小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

仮想通貨は必ず消えるーーそれだけの理由。

2018-02-09 01:06:16 | Weblog
 仮想通貨なる怪物が世間を騒がしている。誰も手に取ったこともなければ、実物を見たこともない「通貨」だ。「発行」されている仮想通貨は、いま世間を騒がせているNEM(ネム)や、1年ほど前にマウント・ゴックスなる「取引所」による自作自演とされる「倒産劇」で世間を騒がせたビット・コインなど1500種類に及ぶという。マウント・ゴックスの「倒産劇」の時点では仮想通貨の種類は約600とされていたから、この1年で900も増えたことになる。
 マウント・ゴックスの自作自演「倒産劇」が世間を賑わしたことで、仮想通貨なる「通貨」が多くの人たちに知られ、よく言えば社会での「市民権」も獲得したと言えるのかもしれない。現時点では…。
 当時は私はあまり関心を持たなかったので、仮想通貨と言われるものがどういうものかを調べようともしなかった。が、ジャーナリストの池上彰氏は、この事件をきっかけに調べたようで、テレビ番組で解説している動画が今でもネットで見ることができる。が、池上氏の解説を聞いても、よくわからない。これは通貨そのものの成り立ちから考えないと、仮想通貨の実態が見えてこないのではないか、と私は考えた。
 原始時代の人々は物々交換で他人が持っているものを手に入れていた。1対1の物々交換で双方が欲しいものを手に入れることができれば、それで取引は完了するが、AはBが持っているものが欲しい、がBはCが持っているものが欲しい、CはDの持っているものが欲しい…と交換のサイクルが広がっていくと、何らかの交換のための決済手段が必要になってくる。こうして生まれた決済手段が通貨の原型だと思う。
 物々交換の世界が小さな共同体部族のなかだけでとどまっていた時代には、決済手段である通貨自体には価値の裏付けは多分必要なかったと思う。貝殻でもよかったし、石を削ってちょっと形を整えたものでもよかった。が、交換の世界が他の部族にまで広がるようになれば、決済手段としての通貨にも価値の裏付けが必要になってきた。その理屈はお分かりになると思う。だから、どの国でも最初の通貨は、それ自体に相当の価値が認められた金属で作られるようになったはずだ。日本でも銅貨・銀貨・金貨と、それぞれの金属の価値に応じて交換価値のある通貨が作られてきた。
紙という、それ自体にはほとんど交換価値のない通貨(紙幣)が作られるようになったのは、持ち運びが便利だというだけでなく、いつでも価値のある金属と交換できるという価値の裏付けが保障されるようになったからだ。だから、通貨である紙幣の価値の裏付けが危うくなった国ではハイパーインフレが生じ、紙幣を持っていても仕方がないから分厚い札束を抱えて商品との交換(つまり買うという行為)に走る。使用価値のある商品であれば、交換価値も失われないからだ。
金融アナリストで、幸田真音氏のベストセラー小説『日本国債』の登場人物のモデルでもある久保田博幸氏が、紙幣の誕生について興味深い研究をしている。久保田氏によれば、中国・唐の時代に茶・塩・絹などの遠距離取引の際、当時決済手段として使われていた銭貨(金属製通貨)が重くてかさばり運搬に不便だということで、取引業者間でのみ通用する「飛銭」と呼ばれる送金手形が考案され、これが紙幣の原型になったという。
私はこのブログで通貨の歴史を語るつもりはない。通貨という決済手段としての本質をご理解いただきたいために書いただけだ。だから、その本質から外れたものは、通貨ではない。その観点から、いわゆる仮想通貨なるものが、通貨と言えるのか否かを検証したいと考えている。
たとえば、いまは見る影もないIS(イスラミック・ステーツ=自称イスラム国)が、国家としての機能を持ちえたかを考えてみれば、私が意図していることが分かってもらえるのではないだろうか。あるいは自分たちの国家建設を悲願としているパレスチナ人は、自分たちの居住地域としての自治区は国際的に承認されているが、国家建設への道のりは険しい。同様に仮想通貨が通貨としての絶対必要条件である「決済手段」として市民権を得られるか否かが、この問題の最大のポイントになる、という結論に私は達した。

