猪瀬都知事はほとんど死に体になった。
私が『徳洲会から5000万円を「個人的に借りた」猪瀬都知事の言い訳の読み方を教えます』と題するブログを投稿したのは今月2日だが、いまだ私のブログを閲覧してくださる方は減少傾向に入らない。が、今日(16日)から再開される都議会総務委員会で再び全党派・会派の都議からの集中砲火を浴びることは必至だし、猪瀬氏が窮地を脱することはもはや不可能に思える。前回のブログで書いたように、選挙では既成政党の支持を一切受けないという見かけ上の「清潔さ」をウリにした猪瀬氏だが、こうした窮地に立った時には誰もかばってくれる議員が存在しないという四面楚歌状態を生んだからだ。
私が前回のブログを書いた根拠となる事実関係は、すべて新聞報道とネット検索によって知り得た情報だけである。それだけでも猪瀬氏を窮地に追い込むことは可能だったが、新たな事実も発覚した。すべて猪瀬氏にとって命取りになる事実ばかりである。
決定的なことは外堀も内堀も埋められてしまったことだ。内堀とは後で書くが、「選挙運動費用収支報告書」に水増しの虚偽記載があったことだ。外堀は徳田毅衆院議員が連座制の適用により議員バッチを取り上げられることが決定的になり、いわゆる「借用書」なるものについての徳田議員との口裏合わせは無意味になってしまうという誤算である。徳田議員にとってはただでさえ胡散臭い「借用書」について、猪瀬氏をかばったところで得るものは何もなくなり、徳田議員の姉が全面自白した理由である「徳洲会を立て直すには真実を明らかにすることの方が重要だ」という認識を徳田議員も共有するに決まっているからだ。つまり徳田議員にとっても、「政治の世界には距離を置いて政治力に頼らず、地域住民の支持を受けられる地道な医療活動を行っていくことが、地に落ちた徳洲会のイメージ回復にとって最も重要」というスタンスに立たざるをえなくなったからだ。そうなると、徳洲会にとって最後の目標であった東京都制覇を成し遂げるには、猪瀬氏との闇の関係を明らかにしてしまって信頼回復を図ることに全力を傾注することの方がダメージを最小限に食い止められるのではないか。――徳田議員がそういう結論に達することはもはや時間の問題と言えよう。
さらに、猪瀬氏は自ら墓穴を掘ってしまった。1年分の都知事給与を返上するから勘弁してくれと都議会に申し出たことだ。マスコミの報道によると都知事の給与は年間で2500万円ほどらしい。ということは、2500万円をどぶに捨てても、猪瀬氏は生活上の不安を生じないということになる。それだけの蓄えがあったら(猪瀬氏だったら、それ以上の蓄えがあっても不思議でもなんでもないと思う)、なぜ「生活の不安があったから」5000万円を借りる必要があったのだろうか。完全に猪瀬氏の言い訳は自己矛盾に陥っている。猪瀬氏は頭が混乱し、自ら墓穴を掘るような「都知事給与を1年間返上する」などと言いだしてしまったとしか理解のしようがない。猪瀬氏が、5000万円の「借用」について口を開けば開くほど自己矛盾を増大させていくという結果になることが分かっていないのか。
私は前回のブログで「もはや猪瀬氏は政治生命も作家生命も絶たれることは必至だ」と書いたが、そうなることは時間の問題になった。
それにしても、徳田虎雄氏と猪瀬氏の面会と金銭のやり取りを仲立ちしたという一水会代表の木村三浩氏との関係は依然として闇の中だ。ネット検索によれば一水会は最有力な「新右翼団体」ということで、木村氏はしばしばテレビの討論番組などにも登場しているようだ。その木村氏と猪瀬氏は「20~30年来の付き合い」だという。そうなると木村氏がなぜ猪瀬氏をわざわざ鎌倉の病院まで連れて行って寝たきり状態にある徳田虎雄氏との面会の労を取り、さらに徳田毅議員との会食の席までセットして大金「借用」まで頼んでやり、徳田議員側も常識では考えられないメモ程度の「借用書」だけで見ず知らずの人間(その時まで猪瀬氏は徳田議員との面識はなかった)に5000万円もの大金をホイホイ貸したのか、摩訶不思議な猪瀬氏と木村氏の深―い関係はまだ明らかにされていない。
