今回は第3章「国民の権利及び義務」について、自民党「改憲草案」を検証する。
日本国民が享有する基本的人権を保障した11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの(※「が」とした方がいい)できない永久の権利として、現在および将来の国民に与えられる」という条文は、自民改憲草案においても基本的に踏襲されている。
が、次の12条についての自民草案には問題がある。現行憲法はこうだ。
「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって(ここまでは自民草案も基本的に踏襲している)」「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とある。その後段の部分を自民草案はこう改ざんしている。
「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」(※ここまではいい)「常に公益及び公の秩序に反してはならない」
私自身、約8年前からブログを書いているが、ジャーナリストとして書いたことには当然責任と、自分自身の生き方としてブログで主張したことに反する行為をしないという意味での義務を負うべきことは自覚している。
が、「公益」や「公の秩序」など考慮したこともないし、考慮する必要もないと思っている。だいたい、「公益」に反するか否かはだれが決めるのか。政府を批判したり、反政府活動を行うことが「公益に反する」とでも言いたいのか。
さらに「公の秩序」は誰が決めるのか。確かにデモ活動などは交通の妨げになることはあるし、だから「秩序あるデモ」に抑え込むため機動隊が出動して規制している。これからは機動隊による規制だけでなく、デモ活動そのものを「公の秩序に反する」行為とみなし、犯罪者として取り締まろうとでも言いたいのか。
憲法が保障する基本的人権とは、『広辞林』によれば「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。民主国家においては、あらゆる自由が保障されているわけではなく、自由の範囲に対する制約は憲法ではなく法律で定めるのが「立憲主義」の在り方だ。人を殺したり、物を盗んだり、飲酒など危険な状態で自動車を運転したり、といったことは「犯罪行為」として国家権力の一部である警察が取り締まればいいのであって、犯罪を防止する目的で法律を作るために国会という立法府が存在する。憲法によって基本的人権に制限をかけようというのは、独裁国家のやり方だ。
次に問題なのは18条である。現行憲法にはこうある。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も(※「を」のほうがいい)受けない。また犯罪に因(よ)る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
この条文を自民草案はこう改ざんしている。
「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
現行憲法は、「いかなる奴隷的拘束」としているが、自民草案では「社会的又は経済的関係において身体を拘束されない」と、拘束されない条件を付けている。実はこの条文に先立つ14条において自民草案も現行憲法を基本的に踏襲しており、「すべて国民は、法の下に平等であって、…政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としている。が、18条においては身体を拘束されないケースは「社会的又は経済的関係」としており、14条で差別を禁じた「政治的」行為は身体拘束の対象にされている。
草案18条は、先の戦争で「政治的拘束」により反政府的活動を封じ込めてきた「大政翼賛会」をほうふつさせる条文である。自民党はどういう国づくりを考えているのか、党内から「おかしい」という声がなぜ出てこないのか。そこまで安倍総裁の独裁的権力が隅々まで浸透してしまっているのだろうか。
現行憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」となっているが、自民草案は現行憲法の2項を3項に移し、2項として次の条文を挿入している。
「前項の規定に関わらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」
12条草案と同様、ここでも「公益及び公の秩序を害する活動や結社」を排除しようとしている。同じ批判を何度も繰り返したくはないが、政治権力が「公益や公の秩序を害する」と見なせば、権力に対する批判や安保法制に対する反対運動を排除できることになる。自民草案も一応21条の1項は踏襲しているが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由」は、権力の維持を侵さない範囲に抑え込まれてしまう。というより、それが目的の条文としか考えにくい。
現行憲法24条は婚姻についてこう定めている。
「婚姻は、両性の合意によってのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」
この条文に関して自民草案は新たに1項を加え、さらに3項(現行憲法の2項)を書き換えている。まず新設した1項はこういう条文だ。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」
