安倍政治とはなんだったのか。
まだ安倍政権が倒れたわけではない。が、私の目から見ると、もはや断末魔の状態だ。「断末魔」と書いたのは、安倍政治そのものが末期的症状にあるという意味で、政権の行方は現時点では依然として不透明だ。明日にでも倒閣するような状況にあるわけではない。それでも、私はこの時点で安倍政治とはなんだったのか、という総括をする。その目的は、日本型民主主義政治を改めて検証することにある。なお、この稿では敬称は一切略させていただく。
安倍政治の本質は、ひとことで言えば「情の政治」だった。
「情の政治」という定義に、」あっ、なるほど」とうなずく人は少なくないと思う。「そう言えば」と、納得される方も多いと思う。
日本社会の底辺に流れる精神構造について独自の視点で研究してきたのが山本七平だ。その集大成が『空気の研究』だった。
山本七平は、イザヤ・ベンダサンなるペンネームで『日本人とユダヤ人』を著わし、著書は単に大ベストセラーとなっただけでなく、日本人社会の底辺に脈々と流れる精神的規範と欧米社会のそれとのパーセプション・ギャップを初めて解き明かした歴史的名著である。私自身、若いころ同書を読んで、言葉には表せないほどの精神的ショックを受けたことを今でも鮮明に覚えている。
安倍は外交の名手だった。安倍の外交テクニックは相手国の首脳との信頼関係を築くことに大きな力を発揮した。トランプとも最初の会見でたちまち意気投合した。彼の外交テクニックの機微はどういう点にあったのか。相手の情に訴えることの巧みさにあった、と私は思っている。
「日本は100%アメリカとともにある」
安倍はつねにこう言いつづけた。トランプが喜ばないわけがない。
ただし、その考えは必ずしも安倍の本音とは限らない。「日本の国益にかなう限り」という本音が隠されているはずだ。ただ、そう言ってしまったらおしまいよ、ということになるから、その言葉は発しない。相手の耳に心地よいことだけをとりあえず言っておく。
安倍とトランプの親密さは、そうやって構築されてきた。
安倍がトランプの言いなりになっているように振る舞っている間は、トランプにとっても安倍は最も頼りになる海外の友人である。だから安倍がトランプに会いたいと申し入れると、最優先で会うようにしている。とくに国内にも国外にも敵が多いトランプにとって、安倍は海外の得難い友人なのだろう。
安倍とトランプの関係については、メディアも政治家もその程度のことは百も承知しているはずだ。ただ、私のようにあからさまに書いたり言ったりしないだけだ。
安倍外交の威力は他の国々に対してもいかんなく発揮されている。安倍が第2次政権を確立して以来の海外訪問歴は、それまでの歴代総理の訪問歴を圧倒している。1国の首脳が訪問すれば、相手国も首脳が対応せざるを得ない。安倍は相手国首脳との間に親密な関係を構築することにかけては、他に例をみないほどに辣腕だ。どうやって相手国の首脳を誑(たら)し込むのかはわからないが、その交渉テクニックは歴代総理の中でも群を抜いていると思う。
そうした外交術によって日本産業界はかなりの恩恵を被ってきた。高度技術が要求される新幹線や原発などのインフラ産業の海外進出はアベノミクスによる円安効果も相まって大きく進んだ。
が、そうした外交テクニックは、想定外の弊害も生みかねない。相手国の首脳から「くみやすし」と、足元に付け込まれかねないからだ。たとえばアメリカにとって最も忠実な同盟国であるはずなのに、アメリカは日本に鉄鋼・アルミの関税を引き上げたり、自動車に至っては関税を25%に引き上げると脅かされたりしている。「そんな勝手な話があるか」と、安倍はトランプに怒りをぶつけようともしない。せいぜい、鉄鋼やアルミにかける関税について、カナダやEUの尻馬に乗ってWTO(世界貿易機関)に提訴する可能性を示唆する程度の抵抗しかできないでいる。
EUや中国は「それなら我々も報復処置をとるぞ」と猛烈に反発したが、日本の姿勢は「同盟国じゃないですか、どうかお手柔らかに」と、頭を下げて交渉しているようにしか見えない。
そもそもトランプが主張する「貿易の公平性」とは、輸入と輸出のバランスを取るという単純なことでしかない。アメリカは輸入超過で貿易収支の赤字が続いている。その赤字を解消するために、輸入超過が目立つ国の主力輸出品をやり玉に挙げて関税を引き上げようというものだ。さすがにそういうあからさまな関税引き上げ理由は国際社会の理解が得られないことも分かっているから、「安全保障上の観点から」というおかしな理由付けをしている。
そもそも安全保障上の問題であるならば、関税の引き上げで輸入量を制限するというのは理屈に合わない。該当品目のすべてを輸入禁止にすべき話だろう。関税の高率化で輸入量を制限することが、アメリカにとってどういう安全保障策を意味するというのか。日本政府に誇りと矜持があれば、トランプ主張の自家撞着を追及すべきだった。安倍外交の矛盾点がこうした形で表面化せざるを得なくなったのだ。いくらゴルフ外交で「親友ぶり」をアピールしても、肝心の安全保障政策や貿易問題で言うべきことも言えないのでは、安倍はどの国の国益を最優先しているのかと言いたくなる。
