「永遠のサユリスト」を自負する私だが、残念ながら吉永氏との面会の機会にまだ恵まれていない。むしろ私が勝手に作り上げた私自身の「サユリスト・イメージ」を抱いたまま、永遠に合わないほうがいいのかもしれない。
吉永氏は1945年3月13日の生まれ。日本が終戦を迎える5か月ほど前に生まれた。戦後70年を迎える今年、吉永氏もすでに古希を迎えた。
その吉永氏がボランティアで原爆詩の朗読会を各地で始めるようになったのは1986年から。今週で30回目を迎えることになる。私たち日本人の心に深くしみとおるような朗読だ。
原爆の唯一の被害国である日本は、世界に向かって原子兵器の廃絶を求める権利と義務がある。日本政府は、全国民の悲願を実現するためにどうしたらいいか。そのための提案が今回のブログの主題である。結論から書く。
日本は「核不拡散条約」への加盟を取消し、条約そのものの欺瞞性・独善性を世界に向かって発信せよ。
読者にその理由を理解していただくには、原爆投下の歴史をポツダム宣言の作成過程にまでさかのぼって検証する必要がある。
ポツダム宣言はナチス・ドイツが無条件降伏した約2か月後の1945年7月17日から8月2日にかけて、米英ソの3首脳がベルリン郊外のポツダムに集まり、まだ抵抗を続けていた日本軍をどうやって降伏させ、世界秩序を回復するかを話し合った結果として作成された。ポツダム宣言作成に携わった3首脳とは米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン共産党書記長である。宣言文の大部分は米政府が作成し、イギリスが若干の修正を行ったが、スターリンはほとんど関与していない。
こうして作成されたポツダム宣言は7月26日、米トルーマン大統領、英チャーチル首相、中国・蒋介石国民政府主席の共同声明として日本側に突き付けられた。他の連合国首脳は宣言に関与していず、スターリンは日ソ中立条約がまだ有効だったので署名していない。このポツダム会議でトルーマンはスターリンに「日ソ中立条約の破棄・対日宣戦布告」を強く要請したが、当時ソ連軍の大半は東欧にくぎ付けになっており、シベリア方面に大軍を移動できる余裕がなかったため、スターリンは宣言への署名を拒否したと考えられる。
これに先立ち、日本政府は7月10日、戦争最高指導会議を開き、戦争終結のあっせんをソ連に依頼することを決定、13日には近衛文麿元総理をソ連に派遣してスターリンと交渉させたが、交渉をずるずる引き伸ばしたうえで18日になってスターリンが日本政府の要請を拒否した。
さてポツダム宣言は「日本への無条件降伏」を求めた最後通告として知られ
ているが、それほど単純なものではなかった。ポツダム宣言の現代語訳(全文)をウィキペディアから転載する。
1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意をすでに整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続きうけるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文に示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れえないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、また日本国の主権は本州、北海道、九州、四国並びに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる機会を与えられる。
10.我々の意思は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍(※障害と同義)は排除するべきであり、言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有できる。また将来的には国際貿易に復帰が許される。
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立
を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤
退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障(※「保証」が正しい)することを求める。これ以外の選択肢は迅速かつ完全なる壊滅があるのみである。
このポツダム宣言には、日本政府で危惧された「国体の維持」についての文言はいっさい記載されていない。おそらく米英ソ3国首脳での会議でも結論が出せなかったのではないかと思われる。また当時の日本政府が考えていた「国体の維持」が天皇制の維持を意味していたのか、天皇家の存続を意味していたのか、その辺も不明である。が、「国体の維持」がポツダム宣言では保証されていないことを理由に日本政府はポツダム宣言の受諾を拒否したことだけは疑いのない事実である。