この条文自体は当り前のことを書いているだけのように一見思えるが、実は3項で書き換えられた文章に重ねると、とんでもない意味を持ってくる。現行憲法の2項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族」と記されている個所を自民草案は「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族」と書き変えている。
なぜそう書き換える必要があったのか。24条に続く25条の事実上の改変を正当化することが、実は自民草案の目的なのだ。現行憲法25条は表現などの自由を保障した21条と並び基本的人権を保障した2大要素のもう一つである国民の権利を保障している。現行憲法25条はこう記している。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。
2 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
これは生活困窮者に対する「生活保護制度」の根幹をなす条文である。が、24条2項の書き換えによって「家族」や「扶養(兄弟や子供を意味する)」「後見(親族を意味する)」の義務化を目的にした改変である。で、厚労省のホームページで「生活保護制度」について調べてみた。厚労省のホームページによれば制度の趣旨と受給資格についてこう記している。
「資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する方に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを制度です」
「生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用しうる資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活を維持するために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します」
「預貯金、生活に利用されていない土地・家屋等があれば売却等し生活費に充ててください」
この説明に若干の疑問を持った私は厚労省の生活保護課に電話して聞いた。明確な答えが返ってきた。
「皆さん誤解されているのですが、世帯全員(単身者でも)が居住している土地・家屋を所有していても、それを処分しなければならないということではないんです。ただ、アパートなどの家賃支払いがないので、家賃相当分の支給はありません」
厚労省のホームページの記載を続ける。
「働くことが可能な方は、その能力に応じて働いてください」
この説明についても厚労省の生活保護課に尋ねた。
「まだ働けるでしょうと、どんな仕事でもしてくださいなどとは言っていません。その方のキャリアや能力に適した仕事を探してもらうという意味です」
扶養義務者の扶養について厚労省はこう説明している。
「親族等から援助を受けることができる場合は、援助を受けてください。そのうえで、世帯の収入と厚生労働大臣の定める基準で計算される最低生活費を比較して、収入が最低生活費に満たない場合に、保護が適用されます」
この説明にも私は疑問を持った。「親族等とはどの範囲まで言うのか」と。厚労省生活保護課はこう答えた。
「扶養義務者を意味します。扶養義務者とは世帯全員の両親、子供、兄弟までです。おじとかおばとか兄弟の連れ合いなどは含んでいません」
しばしばテレビの番組で、生活保護費の支給を受けた直後にパチンコ屋に直行する人たちがいることは私も知っている。パチンコに興じる人たちにとって、パチンコで遊ぶことが「健康で文化的な最低限度の生活」を享受する権利の範囲に入るのかどうかには私も疑問をもつ。また、正業に就かない暴力団の人が自分の生活状態を偽って生活保護を受けているケースもある。
そうした状況をどうしたら改善できるのか。
自民改憲草案の12条に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とある。
私は生活保護者のケースについて、生活保護を受ける権利には、責任及び義務が伴うことが必要だと考えている。
生活保護の金銭的援助は、その前提として「働くことが可能な方は、その能力に応じて働く」ことが義務付けられている。が、「能力に応じて働く機会」を厚労省や、生活保護を認定し、保護費を支給する地方自治体の市町村(社会福祉事務所)は用意していない。
「働きたくても働けない」あるいは「働く機会がない」と思っている人が多い。その人たちに「働く機会をつくる」「社会が求める働きの能力を高める」…そういう機会をつくったらどうか。でも市町村単位では無理だ。都道府県単位で、言うならケアハウス(厚生施設)をつくり、そこに生活保護者を集めて共同生活をしてもらう。そしてケアハウスには生活保護者が自分の「働きの能力」を高め、「働く意欲」を生み出す施設を併設する。
刑務所などの更生施設と違って、やりたくない仕事や作業技能を無理やり押し付けてはならない。あくまで本人の、どういう仕事をしたいかを最優先する。そして本人がしたい仕事について社会(企業)が求める能力を身に付けさせることに、社会復帰させるための最大の努力を払う。それが厚労省が生活保護者に対して行う本来の義務ではないだろうか。「健康で文化的な生活を保障する」ための金銭的援助を行うことより、生活困窮者が自助努力によって、その困難な生活状態から抜け出せるような施策を講じるのが「生活保護制度」の本来の目的ではないかと、私は思う。
基本的人権に関する最後の大きな問題は「財産権」についての改ざんである。財産権について現行憲法29条はこう記している。
「財産権はこれを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」
この条文の2項を自民草案は次のように改ざんしている。