国益より、トランプとの友好関係を重視するように見える安倍の「情の政治」は、国内でも表れている。たとえばモリカケ問題。同じように見えて、実は二つの問題は本質的に違う。加計学園の加計孝太郎は安倍の大親友だが、森友学園の籠池泰典との交友関係はほとんどない。実際森友学園との国有地払い下げ交渉の文書にも、安倍自身の名前はまったく出ていない。
「忖度は片想いとは違うよ」ということは5月22日のブログでも書いたが、安倍は5月14日、国会の集中審議での答弁でこう主張した。
「忖度されたか否かは、される側にはですね、例えば私のことを忖度していると言われているんですが、される側にはわかりにくい面がありまして…」
ご冗談もほどほどに、と苦言を呈しておく。たとえばアイドル・タレントに勝手に片想いをし、それが嵩じてストーカーになったり、時に凶行に及ぶファンがいて民放のニュースショーの格好な話題になることがあるが、こうしたケースはタレント側には責められる要素はまったくない。
が、忖度は違う。相手に忖度させるための何らかのアクションがあったはずだ。そうでなければ、官僚が危ない橋を好んで渡るわけがない。
忖度という言葉は、籠池が国会での証人喚問で、財務省が国有地払い下げで破格の対応をしたことについて「たぶん忖度があったのだと思う」と述べたことがきっかけで一躍流行語になったが、籠池は役人に忖度させるために昭恵夫人の名前を交渉過程で頻繁に出し、ちょっと顔見知り程度の政治家の名前も出して自らの政界への影響力をこれでもかこれでもかとばかりにちらつかせてきた。実際には籠池の政界への影響力はさほどではなかったため、籠池は逮捕され締め上げられている。昭恵も籠池からそういう形で利用されているとは思いもよらなかっただろうから、いまは相当籠池に対して相当頭にきているはずだ。このケースはしかるべき地位にある官僚がある時点で昭恵をたしなめていれば、籠池の芝居は「カラカラ空回り」に終わっていた。
しかし、加計学園の問題は全く違う。安倍自身が、官僚に忖度させるために、自らの権力をフルに行使した。
15年2月15日に、安倍が加計と会って加計学園の「国際水準の新しい獣医学部を作りたい」という計画を聞いて「いいね」と賛意を示したのは、5月29日のブログで書いたように99.99%事実だろう。
愛媛県や今治市の文書の中に安倍・加計面会の記録が書かれていたのは、加計学園からの情報提供だったことははっきりしている。が、安倍が加計との面会を強く否定したため、加計も口を合わせ、そのうえ加計学園の事務局長の渡辺が虚偽情報を愛媛県や今治市に伝えてしまったことにした。記録文書が愛媛県や今治市に残っている以上、その記録を否定するためには加計学園としてはトカゲのしっぽを創らざるを得なくなったというわけだ。
トカゲのしっぽに指名された渡辺によれば、「その場の雰囲気で、とっさに私が思いつきで言ったのだと思う」ということだが、どう考えてもそういうことはあり得ない。
まず愛媛県や今治市には獣医学部新設を認可する権限がない。権限のない自治体に、「その場の雰囲気で思いついた作り話」というのは、どう考えても筋が通らない。強いて最大限善意に解釈して、愛媛県と今治市が国家戦略特区プロジェクトに申請する際の、内閣府官僚に忖度させるための材料として提供したというなら、まだ理解できないこともないが、愛媛県も今治市もこの材料を使って内閣府に働きかけていないのだから、加計学園側は愛媛県や今治市に「こんなにいい材料があるのに、なぜ使ってくれないのか」とせっついていなければ筋が通らない。
愛媛県今治市に獣医師養成大学を誘致するという計画の推進主体は、それまでの愛媛県から、安倍・加計会談を機に加計学園側に移行したと考えるのがもっとも論理的な帰結だ。
29日のブログを書いた時点では、国家戦略トップのキーマンである柳瀬がいつ動き始めたのかは不明だったが、いまは3月3日ということが判明している。この日、柳瀬は加計学園側と最初の面談を行っているが、加計学園の計画をバックアップするために同行した愛媛県や今治市職員のことは、柳瀬の記憶からすっぽり抜け落ちていた。柳瀬は国会に参考人として招致されたとき、加計学園担当者とは3回面会したことは認めたが、愛媛県や今治市職員が一緒だったことは全く覚えていなかった。ということは、柳瀬は加計学園の計画を国家戦略特区プロジェクトに認めさせるための方策を考えるのに必死で、それ以外のことは頭の片隅にもなかったことを意味する。
なぜか。
安倍から、直接「加計学園の面倒を見てやれ」と指示されていたからに他ならない(この部分は、私の論理的推測。しかし、この推測には100%の自信がある)。そうでなければ、この時期、国家戦略特区プロジェクトのキーマンである柳瀬が、直々加計学園担当者を総理官邸に呼び、直々に指導することなどあり得ないからだ。実際国家戦略特区プロジェクトに関して、自治体以外の事業者と面会したのは加計学園だけだったということも明らかになっている。
前回のブログにも書いたように、国家戦略特区プロジェクトの主役は地域の自治体である。地域の経済振興を政府が後押ししようというのがプロジェクトの趣旨で、安倍自身が最高責任者にもなっている。つまり、安倍の指示がなければ、柳瀬が面会すべきは特区として名乗りをあげようとしていた愛媛県と今治市の担当者のはずだ。