私はネット検索するとき、いきなりウィキペディアで調べるようなことはしていない。ヤフーやグーグルといった検索エンジンで検索すれば、ウィキペディアの情報も含めいろいろな情報が入手できるからだ。猪瀬氏の問題が明らかになった時も、とりあえず「猪瀬直樹」で検索し、それで彼が「転向者」だったことを知り、今度は「転向」で検索をかけてウィキペディアで猪瀬氏が「転向者」の代表的人物の一人として紹介されていることを知った。そうやって知り得た情報と、木村三浩氏の関係を推測すると、猪瀬氏のノンフィクション作家活動の重要な情報源は木村氏だったのかという結論に自然にたどり着く。
猪瀬氏が学生時代、新左翼の革命的共産主義者同盟(中核派)の活動家で、全共闘のリーダーだったことは前回のブログで書いたが、新左翼と右翼(当時は「新左翼」や「新右翼」といった呼称はなかった)との裏での結びつきはかなり根深いものがあったようだ。新左翼の嚆矢は旧ソ連の出先機関の域を出なかった日本共産党の指導部に反発した学生共産党員たちが中心になって1958年に結成した共産主義者同盟(通称:ブント)の結成である。その中心人物が書記長の島成郎氏(東大医学部)で、60年安保闘争で全学連を分裂させ反日本共産党系の全学連主流派を組織化した(このとき日本共産党=民青系は全学連反主流派と呼ばれるようになる)。全学連主流派の初代委員長は北大農学部の唐牛健太郎氏で、島氏に口説かれて就任したと言われている。
60年安保闘争は、いまの若い人たちには想像を絶する闘争だった。連日数十
万という日米安保改定反対派が国会周辺を取り巻き、国会内に突入して安保改定を阻止しようとした。もはや日本共産党に反発した新左翼の学生だけでなく、一般市民も同調し、国鉄労組が初めて政治ストを行ったことでも知られている。また東大生だった樺美智子氏が国会突入騒動の中で死亡したことも闘争がより激化する大きな要因になった。マスコミも総じて全学連主流派に同調気味で、安保改定を強行しようとしていた岸内閣は孤立化し、安保条約の自然成立と引き換えに総理を辞任した。
今になって考えると、60年安保闘争は奇妙な戦いだった。もともとは、ソ連の国益を守るための日本における出先機関に過ぎなかった日本共産党執行部に反発したのが若手の日本共産党員の島氏たちだった。それも無理はない話で、たとえば原爆について日本共産党は「アメリカの原爆がまき散らす灰は汚いが、ソ連の原爆の灰はきれいだ」などという非科学的な主張を恥ずかしげもなくしていたのだから、島氏たち若手論客が反発するのは当然だった。
それはともかく、安保闘争は島氏や唐牛氏ら新左翼指導部の予想をはるかに超えた展開をしていく。そうなると、闘争を支える資金をどう調達するかが大問題になった。もちろんターミナル駅の付近などで盛んにカンパ活動を行いはしたが、カンパだけでまかなえる状況にはなかった。そうした中で、文藝春秋に掲載された田中清玄氏の論文(全学連主流派の行動に共感を示しつつ失敗に終わると苦言を呈した)に着目したのが島氏と唐牛氏だった。
田中氏は戦前、非合法時代の日本共産党中央委員会委員長を務めたことがある。が、戦後に転向して実業界に進出すると同時に右翼の政治活動も始めた。中曽根康弘元総理とも親しく、昭和天皇にも拝謁を許されたほどの大物である。真正右翼(そういう呼称があるかどうかは知らないが、新右翼と区別するため、とりあえずこの表現を使った)と近い関係にあった暴力団から狙撃されたこともある。そういう意味では田中氏は新右翼の先駆けと言えなくもないだろう。