「財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」
またしても「公益及び公の秩序に適合」させるという、基本的人権に対する国家権力による縛りができるように現行憲法を改悪している。
先の戦争において日本の国家権力は武器・兵器の製造のために寺院の梵鐘はおろか、国民の財産である金属類を(いちおう「自主的」という形式は取ったが)事実上没収した。戦時中の国家権力が国民の財産権を「天皇や国家のため」という「公益及び公」の要請によって収奪したことを想起させる条文である。
さらに知的財産権については、事実上「言論や報道の自由」に対して縛りがかけられる内容になっている。「言論や報道の自由」は憲法が日本国民に保障した基本的人権のなかでも思想・信条・信教の自由とともに最も尊重されなければならない自由であって、その自由の下に行使する個人または集団の行動が、旧オウム真理教のような他人の生存権をも奪うような犯罪行為を伴わない限り、国家権力が「国民の知的創造力の向上に資するよう配慮」を強要すべきことではない。現に、現行憲法の下でも徐々に「ポルノ解禁」は進められてきた一方、行き過ぎた行為に対しては今でも法律で十分に規制できている。
国は賭博行為を基本的に禁じていながら、パチンコや競馬、競輪、競艇などの賭博行為を許容してきたし、わずか6時間の審議で「カジノ解禁」まで衆院を通過させてしまった。勤労者の所得税や消費税収入の伸び悩み、そのうえ法人税だけは引き下げるといったアベノミクスの失敗を補うための苦肉の策であることは明白だが、観光立国の引き金にしたいというなら観光目的で来日する外国人のみを出入りできるようにすべきだと思う。
いずれにしても公認賭博業界(パチンコ、競馬など)を指導しているのは国家権力の執行者である警察だ。実際、そうした賭博業界の指導・監督を名目とした「公益法人」は警察官僚の天下り天国になっており、業者と公権力の癒着がはなはだしいことは周知の事実である。
憲法は本来国家権力の乱用を防ぐために、国家権力の権能に制限を加えるのが目的のものだ。だから現行憲法は、「国民の権利を保障し、みだりに国家権力による国民の権利の侵害をさせない」ことが目的として作られている。この現行憲法の精神は、「アメリカに押し付けられた」などという口実で絶対に侵してはならないものだ。
確かに現行憲法には、現実とそぐわない問題もあることは私も認める。だから現行憲法の三大原則である「主権在民・基本的人権の順守・平和主義」の精神を現代社会においても侵されないように一部を書き換えたり、あるいは「加憲」したりする必要はあるかもしれない。そういう問題については各政党や、憲法学者たちが提案し、国民的議論を経て現行憲法を修正する必要はあるだろう。私は憲法学者ではなく、一市民の目線で自民改憲草案の意味を読み解いているだけなので、それ以上踏み込むことは差し控える。(続く)
日本国民が享有する基本的人権を保障した11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの(※「が」とした方がいい)できない永久の権利として、現在および将来の国民に与えられる」という条文は、自民改憲草案においても基本的に踏襲されている。
が、次の12条についての自民草案には問題がある。現行憲法はこうだ。
「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって(ここまでは自民草案も基本的に踏襲している)」「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とある。その後段の部分を自民草案はこう改ざんしている。
「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」(※ここまではいい)「常に公益及び公の秩序に反してはならない」
私自身、約8年前からブログを書いているが、ジャーナリストとして書いたことには当然責任と、自分自身の生き方としてブログで主張したことに反する行為をしないという意味での義務を負うべきことは自覚している。
が、「公益」や「公の秩序」など考慮したこともないし、考慮する必要もないと思っている。だいたい、「公益」に反するか否かはだれが決めるのか。政府を批判したり、反政府活動を行うことが「公益に反する」とでも言いたいのか。
さらに「公の秩序」は誰が決めるのか。確かにデモ活動などは交通の妨げになることはあるし、だから「秩序あるデモ」に抑え込むため機動隊が出動して規制している。これからは機動隊による規制だけでなく、デモ活動そのものを「公の秩序に反する」行為とみなし、犯罪者として取り締まろうとでも言いたいのか。
憲法が保障する基本的人権とは、『広辞林』によれば「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。民主国家においては、あらゆる自由が保障されているわけではなく、自由の範囲に対する制約は憲法ではなく法律で定めるのが「立憲主義」の在り方だ。人を殺したり、物を盗んだり、飲酒など危険な状態で自動車を運転したり、といったことは「犯罪行為」として国家権力の一部である警察が取り締まればいいのであって、犯罪を防止する目的で法律を作るために国会という立法府が存在する。憲法によって基本的人権に制限をかけようというのは、独裁国家のやり方だ。
次に問題なのは18条である。現行憲法にはこうある。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も(※「を」のほうがいい)受けない。また犯罪に因(よ)る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