四国には獣医師が少ないという。そのため前愛媛県知事の加戸時代から、県は構造改革特区の制度を使って愛媛県に獣医学部の大学を誘致したいと何度も文科省に願い出ていたという。が、獣医師会の既得権益死守による強い反対と、その政治力によって愛媛県の思いは何度も厚い壁に跳ね返されてきたという。「岩盤規制」とやらの規制が本当にあったのかどうかは知らないが、安倍が加計に「国家戦略特区ならオレが最高責任者だから、何とかなる」とアドバイスしただろうことも想像に難くない。そしてキーマンであり総理秘書(当時)だった柳瀬に指示こともたぶん間違いないと思う。おそらく安倍の直接的関与はここまでだったと思う。だから前文科省事務次官の前川の証言のいくつかは、柳瀬が内閣府に根回ししたために官僚が行った忖度によると思う。安倍も、それ以上危ない橋を渡るほどのバカではあるまい。
私はこの問題を考える時、いろいろ仮説を立てて考えてみた。現場のメディア記者は直接自分の目や耳に入る情報に振り回されるため、樹を見て森が見えなくなるきらいがある。が、私には情報量が圧倒的に少ないため、森の全体像から樹を探すという方法を取らざるを得ない。
私が立てた仮説の一つに、もし安倍の親友が加計ではなく加戸だったら、柳瀬はどう動いただろうかというものがあった。
当然柳瀬は、まず愛媛県の考えを聞き、四国の獣医師不足問題の解決法として愛媛県の担当者にアドバイスをしていたはずだ。愛媛県のどこに作りたいのか、また愛媛県に獣医学部を新設しようという大学があるのか。計画はどこまで具体化しているのか。etc
加戸の国会での答弁から、たまたま加計学園の役職者と愛媛県の担当者が昵懇にしていて、愛媛県の計画を聞いて加計学園が乗り気になったという経緯が分かっている。
こういう経緯を考えると、柳瀬が最初は愛媛県の担当者と会い、2回目の面会の時に候補地の今治市の担当者や事業者である加計学園担当者の同行を求め、今治市や加計学園の本気度や具体的計画を確認するというのが、このプロジェクトのまともな進め方にならなければおかしいのだ。それが、柳瀬の頭の中には、最初から最後まで加計学園のことしか念頭になかったということ自体が「加計ありき」の紛れもない証左である。「(忖度)される側にはわかりにくい面もありまして」とは、安倍も白々しすぎる。忖度どころか、まぎれもなく「情の政治」の一環として安倍は「岩盤規制にドリルで穴をあけた」のだ。これが加計学園問題の真相であることは、99%間違いない。
この稿を終えるにあたって、安倍政治のもう一つの「顔」について書いておきたい。
報道によれば、昨年10月安倍は周辺に「私がやっていることは、かなりリベラルなんだよ。国際水準からいえば」と語ったという。
リベラルという政治思想には、実は二つの流れがある。元来の意味は自由主義(リベラリズム)という意味合いで、古くはヨーロッパで発生した。個人の自由や多様性を重視すべきだという考え方で、18世紀半ば、アダム・スミスが経済学として著わした『国富論』により、経済活動は「神の見えざる手」にゆだねるべきで、政府の介入を極力排した「小さな政府」を主張したのが源流とされている。
アダム・スミスは近代経済学の祖とされており、のちにマルクスやケインズの経済学にも多大な影響を与えたようだが、リベラルという政治思想には1930年代以降アメリカでまったく正反対の解釈が生まれた。「保守」に対する概念として社会主義的経済政策や社会保障・福祉を重視する考え方だ。アメリカでは保守の「小さな政府」を主張する共和党に対して「大きな政府」を主張する民主党という対立構図として受け止められている。そのため、選挙になると共和党候補者は民主党候補者に対して「リベラル」というレッテルを「社会主義思想の持ち主」という意味で貼り付け、民主党候補者はそのレッテルを極端に嫌う傾向があるようだ。
安倍は成蹊大学を経てアメリカ南カリフォルニア大学に留学、立教大学を経てカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学していた加計と知り合い、親交を重ねるようになった。そうした経歴から、安倍が言うリベラルはアメリカの政治思想に近いと考えられるが、「私がやっていることはかなりリベラルなんだ」という場合、思い浮かぶのは経済界に対して毎年のように賃上げを要求したり、歴代政権に比して最低賃金制の上昇率を重視したり、正規・非正規の格差是正のために「同一労働同一賃金」の導入を図ろうとしたことくらい、つまり賃金政策に絞られているといってよいだろう。「国際水準」と安倍が言う場合、彼の念頭にはアメリカしかないようで、とりわけ外交政策とくに安全保障政策がアメリカ一辺倒と見られるのも、留学時代の影響かもしれない。
いずれにせよ、安倍時代はそう長くないと私は見ている。「情の政治」で構築してきたお友達政権だが、安倍一強体制の「扇のかなめ」を自負してきた麻生財務相をいつまでかばい続けられるか、時間の問題になりつつある。自身が高転びに転ぶか、泣いて馬謖を斬るか、どちらにしても安倍政権にとっては命取りになる。安倍政治が果たした役割で、評価すべき点は私も評価しているが(アメリカ以外の国との外交関係の構築や弱者救済的要素が強い賃金政策など)、民主主義の大原則である三権分立を破壊した「民主主義に対する罪」は後世に大きな汚点を残した。「人間、引き際が大切だよ」と申し上げておきたい。
【追記】 上記の原稿は3日に書いた。その原稿は印刷して4日に友人と北川正恭(元三重県知事)に渡している。