日本政府は一応満州国国境に関東軍を配備してはいたが、東欧にくぎ付けになっていたソ連軍が短時間で反転してくるとは考えていなかったようだ。だが、近衛代表がスターリンと戦争終結のあっせん工作を行っていた7月中旬ころには、ソ連軍はひそかにシベリア方面に大軍を移動させつつあったと考えられる。またアメリカの前大統領のルーズベルトが1945年2月のヤルタ会談で、スターリンに対して対日参戦を促す代償として南樺太、千島列島、満州における権益の譲渡を保証している。おそらく、ソ連軍が東欧から引き上げたのちも、ソ連の東欧における権益も、ルーズベルトは保証していたのではないか。
ナチス・ドイツが連合国に無条件降伏したのは45年5月7日であり、ソ連軍も対独戦で相当な痛手を被っていたはずだから、容易には二方面作戦を行える状況にはなかった。が、米軍が主体の連合国軍は44年6月のノルマンディ作戦で大勝利を収めており、8月には仏パリの開放にも成功、東欧諸国は次々に共産勢力が権力を奪取し、ナチス・ドイツはすでに瀕死の状態に陥っていた。そういうヨーロッパ戦線の状況下で、ルーズベルトは早期に日本軍を壊滅させることに躍起になっていたのかもしれない。ルーズベルトがヤルタ会談当時重病で、正常な判断力を失っていたという説も有力である。
実際ルーズベルトはこの年(44年)4月に死去しており、その跡を継いだのが副大統領のトルーマンであったが、トルーマンは外交分野の経験がなく、対日戦争作戦は事実上ルーズベルトの側近が仕切っていたようだ。
ドイツ降伏後の戦後処理についても、おそらくルーズベルトはドイツの東西分割をスターリンに約束していただろうし、東欧諸国の共産化も容認していたのだろう。スターリンが東欧にくぎ付けになっていたソ連軍の相当に強力な部隊を、シベリア方面に安心して移動させることができる条件はこうして整ったと考えるのが論理的である。
が、アメリカにとって対日戦争作戦が思わぬ結果を生んだのは沖縄上陸だっ
た。42年6月のミッドウェー海戦で大勝利を得た米軍は、その後、連戦連勝を続け、日本軍が支配していた南太平洋の諸島を次々に奪還、日本軍は後退に次ぐ後退を余儀なくされていた。米軍総司令官マッカーサーも、沖縄上陸作戦は容易に成功すると考えていたようだ。
実は沖縄に配備されていた日本軍の3分の1は、台湾防衛のために割かれていた。にもかかわらず、沖縄の日本軍守備隊はすさまじい抵抗を示した。守備隊の戦力だけでは到底勝ち目がないため、沖縄県民を総動員して沖縄防衛の任につかせた。「戦って死ぬか。それとも自殺するか」と沖縄県の民間人を戦争に駆り出したのだ。女子学生まで駆り出され「ひめゆり部隊」と呼ばれた。
米軍が沖縄本島の上陸作戦を開始したのは45年4月1日、日本軍守備隊が全滅したのが6月23日。死者は日米合わせて19万人に達するという世界の戦争史で、おそらく最大の犠牲者を出した戦場になった。
アメリカは急きょ、対日戦争作戦を見直すことにした。沖縄戦終結後は本土上陸作戦を考えていたのだが、本土上陸作戦を敢行すれば沖縄戦以上の膨大な犠牲者を出すことが必至であった。そのため本土上陸作戦を諦め、以降は空爆作戦に切り替えることにした。東京をはじめとする大都市だけでなく、軍需産業のかけらすらない地方まで見境なしの空爆作戦を行うことにした。原爆を含め、空爆による民間人犠牲者は、これまた世界の戦争史上空前の数にのぼった。
東京大空襲だけでも民間人の犠牲は10万を超えたのだから、日本にはもはや戦争を継続できるだけの戦力さえなかった。なのにアメリカは広島と長崎に原爆を投下した。この行為は何のためだったのか。その意味を考えてみる。
アメリカは今でも「戦争の早期終結のため」「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」と、原爆投下を正当化しているが、そんな理由は論理的に成立しえないことを明らかにする。
まず、アメリカは本土上陸作戦を止めていた。日本への攻撃は空爆に絞っていた。上陸作戦を止めた以上、本土攻撃で米軍兵士の犠牲はほとんど出ないことになる。B29を迎え撃つべき日本の戦闘機はもはやゼロだった。特攻隊はB29に体当たりするためではなく、米艦船に体当たりして撃沈することが目的であり、実際アメリカは本土攻撃作戦での戦死者を公表もしていない。公表したら「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」という口実のウソが明らかになってしまうからだ。
しかし「戦争を早期に集結させる」必要性は、間違いなくあった。ソ連が対日戦争に踏み切ったからだ。
ドイツの東西分割と東欧の共産化にアメリカがお墨付きを与えたため、スタ
ーリンは東欧方面に配備していたソ連軍のかなりをシベリア方面に密かに移動させつつあった。ノー天気な日本政府はそうした状況すら知らずに、近衛代表をソ連に派遣してスターリンに戦争終結のあっせんを頼むというバカげた行動に出ている。実際近衛代表がスターリンにあっせんを依頼したのが7月13日。スターリンが拒否したのは18日。この間の5日間は日本側に一縷の望みを持たせつつ、ソ連軍の密かな大挙移動のための時間稼ぎのためと考えるのが合理的である。ルーズベルトがスターリンに約束した対日参戦の代償である南樺太・千島列島・満州の権益を確実なものにするためには、ソ連軍の対日参戦体制が整うまでは日本に無意味な抵抗を続けてもらわなければならなかったからだ。