実はあろうことか、島氏と唐牛氏は文藝春秋の田中論文を読んで、田中氏に資金援助を依頼したのである。田中氏が心情的にブントに共感するところがあったとしても、ソ連の国益を日本で守るための存在でしかない(当時は)日本共産党に反発して「真の」共産主義運動を目指していたブントの指導者が、右翼の大立者に資金援助を依頼するといったこと自体、信じがたい思いがする。
そういう視点で考えると、かつては新左翼の大物活動家だった猪瀬氏が新右翼の木村氏と20~30年に及ぶ親交を重ねてきたということ自体、やはり私には理解しがたい。おそらく数十年間にわたる猪瀬氏のノンフィクション作家活動の重要な情報源の一つが木村氏及び木村氏が率いる新右翼団体の一水会だった
のではないか。新右翼団体は、真正右翼と違って暴力団との間に深い関係はな
いようだが、政財界に太いパイプを持っていることはよく知られている。当然政財界の闇の部分に関係しているケースも少なくなく、彼らが超一流のノンフィクション作家である猪瀬氏に接触して情報提供したとすれば、そのこと自体に大きな意味がある。つまり猪瀬氏自身は「善意の情報提供」と考えたかもしれないが、それがきっかけで両者の間に数十年に及ぶ深―い関係が構築されていくのは当然である。
そう考えると、猪瀬氏―木村氏―徳田虎雄氏のトライアングルの関係もおおよそ見当がつく。前回のブログを書くに際して、私がネットでまず検索したのは徳洲会の首都圏における勢力図だった。すでに徳洲会は東京都を囲む神奈川・埼玉・千葉の3県には徳洲会病院のネットワークが張り巡らされていた。だが、東京都には徳洲会病院は昭島市に一つ開設されているだけだ(東京西徳
洲会病院)。東京西徳洲会病院以外には西東京市に武蔵野徳洲苑という老人ホームがあるだけである。しかもこの二つの施設はともに猪瀬氏が副都知事になって以降、解説が許可されており、さらに武蔵野徳洲会苑のすぐ近くに現在、武蔵野徳洲会病院が建設中である。
前回のブログを書いた時点ではわからなかったが、その後、東電の大株主である東京都の代表として猪瀬副都知事が東電病院の売却を激しく迫り、売却先として徳洲会が名乗りを上げていたことが都議会総務委員会で暴露された(ただし、徳洲会は徳田毅議員の公職選挙法違反の容疑が明るみにでた時点で入札を辞退したようだ)。そうした状況証拠をパズルのように組み合わせていくと、おのずと猪瀬都知事と木村氏、また徳洲会の持ちつ持たれつの関係が浮かび上がってこよう。だが、木村氏と徳洲会の闇の関係はまだわからない。ジャーナリストがその関係を穿り出そうとすると生命の危険を覚悟しなければならないかもしれない。マスメディアなら危険は及ばないだろうが…。
いずれにせよ猪瀬氏の都議会総務委員会での発言によれば、猪瀬氏・木村氏・徳田毅氏の3人が会食したとき、金の話が出たということだ。そして猪瀬氏は、その場では金の話を他人事のように聞いていて、その後、徳洲会側から金の用意ができたから取りに来るよう連絡があったので、「親切な人もいるなぁ」と深く考えもせずホイホイ金を受け取りに行ったという。
1万円や2万円ならいざ知らず、5000万円もの大金を、はんこも印鑑証明も持たず、保証人すら用意せずに受け取りに行くバカがどこにいるか。しかも最初は7月に亡くなった妻名義の貸金庫に金をしまったと証言していたのが、銀行の貸金庫の記録を調べられたらウソだということがすぐにばれるということに気づき、あわてて金を受け取った前日に自分が銀行で貸金庫を借りたと訂正した。
猪瀬氏の汗みどろになっての二転三転の訂正発言はテレビのニュースや新聞