4日夕方、財務省が調査結果(第三者委員会による調査ではなく、省内調査)と処分を発表した。したがって、上記原稿の内容にはこの調査結果やメディアの反応は全く反映されていない。そのことをまずお断りしておく。なお、この追記は翌5日に書いているが、5月29日に投稿したブログの閲覧者が依然として増え続けているので更新できない状態にある。(※昨日6日現在の閲覧者数も依然として高水準を維持しているが、これ以上投稿を伸ばすと賞味期限切れになる恐れがあるので、この時点で投稿することにする)
財務省の調査結果と処分内容については、すでに読者もご存じのはずだから、ここでは触れない。すでにメディアも指摘しているが、森友文書改ざんはあくまで理財局内部の行為として、処分対象も理財局所属職員に限定している。
私はこれまで数度にわたるブログで指摘してきたが、果たして佐川(元理財局長)の単独判断でこれほど大規模な決裁文書の改ざんが出来るのか。
国会での総理や大臣に対する質疑応答は原則、事前に質問事項が相手に渡され、答弁内容は官僚が徹夜で作成する。こうした慣行はなれ合いを生むとかっこいいことを言って事前の質問事項は明らかにせずぶっつけ本番で答弁すると大見得を切った小池都知事は、最初の都議会での質疑応答で悲鳴を上げて、ぶっつけ本番をやめた。
証人喚問の場合、事前の調整があるのかぶっつけ本番なのかは私は知らないが、佐川の答え方から質問事項はあらかじめ承知していたと思われる。あらゆる質問によどみなく自信満々で即答していたからだ。
果たして、この佐川答弁が、佐川の独断で勝手に行われたと結論付けることが出来るのか、そんなことはあり得ないと思う。私が前回と今回のブログで書いたように、森友学園の籠池が理財局との国有地払い下げ交渉で昭恵やちょっとした顔見知り程度の政治家の名前をちらつかせて自らの「政治力」を誇示して官僚に「忖度」を迫ったことは、もはや疑いの余地がない。この籠池の交渉テクニックにまんまとはまったのが理財局官僚。
が、ことが公になって理財局だけではことを収めることが不可能になり、佐川が国会に証人喚問されることになった時には財務省全体の浮沈をかけた問題になってしまった。事態の収集方法については佐川が中心になって考えたかもしれないが、その間の経緯については逐一財務省本局のしかるべき官僚、はっきり言えば当時の事務次官にまで報告をあげ指示を仰いでいたはずだ。が、事務次官にまで報告が及んでいれば、当然のことだが麻生にも「こういう方向で事を収めたいと思う」という報告が行っていたはずだ。麻生が田中角栄のように「よっしゃよっしゃ」とOKサインを出したかどうかは知らないが、こうして財務省の調査報告の方向付けが行われたことは間違いない。
私は前にもブログで書いたが、もはや佐川に明るい未来はない。麻生は裏社会とつながっているという噂がいまでもあるようだから(あくまでも噂で筆者が実態を知っているわけではない)、佐川の面倒は今後裏社会が見ることになるのかもしれない。ここまで書いた私の身に何かがあれば、そのことが事実として裏付けられたことになる。自分自身の安全のために、そこまで書いておく。
佐川への処分がたった停職3月というのも、佐川の反乱を防ぐためだろう。佐川が、どこまでこの案件をあげたか口を割ってしまえば、麻生の首はおろか安倍内閣も総辞職を免れない。
基本的に官僚社会に限らず、何か問題になりそうな案件は自分自身への保険をかけるため必ず上司に判断を仰ぐのが、組織人の習性だ。上司が「お前の判断に任せる」と逃げることもあるが、その場合も「上司に了承を得た」ことにするため、必ず結果報告はする。私自身は若いころサラリーマン生活を送った経験があるが、そうした組織人の習性になじめず、上司の決裁を仰がずに勝手に独断で決裁してきた。平社員の時代に、課長級までの人事評価と給与査定も、これはさすがに自分一人でとはいかずに常務と二人で会議室に3日間缶詰めになって行ったこともある。新製品の価格決定も、工場から原価についての報告を受けて私一人で決め、上司の決裁も仰がずに勝手にカタログまで作ってきた。
そんなことが、いまの官僚社会で出来ようはずがない。佐川に対しては財務省は口封じの代償として停職3月という寛大な(?)処分にとどめた、と考えるのが文理的であろう。
このことはこれまでも何度も書いてきたが、民主主義の絶対原則であり、それゆえに最大の欠陥でもある「多数決原理」が働いている国会で、いくら徹底抗戦を叫んでも風車に突っ込むドンキホーテのようなことすら出来ないのだから、唯一解散権を総理の手から奪う方法を伝授しておこう。おそらく誰も考えもしなかった伝家の宝刀になりうる緊急避難処置だ。
それは、野党議員が結束していっせいに議員辞職に踏み切ることだ。野党議員が全員辞職しても3分の2を超える与党議員が残るのだから国会機能は保たれるが、そうした状況の中で与党だけで国会審議を進めていくとなったら、メディアや国民がどう反応するだろうか。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ。
野党が本当に民主主義の危機を心底感じているのなら、そこまでやった時、国民はもう一度だけ賭けてみようかという気になるかもしれない。
