今回のブログでは現行憲法の前文と第1章「天皇」に関する自民改憲草案を検証する。
現行憲法は旧仮名遣いで書かれているため、現代語に直す。とくに前文の主要な部分は
「主権在民」について述べた重要な条文である。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由がもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を規定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に(※「を」とした方がいい)信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ(※「に陥ることなく」とした方がいい)、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家とも、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって(※「自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国家も無視してはならず」とした方がいい)、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と(※「いずれの国とも」とした方がいい)対等(※「な」を挿入したほうがいい)関係に立とうとする各国の責務であると信じる(※「立つことを誓う」とした方がいい)。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」
この前文に続く第1章「天皇」の第1条及び第2条にはこうある。
「第1条 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この(※「その」とした方がいい)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
「第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
ところで皇室典範の第1章「皇位継承」の第1条にはこう定めている。
「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」
この現行憲法における「主権在民」と「天皇の地位」に関して、自民改憲草案は前文でこう記している。結論から言うと、アナクロニズムもいいところだ。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権のもと、立法、行政及び司法の三権分立にもとづいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、いまや国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
自民改憲草案は「主権在民」をいちおう謳(うた)いながら「日本国は…国民統合の象徴である天皇を戴く国家」としている。「戴く」とは『広辞林』によれば「敬い仕える」という意味であり、「天皇が国民に君臨する国家」ということになる。自民改憲草案はそのあとにとってつけたように「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と記しているが主語がない。
「統治する」のは誰で、「統治される」のは誰か。少なくとも「天皇を戴く国家」である以上、天皇が統治されるわけがなく、統治するのが天皇でなければおかしい。そう解釈すると、天皇によって「統治される」のは国民以外に考えられない。それ以外の文理的解釈は憲法学者ではなくても文学者でも不可能だ。
また「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」とあるが、「先の大戦」について触れるのであれば、まず当時の日本がアジアの諸国とその国民に多大な犠牲を強い、また日本国民を軍国主義思想に染め上げて貴い命を「天皇の名の下に」奪ってきた権力についての深い反省がまず述べられるべきだろう。それに、敗戦による「荒廃や幾多の大災害を乗り越えて」日本を「国際社会において重要な地位」に復活させたのは、ひとえにわが国民の努力のたまものであり、国家が主要な役割を果たしたわけではない。
もちろん戦後の政府による経済政策や外交政策を全否定するわけではないが、それらの政策を成功に導いたのはわが国民の努力と英知のたまものであって、それなくして今日の日本はありえなかった。たとえば「絶対にうまいコメは作れない」とされてきた北海道で新潟産「コシヒカリ」や秋田産「あきたこまち」より高値で取引されるほどの銘柄米「ゆめピリカ」を作り出したのは、ほかならない北海道の米研究者と稲作農家の必死の努力のたまものである。
日本人は遺伝子組み換え技術による食品(たとえば大豆など)を科学的根拠もなく拒否するきらいもあるが、コメに限らずタネなし果実(スイカやブドウなど)は事実上遺伝子組み換えの技術によって品種改良を行ってきた結果である。ただフラスコの中で遺伝子操作をするか、いろいろな品種の植物を自然環境の中で掛け合わせて遺伝子組み換えをするかの違いだけだ。私自身は遺伝子組み換えの大豆に対しても全く抵抗がない。
いま京大・山中伸也教授が創り出したips細胞の研究が世界中で医療革命を起こすと期待されているが、これはフラスコの中で行われた遺伝子操作による。遺伝子組み換えによる大豆に拒否感を持つ人は、フラスコの中でips細胞によって作られた人工臓器の移植に対しても拒否するのだろうか。