私の学生時代、人工言語のエスペラント語がちょっとしたブーム(と、言えるほどではないが…)になっていた。ある程度の年齢の方ならご記憶にあると思う。仮想通貨ならぬ、仮想世界共通言語として、当時の学生たちにある種の期待感を抱かせたことがある。
それぞれの国家や民族には自然発生的に生まれ根付いてきた言語(母国語)がある。その母国語に代わる世界共通言語として考案されたわけではなく、第2言語あるいは補助言語として世界中に普及すれば、エスペラント語を通じて世界人類が同じ土俵でコミュニケーションが可能になるではないか、という理想を掲げていた。素晴らしいアイディアだと思い、私もエスペラント語にちょっと関心を持ったこともあった。
いまエスペラント語の普及活動はどうなっているか、ネットで検索してみた。日本での活動はあまり活発ではないようだが、ヨーロッパとくに中欧(ドイツ周辺)ではエスペラント語を流ちょうに話せる人たちが多いという。エスペラント語を自在に話せる人は世界中に約160万人ほどいるらしい。
私は仮想通価なるものは、言語の分野におけるエスペラント語のような役割を期待してつくられたのではないかと考えてみた。実はそう考えると、仮想通貨が目指していた世界が誰にでも理解できるからだ。
私はもちろん日本人だ。海外に行くと、アメリカやイギリスでも私の片言の英語では全く通じない。ゴルフやショッピングでは特に不便を感じることはないが、仕事で誰かにインタビューするとなると通訳者の介在が必要になる。通訳者は日本語と取材対象の母国語の両方に精通していなければならない。しばしば困ったことは、通訳された内容が正確かどうかを確かめようがないことだ。こういう時両者が第2補助母国語としてエスペラント語に精通していれば、通訳者を介する必要もないし、微妙なニュアンスを伴う意思疎通にも齟齬(そご)をきたさずに済む可能性が高くなる。

