小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

春闘のベアは一時的効果しかない。ベアよりももっと抜本的な日本型経営体質の改善を経団連は考えるべきだ。

2014-03-13 13:23:19 | Weblog
 安倍総理が「禁じ手」を使った。春闘にまで政治的主導権を発動したのだ。
 かつて池田総理が「所得倍増論」を政策課題として掲げたことがある。日本の高度経済成長の波を象徴する政策だったが、池田総理も労使の賃闘に口出ししてまで経営側に賃金アップを要求するようなことはしなかった。そういう意味では、安倍総理の経営側に対する賃上げ要求はアベノミクスによる経済復興を何が何でも実現するという固い信念の表れと言えよう。
 経営側、とくに経団連が、安倍総理の強い要請に応えて加盟大企業に「業績回復を賃上げで労働者にも還元するよう」と、これまた異例の要請をした。が、賃上げは一部の輸出大企業にとどまる見通しだ。円安で輸入原材料の高騰に悲鳴を上げている中小零細企業にとっては賃上げどころではないといった状況のようだ。まして今回の賃上げは増大の一途をたどる非正規雇用者にまでは及びそうもない。
 安倍総理が春闘に口出しして「企業の業績回復を賃上げに反映させるように」と経営側に強く要請したことは、総理のリーダーシップのあり方の一つとして高く評価したい。しかし輸出関連の大企業(とくに自動車や電機関連の産業)の社員だけが潤っても、日本経済界のすそ野にまで賃上げムードが広がっていかないと、アベノミクスによる本格的な経済復活も財政再建も「遠い夢」のままだ。
 個々の中小零細企業にまで、賃上げについていちいち口出しするのは、私もいかがなものかと思うが、政治主導でできることもある。
 それは企業の雇用者全体に占める非正規社員の割合を一定の比率にとどめる法律を作ること、また大企業の賃金アップに比例して最低賃銀も大幅アップして、事実上生活保護者以下の生活しかできていない労働者にも多少のおすそ分けをすること。大企業労働者の方にばかり目を向けずに、幅広く消費者の購買力をかさ上げしないと、4月からの消費税増税が与える日本経済への打撃を吸収できない。
 それはともかく、経団連加盟の大企業の多くが数年ぶりにベースアップに踏み切った。経団連の米倉弘昌会長は、ほんの1か月前まで「いまはベアという世の中ではない」と慎重な姿勢を崩していなかった。が、昨日のニュースでは、米倉会長は「総理の要請にこたえてベアを加盟企業に要請した」ことを明らかにした。経済団体としても、アベノミクスを成功させて「失われた20年」からの本格的脱却を図ろうという強い意欲を示したものと言えよう。
 政府は早い時期から政治主導で春闘を「ベア復活」に導こうと手を打ってきたようだ。ベースアップは「年功序列・終身雇用」という旧日本型経営の賃金体系を支えてきた重要な要素だった。が、「失われた20年」の間に労使の激しい攻防を経て、事実上「ベア」は春闘から姿を消していた。労組側も、春闘の
たびに建前としては「ベア」を要求してきたが、経営側の強い拒否反応の前に屈してきた。その「ベア」が再び復活するという。
 企業側の論理としては「収益は一時金で還元するのが基本」という従来からの姿勢を当初は崩していなかった。が、政府が東日本大震災の復興のための「復興法人税」を前倒しで今月末に廃止するというプレゼントを用意していた。これにより企業の税負担は約2%軽くなったという。
「それだけのプレゼントをあげたのに、企業側はアベノミクスに協力しようとしないのか」という恫喝が効いたようだ。だから、「ベア」に応じた大企業も「これでベアが復活したということではない。とりあえず今年に限った処置だ」と釘を刺すことを忘れていない。
 そもそもベースアップとは、日本独特のもので「年功序列」型賃金体系を支えてきた要素である。基本的には年齢や学歴などによって決まる基本給部分(ベース)の昇給額(率)を意味し、残業代の算定基準や一時金(ボーナスあるいは賞与)、退職金などの算定基準になっている。
 私が若いころ、勤務先に労働組合が出来たとき(私が組合結成の仲間に誘われたのは組合結成の1か月ほど前で、その1年ほど前から地区労のオルグが工作していたようで、その動きはまったく知らなかった)、地区労の支配下に入ることに拒否反応を持っていた人たちが私には何の事前の話もなく、組合結成大会の日に私を地区労側の委員長候補に対する対立候補として推薦してしまった。何がなんやらわからないままに選挙で初代委員長に就任することになった私の最初の仕事はその年の夏のボーナス闘争だった(当時は年間一括で決めるという習慣はまだなく、夏・冬にそれぞれ労使交渉を行っていた)。
 いまでもそうだと思うが、ボーナスの位置付けは労使で異なり交わることがない平行線だった。常に建前として経営者側は「ボーナスは収益の配分」と主張し、労組側は「生活給の一部」と主張していたと思う(44,5年前の話なので正確な記憶ではない)。私がボーナス交渉をするに際して、まず疑問に思ったことは労使ともに「建前の主張」自体が間違っているのではないかということだった。