また東工大・大隅良典栄誉教授が発見した「オートファジー」という、細胞が不要なたんぱく質などを分解する仕組みが、将来パーキンソン病などの神経系病気の予防や治療法の開発に結びつくことが期待されているが、これもフラスコの中での遺伝子組み換え技術がなければ実用化に至らないが、遺伝子組み換えの大豆を拒否する人はこの治療も拒否するのだろうか。
話が横道にそれたので、自民改憲草案批判に話を戻すが、要するに私が言いたいことは、いかなる既存の価値観や先入観にも捕らわれることなく、幼児のように白紙の状態から様々な問題に疑問を持ち、幼児のような素直さで物事をゼロから考える習慣を、私のブログ読者は身に付けてほしいと願っているだけだ。
自民改憲草案には「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」という件(くだり)件(くだり)があるが、そんなことは憲法が国民に要請すべきことではない。
憲法は権力を縛るものであり、国民(在日外国人も含む。当然在日米軍兵士も対象になる)を縛るのは法律である。そして国民を縛る法律は、基本的に犯罪行為から国民(在日外国人を含む。在日米軍兵士も対象)を守るために国民から選ばれた国会議員たちが作る(立法府である国会の務め)。まして自民草案にあるような「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」といった道徳的なことは、憲法や法律が国民に要請すべきことではない。愛国心や郷土愛は、私は私なりに持っているつもりだが、その持ち方は人それぞれであって国が関与すべきことではない。一律の愛国心や郷土愛を国民すべてが持つことは、かつて軍部が支配していた時代を想起させるだけだ。もっとも安倍総理は、そういう時代に日本を先祖帰りさせたいのだろうが…。
さらに自民改憲草案には空恐ろしいことも記載されている。「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という個所だ。
「和を尊び」は当り前のように一見見えるが、思想や意見の相違を認めないという意味に拡大解釈されかねない。この文の前に「基本的人権を尊重するとともに」という件があるが、基本的人権とは『広辞林』によれば、「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。基本的人権は「尊重されるべきもの」などではなく、国家権力も冒してはならない、人間が人間として当然持っている基本的な権利であり、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成」しなければならないとすること自体が、国家権力による基本的人権への重大な侵害である。
国家のために国民が存在するのではない。国民のために国家が存在する。だから近代民主主義の大原則が「立憲主義」とされてきたのである。現に「国家のために国民が存在する」と考えている政府がある。中国や北朝鮮などの共産主義国だ。日本共産党は、中国や北朝鮮のような国づくりは目指していないが、国民の多くからそのような誤解を受けていることを素直に認め、いまの日本共産党が目指しているようなリベラル政党として党名変更も含めて再スタートすべきだろう。そうでないと野党間の選挙協力もなかなか実を結ばない。横道にそれすぎないため、次に移る。
自民改憲草案はこうも述べている。「われわれは、自由と規律を重んじ…活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と。「自由」と「規律」は基本的に相反する概念である。もちろん「自由」がいかに大切で重要な権利であったとしても、たとえば「人を殺す」自由など民主国家においては認められるわけがない。しかし「規律」(事実上、法律を意味する言葉。地域社会や企業・団体などの組織内規則もあるが、国家権力がくちばしを挟む対象ではない)は、個人に許される最低限の自由を侵害しないことが絶対条件になる。憲法が基本的人権の重要な要素である「思想・信条・宗教・言論」などの自由を保障するのは当然だが、「規律を重んじる」ことを国民に要請するのは事実上、国民の権利の侵害を意味しかねない。
前文の最後の一文も問題だ。
「日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
冗談もいい加減にしろ、と言いたくなる。
私たち現存する日本国民に課せられた最大の義務は、二度と戦争をしない国づくりを支え、平和な社会を後世に引き継いでいくことだ。そのためには、アメリカのようなエゴ丸出しの国の腰巾着になるのではなく、まず環アジア・太平洋の諸国、体制が異なる中国や北朝鮮とも友好的な関係を築き(もちろんアメリカも排除しない)、現行憲法前文にあるように(私が注釈を加えた内容で転記する)「われらは自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国も無視してはならず、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、いずれの国とも対等な関係に立つことを誓う」ことで、環アジア・太平洋の平和と発展に貢献できる日本国の建設を成し遂げることが、現存する日本人の最大の責務でなければならない。憲法が、国民に要請できる最も重要な一点はそれだ。