同様に通貨について考えてみよう。日本には円という通貨があり、アメリカにはドル・セントという通貨がある。ユーロ圏にはユーロが、中国には元がというように、各国には各国政府が定め、自国内においては決済手段としての機能を保証している実体通貨がある。通常はそれぞれの通貨は自国でしか使えない。だから海外で買い物をしようという場合、自国通貨を渡航先の通貨に交換(両替)する必要がある(クレジットの場合は必要ないが)。ところが日本の場合、成田などの国際空港にある両替所(銀行が運営している)での両替手数料が、独占のせいかショバ代が高いせいか、バカ高い。日本人が多く訪れる観光地には街中にタバコ屋のような小さな両替所がいくつもあって手数料の安さを競っているから、旅行慣れしている人は日本では両替しない。
いずれにしても、自国の実体通貨あるいは他国の実体通貨を、他国あるいは自国の実体通貨に銀行の窓口で両替するとかなりの手数料がかかる。そのためインターネットでの外貨預金や両替が主流になりつつあるようだ。
また国内の銀行口座に外貨預金をしても、その銀行のキャッシュカードを使って海外のATM機から外貨を引き出すことはできない。で、世界共通で使える通貨があれば、どの国に行こうと――いちいち現地の実体通貨に両替する必要がなく、便利だという発想は至極当然に生まれるだろう。
「世界共通の通貨」と「インターネット預金」という二つの利便性を両立させたのが、おそらく仮想通貨というアイデアの原点ではないかと私は思う。が、仮想通貨が世界共通の決済手段として市民権を獲得するには、世界の主要国で仮想通貨で決済できる商業施設が一定以上の広がりを見せる必要がある。たとえば日本で言えば、東京や大阪、横浜などの大都市圏の商業施設の少なくともかなりの数の店で決済手段として使えるようにならないと市民権は得られないだろう。そして、おそらく市民権が得られた途端、仮想通貨が一気に実体通貨にとって代わる可能性を秘めていたはずだ。仮想通貨が決済手段として機能できれば、ということが前提だが…。
ここでちょっとだけ為替の問題に触れる必要が生じた。仮想通貨というものの実体に迫るためには、やむを得ない作業だ。戦前の為替は大国が自国の国益のために勝手に為替操作を行っていた。自国の生産物の輸出を拡大したいときは自国通貨を切り下げ、逆にエネルギー資源や鉱物資源を大量に輸入したいときは自国通貨を切り上げるという無法が罷り通っていた時代だった。戦後は、こうした大国エゴによる為替操作が各国の国益の衝突を生み、戦争につながったという反省から、自国通貨と金との兌換性を米政府が約束したアメリカのドルを世界標準通貨として世界各国が認め、いったん固定相場制が確立した。
が、1971年8月、アメリカがドルと金との兌換を突然停止した(ニクソン・ショック)。その後、短期間の変動相場制、固定相場制を経て72年3月にはまずヨーロッパ主要国が、そして最後まで抵抗していた日本も世界の趨勢には逆らえずに変動相場制に移行した。世界中の通貨が、決済手段としての価値の裏付けを失ったのである。
理念上は、変動相場制は理想的な為替環境を作るはずであった。水が「高きから低きに流れる」結果、各国の実体経済力を反映した相場に落ち着けば、というのが前提だが…。しかし変動相場制に移行した途端、各国通貨が投資家にとっては投資対象商品になってしまった。その結果、水が「低きから高きに流れる」ような現象さえ生じるようになった。
為替の世界には古くから「購買力平価」という考え方がある。アメリカで1ドルで買える商品が、日本では100円で買えれば、1ドル=100円がフェアな為替相場だという考え方だ。戦後、米ドルを世界標準通貨として、各国通貨のドルとの交換率を固定したことが、そもそも間違いだったのだが、そのことを指摘する経済学者はだれもいないようだ。歴史の間違いを検証すべきは、戦争の悲惨さだけではないはずなのだが…。
変動相場制に移行したとき、各国の実体経済からかけ離れた為替にならないような手段を同時に講じておけば、為替が投機の対象になることもなかったのだが、為替についてだけ性善説が働くとでも考えたのかもしれない。
私は各国の実体経済(指標としてはCDPがいいのか、あるいはさまざまなファンダメンタルズの指標を組み合わせたほうがいいのか、その辺は主要国の中央銀行総裁と財政担当大臣が一堂に会するG20で考えてほしい)を反映して、毎年ドルとの交換比率を決め、1年間はその交換比率を固定するのが、一番いいのではないかと思っている。
実は仮想通貨が、単に利便性だけでなく、世界共通の標準通貨としても機能することになれば、購買力平価の理想が実現する可能性もあった。
もちろん、いかなる商品も一物一価というわけではない。国内においても工業製品ならいざ知らず、農水産品の価格は産地と消費地ではかなり違う。また工業製品も需要と供給のバランスで変動する。この冬は何十年に一度という寒波が襲来して野菜類が高騰している。
日本の国内だけとっても価格が一定するわけではない。まして世界中で購買力平価が、実際に実現可能なのかと問われれば、不可能なことは明らかだ。が、少しでも購買力平価に近づける為替を実現する努力を怠ってもいいという理由にはならない。
もし、仮想通貨なるものが、このブログで述べたような機能を実現していれば、変動相場制の下でも実体通貨の為替が限りなく購買力平価に近づける作用を発揮する可能性はあった。が、実際には仮想通貨が、こうした機能を持つことはなかった。

仮想通貨には発行者がいないと言われているが、ホントウか? 
発行者がいないのに管理者はいる? NEMを管理しているNEM財団はだれの承認を得て管理しているのか? 
また世界最大規模のビット・コインの場合、発行量の限界が2100万BITと定められているという。BITとは日本の円やアメリカのドルと同様、ビット・コインの単位を表している。で、いま流通しているビット・コインの発行済み量はいくらか? もし発行済みBITが2000万BITだったら、姿の見えない発行者は残りの100万BITを相場が高いときに少しずつ市場に放出していけば、濡れ手に粟で天文学的利益を手にすることができるのでは…?
そもそも最大発行量をだれが決めたのか? 最大発行量とは供給量の限界を示す意味だから、最初から投機目的の仮想商品として流通させることが目的だったのでは…?
だとしたら、通貨としての最小限の役割である決済機能が失われたら、ビット・コインは一瞬にして商品としての価値も失うことになる。現在はビット・コインで決済できる商業施設も多少あるようだが、大手の商業施設が「ビット・コインの扱いを停止する」という決定を下したら、どうなる…? 日本ではビックカメラ、メガネスーパー、マルイなどの実店舗での買い物の決済にビット・コインが使えるようだが、このサービスは日本人対象ではない。主に中国など爆買い外国観光客が対象だが、元の海外流出に目を光らせている中国が仮想通貨を禁止するという報道もある。そうなると、ビット・コインは事実上、日本の実店舗からは締め出されることは必至だ。
ビット・コインですらそうなのだから、決済機能すら持ちえていない他の仮想通貨は……もう考えたくないし、これ以上書きたくない。

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