で散々明らかにされてきたから、このブログの読者も辟易しているだろうから、これ以上触れないが、15日の新聞各紙朝刊で猪瀬陣営が「選挙運動費用収支報告書」に虚偽記載があったことがまた暴かれた。今の段階では、その虚偽記載に猪瀬氏自身が直接関与していたかどうかは不明だが、もしこの報告書を作成した人間が背任横領したとしたら、猪瀬氏の選挙運動を裏方で支えてきた人たちはいったいなんだったのかということになり、猪瀬氏は自身が満幅の信頼を寄せていた出納責任者の女性を業務上横領の罪で告訴せざるをえなくなる。なお新聞報道によれば、ボランティアで猪瀬氏の選挙運動を手伝った人たちは、貰ってもいない報酬を貰ったことになっているという。「ひとの善意を逆手に取る」とはそういうことを言う。
繰り返しになるが、5000万円という大金は、猪瀬氏が直接徳田毅氏に頼んだのではなく、猪瀬氏によれば「木村さんが貸してあげたら、と徳田議員に頼んでくれた」という。となると、木村氏はなぜそこまで猪瀬氏に肩入れをしなければならなかったのか、また「選挙後の生活の不安」に脅えていたような初顔合わせの人間に、徳田毅議員はなぜ二つ返事で承諾したのか。ちなみに現在明らかになっている徳田毅陣営が選挙活動でばらまいた金は6000万円に過ぎない。徳洲会は木村氏にどんな弱みを握られていたのか。
16日から再開される都議会総務委員会での焦点は「百条委員会」をいつ設置するかになった。猪瀬氏の説明不十分だけでは設置は困難という見方もあったが、収支報告書に虚偽記載があったとなると、猪瀬氏も百条委員会の設置を拒むことは出来まい。百条委員会は、都道府県及び市町村の事務に関する調査権を定めたもので(この権限は「百条調査権」とも言われ、選挙人=このケースでは猪瀬都知事=その他の関係者の出頭・証言・記録の提出が請求されると拒否できない)、百条委員会での発言は裁判と同様、真実を語ることが求められ、これまでのように発言を二転三転すると禁固刑を含む罰則を免れない。
猪瀬都知事の辞任はもう避けられない状況になってはいるが、猪瀬氏が辞任したら、それで幕を下ろしていい問題なのか。木村氏が、なぜ都知事選に深入りしてこれほど重要な役割を果たすことが出来たのか、マスコミはさらなる真相解明に取り組む必要があるだろう。
私が『徳洲会から5000万円を「個人的に借りた」猪瀬都知事の言い訳の読み方を教えます』と題するブログを投稿したのは今月2日だが、いまだ私のブログを閲覧してくださる方は減少傾向に入らない。が、今日(16日)から再開される都議会総務委員会で再び全党派・会派の都議からの集中砲火を浴びることは必至だし、猪瀬氏が窮地を脱することはもはや不可能に思える。前回のブログで書いたように、選挙では既成政党の支持を一切受けないという見かけ上の「清潔さ」をウリにした猪瀬氏だが、こうした窮地に立った時には誰もかばってくれる議員が存在しないという四面楚歌状態を生んだからだ。
私が前回のブログを書いた根拠となる事実関係は、すべて新聞報道とネット検索によって知り得た情報だけである。それだけでも猪瀬氏を窮地に追い込むことは可能だったが、新たな事実も発覚した。すべて猪瀬氏にとって命取りになる事実ばかりである。
決定的なことは外堀も内堀も埋められてしまったことだ。内堀とは後で書くが、「選挙運動費用収支報告書」に水増しの虚偽記載があったことだ。外堀は徳田毅衆院議員が連座制の適用により議員バッチを取り上げられることが決定的になり、いわゆる「借用書」なるものについての徳田議員との口裏合わせは無意味になってしまうという誤算である。徳田議員にとってはただでさえ胡散臭い「借用書」について、猪瀬氏をかばったところで得るものは何もなくなり、徳田議員の姉が全面自白した理由である「徳洲会を立て直すには真実を明らかにすることの方が重要だ」という認識を徳田議員も共有するに決まっているからだ。つまり徳田議員にとっても、「政治の世界には距離を置いて政治力に頼らず、地域住民の支持を受けられる地道な医療活動を行っていくことが、地に落ちた徳洲会のイメージ回復にとって最も重要」というスタンスに立たざるをえなくなったからだ。そうなると、徳洲会にとって最後の目標であった東京都制覇を成し遂げるには、猪瀬氏との闇の関係を明らかにしてしまって信頼回復を図ることに全力を傾注することの方がダメージを最小限に食い止められるのではないか。――徳田議員がそういう結論に達することはもはや時間の問題と言えよう。