最後に天皇の地位に就いて簡単に触れておく。現行憲法では皇位の継承についてはまったく触れていない。現天皇が退位の意向を示されたとき、自民党内で憲法改正論が噴出した。が、現行憲法ではまったく触れていない皇位の継承問題を契機に、天皇の退位を認めるためには憲法の改正が必要だ、などというたわごとは、天皇の退位を無理やり改憲の口実にしようという意図が見え見えだった。結局、天皇の退位を改憲のきっかけにすることはいくらなんでも無理ということになり、退位を巡っての改憲論は影をひそめたが、問題は天皇の地位を大きく変えようという意図が自民改憲の目的に含まれている。
その意図は、前文で「日本国は…天皇を戴く国家」というアナクロニズム丸出しの表現だけでなく、第1章「天皇」に関する条項でもあらわれている。
現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と天皇の地位が定められているが、自民改憲草案の第1章第1条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって」と、かつての天皇制復活を想起させる条文になっている。『広辞林』によれば、元首とは「国家の主権者。国民のかしら。国際法上、外国に対して国を代表する者」という意味だ。
しらじらしくも自民改憲草案では「天皇は、日本国の元首」と規定しておきながら、天皇の地位を明文化した後に続けて「日本国および日本国民統合の象徴」と、現行憲法での天皇の地位を踏襲している。まったく相反する天皇の位置付けである。論理的整合性をどう説明できるのか。
それはともかく、皇位の継承についての皇室典範は時代錯誤だと言いたい。「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という条文である。
なぜ男系男子でなければならないのか。私は性別にかかわらず皇位継承権者の第1位は天皇の第1子とすべきだと思う。実際、日本の皇室が必ずしも男系男子によって継承されてきたわけでもないし、イギリスなど諸外国においても性別を問わず第1子に第1位の継承権が与えられているケースの方が多いのではないだろうか。おそらく国民の大多数は私と同じ意見だと思う。
現行憲法においては日本国の「国旗」と「国歌」についての定めはないが、自民草案では第3条でこう定めようとしている。
「第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない」
この定めは明らかに国民の思想・信条の自由に対する国の規制を意味する。私自身は「日の丸」は世界一美しい旗だと思っているが、「日の丸」を仰いで国への忠誠心を抱くことはない。オリンピックなどで、「日の丸」が中央に高く掲げられると、素直に喜ぶが、それだけのことだ。
ついでに「君が代」については天皇制を想起させる歌なので、あまり好きではない。もっと行進曲的な感じの国歌に変えた方がいいと思っている。(続く)
現行憲法は旧仮名遣いで書かれているため、現代語に直す。とくに前文の主要な部分は
「主権在民」について述べた重要な条文である。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由がもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を規定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に(※「を」とした方がいい)信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ(※「に陥ることなく」とした方がいい)、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いずれの国家とも、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって(※「自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国家も無視してはならず」とした方がいい)、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と(※「いずれの国とも」とした方がいい)対等(※「な」を挿入したほうがいい)関係に立とうとする各国の責務であると信じる(※「立つことを誓う」とした方がいい)。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」
この前文に続く第1章「天皇」の第1条及び第2条にはこうある。
「第1条 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この(※「その」とした方がいい)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
「第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
ところで皇室典範の第1章「皇位継承」の第1条にはこう定めている。
「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」
この現行憲法における「主権在民」と「天皇の地位」に関して、自民改憲草案は前文でこう記している。結論から言うと、アナクロニズムもいいところだ。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権のもと、立法、行政及び司法の三権分立にもとづいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、いまや国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
