ノーベル物理学賞受賞の中村修二氏(米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授)が、怒り狂っている。特許庁が職務発明(社員が仕事として行った発明)による特許権を「社員の権利」から「会社の権利」に移すことを決めたからだ。
特許権と似たような権利に「著作権」がある。ただ特許権と著作権の大きな違いは、特許権が発明者など個人の権利であるのに対し、著作権は必ずしも個人が所有するとは限らないという点にある。また特許権は発明者が特許庁に申請する必要があるが、著作権はどこにも申請する必要がない。
特許権の不透明さを明らかにするために、まず著作権から説明しよう。著作権の対象になるのは言うまでもなく著作物だが、具体的には文章(小説やノンフィクション、随筆、ルポルタージュ、詩歌、など)と絵画、作曲、映画やドラマ、ゲームなどがある。ほかにもあるかもしれない。
これらの著作物の場合、明らかに個人が自分のリスクで発表したものについての著作権は個人に帰属する。が、集団で作成する映画やドラマは特定できる個人の著作者が存在しえない。テレビの普及に伴って映画の放映やドラマの再放送について監督や出演者が権利を無断で侵害されたとして訴えたこともある。いまは、映画やドラマなどについては著作者が制作会社やテレビ局にあることを明確にしている。
いわゆる「著作物」について著作権が存在しえないことが最近判明した(私の独断だが)。世界的に権威が認められている科学誌『ネイチャー』に発表されたSTAP細胞に関する研究論文に名を連ねた共著者が、次々に論文執筆に対する責任を回避したことによって、科学論文には著作権が存在しないことが明確になった。権利には当然責任が伴い、責任を伴わない権利は存在しないというのは自然法として万国共通の認識と考えられるからだ。
だが、文章や絵画、作曲など、作者が明確な著作物は著作者の権利が重要視されている。他人の著作物を無断で引用したら「盗作」と見なされ著作者としては抹殺される。それほど厳しい世界でもある。
が、例外がないこともない。故山崎豊子氏だ。二度にわたり盗作が指摘された。が、山崎氏は作者生命を失うことはなかった。稀有のケースと言っていいだろう。理由は「意図的ではなかった」ということが明白になったからだ。山崎氏は小説を書く場合、秘書も使って膨大な資料を集め、細かくメモを取っていた。そのメモの中に資料の丸写しの部分があったため、結果的に盗作になってしまった。
個人の著作物の場合、特許のように申請しなくても、著作権法によって保護されるのが、少なくとも先進国では共通の常識である。その常識が通じない国が日本の隣にあり、その国の政府も頭を悩ませているというが、どこまで本気で著作権保護に乗り出そうとしているのか疑問視されている。
著作物が集団で作られる映画やドラマの場合は、特定の個人に著作権が認められることはない。映画やドラマを制作した会社に著作権がある。なぜか。個人を特定できないからだけではない。制作資金などのリスクを、監督や出演者ではなく、制作会社が持つからだ。
職務特許の場合も、同じように考えれば、難しく考える必要はあるまい。企業は研究者や技術者を雇用するに際し、期待する労務提供に対する対価として報酬を支払う。期待外れに終わっても、企業が社員に「支払った給与を返せ」などと主張できる権利はない。企業が社員を採用するのは一種の「賭け」でもある。期待以上の貢献をする社員もいれば、期待外れに終わる社員もいる。
研究者や技術者が、発明の対価として企業収益に対する「相応の配分」を要求するなら、最初から「給料は最低賃金でいい。その代わり発明による企業収益の何分の1かが欲しい」と主張し、そういう雇用契約を結べばいい。企業にとってもリスクが少なくなるから喜んで最低賃金による雇用契約を結ぶだろう。
いったい研究者や技術者は、タレントと同じなのか。売れるようになったタレントがしばしば所属する芸能プロダクションと衝突するのは、やはり利益配分を巡ってである。契約期間が切れたら再契約せずに独立するタレントも少なくないが、稼ぎの増減は分からないがテレビなどの露出度は確実に減るようだ。
もちろん大きな成果を上げた社員に対するインセンティブは、研究所・技術者に限らず必要だろう。ただインセンティブを大きくすれば、企業としてはノルマも課さざるを得なくなるだろう。営業職のように、成果がすぐ現れる職種の場合は、そうした「アメとムチ」の給与体系にするのも簡単だが、悪徳企業の温床にもなっている。難しい問題だ。(続く)