さらに、猪瀬氏は自ら墓穴を掘ってしまった。1年分の都知事給与を返上するから勘弁してくれと都議会に申し出たことだ。マスコミの報道によると都知事の給与は年間で2500万円ほどらしい。ということは、2500万円をどぶに捨てても、猪瀬氏は生活上の不安を生じないということになる。それだけの蓄えがあったら(猪瀬氏だったら、それ以上の蓄えがあっても不思議でもなんでもないと思う)、なぜ「生活の不安があったから」5000万円を借りる必要があったのだろうか。完全に猪瀬氏の言い訳は自己矛盾に陥っている。猪瀬氏は頭が混乱し、自ら墓穴を掘るような「都知事給与を1年間返上する」などと言いだしてしまったとしか理解のしようがない。猪瀬氏が、5000万円の「借用」について口を開けば開くほど自己矛盾を増大させていくという結果になることが分かっていないのか。
私は前回のブログで「もはや猪瀬氏は政治生命も作家生命も絶たれることは必至だ」と書いたが、そうなることは時間の問題になった。
それにしても、徳田虎雄氏と猪瀬氏の面会と金銭のやり取りを仲立ちしたという一水会代表の木村三浩氏との関係は依然として闇の中だ。ネット検索によれば一水会は最有力な「新右翼団体」ということで、木村氏はしばしばテレビの討論番組などにも登場しているようだ。その木村氏と猪瀬氏は「20~30年来の付き合い」だという。そうなると木村氏がなぜ猪瀬氏をわざわざ鎌倉の病院まで連れて行って寝たきり状態にある徳田虎雄氏との面会の労を取り、さらに徳田毅議員との会食の席までセットして大金「借用」まで頼んでやり、徳田議員側も常識では考えられないメモ程度の「借用書」だけで見ず知らずの人間(その時まで猪瀬氏は徳田議員との面識はなかった)に5000万円もの大金をホイホイ貸したのか、摩訶不思議な猪瀬氏と木村氏の深―い関係はまだ明らかにされていない。
私はネット検索するとき、いきなりウィキペディアで調べるようなことはしていない。ヤフーやグーグルといった検索エンジンで検索すれば、ウィキペディアの情報も含めいろいろな情報が入手できるからだ。猪瀬氏の問題が明らかになった時も、とりあえず「猪瀬直樹」で検索し、それで彼が「転向者」だったことを知り、今度は「転向」で検索をかけてウィキペディアで猪瀬氏が「転向者」の代表的人物の一人として紹介されていることを知った。そうやって知り得た情報と、木村三浩氏の関係を推測すると、猪瀬氏のノンフィクション作家活動の重要な情報源は木村氏だったのかという結論に自然にたどり着く。
猪瀬氏が学生時代、新左翼の革命的共産主義者同盟(中核派)の活動家で、全共闘のリーダーだったことは前回のブログで書いたが、新左翼と右翼(当時は「新左翼」や「新右翼」といった呼称はなかった)との裏での結びつきはかなり根深いものがあったようだ。新左翼の嚆矢は旧ソ連の出先機関の域を出なかった日本共産党の指導部に反発した学生共産党員たちが中心になって1958年に結成した共産主義者同盟(通称:ブント)の結成である。その中心人物が書記長の島成郎氏(東大医学部)で、60年安保闘争で全学連を分裂させ反日本共産党系の全学連主流派を組織化した(このとき日本共産党=民青系は全学連反主流派と呼ばれるようになる)。全学連主流派の初代委員長は北大農学部の唐牛健太郎氏で、島氏に口説かれて就任したと言われている。
60年安保闘争は、いまの若い人たちには想像を絶する闘争だった。連日数十