まだ安倍政権が倒れたわけではない。が、私の目から見ると、もはや断末魔の状態だ。「断末魔」と書いたのは、安倍政治そのものが末期的症状にあるという意味で、政権の行方は現時点では依然として不透明だ。明日にでも倒閣するような状況にあるわけではない。それでも、私はこの時点で安倍政治とはなんだったのか、という総括をする。その目的は、日本型民主主義政治を改めて検証することにある。なお、この稿では敬称は一切略させていただく。
安倍政治の本質は、ひとことで言えば「情の政治」だった。
「情の政治」という定義に、」あっ、なるほど」とうなずく人は少なくないと思う。「そう言えば」と、納得される方も多いと思う。
日本社会の底辺に流れる精神構造について独自の視点で研究してきたのが山本七平だ。その集大成が『空気の研究』だった。
山本七平は、イザヤ・ベンダサンなるペンネームで『日本人とユダヤ人』を著わし、著書は単に大ベストセラーとなっただけでなく、日本人社会の底辺に脈々と流れる精神的規範と欧米社会のそれとのパーセプション・ギャップを初めて解き明かした歴史的名著である。私自身、若いころ同書を読んで、言葉には表せないほどの精神的ショックを受けたことを今でも鮮明に覚えている。
安倍は外交の名手だった。安倍の外交テクニックは相手国の首脳との信頼関係を築くことに大きな力を発揮した。トランプとも最初の会見でたちまち意気投合した。彼の外交テクニックの機微はどういう点にあったのか。相手の情に訴えることの巧みさにあった、と私は思っている。
「日本は100%アメリカとともにある」
安倍はつねにこう言いつづけた。トランプが喜ばないわけがない。
ただし、その考えは必ずしも安倍の本音とは限らない。「日本の国益にかなう限り」という本音が隠されているはずだ。ただ、そう言ってしまったらおしまいよ、ということになるから、その言葉は発しない。相手の耳に心地よいことだけをとりあえず言っておく。
安倍とトランプの親密さは、そうやって構築されてきた。
安倍がトランプの言いなりになっているように振る舞っている間は、トランプにとっても安倍は最も頼りになる海外の友人である。だから安倍がトランプに会いたいと申し入れると、最優先で会うようにしている。とくに国内にも国外にも敵が多いトランプにとって、安倍は海外の得難い友人なのだろう。
安倍とトランプの関係については、メディアも政治家もその程度のことは百も承知しているはずだ。ただ、私のようにあからさまに書いたり言ったりしないだけだ。
安倍外交の威力は他の国々に対してもいかんなく発揮されている。安倍が第2次政権を確立して以来の海外訪問歴は、それまでの歴代総理の訪問歴を圧倒している。1国の首脳が訪問すれば、相手国も首脳が対応せざるを得ない。安倍は相手国首脳との間に親密な関係を構築することにかけては、他に例をみないほどに辣腕だ。どうやって相手国の首脳を誑(たら)し込むのかはわからないが、その交渉テクニックは歴代総理の中でも群を抜いていると思う。
そうした外交術によって日本産業界はかなりの恩恵を被ってきた。高度技術が要求される新幹線や原発などのインフラ産業の海外進出はアベノミクスによる円安効果も相まって大きく進んだ。
が、そうした外交テクニックは、想定外の弊害も生みかねない。相手国の首脳から「くみやすし」と、足元に付け込まれかねないからだ。たとえばアメリカにとって最も忠実な同盟国であるはずなのに、アメリカは日本に鉄鋼・アルミの関税を引き上げたり、自動車に至っては関税を25%に引き上げると脅かされたりしている。「そんな勝手な話があるか」と、安倍はトランプに怒りをぶつけようともしない。せいぜい、鉄鋼やアルミにかける関税について、カナダやEUの尻馬に乗ってWTO(世界貿易機関)に提訴する可能性を示唆する程度の抵抗しかできないでいる。
EUや中国は「それなら我々も報復処置をとるぞ」と猛烈に反発したが、日本の姿勢は「同盟国じゃないですか、どうかお手柔らかに」と、頭を下げて交渉しているようにしか見えない。
そもそもトランプが主張する「貿易の公平性」とは、輸入と輸出のバランスを取るという単純なことでしかない。アメリカは輸入超過で貿易収支の赤字が続いている。その赤字を解消するために、輸入超過が目立つ国の主力輸出品をやり玉に挙げて関税を引き上げようというものだ。さすがにそういうあからさまな関税引き上げ理由は国際社会の理解が得られないことも分かっているから、「安全保障上の観点から」というおかしな理由付けをしている。
そもそも安全保障上の問題であるならば、関税の引き上げで輸入量を制限するというのは理屈に合わない。該当品目のすべてを輸入禁止にすべき話だろう。関税の高率化で輸入量を制限することが、アメリカにとってどういう安全保障策を意味するというのか。日本政府に誇りと矜持があれば、トランプ主張の自家撞着を追及すべきだった。安倍外交の矛盾点がこうした形で表面化せざるを得なくなったのだ。いくらゴルフ外交で「親友ぶり」をアピールしても、肝心の安全保障政策や貿易問題で言うべきことも言えないのでは、安倍はどの国の国益を最優先しているのかと言いたくなる。
国益より、トランプとの友好関係を重視するように見える安倍の「情の政治」は、国内でも表れている。たとえばモリカケ問題。同じように見えて、実は二つの問題は本質的に違う。加計学園の加計孝太郎は安倍の大親友だが、森友学園の籠池泰典との交友関係はほとんどない。実際森友学園との国有地払い下げ交渉の文書にも、安倍自身の名前はまったく出ていない。