特許権と似たような権利に「著作権」がある。ただ特許権と著作権の大きな違いは、特許権が発明者など個人の権利であるのに対し、著作権は必ずしも個人が所有するとは限らないという点にある。また特許権は発明者が特許庁に申請する必要があるが、著作権はどこにも申請する必要がない。
特許権の不透明さを明らかにするために、まず著作権から説明しよう。著作権の対象になるのは言うまでもなく著作物だが、具体的には文章(小説やノンフィクション、随筆、ルポルタージュ、詩歌、など)と絵画、作曲、映画やドラマ、ゲームなどがある。ほかにもあるかもしれない。
これらの著作物の場合、明らかに個人が自分のリスクで発表したものについての著作権は個人に帰属する。が、集団で作成する映画やドラマは特定できる個人の著作者が存在しえない。テレビの普及に伴って映画の放映やドラマの再放送について監督や出演者が権利を無断で侵害されたとして訴えたこともある。いまは、映画やドラマなどについては著作者が制作会社やテレビ局にあることを明確にしている。
いわゆる「著作物」について著作権が存在しえないことが最近判明した(私の独断だが)。世界的に権威が認められている科学誌『ネイチャー』に発表されたSTAP細胞に関する研究論文に名を連ねた共著者が、次々に論文執筆に対する責任を回避したことによって、科学論文には著作権が存在しないことが明確になった。権利には当然責任が伴い、責任を伴わない権利は存在しないというのは自然法として万国共通の認識と考えられるからだ。
だが、文章や絵画、作曲など、作者が明確な著作物は著作者の権利が重要視されている。他人の著作物を無断で引用したら「盗作」と見なされ著作者としては抹殺される。それほど厳しい世界でもある。
が、例外がないこともない。故山崎豊子氏だ。二度にわたり盗作が指摘された。が、山崎氏は作者生命を失うことはなかった。稀有のケースと言っていいだろう。理由は「意図的ではなかった」ということが明白になったからだ。山崎氏は小説を書く場合、秘書も使って膨大な資料を集め、細かくメモを取っていた。そのメモの中に資料の丸写しの部分があったため、結果的に盗作になってしまった。
個人の著作物の場合、特許のように申請しなくても、著作権法によって保護されるのが、少なくとも先進国では共通の常識である。その常識が通じない国が日本の隣にあり、その国の政府も頭を悩ませているというが、どこまで本気で著作権保護に乗り出そうとしているのか疑問視されている。
著作物が集団で作られる映画やドラマの場合は、特定の個人に著作権が認められることはない。映画やドラマを制作した会社に著作権がある。なぜか。個人を特定できないからだけではない。制作資金などのリスクを、監督や出演者ではなく、制作会社が持つからだ。
職務特許の場合も、同じように考えれば、難しく考える必要はあるまい。企業は研究者や技術者を雇用するに際し、期待する労務提供に対する対価として報酬を支払う。期待外れに終わっても、企業が社員に「支払った給与を返せ」などと主張できる権利はない。企業が社員を採用するのは一種の「賭け」でもある。期待以上の貢献をする社員もいれば、期待外れに終わる社員もいる。
研究者や技術者が、発明の対価として企業収益に対する「相応の配分」を要求するなら、最初から「給料は最低賃金でいい。その代わり発明による企業収益の何分の1かが欲しい」と主張し、そういう雇用契約を結べばいい。企業にとってもリスクが少なくなるから喜んで最低賃金による雇用契約を結ぶだろう。
いったい研究者や技術者は、タレントと同じなのか。売れるようになったタレントがしばしば所属する芸能プロダクションと衝突するのは、やはり利益配分を巡ってである。契約期間が切れたら再契約せずに独立するタレントも少なくないが、稼ぎの増減は分からないがテレビなどの露出度は確実に減るようだ。
もちろん大きな成果を上げた社員に対するインセンティブは、研究所・技術者に限らず必要だろう。ただインセンティブを大きくすれば、企業としてはノルマも課さざるを得なくなるだろう。営業職のように、成果がすぐ現れる職種の場合は、そうした「アメとムチ」の給与体系にするのも簡単だが、悪徳企業の温床にもなっている。難しい問題だ。(続く)
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