万という日米安保改定反対派が国会周辺を取り巻き、国会内に突入して安保改定を阻止しようとした。もはや日本共産党に反発した新左翼の学生だけでなく、一般市民も同調し、国鉄労組が初めて政治ストを行ったことでも知られている。また東大生だった樺美智子氏が国会突入騒動の中で死亡したことも闘争がより激化する大きな要因になった。マスコミも総じて全学連主流派に同調気味で、安保改定を強行しようとしていた岸内閣は孤立化し、安保条約の自然成立と引き換えに総理を辞任した。
今になって考えると、60年安保闘争は奇妙な戦いだった。もともとは、ソ連の国益を守るための日本における出先機関に過ぎなかった日本共産党執行部に反発したのが若手の日本共産党員の島氏たちだった。それも無理はない話で、たとえば原爆について日本共産党は「アメリカの原爆がまき散らす灰は汚いが、ソ連の原爆の灰はきれいだ」などという非科学的な主張を恥ずかしげもなくしていたのだから、島氏たち若手論客が反発するのは当然だった。
それはともかく、安保闘争は島氏や唐牛氏ら新左翼指導部の予想をはるかに超えた展開をしていく。そうなると、闘争を支える資金をどう調達するかが大問題になった。もちろんターミナル駅の付近などで盛んにカンパ活動を行いはしたが、カンパだけでまかなえる状況にはなかった。そうした中で、文藝春秋に掲載された田中清玄氏の論文(全学連主流派の行動に共感を示しつつ失敗に終わると苦言を呈した)に着目したのが島氏と唐牛氏だった。
田中氏は戦前、非合法時代の日本共産党中央委員会委員長を務めたことがある。が、戦後に転向して実業界に進出すると同時に右翼の政治活動も始めた。中曽根康弘元総理とも親しく、昭和天皇にも拝謁を許されたほどの大物である。真正右翼(そういう呼称があるかどうかは知らないが、新右翼と区別するため、とりあえずこの表現を使った)と近い関係にあった暴力団から狙撃されたこともある。そういう意味では田中氏は新右翼の先駆けと言えなくもないだろう。
実はあろうことか、島氏と唐牛氏は文藝春秋の田中論文を読んで、田中氏に資金援助を依頼したのである。田中氏が心情的にブントに共感するところがあったとしても、ソ連の国益を日本で守るための存在でしかない(当時は)日本共産党に反発して「真の」共産主義運動を目指していたブントの指導者が、右翼の大立者に資金援助を依頼するといったこと自体、信じがたい思いがする。
そういう視点で考えると、かつては新左翼の大物活動家だった猪瀬氏が新右翼の木村氏と20~30年に及ぶ親交を重ねてきたということ自体、やはり私には理解しがたい。おそらく数十年間にわたる猪瀬氏のノンフィクション作家活動の重要な情報源の一つが木村氏及び木村氏が率いる新右翼団体の一水会だった
のではないか。新右翼団体は、真正右翼と違って暴力団との間に深い関係はな
いようだが、政財界に太いパイプを持っていることはよく知られている。当然政財界の闇の部分に関係しているケースも少なくなく、彼らが超一流のノンフィクション作家である猪瀬氏に接触して情報提供したとすれば、そのこと自体に大きな意味がある。つまり猪瀬氏自身は「善意の情報提供」と考えたかもしれないが、それがきっかけで両者の間に数十年に及ぶ深―い関係が構築されていくのは当然である。
そう考えると、猪瀬氏―木村氏―徳田虎雄氏のトライアングルの関係もおおよそ見当がつく。前回のブログを書くに際して、私がネットでまず検索したのは徳洲会の首都圏における勢力図だった。すでに徳洲会は東京都を囲む神奈川・埼玉・千葉の3県には徳洲会病院のネットワークが張り巡らされていた。だが、東京都には徳洲会病院は昭島市に一つ開設されているだけだ(東京西徳
洲会病院)。東京西徳洲会病院以外には西東京市に武蔵野徳洲苑という老人ホームがあるだけである。しかもこの二つの施設はともに猪瀬氏が副都知事になって以降、解説が許可されており、さらに武蔵野徳洲会苑のすぐ近くに現在、武蔵野徳洲会病院が建設中である。