が、トルーマンはそうしたスターリンの対日戦略が目に見えるように分かっていた。ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告をする前に、日本を何が何でも降伏させなければならなかったのだ。それが8月6日の広島への原爆投下のホントウの理由である。
焦ったのはスターリンだった。アメリカはまだ空爆作戦を続行するだろう、そして日本は竹槍でB29を撃墜するというバカげた試みに必死になっているだろうと思っていたのだが、アメリカが原爆投下に踏み切ったことで、急きょ、8日に日ソ中立条約の破棄と対日宣戦布告を行い、満州国境の関東軍守備隊への攻撃を開始したのだ。それであわてたのが今度はアメリカだ。日本がソ連の侵攻を受けて共産化してしまうと元も子もなくなることを恐れた。
アメリカにとっては、ソ連軍の日本侵攻を防ぐためには、一日も早く日本にポツダム宣言を受諾させる必要が生じた。それがソ連の対日宣戦布告の翌9日に長崎への原爆投下に踏み切った最大の理由である。
それでも日本の軍部はしぶとかった。正常な判断力などとっくに失ってはいたが、最後の抵抗に出る。
実は9日に急きょ、日本政府は御前会議を開いて翌10日の午前2時半、国体維持を条件とするポツダム宣言受諾を決定した。そして直ちにその旨を連合国へ伝え、海外放送で条件付きの受諾申し入れを放送した。ただし、国内では極秘扱いとされた。
その期に及んでも、メディアは軍部に忠実だった。翌11日の新聞各紙は、1面トップで下村情報局総裁の国体維持談話と阿南陸曹の断固抗戦訓辞を並べて掲載したのである。14日になり、ようやく政府は軍部を抑えてポツダム宣言受諾を御前会議で決定、翌15日正午の玉音放送で天皇みずから戦争終結を宣言した。それでも陸軍の一部将校は玉音盤〈レコード〉を奪取して戦争継続を試みたが、もはやクーデターを支持する勢力もなく、反乱は鎮圧された、
ただアメリカによる原爆投下について、これまで誰も指摘してこなかった重
要な問題がある。事実はすでに明らかにされているのに、なぜ誰も(メディア
も含めて)この問題を追及しないのか。それは原爆投下の、もう一つの目的のことだ。
技術開発は、企業も軍関係も、常に複数の開発プロジェクトを走らせている。日本の企業での開発競争で最も有名なのは、ホンダのエンジン冷却方式を巡る二つの開発プロジェクトである。
創業者でもあり、自分の技術力とアイディアに誇りを持っていた本田宗一郎氏が次期エンジンの冷却方式として空冷式を提唱した。だが、エンジニアの中には「日本の交通事情では水冷式でないとダメだ」と主張するグループがいた。ホンダはまだ今日のような大企業ではなく、二つの開発プロジェクトを同時に走らせるのは、かなりの負担があった。が、本田氏は困難を承知で二つのプロジェクトを同時に走らせることにした。
理論的には、自動車が一定の速度を保って走行できる状態なら空冷式の方が有利である。が、信号で停車したり渋滞に巻き込まれたりした場合、空冷式ではどうやって温度が上昇し続けるエンジンを冷却するのかという問題があった。いまのIT技術を駆使すれば車の走行状態に応じて水冷と空冷を自動的に切り替えることが可能だろうが、当時はそういうことを可能にするエレクトロニクス技術はなかった。本田氏は、二つのプロジェクトの結果を見て、自らが提唱した空冷式を諦め、水冷式にすることにした。
なかには一つの方式に決めず、市場の反応を見ることにするケースもある。たとえばパナソニック(当時は松下電器産業)が、ブラウン式テレビに代わる次世代テレビ開発について液晶方式とプラズマ方式の二つの開発プロジェクトを同時に走らせ、ともに製品化に成功した。当時は液晶の微細化技術には限界があると考えられており、小型テレビは液晶、中大型はプラズマが有利とパナソニックの経営陣は考えた。で、二つの方式の次世代テレビを商品化したのだが、液晶の微細化技術が当時の予測を超えて急速に進んだ。その結果、液晶に絞っていたシャープが一時はテレビ業界の覇者になった。
競争が激しい世界ではそうしたことがしばしばあるのだが、パソコンOSでほぼ独占状態にあったマイクロソフトが「禁じ手」を使って失敗したことがある。ウィンドウズ98の後継OSの開発チームを複数同時に走らせた。そして二つのOSを商品化し、消費者の選択に任せるという作戦に出たのだ。それが2000年に商品化されたウィンドウズ2000とMeである。消費者の選択に任せるという考え方そのものを私は否定しないが、消費者やソフトメーカーがどちらかを選ぶ権利を行使するには、二つのOSのスペックをすべてオープンにする必要がある。が、マイクロソフトは自社開発のアプリケーションであるオフィスの優位性を維持するため、スペックのすべてはオープンにしていない。そのため