「忖度は片想いとは違うよ」ということは5月22日のブログでも書いたが、安倍は5月14日、国会の集中審議での答弁でこう主張した。
「忖度されたか否かは、される側にはですね、例えば私のことを忖度していると言われているんですが、される側にはわかりにくい面がありまして…」
ご冗談もほどほどに、と苦言を呈しておく。たとえばアイドル・タレントに勝手に片想いをし、それが嵩じてストーカーになったり、時に凶行に及ぶファンがいて民放のニュースショーの格好な話題になることがあるが、こうしたケースはタレント側には責められる要素はまったくない。
が、忖度は違う。相手に忖度させるための何らかのアクションがあったはずだ。そうでなければ、官僚が危ない橋を好んで渡るわけがない。
忖度という言葉は、籠池が国会での証人喚問で、財務省が国有地払い下げで破格の対応をしたことについて「たぶん忖度があったのだと思う」と述べたことがきっかけで一躍流行語になったが、籠池は役人に忖度させるために昭恵夫人の名前を交渉過程で頻繁に出し、ちょっと顔見知り程度の政治家の名前も出して自らの政界への影響力をこれでもかこれでもかとばかりにちらつかせてきた。実際には籠池の政界への影響力はさほどではなかったため、籠池は逮捕され締め上げられている。昭恵も籠池からそういう形で利用されているとは思いもよらなかっただろうから、いまは相当籠池に対して相当頭にきているはずだ。このケースはしかるべき地位にある官僚がある時点で昭恵をたしなめていれば、籠池の芝居は「カラカラ空回り」に終わっていた。
しかし、加計学園の問題は全く違う。安倍自身が、官僚に忖度させるために、自らの権力をフルに行使した。
15年2月15日に、安倍が加計と会って加計学園の「国際水準の新しい獣医学部を作りたい」という計画を聞いて「いいね」と賛意を示したのは、5月29日のブログで書いたように99.99%事実だろう。
愛媛県や今治市の文書の中に安倍・加計面会の記録が書かれていたのは、加計学園からの情報提供だったことははっきりしている。が、安倍が加計との面会を強く否定したため、加計も口を合わせ、そのうえ加計学園の事務局長の渡辺が虚偽情報を愛媛県や今治市に伝えてしまったことにした。記録文書が愛媛県や今治市に残っている以上、その記録を否定するためには加計学園としてはトカゲのしっぽを創らざるを得なくなったというわけだ。
トカゲのしっぽに指名された渡辺によれば、「その場の雰囲気で、とっさに私が思いつきで言ったのだと思う」ということだが、どう考えてもそういうことはあり得ない。
まず愛媛県や今治市には獣医学部新設を認可する権限がない。権限のない自治体に、「その場の雰囲気で思いついた作り話」というのは、どう考えても筋が通らない。強いて最大限善意に解釈して、愛媛県と今治市が国家戦略特区プロジェクトに申請する際の、内閣府官僚に忖度させるための材料として提供したというなら、まだ理解できないこともないが、愛媛県も今治市もこの材料を使って内閣府に働きかけていないのだから、加計学園側は愛媛県や今治市に「こんなにいい材料があるのに、なぜ使ってくれないのか」とせっついていなければ筋が通らない。
愛媛県今治市に獣医師養成大学を誘致するという計画の推進主体は、それまでの愛媛県から、安倍・加計会談を機に加計学園側に移行したと考えるのがもっとも論理的な帰結だ。
29日のブログを書いた時点では、国家戦略トップのキーマンである柳瀬がいつ動き始めたのかは不明だったが、いまは3月3日ということが判明している。この日、柳瀬は加計学園側と最初の面談を行っているが、加計学園の計画をバックアップするために同行した愛媛県や今治市職員のことは、柳瀬の記憶からすっぽり抜け落ちていた。柳瀬は国会に参考人として招致されたとき、加計学園担当者とは3回面会したことは認めたが、愛媛県や今治市職員が一緒だったことは全く覚えていなかった。ということは、柳瀬は加計学園の計画を国家戦略特区プロジェクトに認めさせるための方策を考えるのに必死で、それ以外のことは頭の片隅にもなかったことを意味する。
なぜか。
安倍から、直接「加計学園の面倒を見てやれ」と指示されていたからに他ならない(この部分は、私の論理的推測。しかし、この推測には100%の自信がある)。そうでなければ、この時期、国家戦略特区プロジェクトのキーマンである柳瀬が、直々加計学園担当者を総理官邸に呼び、直々に指導することなどあり得ないからだ。実際国家戦略特区プロジェクトに関して、自治体以外の事業者と面会したのは加計学園だけだったということも明らかになっている。
前回のブログにも書いたように、国家戦略特区プロジェクトの主役は地域の自治体である。地域の経済振興を政府が後押ししようというのがプロジェクトの趣旨で、安倍自身が最高責任者にもなっている。つまり、安倍の指示がなければ、柳瀬が面会すべきは特区として名乗りをあげようとしていた愛媛県と今治市の担当者のはずだ。