前回のブログを書いた時点ではわからなかったが、その後、東電の大株主である東京都の代表として猪瀬副都知事が東電病院の売却を激しく迫り、売却先として徳洲会が名乗りを上げていたことが都議会総務委員会で暴露された(ただし、徳洲会は徳田毅議員の公職選挙法違反の容疑が明るみにでた時点で入札を辞退したようだ)。そうした状況証拠をパズルのように組み合わせていくと、おのずと猪瀬都知事と木村氏、また徳洲会の持ちつ持たれつの関係が浮かび上がってこよう。だが、木村氏と徳洲会の闇の関係はまだわからない。ジャーナリストがその関係を穿り出そうとすると生命の危険を覚悟しなければならないかもしれない。マスメディアなら危険は及ばないだろうが…。
いずれにせよ猪瀬氏の都議会総務委員会での発言によれば、猪瀬氏・木村氏・徳田毅氏の3人が会食したとき、金の話が出たということだ。そして猪瀬氏は、その場では金の話を他人事のように聞いていて、その後、徳洲会側から金の用意ができたから取りに来るよう連絡があったので、「親切な人もいるなぁ」と深く考えもせずホイホイ金を受け取りに行ったという。
1万円や2万円ならいざ知らず、5000万円もの大金を、はんこも印鑑証明も持たず、保証人すら用意せずに受け取りに行くバカがどこにいるか。しかも最初は7月に亡くなった妻名義の貸金庫に金をしまったと証言していたのが、銀行の貸金庫の記録を調べられたらウソだということがすぐにばれるということに気づき、あわてて金を受け取った前日に自分が銀行で貸金庫を借りたと訂正した。
猪瀬氏の汗みどろになっての二転三転の訂正発言はテレビのニュースや新聞
で散々明らかにされてきたから、このブログの読者も辟易しているだろうから、これ以上触れないが、15日の新聞各紙朝刊で猪瀬陣営が「選挙運動費用収支報告書」に虚偽記載があったことがまた暴かれた。今の段階では、その虚偽記載に猪瀬氏自身が直接関与していたかどうかは不明だが、もしこの報告書を作成した人間が背任横領したとしたら、猪瀬氏の選挙運動を裏方で支えてきた人たちはいったいなんだったのかということになり、猪瀬氏は自身が満幅の信頼を寄せていた出納責任者の女性を業務上横領の罪で告訴せざるをえなくなる。なお新聞報道によれば、ボランティアで猪瀬氏の選挙運動を手伝った人たちは、貰ってもいない報酬を貰ったことになっているという。「ひとの善意を逆手に取る」とはそういうことを言う。
繰り返しになるが、5000万円という大金は、猪瀬氏が直接徳田毅氏に頼んだのではなく、猪瀬氏によれば「木村さんが貸してあげたら、と徳田議員に頼んでくれた」という。となると、木村氏はなぜそこまで猪瀬氏に肩入れをしなければならなかったのか、また「選挙後の生活の不安」に脅えていたような初顔合わせの人間に、徳田毅議員はなぜ二つ返事で承諾したのか。ちなみに現在明らかになっている徳田毅陣営が選挙活動でばらまいた金は6000万円に過ぎない。徳洲会は木村氏にどんな弱みを握られていたのか。
16日から再開される都議会総務委員会での焦点は「百条委員会」をいつ設置するかになった。猪瀬氏の説明不十分だけでは設置は困難という見方もあったが、収支報告書に虚偽記載があったとなると、猪瀬氏も百条委員会の設置を拒むことは出来まい。百条委員会は、都道府県及び市町村の事務に関する調査権を定めたもので(この権限は「百条調査権」とも言われ、選挙人=このケースでは猪瀬都知事=その他の関係者の出頭・証言・記録の提出が請求されると拒否できない)、百条委員会での発言は裁判と同様、真実を語ることが求められ、これまでのように発言を二転三転すると禁固刑を含む罰則を免れない。
猪瀬都知事の辞任はもう避けられない状況になってはいるが、猪瀬氏が辞任したら、それで幕を下ろしていい問題なのか。木村氏が、なぜ都知事選に深入りしてこれほど重要な役割を果たすことが出来たのか、マスコミはさらなる真相解明に取り組む必要があるだろう。
あんな人に 【東京都の代表】なんて デカイ顔してオリンピックを開催してほしくない! 恥を知れ!!