この条文を自民草案はこう改ざんしている。
「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
現行憲法は、「いかなる奴隷的拘束」としているが、自民草案では「社会的又は経済的関係において身体を拘束されない」と、拘束されない条件を付けている。実はこの条文に先立つ14条において自民草案も現行憲法を基本的に踏襲しており、「すべて国民は、法の下に平等であって、…政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としている。が、18条においては身体を拘束されないケースは「社会的又は経済的関係」としており、14条で差別を禁じた「政治的」行為は身体拘束の対象にされている。
草案18条は、先の戦争で「政治的拘束」により反政府的活動を封じ込めてきた「大政翼賛会」をほうふつさせる条文である。自民党はどういう国づくりを考えているのか、党内から「おかしい」という声がなぜ出てこないのか。そこまで安倍総裁の独裁的権力が隅々まで浸透してしまっているのだろうか。
現行憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」となっているが、自民草案は現行憲法の2項を3項に移し、2項として次の条文を挿入している。
「前項の規定に関わらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」
12条草案と同様、ここでも「公益及び公の秩序を害する活動や結社」を排除しようとしている。同じ批判を何度も繰り返したくはないが、政治権力が「公益や公の秩序を害する」と見なせば、権力に対する批判や安保法制に対する反対運動を排除できることになる。自民草案も一応21条の1項は踏襲しているが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由」は、権力の維持を侵さない範囲に抑え込まれてしまう。というより、それが目的の条文としか考えにくい。
現行憲法24条は婚姻についてこう定めている。
「婚姻は、両性の合意によってのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」
この条文に関して自民草案は新たに1項を加え、さらに3項(現行憲法の2項)を書き換えている。まず新設した1項はこういう条文だ。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」
この条文自体は当り前のことを書いているだけのように一見思えるが、実は3項で書き換えられた文章に重ねると、とんでもない意味を持ってくる。現行憲法の2項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族」と記されている個所を自民草案は「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族」と書き変えている。
なぜそう書き換える必要があったのか。24条に続く25条の事実上の改変を正当化することが、実は自民草案の目的なのだ。現行憲法25条は表現などの自由を保障した21条と並び基本的人権を保障した2大要素のもう一つである国民の権利を保障している。現行憲法25条はこう記している。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。
2 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
これは生活困窮者に対する「生活保護制度」の根幹をなす条文である。が、24条2項の書き換えによって「家族」や「扶養(兄弟や子供を意味する)」「後見(親族を意味する)」の義務化を目的にした改変である。で、厚労省のホームページで「生活保護制度」について調べてみた。厚労省のホームページによれば制度の趣旨と受給資格についてこう記している。
「資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する方に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを制度です」
「生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用しうる資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活を維持するために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します」
「預貯金、生活に利用されていない土地・家屋等があれば売却等し生活費に充ててください」
この説明に若干の疑問を持った私は厚労省の生活保護課に電話して聞いた。明確な答えが返ってきた。
「皆さん誤解されているのですが、世帯全員(単身者でも)が居住している土地・家屋を所有していても、それを処分しなければならないということではないんです。ただ、アパートなどの家賃支払いがないので、家賃相当分の支給はありません」
厚労省のホームページの記載を続ける。
「働くことが可能な方は、その能力に応じて働いてください」
この説明についても厚労省の生活保護課に尋ねた。
「まだ働けるでしょうと、どんな仕事でもしてくださいなどとは言っていません。その方のキャリアや能力に適した仕事を探してもらうという意味です」
扶養義務者の扶養について厚労省はこう説明している。
「親族等から援助を受けることができる場合は、援助を受けてください。そのうえで、世帯の収入と厚生労働大臣の定める基準で計算される最低生活費を比較して、収入が最低生活費に満たない場合に、保護が適用されます」