四国には獣医師が少ないという。そのため前愛媛県知事の加戸時代から、県は構造改革特区の制度を使って愛媛県に獣医学部の大学を誘致したいと何度も文科省に願い出ていたという。が、獣医師会の既得権益死守による強い反対と、その政治力によって愛媛県の思いは何度も厚い壁に跳ね返されてきたという。「岩盤規制」とやらの規制が本当にあったのかどうかは知らないが、安倍が加計に「国家戦略特区ならオレが最高責任者だから、何とかなる」とアドバイスしただろうことも想像に難くない。そしてキーマンであり総理秘書(当時)だった柳瀬に指示こともたぶん間違いないと思う。おそらく安倍の直接的関与はここまでだったと思う。だから前文科省事務次官の前川の証言のいくつかは、柳瀬が内閣府に根回ししたために官僚が行った忖度によると思う。安倍も、それ以上危ない橋を渡るほどのバカではあるまい。
私はこの問題を考える時、いろいろ仮説を立てて考えてみた。現場のメディア記者は直接自分の目や耳に入る情報に振り回されるため、樹を見て森が見えなくなるきらいがある。が、私には情報量が圧倒的に少ないため、森の全体像から樹を探すという方法を取らざるを得ない。
私が立てた仮説の一つに、もし安倍の親友が加計ではなく加戸だったら、柳瀬はどう動いただろうかというものがあった。
当然柳瀬は、まず愛媛県の考えを聞き、四国の獣医師不足問題の解決法として愛媛県の担当者にアドバイスをしていたはずだ。愛媛県のどこに作りたいのか、また愛媛県に獣医学部を新設しようという大学があるのか。計画はどこまで具体化しているのか。etc
加戸の国会での答弁から、たまたま加計学園の役職者と愛媛県の担当者が昵懇にしていて、愛媛県の計画を聞いて加計学園が乗り気になったという経緯が分かっている。
こういう経緯を考えると、柳瀬が最初は愛媛県の担当者と会い、2回目の面会の時に候補地の今治市の担当者や事業者である加計学園担当者の同行を求め、今治市や加計学園の本気度や具体的計画を確認するというのが、このプロジェクトのまともな進め方にならなければおかしいのだ。それが、柳瀬の頭の中には、最初から最後まで加計学園のことしか念頭になかったということ自体が「加計ありき」の紛れもない証左である。「(忖度)される側にはわかりにくい面もありまして」とは、安倍も白々しすぎる。忖度どころか、まぎれもなく「情の政治」の一環として安倍は「岩盤規制にドリルで穴をあけた」のだ。これが加計学園問題の真相であることは、99%間違いない。
この稿を終えるにあたって、安倍政治のもう一つの「顔」について書いておきたい。
報道によれば、昨年10月安倍は周辺に「私がやっていることは、かなりリベラルなんだよ。国際水準からいえば」と語ったという。
リベラルという政治思想には、実は二つの流れがある。元来の意味は自由主義(リベラリズム)という意味合いで、古くはヨーロッパで発生した。個人の自由や多様性を重視すべきだという考え方で、18世紀半ば、アダム・スミスが経済学として著わした『国富論』により、経済活動は「神の見えざる手」にゆだねるべきで、政府の介入を極力排した「小さな政府」を主張したのが源流とされている。
アダム・スミスは近代経済学の祖とされており、のちにマルクスやケインズの経済学にも多大な影響を与えたようだが、リベラルという政治思想には1930年代以降アメリカでまったく正反対の解釈が生まれた。「保守」に対する概念として社会主義的経済政策や社会保障・福祉を重視する考え方だ。アメリカでは保守の「小さな政府」を主張する共和党に対して「大きな政府」を主張する民主党という対立構図として受け止められている。そのため、選挙になると共和党候補者は民主党候補者に対して「リベラル」というレッテルを「社会主義思想の持ち主」という意味で貼り付け、民主党候補者はそのレッテルを極端に嫌う傾向があるようだ。
安倍は成蹊大学を経てアメリカ南カリフォルニア大学に留学、立教大学を経てカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に留学していた加計と知り合い、親交を重ねるようになった。そうした経歴から、安倍が言うリベラルはアメリカの政治思想に近いと考えられるが、「私がやっていることはかなりリベラルなんだ」という場合、思い浮かぶのは経済界に対して毎年のように賃上げを要求したり、歴代政権に比して最低賃金制の上昇率を重視したり、正規・非正規の格差是正のために「同一労働同一賃金」の導入を図ろうとしたことくらい、つまり賃金政策に絞られているといってよいだろう。「国際水準」と安倍が言う場合、彼の念頭にはアメリカしかないようで、とりわけ外交政策とくに安全保障政策がアメリカ一辺倒と見られるのも、留学時代の影響かもしれない。
いずれにせよ、安倍時代はそう長くないと私は見ている。「情の政治」で構築してきたお友達政権だが、安倍一強体制の「扇のかなめ」を自負してきた麻生財務相をいつまでかばい続けられるか、時間の問題になりつつある。自身が高転びに転ぶか、泣いて馬謖を斬るか、どちらにしても安倍政権にとっては命取りになる。安倍政治が果たした役割で、評価すべき点は私も評価しているが(アメリカ以外の国との外交関係の構築や弱者救済的要素が強い賃金政策など)、民主主義の大原則である三権分立を破壊した「民主主義に対する罪」は後世に大きな汚点を残した。「人間、引き際が大切だよ」と申し上げておきたい。
【追記】 上記の原稿は3日に書いた。その原稿は印刷して4日に友人と北川正恭(元三重県知事)に渡している。