 そこで、まず両者の「建前」を崩すことから始めようと考えた。そのころすでにドラッカーやマズローの経営理論が日本でもブームになっており、年功序列型の人事体系でなく、実力主義、能力主義の人事にすべきだというのが経営者側の基本的スタンスになろうとしていた黎明期だった。とくにマズローの「自己実現論」は経営側にとっては極めて都合がいい経営理論で、簡単に言うと「人間が本来持っている欲望は5段階のレベルに分けることができ、その最高段階の欲望は自己実現の欲望である」というものであった。つまり金や地位や名誉などに対する欲望はいやしい欲望で、「何かを成し遂げたいという自己実現の
欲望こそ最も尊重されるべき」というのがマズローの理論である。
 この理論がなぜ経営側にとって都合がよかったかというと、「社員は給料や地位を目指すのでなく、会社にいかに貢献すべきかを最重要視しろ」という価値観を理論的に裏付けるものだったからである。ジョン・F・ケネディの「国が何をしてくれるか期待するのではなく、国のために何ができるかを考えよ」という大統領就任演説が日本でも高い評価を受けていた時代ということもあって、マズローの「自己実現論」は社員に自己犠牲を求める最高の経営理論になったのである。
 私はマズローの自己実現論が間違っていると言いたいのではない。職務・職能給が制度として確立しており、男女平等、同一労働同一賃金が原則の実力主義人事制度が定着していた欧米では当たり前の理論にすぎないが、年功序列・終身雇用が原則の日本型人事制度にマズローの理論を導入したら、若くて能力があり、バリバリ仕事ができる人たちに対する自己犠牲要求を正当化するための理論的裏付けになってしまうのである。
 で、私はマズローの理論を逆手にとることによって経営側を追い詰める方法を考えた。労使交渉の事前には、組合の他の役員には一切内緒で(というのは会社側のスパイが紛れ込んでいた可能性が高かったので)、とりあえず恒例行事のような労使交渉に入った。
 その1回目の交渉で、型どおりのボーナスの位置付けについてのやり取りをした上で、私は独断で「分かりました。ボーナスの位置付けについての会社側の主張に同意します。ボーナスの支給回答も呑みます」と、交渉も何もせずに会社回答を独断で呑んでしまったので、会社側も組合の他の役員も目を丸くしてびっくりした。
「ところで」と、私は続けた。「利益配分である以上、家族手当や住宅手当などの属人的要素は除いて、ボーナスの支給基準は基本給だけではなく職務・職能に関するあらゆる名目の諸手当も支給基準の対象になりますよね」と主張したのである。これには会社側がびっくりした。ボーナスの支給率は同じでも支給基準対象が基本給だけでなく、職務・職能に関するすべての給与が支給基準対象になるということになると、事実上支給総額はおそらく倍くらいになったのではないかと思う(はっきりとは覚えていない)。労使交渉は1回目で「決裂」ではなく、振出からやり直さざるをえなくなったのである。
 その数日後、社長から個人的相談を持ちかけられた。はっきり言えば「ボス交」である。私はボス交に応じることにした。もともとボス交でしか解決できないと考えていたし、ボス交に持ち込むことが目的で打った大芝居だったからだ。
「小林君の目的はなんだ」と、社長はいきなり聞いてきた。私は、「この機会に日本的人事制度を一気にとはいかないが、欧米のような職務・職能給体系に切り替えるためのスタートにしたいと考えている。具体的には給与体験をきわめてシンプルにして、属人的手当と役職手当を除くすべての名目の給与を基本給1本にしたい。その結果、残業手当の支給率も法律で定められている加算率に縛られずに新たに設定し、退職金の支給額基準も見直したい。長い目で見れば、その方が会社にとっても絶対プラスになる。この給与体系の改正をのんでくれるなら、あとは会社としてぎりぎり出せる支給総額を一発回答してもらいたい」と要求し、社長も私の提案を呑んでくれた。
 給与体系をすぐに変えるというわけには行かないので、とりあえず支給総額を一発回答してもらい、その配分は基本給ベースではなく事実上の職務・職能的要素を含んだ給与をベースに配分支給することで妥結したといういきさつがあった。その交渉を終えた直後、給与体系を一新するため会社は社長室を新設し、室長には会社の事実上ナンバー2だった専務が就き、私は平社員のまま「社長室長付け」という肩書で組合活動から離れることになった(電話交換手や役員秘書、社長室勤務者は組合員になれないという法律上の規定がある)。その新しい職場で取り組んだ仕事が、給与体系のシンプル化で、実際、役職手当と属人的手当を除くすべての名目の手当をいったんすべて基本給に一本化することだった。