消費者やソフトメーカーは選択できない状態に陥った。結局マイクロソフトは
短期間でウィンドウズ2000とMeを自ら市場から消滅させてウィンドウズXPに切り替えた。それまで2~3年のペースでOSをチェンジしてきたマイクロソフトが,XPについてはかなり長期にわたって市場に提供せざるを得なくなった裏事情にはそうした戦略的失敗があったからだ。
原爆問題に戻る。米軍も原爆開発について二つのプロジェクトを走らせていた。一つがウラン分裂型であり、もう一つがプルトニウム分裂型である。成功確率が高いのはウラン分裂型であることは最初から分かっていた。そのため最初に投下した広島の原爆はウラン分裂型だった。そしてウラン分裂型原爆は見事に成功した。こうした場合、戦争終結のために長崎(最初の目標は小倉=現北九州)に投下すべき原爆は、すでに成功が証明されたウラン分裂型を選択するのが軍事上の常識である。が、長崎に投下した原爆は水爆開発に欠かせないとされていたプルトニウム分裂型であった。つまり、広島と長崎に投下した二つの原爆のタイプを変えたのは、人類史上かつてない人体実験を行うためだったのである。
さて本題に戻ろう。核不拡散条約は1963年、核保有国(当時は米・英・仏・ソ・中の5か国=国連常任理事国)の軍事的優位性を維持しつつ、核保有国の拡大を抑止する目的のために国連で採択された条約である。68年に62か国が調印し、70年3月に発効した。その後、加盟国が増大し、2010年の締結国は190か国に上っている。日本は70年2月に署名し、76年6月に批准している。
が、日本政府は署名に際し、条約第10条が自国の利益を危うくする事態と認めたときは脱退する権利を有するとしていることに留意し、「条約が25年間わが国に核兵器を保有しないことを義務付けるものである以上、この間日米安全保障条約が存続することがわが国の条約加入の前提」であり、「日米安全保障条約が破棄されるなどわが国の安全が危うくなった場合には条約第10条により脱退しうることは当然」との声明を発表した。
分かりやすく言えば、アメリカが日本を核の傘で守ってくれることを保障してくれている間は、日本も核を保有しないが、アメリカの核の傘があてにならなくなったら日本も核を保有するぞ、というのが日本政府の立場なのだ。
ということは、たとえば北朝鮮の場合、中国が核の傘で北朝鮮を守ってくれない場合は核を保有する権利があることを国際社会が認めていることを意味し、北朝鮮が「アメリカが自国に対して敵視政策をとっている」とアメリカの核を脅威に感じ、友好国の中国もあてにならない以上、核を持つ権利を有するのは当然なのだ。
現在、核保有国は5大国以外に北朝鮮、インド、パキスタンである。ほかにイスラエルは核兵器の保有について否定も肯定もせず、また核不拡散条約にも
加盟していない。またイランの核開発にも疑惑がもたれているが、どの国も、
自衛のために核を保有する国に対してクレームを付ける権利がないことは、肝心の核不拡散条約10条が認めているのである。
まさに核不拡散条約は各5大国のみが「自衛権」として(他国を攻撃するために核を保有すると主張している国はない)核兵器を保有する権利を主張している以上、他国の核を脅威に感じた国が核を保有することは国連憲章でさえ認めている主権国家の個別的自衛の権利なのだ。現に北朝鮮はアメリカの核を脅威に感じ、中国と国境問題を抱えているインドが中国の核を脅威に感じ、さらにインドと国境問題を抱えているパキスタンがインドの核を脅威に感じて、それぞれ核を保有するのは主権国家として当然の権利である。
そういう状況の中で、この世界から核を廃絶するには、すべての国連加盟国が核を保有する権利があることを明らかにしたうえで、日本が率先して核不拡散条約から脱退することだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、全世界のあらゆる国が核を保有することになれば、核を独占することの意味がなくなり、すべての国が核を保有することをやめようということになる。この美しい地球から核を廃絶するには、その方法しかない。
追記:私のブログの読者約3000人の1に相当する方から「パチンコ産業について」という質問が寄せられた。私はパチンコはしないし、答えようがない。質問をする場合の礼儀として、「自分はこう思うが、この考え方についてどう思うか」という質問ならば、答えられる範囲について答えるが、そもそもパチンコをしたことがない人間に「どう思うか」と質問を寄せられても答えようがない。この質問のコメントはあえて削除しなかったが、質問をする場合、自分の意見を述べたうえで私の主張を求めるのが礼儀だろう。今回は私に寄せられた質問をあえて削除はしなかったが、私の主張に反論があるなら、まず自分の意見を述べたうえで質問してほしい。
その読者がパチンコ業界について何か言いたいことがあれば、私のブログに便上しないで自ら告発していただきたい。私のブログは当初数人の閲覧者からスタートして、いまメディアや政界を動かすまでに影響力を持つようになってきた。「継続は力なり」という格言を自分自身で確信できる状態になってきた。そのことの重みを感じてほしい。