4日夕方、財務省が調査結果(第三者委員会による調査ではなく、省内調査)と処分を発表した。したがって、上記原稿の内容にはこの調査結果やメディアの反応は全く反映されていない。そのことをまずお断りしておく。なお、この追記は翌5日に書いているが、5月29日に投稿したブログの閲覧者が依然として増え続けているので更新できない状態にある。(※昨日6日現在の閲覧者数も依然として高水準を維持しているが、これ以上投稿を伸ばすと賞味期限切れになる恐れがあるので、この時点で投稿することにする)
財務省の調査結果と処分内容については、すでに読者もご存じのはずだから、ここでは触れない。すでにメディアも指摘しているが、森友文書改ざんはあくまで理財局内部の行為として、処分対象も理財局所属職員に限定している。
私はこれまで数度にわたるブログで指摘してきたが、果たして佐川(元理財局長)の単独判断でこれほど大規模な決裁文書の改ざんが出来るのか。
国会での総理や大臣に対する質疑応答は原則、事前に質問事項が相手に渡され、答弁内容は官僚が徹夜で作成する。こうした慣行はなれ合いを生むとかっこいいことを言って事前の質問事項は明らかにせずぶっつけ本番で答弁すると大見得を切った小池都知事は、最初の都議会での質疑応答で悲鳴を上げて、ぶっつけ本番をやめた。
証人喚問の場合、事前の調整があるのかぶっつけ本番なのかは私は知らないが、佐川の答え方から質問事項はあらかじめ承知していたと思われる。あらゆる質問によどみなく自信満々で即答していたからだ。
果たして、この佐川答弁が、佐川の独断で勝手に行われたと結論付けることが出来るのか、そんなことはあり得ないと思う。私が前回と今回のブログで書いたように、森友学園の籠池が理財局との国有地払い下げ交渉で昭恵やちょっとした顔見知り程度の政治家の名前をちらつかせて自らの「政治力」を誇示して官僚に「忖度」を迫ったことは、もはや疑いの余地がない。この籠池の交渉テクニックにまんまとはまったのが理財局官僚。
が、ことが公になって理財局だけではことを収めることが不可能になり、佐川が国会に証人喚問されることになった時には財務省全体の浮沈をかけた問題になってしまった。事態の収集方法については佐川が中心になって考えたかもしれないが、その間の経緯については逐一財務省本局のしかるべき官僚、はっきり言えば当時の事務次官にまで報告をあげ指示を仰いでいたはずだ。が、事務次官にまで報告が及んでいれば、当然のことだが麻生にも「こういう方向で事を収めたいと思う」という報告が行っていたはずだ。麻生が田中角栄のように「よっしゃよっしゃ」とOKサインを出したかどうかは知らないが、こうして財務省の調査報告の方向付けが行われたことは間違いない。
私は前にもブログで書いたが、もはや佐川に明るい未来はない。麻生は裏社会とつながっているという噂がいまでもあるようだから(あくまでも噂で筆者が実態を知っているわけではない)、佐川の面倒は今後裏社会が見ることになるのかもしれない。ここまで書いた私の身に何かがあれば、そのことが事実として裏付けられたことになる。自分自身の安全のために、そこまで書いておく。
佐川への処分がたった停職3月というのも、佐川の反乱を防ぐためだろう。佐川が、どこまでこの案件をあげたか口を割ってしまえば、麻生の首はおろか安倍内閣も総辞職を免れない。
基本的に官僚社会に限らず、何か問題になりそうな案件は自分自身への保険をかけるため必ず上司に判断を仰ぐのが、組織人の習性だ。上司が「お前の判断に任せる」と逃げることもあるが、その場合も「上司に了承を得た」ことにするため、必ず結果報告はする。私自身は若いころサラリーマン生活を送った経験があるが、そうした組織人の習性になじめず、上司の決裁を仰がずに勝手に独断で決裁してきた。平社員の時代に、課長級までの人事評価と給与査定も、これはさすがに自分一人でとはいかずに常務と二人で会議室に3日間缶詰めになって行ったこともある。新製品の価格決定も、工場から原価についての報告を受けて私一人で決め、上司の決裁も仰がずに勝手にカタログまで作ってきた。
そんなことが、いまの官僚社会で出来ようはずがない。佐川に対しては財務省は口封じの代償として停職3月という寛大な(?)処分にとどめた、と考えるのが文理的であろう。
このことはこれまでも何度も書いてきたが、民主主義の絶対原則であり、それゆえに最大の欠陥でもある「多数決原理」が働いている国会で、いくら徹底抗戦を叫んでも風車に突っ込むドンキホーテのようなことすら出来ないのだから、唯一解散権を総理の手から奪う方法を伝授しておこう。おそらく誰も考えもしなかった伝家の宝刀になりうる緊急避難処置だ。
それは、野党議員が結束していっせいに議員辞職に踏み切ることだ。野党議員が全員辞職しても3分の2を超える与党議員が残るのだから国会機能は保たれるが、そうした状況の中で与党だけで国会審議を進めていくとなったら、メディアや国民がどう反応するだろうか。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ。
野党が本当に民主主義の危機を心底感じているのなら、そこまでやった時、国民はもう一度だけ賭けてみようかという気になるかもしれない。
第一希望者数だけを集計する多数決を
選挙に用いている時点で、
その結果が世論を反映している保証はなくなっている。