自民改憲草案は「主権在民」をいちおう謳(うた)いながら「日本国は…国民統合の象徴である天皇を戴く国家」としている。「戴く」とは『広辞林』によれば「敬い仕える」という意味であり、「天皇が国民に君臨する国家」ということになる。自民改憲草案はそのあとにとってつけたように「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と記しているが主語がない。
「統治する」のは誰で、「統治される」のは誰か。少なくとも「天皇を戴く国家」である以上、天皇が統治されるわけがなく、統治するのが天皇でなければおかしい。そう解釈すると、天皇によって「統治される」のは国民以外に考えられない。それ以外の文理的解釈は憲法学者ではなくても文学者でも不可能だ。
また「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」とあるが、「先の大戦」について触れるのであれば、まず当時の日本がアジアの諸国とその国民に多大な犠牲を強い、また日本国民を軍国主義思想に染め上げて貴い命を「天皇の名の下に」奪ってきた権力についての深い反省がまず述べられるべきだろう。それに、敗戦による「荒廃や幾多の大災害を乗り越えて」日本を「国際社会において重要な地位」に復活させたのは、ひとえにわが国民の努力のたまものであり、国家が主要な役割を果たしたわけではない。
もちろん戦後の政府による経済政策や外交政策を全否定するわけではないが、それらの政策を成功に導いたのはわが国民の努力と英知のたまものであって、それなくして今日の日本はありえなかった。たとえば「絶対にうまいコメは作れない」とされてきた北海道で新潟産「コシヒカリ」や秋田産「あきたこまち」より高値で取引されるほどの銘柄米「ゆめピリカ」を作り出したのは、ほかならない北海道の米研究者と稲作農家の必死の努力のたまものである。
日本人は遺伝子組み換え技術による食品(たとえば大豆など)を科学的根拠もなく拒否するきらいもあるが、コメに限らずタネなし果実(スイカやブドウなど)は事実上遺伝子組み換えの技術によって品種改良を行ってきた結果である。ただフラスコの中で遺伝子操作をするか、いろいろな品種の植物を自然環境の中で掛け合わせて遺伝子組み換えをするかの違いだけだ。私自身は遺伝子組み換えの大豆に対しても全く抵抗がない。
いま京大・山中伸也教授が創り出したips細胞の研究が世界中で医療革命を起こすと期待されているが、これはフラスコの中で行われた遺伝子操作による。遺伝子組み換えによる大豆に拒否感を持つ人は、フラスコの中でips細胞によって作られた人工臓器の移植に対しても拒否するのだろうか。
また東工大・大隅良典栄誉教授が発見した「オートファジー」という、細胞が不要なたんぱく質などを分解する仕組みが、将来パーキンソン病などの神経系病気の予防や治療法の開発に結びつくことが期待されているが、これもフラスコの中での遺伝子組み換え技術がなければ実用化に至らないが、遺伝子組み換えの大豆を拒否する人はこの治療も拒否するのだろうか。
話が横道にそれたので、自民改憲草案批判に話を戻すが、要するに私が言いたいことは、いかなる既存の価値観や先入観にも捕らわれることなく、幼児のように白紙の状態から様々な問題に疑問を持ち、幼児のような素直さで物事をゼロから考える習慣を、私のブログ読者は身に付けてほしいと願っているだけだ。
自民改憲草案には「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」という件(くだり)件(くだり)があるが、そんなことは憲法が国民に要請すべきことではない。
憲法は権力を縛るものであり、国民(在日外国人も含む。当然在日米軍兵士も対象になる)を縛るのは法律である。そして国民を縛る法律は、基本的に犯罪行為から国民(在日外国人を含む。在日米軍兵士も対象)を守るために国民から選ばれた国会議員たちが作る(立法府である国会の務め)。まして自民草案にあるような「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」といった道徳的なことは、憲法や法律が国民に要請すべきことではない。愛国心や郷土愛は、私は私なりに持っているつもりだが、その持ち方は人それぞれであって国が関与すべきことではない。一律の愛国心や郷土愛を国民すべてが持つことは、かつて軍部が支配していた時代を想起させるだけだ。もっとも安倍総理は、そういう時代に日本を先祖帰りさせたいのだろうが…。
さらに自民改憲草案には空恐ろしいことも記載されている。「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という個所だ。
「和を尊び」は当り前のように一見見えるが、思想や意見の相違を認めないという意味に拡大解釈されかねない。この文の前に「基本的人権を尊重するとともに」という件があるが、基本的人権とは『広辞林』によれば、「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。基本的人権は「尊重されるべきもの」などではなく、国家権力も冒してはならない、人間が人間として当然持っている基本的な権利であり、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成」しなければならないとすること自体が、国家権力による基本的人権への重大な侵害である。