 その際問題になったのは、残業・休日出勤手当の支給率であった。これは法律で決められており、給与体系を変えたからといって支給率を変更することはできないことが分かった。法律では、残業・休日出勤に対する手当の支給基準は属人的手当を除く基準内賃金とされているが、相当むかしということだったかもしれないが、事実上支給基準の対象給与は基本給だけだった(例外はあったかもしれない)。だから、属人的手当と役職手当を除いて基本給に一本化した場合、残業・休日出勤代が急増して経営を圧迫しかねないという問題が生じ、基本給の7割を残業・休日出勤手当の支給対象基準額にした。 
 もう一つ私が手を付けたかったのは属人的手当であった。具体的には通勤交通費と住宅手当の矛盾を解消することが目的だった。仮に会社が新宿にあったとする。下北沢や明大前に住めば、個人負担の住宅費(住宅購入費と固定資産税or家賃)は高いが、通勤費は安くて済む。一方遠隔地の小田原や高尾に住めば住宅費は安いが通勤費はべらぼうにかかる。一方住宅手当は一律で、通勤費は実費支給。しかも住宅手当は課税対象になるが、通勤交通費は収入にもならない。当然会社負担は、遠隔地に住む社員のほうが重くなるうえ、その社員は長時間通勤による疲労で仕事の能率も下がる。「こんなおかしな制度があるか」というのが私の抱いた疑問であった。この考えには社長も同意してくれて、「方法を考えてくれ」と言ってくれたが、法律の壁が厚かった。
 私の考えは、通勤時間が1時間を基準にして通勤手当を一律化してしまうという方法だった。ところが問題があった。通勤手当は、課税対象になる所得額から最初から控除されている点にあった。で、税務署長に掛け合い(社長が所
轄の税務署長に会えるよう計らってくれた。そうでなければ平社員の相談にな
んか署長が応じてくれるわけがない)、私の意図を説明した。署長は「うーん」とうなづいてはくれたが「税法上、通勤費が所得対象になっていないのは、実費支給が前提ですからね。小林さんが言いたい意味は大変良く理解できるけど、今の税法では通勤費を一律支給にすれば課税対象にせざるをえません。確かに住宅にかかる費用と通勤にかかる費用は反比例の関係にあり、いまの制度が矛盾していることは私も認めますが、法律を変えない限り、特例を認めるわけにはいきません」と言われ、あえなく脱帽。
 これは私の若気のころのエピソードだが、いまだにこのおかしな状態は続いている。一方でこうした税制の基本的な考え方のベースになっている年功序列・終身雇用の日本型経営システムは完全に崩壊しており、ベースアップが事実上長期にわたって廃止されてきたのはそのためでもある。とりあえずベアが復活したからといっても、ベア復活した企業のトップも「復興法人税の前倒し廃止の社員に対する還元」と位置付けており、来年以降は新たな法人税軽減策を打ち出さない限りベアは1年限りとなる公算が高い。
 安倍総理は、別の神風が吹いてアベノミクスが継続することを願っているのだろうが、「神風」だけは私にも吹くとも吹かないとも予測できないので、来年は経団連から「そう何度も頭を下げられても…」とソッポを向かれる可能性は低くない。アベノミクスは、私に言わせれば、小手先の対症療法でしかない。日本が抱えている諸問題を根本的に解決するには、どこかで誰かを犠牲にするしかない。
 どこかというのは場所の問題ではなく、時間のことである。ではいつか。
「いまでしょう」。
 誰か。中高年サラリーマン層である。彼らは、私たち高齢者世代が中高年のころ高齢者の生活を支えてきたように、いま私たち高齢者の世代の生活を支えてくれている。だから、中高年サラリーマン層に犠牲になってもらうということは、私たち高齢者も自分の生活は自分自身の努力で支える部分を広げなければならないことを意味する。そのことを承知で、中高年サラリーマン層に犠牲になってもらうしか、いま日本が抱えている諸問題を抜本的に解決する方法はない、と私は考えている。
 具体的にはどうするか。一気に「同一労働同一賃金性」を導入することだ。そうすれば、無能な中高年サラリーマン層が高給をむさぼることが不可能になり、若い人たちにチャンスが巡ってくる。若い人たちが「同一労働同一賃金」の原則に従って、それなりの収入を得られるようになれば、家庭を作ることもできるし、自分たちの収入の範囲内で自己負担で子育てをしながら共稼ぎができるようになる。この方法以外に、少子高齢化時代を乗り切って将来の日本の担い手を育てていく方法はない。
 アベノミクスのすべてが「神風だより」とまでは言わない。が、円安誘導のための日銀の金融緩和政策も行きづまりの感がある。今回の春闘は「政経労」の3者共同演出でベアを実現したが、経営側は基本的スタンスとしてベアで給与を改定する時代は終わったと考えている。経営側が汚いのは、給与改定についてのみ「ベアの時代ではない」と言っていることだ。私も「ベア」で給与を改定する時代ではないことを認めるにやぶさかではないが、それを認めるには人事体系(給与体系も含めて)を従来の年功序列型(終身雇用の時代はすでに終わっている)から同一労働同一賃金型に変えていく必要がある。「明日から」とまでは無茶は言わないが、少なくとも経団連は5年あるいは10年計画で抜本改革を加盟企業に要請していくべきだろう。

コメントを投稿