この説明にも私は疑問を持った。「親族等とはどの範囲まで言うのか」と。厚労省生活保護課はこう答えた。
「扶養義務者を意味します。扶養義務者とは世帯全員の両親、子供、兄弟までです。おじとかおばとか兄弟の連れ合いなどは含んでいません」
しばしばテレビの番組で、生活保護費の支給を受けた直後にパチンコ屋に直行する人たちがいることは私も知っている。パチンコに興じる人たちにとって、パチンコで遊ぶことが「健康で文化的な最低限度の生活」を享受する権利の範囲に入るのかどうかには私も疑問をもつ。また、正業に就かない暴力団の人が自分の生活状態を偽って生活保護を受けているケースもある。
そうした状況をどうしたら改善できるのか。
自民改憲草案の12条に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とある。
私は生活保護者のケースについて、生活保護を受ける権利には、責任及び義務が伴うことが必要だと考えている。
生活保護の金銭的援助は、その前提として「働くことが可能な方は、その能力に応じて働く」ことが義務付けられている。が、「能力に応じて働く機会」を厚労省や、生活保護を認定し、保護費を支給する地方自治体の市町村(社会福祉事務所)は用意していない。
「働きたくても働けない」あるいは「働く機会がない」と思っている人が多い。その人たちに「働く機会をつくる」「社会が求める働きの能力を高める」…そういう機会をつくったらどうか。でも市町村単位では無理だ。都道府県単位で、言うならケアハウス(厚生施設)をつくり、そこに生活保護者を集めて共同生活をしてもらう。そしてケアハウスには生活保護者が自分の「働きの能力」を高め、「働く意欲」を生み出す施設を併設する。
刑務所などの更生施設と違って、やりたくない仕事や作業技能を無理やり押し付けてはならない。あくまで本人の、どういう仕事をしたいかを最優先する。そして本人がしたい仕事について社会(企業)が求める能力を身に付けさせることに、社会復帰させるための最大の努力を払う。それが厚労省が生活保護者に対して行う本来の義務ではないだろうか。「健康で文化的な生活を保障する」ための金銭的援助を行うことより、生活困窮者が自助努力によって、その困難な生活状態から抜け出せるような施策を講じるのが「生活保護制度」の本来の目的ではないかと、私は思う。
基本的人権に関する最後の大きな問題は「財産権」についての改ざんである。財産権について現行憲法29条はこう記している。
「財産権はこれを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」
この条文の2項を自民草案は次のように改ざんしている。
「財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」
またしても「公益及び公の秩序に適合」させるという、基本的人権に対する国家権力による縛りができるように現行憲法を改悪している。
先の戦争において日本の国家権力は武器・兵器の製造のために寺院の梵鐘はおろか、国民の財産である金属類を(いちおう「自主的」という形式は取ったが)事実上没収した。戦時中の国家権力が国民の財産権を「天皇や国家のため」という「公益及び公」の要請によって収奪したことを想起させる条文である。
さらに知的財産権については、事実上「言論や報道の自由」に対して縛りがかけられる内容になっている。「言論や報道の自由」は憲法が日本国民に保障した基本的人権のなかでも思想・信条・信教の自由とともに最も尊重されなければならない自由であって、その自由の下に行使する個人または集団の行動が、旧オウム真理教のような他人の生存権をも奪うような犯罪行為を伴わない限り、国家権力が「国民の知的創造力の向上に資するよう配慮」を強要すべきことではない。現に、現行憲法の下でも徐々に「ポルノ解禁」は進められてきた一方、行き過ぎた行為に対しては今でも法律で十分に規制できている。
国は賭博行為を基本的に禁じていながら、パチンコや競馬、競輪、競艇などの賭博行為を許容してきたし、わずか6時間の審議で「カジノ解禁」まで衆院を通過させてしまった。勤労者の所得税や消費税収入の伸び悩み、そのうえ法人税だけは引き下げるといったアベノミクスの失敗を補うための苦肉の策であることは明白だが、観光立国の引き金にしたいというなら観光目的で来日する外国人のみを出入りできるようにすべきだと思う。
いずれにしても公認賭博業界(パチンコ、競馬など)を指導しているのは国家権力の執行者である警察だ。実際、そうした賭博業界の指導・監督を名目とした「公益法人」は警察官僚の天下り天国になっており、業者と公権力の癒着がはなはだしいことは周知の事実である。
憲法は本来国家権力の乱用を防ぐために、国家権力の権能に制限を加えるのが目的のものだ。だから現行憲法は、「国民の権利を保障し、みだりに国家権力による国民の権利の侵害をさせない」ことが目的として作られている。この現行憲法の精神は、「アメリカに押し付けられた」などという口実で絶対に侵してはならないものだ。
確かに現行憲法には、現実とそぐわない問題もあることは私も認める。だから現行憲法の三大原則である「主権在民・基本的人権の順守・平和主義」の精神を現代社会においても侵されないように一部を書き換えたり、あるいは「加憲」したりする必要はあるかもしれない。そういう問題については各政党や、憲法学者たちが提案し、国民的議論を経て現行憲法を修正する必要はあるだろう。私は憲法学者ではなく、一市民の目線で自民改憲草案の意味を読み解いているだけなので、それ以上踏み込むことは差し控える。(続く)
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