吉永氏は1945年3月13日の生まれ。日本が終戦を迎える5か月ほど前に生まれた。戦後70年を迎える今年、吉永氏もすでに古希を迎えた。
その吉永氏がボランティアで原爆詩の朗読会を各地で始めるようになったのは1986年から。今週で30回目を迎えることになる。私たち日本人の心に深くしみとおるような朗読だ。
原爆の唯一の被害国である日本は、世界に向かって原子兵器の廃絶を求める権利と義務がある。日本政府は、全国民の悲願を実現するためにどうしたらいいか。そのための提案が今回のブログの主題である。結論から書く。
日本は「核不拡散条約」への加盟を取消し、条約そのものの欺瞞性・独善性を世界に向かって発信せよ。
読者にその理由を理解していただくには、原爆投下の歴史をポツダム宣言の作成過程にまでさかのぼって検証する必要がある。
ポツダム宣言はナチス・ドイツが無条件降伏した約2か月後の1945年7月17日から8月2日にかけて、米英ソの3首脳がベルリン郊外のポツダムに集まり、まだ抵抗を続けていた日本軍をどうやって降伏させ、世界秩序を回復するかを話し合った結果として作成された。ポツダム宣言作成に携わった3首脳とは米トルーマン大統領、英チャーチル首相、ソ連スターリン共産党書記長である。宣言文の大部分は米政府が作成し、イギリスが若干の修正を行ったが、スターリンはほとんど関与していない。
こうして作成されたポツダム宣言は7月26日、米トルーマン大統領、英チャーチル首相、中国・蒋介石国民政府主席の共同声明として日本側に突き付けられた。他の連合国首脳は宣言に関与していず、スターリンは日ソ中立条約がまだ有効だったので署名していない。このポツダム会議でトルーマンはスターリンに「日ソ中立条約の破棄・対日宣戦布告」を強く要請したが、当時ソ連軍の大半は東欧にくぎ付けになっており、シベリア方面に大軍を移動できる余裕がなかったため、スターリンは宣言への署名を拒否したと考えられる。
これに先立ち、日本政府は7月10日、戦争最高指導会議を開き、戦争終結のあっせんをソ連に依頼することを決定、13日には近衛文麿元総理をソ連に派遣してスターリンと交渉させたが、交渉をずるずる引き伸ばしたうえで18日になってスターリンが日本政府の要請を拒否した。
さてポツダム宣言は「日本への無条件降伏」を求めた最後通告として知られ
ているが、それほど単純なものではなかった。ポツダム宣言の現代語訳(全文)をウィキペディアから転載する。
1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意をすでに整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続きうけるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文に示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れえないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、また日本国の主権は本州、北海道、九州、四国並びに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活できる機会を与えられる。
10.我々の意思は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍(※障害と同義)は排除するべきであり、言論、宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有できる。また将来的には国際貿易に復帰が許される。
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立
を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤
退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障(※「保証」が正しい)することを求める。これ以外の選択肢は迅速かつ完全なる壊滅があるのみである。
このポツダム宣言には、日本政府で危惧された「国体の維持」についての文言はいっさい記載されていない。おそらく米英ソ3国首脳での会議でも結論が出せなかったのではないかと思われる。また当時の日本政府が考えていた「国体の維持」が天皇制の維持を意味していたのか、天皇家の存続を意味していたのか、その辺も不明である。が、「国体の維持」がポツダム宣言では保証されていないことを理由に日本政府はポツダム宣言の受諾を拒否したことだけは疑いのない事実である。