国家のために国民が存在するのではない。国民のために国家が存在する。だから近代民主主義の大原則が「立憲主義」とされてきたのである。現に「国家のために国民が存在する」と考えている政府がある。中国や北朝鮮などの共産主義国だ。日本共産党は、中国や北朝鮮のような国づくりは目指していないが、国民の多くからそのような誤解を受けていることを素直に認め、いまの日本共産党が目指しているようなリベラル政党として党名変更も含めて再スタートすべきだろう。そうでないと野党間の選挙協力もなかなか実を結ばない。横道にそれすぎないため、次に移る。
自民改憲草案はこうも述べている。「われわれは、自由と規律を重んじ…活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と。「自由」と「規律」は基本的に相反する概念である。もちろん「自由」がいかに大切で重要な権利であったとしても、たとえば「人を殺す」自由など民主国家においては認められるわけがない。しかし「規律」(事実上、法律を意味する言葉。地域社会や企業・団体などの組織内規則もあるが、国家権力がくちばしを挟む対象ではない)は、個人に許される最低限の自由を侵害しないことが絶対条件になる。憲法が基本的人権の重要な要素である「思想・信条・宗教・言論」などの自由を保障するのは当然だが、「規律を重んじる」ことを国民に要請するのは事実上、国民の権利の侵害を意味しかねない。
前文の最後の一文も問題だ。
「日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
冗談もいい加減にしろ、と言いたくなる。
私たち現存する日本国民に課せられた最大の義務は、二度と戦争をしない国づくりを支え、平和な社会を後世に引き継いでいくことだ。そのためには、アメリカのようなエゴ丸出しの国の腰巾着になるのではなく、まず環アジア・太平洋の諸国、体制が異なる中国や北朝鮮とも友好的な関係を築き(もちろんアメリカも排除しない)、現行憲法前文にあるように(私が注釈を加えた内容で転記する)「われらは自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国も無視してはならず、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、いずれの国とも対等な関係に立つことを誓う」ことで、環アジア・太平洋の平和と発展に貢献できる日本国の建設を成し遂げることが、現存する日本人の最大の責務でなければならない。憲法が、国民に要請できる最も重要な一点はそれだ。
最後に天皇の地位に就いて簡単に触れておく。現行憲法では皇位の継承についてはまったく触れていない。現天皇が退位の意向を示されたとき、自民党内で憲法改正論が噴出した。が、現行憲法ではまったく触れていない皇位の継承問題を契機に、天皇の退位を認めるためには憲法の改正が必要だ、などというたわごとは、天皇の退位を無理やり改憲の口実にしようという意図が見え見えだった。結局、天皇の退位を改憲のきっかけにすることはいくらなんでも無理ということになり、退位を巡っての改憲論は影をひそめたが、問題は天皇の地位を大きく変えようという意図が自民改憲の目的に含まれている。
その意図は、前文で「日本国は…天皇を戴く国家」というアナクロニズム丸出しの表現だけでなく、第1章「天皇」に関する条項でもあらわれている。
現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と天皇の地位が定められているが、自民改憲草案の第1章第1条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって」と、かつての天皇制復活を想起させる条文になっている。『広辞林』によれば、元首とは「国家の主権者。国民のかしら。国際法上、外国に対して国を代表する者」という意味だ。
しらじらしくも自民改憲草案では「天皇は、日本国の元首」と規定しておきながら、天皇の地位を明文化した後に続けて「日本国および日本国民統合の象徴」と、現行憲法での天皇の地位を踏襲している。まったく相反する天皇の位置付けである。論理的整合性をどう説明できるのか。
それはともかく、皇位の継承についての皇室典範は時代錯誤だと言いたい。「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という条文である。
なぜ男系男子でなければならないのか。私は性別にかかわらず皇位継承権者の第1位は天皇の第1子とすべきだと思う。実際、日本の皇室が必ずしも男系男子によって継承されてきたわけでもないし、イギリスなど諸外国においても性別を問わず第1子に第1位の継承権が与えられているケースの方が多いのではないだろうか。おそらく国民の大多数は私と同じ意見だと思う。
現行憲法においては日本国の「国旗」と「国歌」についての定めはないが、自民草案では第3条でこう定めようとしている。
「第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない」
この定めは明らかに国民の思想・信条の自由に対する国の規制を意味する。私自身は「日の丸」は世界一美しい旗だと思っているが、「日の丸」を仰いで国への忠誠心を抱くことはない。オリンピックなどで、「日の丸」が中央に高く掲げられると、素直に喜ぶが、それだけのことだ。
ついでに「君が代」については天皇制を想起させる歌なので、あまり好きではない。もっと行進曲的な感じの国歌に変えた方がいいと思っている。(続く)
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