀な若手ほど、早めに見切りをつけて辞めていくという。
そうなると、「行政権」はどこに行ってしまったのか、ということになる。たとえばコロナ・ワクチン。すでに医療従事者への接種は始まっているというが、対象の医療従事者はコロナ患者を受け入れている病院だけではない。
歯医者や整形外科、耳鼻咽喉科や美容整形まで優先的ワクチン接種の対象に含まれている。それも医師や看護師だけでなく、患者の治療には一切タッチしない、つまり医療業務の資格すら持っていない受付窓口の人まで「医療従事者」の範疇と位置づけ、優先的にワクチン接種の権利があるという。
何故か。医師会が自民党の重要な票田だからだ。
政治主導という名において行われている行政の実態とは、そういうものなのだ。いったい、どこに「行政」の独立性があるのか。
はっきり言う。日本は「三権分立」の国ではない。立法と行政が一体化し、いちおう独立性を維持している司法と合わせて「二権分立」の国だ。イギリスも「二権分立」の国なので、一概に「二権分立」を否定するわけではないが、私たちが子供のころにならってきた民主主義制度としての「三権分立」についての記述は、子供たちが大人になったとき混乱することになるだけだから、削除すべきである。