日本政府は一応満州国国境に関東軍を配備してはいたが、東欧にくぎ付けになっていたソ連軍が短時間で反転してくるとは考えていなかったようだ。だが、近衛代表がスターリンと戦争終結のあっせん工作を行っていた7月中旬ころには、ソ連軍はひそかにシベリア方面に大軍を移動させつつあったと考えられる。またアメリカの前大統領のルーズベルトが1945年2月のヤルタ会談で、スターリンに対して対日参戦を促す代償として南樺太、千島列島、満州における権益の譲渡を保証している。おそらく、ソ連軍が東欧から引き上げたのちも、ソ連の東欧における権益も、ルーズベルトは保証していたのではないか。
ナチス・ドイツが連合国に無条件降伏したのは45年5月7日であり、ソ連軍も対独戦で相当な痛手を被っていたはずだから、容易には二方面作戦を行える状況にはなかった。が、米軍が主体の連合国軍は44年6月のノルマンディ作戦で大勝利を収めており、8月には仏パリの開放にも成功、東欧諸国は次々に共産勢力が権力を奪取し、ナチス・ドイツはすでに瀕死の状態に陥っていた。そういうヨーロッパ戦線の状況下で、ルーズベルトは早期に日本軍を壊滅させることに躍起になっていたのかもしれない。ルーズベルトがヤルタ会談当時重病で、正常な判断力を失っていたという説も有力である。
実際ルーズベルトはこの年(44年)4月に死去しており、その跡を継いだのが副大統領のトルーマンであったが、トルーマンは外交分野の経験がなく、対日戦争作戦は事実上ルーズベルトの側近が仕切っていたようだ。
ドイツ降伏後の戦後処理についても、おそらくルーズベルトはドイツの東西分割をスターリンに約束していただろうし、東欧諸国の共産化も容認していたのだろう。スターリンが東欧にくぎ付けになっていたソ連軍の相当に強力な部隊を、シベリア方面に安心して移動させることができる条件はこうして整ったと考えるのが論理的である。
が、アメリカにとって対日戦争作戦が思わぬ結果を生んだのは沖縄上陸だっ
た。42年6月のミッドウェー海戦で大勝利を得た米軍は、その後、連戦連勝を続け、日本軍が支配していた南太平洋の諸島を次々に奪還、日本軍は後退に次ぐ後退を余儀なくされていた。米軍総司令官マッカーサーも、沖縄上陸作戦は容易に成功すると考えていたようだ。
実は沖縄に配備されていた日本軍の3分の1は、台湾防衛のために割かれていた。にもかかわらず、沖縄の日本軍守備隊はすさまじい抵抗を示した。守備隊の戦力だけでは到底勝ち目がないため、沖縄県民を総動員して沖縄防衛の任につかせた。「戦って死ぬか。それとも自殺するか」と沖縄県の民間人を戦争に駆り出したのだ。女子学生まで駆り出され「ひめゆり部隊」と呼ばれた。
米軍が沖縄本島の上陸作戦を開始したのは45年4月1日、日本軍守備隊が全滅したのが6月23日。死者は日米合わせて19万人に達するという世界の戦争史で、おそらく最大の犠牲者を出した戦場になった。
アメリカは急きょ、対日戦争作戦を見直すことにした。沖縄戦終結後は本土上陸作戦を考えていたのだが、本土上陸作戦を敢行すれば沖縄戦以上の膨大な犠牲者を出すことが必至であった。そのため本土上陸作戦を諦め、以降は空爆作戦に切り替えることにした。東京をはじめとする大都市だけでなく、軍需産業のかけらすらない地方まで見境なしの空爆作戦を行うことにした。原爆を含め、空爆による民間人犠牲者は、これまた世界の戦争史上空前の数にのぼった。
東京大空襲だけでも民間人の犠牲は10万を超えたのだから、日本にはもはや戦争を継続できるだけの戦力さえなかった。なのにアメリカは広島と長崎に原爆を投下した。この行為は何のためだったのか。その意味を考えてみる。
アメリカは今でも「戦争の早期終結のため」「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」と、原爆投下を正当化しているが、そんな理由は論理的に成立しえないことを明らかにする。
まず、アメリカは本土上陸作戦を止めていた。日本への攻撃は空爆に絞っていた。上陸作戦を止めた以上、本土攻撃で米軍兵士の犠牲はほとんど出ないことになる。B29を迎え撃つべき日本の戦闘機はもはやゼロだった。特攻隊はB29に体当たりするためではなく、米艦船に体当たりして撃沈することが目的であり、実際アメリカは本土攻撃作戦での戦死者を公表もしていない。公表したら「これ以上米軍兵士の犠牲を出さないため」という口実のウソが明らかになってしまうからだ。
しかし「戦争を早期に集結させる」必要性は、間違いなくあった。ソ連が対日戦争に踏み切ったからだ。
ドイツの東西分割と東欧の共産化にアメリカがお墨付きを与えたため、スタ
ーリンは東欧方面に配備していたソ連軍のかなりをシベリア方面に密かに移動させつつあった。ノー天気な日本政府はそうした状況すら知らずに、近衛代表をソ連に派遣してスターリンに戦争終結のあっせんを頼むというバカげた行動に出ている。実際近衛代表がスターリンにあっせんを依頼したのが7月13日。スターリンが拒否したのは18日。この間の5日間は日本側に一縷の望みを持たせつつ、ソ連軍の密かな大挙移動のための時間稼ぎのためと考えるのが合理的である。ルーズベルトがスターリンに約束した対日参戦の代償である南樺太・千島列島・満州の権益を確実なものにするためには、ソ連軍の対日参戦体制が整うまでは日本に無意味な抵抗を続けてもらわなければならなかったからだ。
が、トルーマンはそうしたスターリンの対日戦略が目に見えるように分かっていた。ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告をする前に、日本を何が何でも降伏させなければならなかったのだ。それが8月6日の広島への原爆投下のホントウの理由である。
焦ったのはスターリンだった。アメリカはまだ空爆作戦を続行するだろう、そして日本は竹槍でB29を撃墜するというバカげた試みに必死になっているだろうと思っていたのだが、アメリカが原爆投下に踏み切ったことで、急きょ、8日に日ソ中立条約の破棄と対日宣戦布告を行い、満州国境の関東軍守備隊への攻撃を開始したのだ。それであわてたのが今度はアメリカだ。日本がソ連の侵攻を受けて共産化してしまうと元も子もなくなることを恐れた。
アメリカにとっては、ソ連軍の日本侵攻を防ぐためには、一日も早く日本にポツダム宣言を受諾させる必要が生じた。それがソ連の対日宣戦布告の翌9日に長崎への原爆投下に踏み切った最大の理由である。
それでも日本の軍部はしぶとかった。正常な判断力などとっくに失ってはいたが、最後の抵抗に出る。
実は9日に急きょ、日本政府は御前会議を開いて翌10日の午前2時半、国体維持を条件とするポツダム宣言受諾を決定した。そして直ちにその旨を連合国へ伝え、海外放送で条件付きの受諾申し入れを放送した。ただし、国内では極秘扱いとされた。
その期に及んでも、メディアは軍部に忠実だった。翌11日の新聞各紙は、1面トップで下村情報局総裁の国体維持談話と阿南陸曹の断固抗戦訓辞を並べて掲載したのである。14日になり、ようやく政府は軍部を抑えてポツダム宣言受諾を御前会議で決定、翌15日正午の玉音放送で天皇みずから戦争終結を宣言した。それでも陸軍の一部将校は玉音盤〈レコード〉を奪取して戦争継続を試みたが、もはやクーデターを支持する勢力もなく、反乱は鎮圧された、
ただアメリカによる原爆投下について、これまで誰も指摘してこなかった重
要な問題がある。事実はすでに明らかにされているのに、なぜ誰も(メディア
も含めて)この問題を追及しないのか。それは原爆投下の、もう一つの目的のことだ。
技術開発は、企業も軍関係も、常に複数の開発プロジェクトを走らせている。日本の企業での開発競争で最も有名なのは、ホンダのエンジン冷却方式を巡る二つの開発プロジェクトである。
創業者でもあり、自分の技術力とアイディアに誇りを持っていた本田宗一郎氏が次期エンジンの冷却方式として空冷式を提唱した。だが、エンジニアの中には「日本の交通事情では水冷式でないとダメだ」と主張するグループがいた。ホンダはまだ今日のような大企業ではなく、二つの開発プロジェクトを同時に走らせるのは、かなりの負担があった。が、本田氏は困難を承知で二つのプロジェクトを同時に走らせることにした。
理論的には、自動車が一定の速度を保って走行できる状態なら空冷式の方が有利である。が、信号で停車したり渋滞に巻き込まれたりした場合、空冷式ではどうやって温度が上昇し続けるエンジンを冷却するのかという問題があった。いまのIT技術を駆使すれば車の走行状態に応じて水冷と空冷を自動的に切り替えることが可能だろうが、当時はそういうことを可能にするエレクトロニクス技術はなかった。本田氏は、二つのプロジェクトの結果を見て、自らが提唱した空冷式を諦め、水冷式にすることにした。
なかには一つの方式に決めず、市場の反応を見ることにするケースもある。たとえばパナソニック(当時は松下電器産業)が、ブラウン式テレビに代わる次世代テレビ開発について液晶方式とプラズマ方式の二つの開発プロジェクトを同時に走らせ、ともに製品化に成功した。当時は液晶の微細化技術には限界があると考えられており、小型テレビは液晶、中大型はプラズマが有利とパナソニックの経営陣は考えた。で、二つの方式の次世代テレビを商品化したのだが、液晶の微細化技術が当時の予測を超えて急速に進んだ。その結果、液晶に絞っていたシャープが一時はテレビ業界の覇者になった。
競争が激しい世界ではそうしたことがしばしばあるのだが、パソコンOSでほぼ独占状態にあったマイクロソフトが「禁じ手」を使って失敗したことがある。ウィンドウズ98の後継OSの開発チームを複数同時に走らせた。そして二つのOSを商品化し、消費者の選択に任せるという作戦に出たのだ。それが2000年に商品化されたウィンドウズ2000とMeである。消費者の選択に任せるという考え方そのものを私は否定しないが、消費者やソフトメーカーがどちらかを選ぶ権利を行使するには、二つのOSのスペックをすべてオープンにする必要がある。が、マイクロソフトは自社開発のアプリケーションであるオフィスの優位性を維持するため、スペックのすべてはオープンにしていない。そのため
消費者やソフトメーカーは選択できない状態に陥った。結局マイクロソフトは
短期間でウィンドウズ2000とMeを自ら市場から消滅させてウィンドウズXPに切り替えた。それまで2~3年のペースでOSをチェンジしてきたマイクロソフトが,XPについてはかなり長期にわたって市場に提供せざるを得なくなった裏事情にはそうした戦略的失敗があったからだ。
原爆問題に戻る。米軍も原爆開発について二つのプロジェクトを走らせていた。一つがウラン分裂型であり、もう一つがプルトニウム分裂型である。成功確率が高いのはウラン分裂型であることは最初から分かっていた。そのため最初に投下した広島の原爆はウラン分裂型だった。そしてウラン分裂型原爆は見事に成功した。こうした場合、戦争終結のために長崎(最初の目標は小倉=現北九州)に投下すべき原爆は、すでに成功が証明されたウラン分裂型を選択するのが軍事上の常識である。が、長崎に投下した原爆は水爆開発に欠かせないとされていたプルトニウム分裂型であった。つまり、広島と長崎に投下した二つの原爆のタイプを変えたのは、人類史上かつてない人体実験を行うためだったのである。
さて本題に戻ろう。核不拡散条約は1963年、核保有国(当時は米・英・仏・ソ・中の5か国=国連常任理事国)の軍事的優位性を維持しつつ、核保有国の拡大を抑止する目的のために国連で採択された条約である。68年に62か国が調印し、70年3月に発効した。その後、加盟国が増大し、2010年の締結国は190か国に上っている。日本は70年2月に署名し、76年6月に批准している。
が、日本政府は署名に際し、条約第10条が自国の利益を危うくする事態と認めたときは脱退する権利を有するとしていることに留意し、「条約が25年間わが国に核兵器を保有しないことを義務付けるものである以上、この間日米安全保障条約が存続することがわが国の条約加入の前提」であり、「日米安全保障条約が破棄されるなどわが国の安全が危うくなった場合には条約第10条により脱退しうることは当然」との声明を発表した。
分かりやすく言えば、アメリカが日本を核の傘で守ってくれることを保障してくれている間は、日本も核を保有しないが、アメリカの核の傘があてにならなくなったら日本も核を保有するぞ、というのが日本政府の立場なのだ。
ということは、たとえば北朝鮮の場合、中国が核の傘で北朝鮮を守ってくれない場合は核を保有する権利があることを国際社会が認めていることを意味し、北朝鮮が「アメリカが自国に対して敵視政策をとっている」とアメリカの核を脅威に感じ、友好国の中国もあてにならない以上、核を持つ権利を有するのは当然なのだ。
現在、核保有国は5大国以外に北朝鮮、インド、パキスタンである。ほかにイスラエルは核兵器の保有について否定も肯定もせず、また核不拡散条約にも
加盟していない。またイランの核開発にも疑惑がもたれているが、どの国も、
自衛のために核を保有する国に対してクレームを付ける権利がないことは、肝心の核不拡散条約10条が認めているのである。
まさに核不拡散条約は各5大国のみが「自衛権」として(他国を攻撃するために核を保有すると主張している国はない)核兵器を保有する権利を主張している以上、他国の核を脅威に感じた国が核を保有することは国連憲章でさえ認めている主権国家の個別的自衛の権利なのだ。現に北朝鮮はアメリカの核を脅威に感じ、中国と国境問題を抱えているインドが中国の核を脅威に感じ、さらにインドと国境問題を抱えているパキスタンがインドの核を脅威に感じて、それぞれ核を保有するのは主権国家として当然の権利である。
そういう状況の中で、この世界から核を廃絶するには、すべての国連加盟国が核を保有する権利があることを明らかにしたうえで、日本が率先して核不拡散条約から脱退することだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではないが、全世界のあらゆる国が核を保有することになれば、核を独占することの意味がなくなり、すべての国が核を保有することをやめようということになる。この美しい地球から核を廃絶するには、その方法しかない。
追記:私のブログの読者約3000人の1に相当する方から「パチンコ産業について」という質問が寄せられた。私はパチンコはしないし、答えようがない。質問をする場合の礼儀として、「自分はこう思うが、この考え方についてどう思うか」という質問ならば、答えられる範囲について答えるが、そもそもパチンコをしたことがない人間に「どう思うか」と質問を寄せられても答えようがない。この質問のコメントはあえて削除しなかったが、質問をする場合、自分の意見を述べたうえで私の主張を求めるのが礼儀だろう。今回は私に寄せられた質問をあえて削除はしなかったが、私の主張に反論があるなら、まず自分の意見を述べたうえで質問してほしい。
その読者がパチンコ業界について何か言いたいことがあれば、私のブログに便上しないで自ら告発していただきたい。私のブログは当初数人の閲覧者からスタートして、いまメディアや政界を動かすまでに影響力を持つようになってきた。「継続は力なり」という格言を自分自身で確信できる状態になってきた。そのことの重みを感じてほしい。
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