山城のご主人の笑顔に送られて山を下り、長井の集落を過ぎて山都の町に入りました。しっとりと古びた通りの山都町に懐かしい思いがよみがえりました。信仰の山飯豊山の登拝の入り口の町です。この町を通って中学生だった息子たちと飯豊山に登拝した昔が昨日の事のように思い浮かびました。
山都町にある昔の磐越西線の鉄橋はとても趣がありましたけど、行ってみてがっかりしました。石積みの高い橋脚は昔のままでしたけど線路にいろんな付属物がついて雑然としていました。写真になりません。やむをえず新宮への峠道を越えて熊野神社に向かいました。
峠道は美しく紅葉していました。

赤や黄色の紅葉が目を楽しませてくれました。

30分ほどの峠道のカーブの連続に疲れながらやっと新宮に着きました。新宮の熊野神社参拝は何年ぶりでしょうか。息子の大学受験の時、息子に話すと怒るので、じじいとばばちゃん二人でこっそりと熊野神社脇のお文殊様にお参りしました。その息子がまもなく定年ですから随分長くお礼参りをしなかったことになります。

大鳥居を過ぎて参道脇の清水で手を清めると、あまり信心の心の薄いじじいでも身のひぃしまる思いがしました。

大銀杏の奥に、熊野神社の拝殿の長床(ながとこ)が見えました。

ギリシャ神殿の大理石の柱を思わせるような大きな柱の列です。
こんな大きな拝殿なんですよ。鎌倉時代初期の中央の様式の吹き抜けの大きな拝殿です。
9間×4間、茅葺きの拝殿です。
直径45.4センチの円柱が44本、5列に並んで、柱の間隔は3.03メートルだそうす。これを当てはめて計算すると長床の大きさは約27メートル×12メートルということになります。
熊野神社の信徒数百人がこの拝殿の長床に会して神事を行うことの出来る規模です。
熊野神社の盛時には300余の末社靈堂に多くの宗徒、百余人の神職をおき、奥州の熊野と称され崇高された(喜多方市教委の案内板)と言われています。
その後打ち続く戦乱による栄枯盛衰を経て今はこの拝殿だけが残されているんですけど、かつて新宮氏最盛期の熊野神社の壮大な規模を思わずにはいられません。


遠い会津の歴史の栄枯盛衰を思いながら、しみじみ長床の前で手を合わせました。
拝殿の長床の境内にある銀杏の巨木です。鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の銀杏に比べても劣らないと思いました。熊野神社の歴史の古さの象徴ですね。

今の熊野神社の本殿です。

そしてお隣のお文殊様のお賽銭箱に千円(ちょっと少ないけどじじも貧しいので)を奉納しお礼のお参りをしました。残念ながらセットを間違えてお社の写真が写っていませんでした。あまりにも遅いお礼参り、そしてわずかの賽銭にお文殊様がお怒りになったのかもしれません。
お文殊様の境内の鐘楼です。


心筋梗塞で息を切らしてお参りしたり、写真を撮ったりしているうちにばばちゃんがいなくなりました。はて?、と思って車の所に行っても見えません。
するとどこかで、「じいちゃん」と言う声がします。ばばちゃんはさっさとお参りを済まして神社前の美多屋さん(食堂と売店)に入っておばさんと談笑していたんです。
みればおばさんが大根やら柿やらなにやら・・いっぱい袋に詰めて持っていらっしゃるんです。ばばちゃんは安いと言うんです。大きな大根が2本で100円だといいます。
じじいは人が一生懸命探しているのに行方不明になってとむっとして返事をしないでいると、おばさんが自分で作ったものだからと、荷物を車のトランクに積んでくれました。
女の人はたくましいと思いました。
でも、昨日で3日目ですけどばばちゃんはドライブはよかったと言ってました。ほんとに何年ぶりかの二人だけのドライブでしたから。
それで昨日は、ばばちゃんと山茶花で、じじいは焼き肉定食(1050円)ばばちゃんはヒレカツ定食(1400えん)を食べてちょっと贅沢しました。

じじいはひそかにばばちゃんのほうが350円高いと思いましたがいつものことですから黙っていました。 ご同情ください。
山都町にある昔の磐越西線の鉄橋はとても趣がありましたけど、行ってみてがっかりしました。石積みの高い橋脚は昔のままでしたけど線路にいろんな付属物がついて雑然としていました。写真になりません。やむをえず新宮への峠道を越えて熊野神社に向かいました。
峠道は美しく紅葉していました。

赤や黄色の紅葉が目を楽しませてくれました。

30分ほどの峠道のカーブの連続に疲れながらやっと新宮に着きました。新宮の熊野神社参拝は何年ぶりでしょうか。息子の大学受験の時、息子に話すと怒るので、じじいとばばちゃん二人でこっそりと熊野神社脇のお文殊様にお参りしました。その息子がまもなく定年ですから随分長くお礼参りをしなかったことになります。

大鳥居を過ぎて参道脇の清水で手を清めると、あまり信心の心の薄いじじいでも身のひぃしまる思いがしました。

大銀杏の奥に、熊野神社の拝殿の長床(ながとこ)が見えました。

ギリシャ神殿の大理石の柱を思わせるような大きな柱の列です。

こんな大きな拝殿なんですよ。鎌倉時代初期の中央の様式の吹き抜けの大きな拝殿です。

9間×4間、茅葺きの拝殿です。
直径45.4センチの円柱が44本、5列に並んで、柱の間隔は3.03メートルだそうす。これを当てはめて計算すると長床の大きさは約27メートル×12メートルということになります。
熊野神社の信徒数百人がこの拝殿の長床に会して神事を行うことの出来る規模です。
熊野神社の盛時には300余の末社靈堂に多くの宗徒、百余人の神職をおき、奥州の熊野と称され崇高された(喜多方市教委の案内板)と言われています。
その後打ち続く戦乱による栄枯盛衰を経て今はこの拝殿だけが残されているんですけど、かつて新宮氏最盛期の熊野神社の壮大な規模を思わずにはいられません。


遠い会津の歴史の栄枯盛衰を思いながら、しみじみ長床の前で手を合わせました。
拝殿の長床の境内にある銀杏の巨木です。鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の銀杏に比べても劣らないと思いました。熊野神社の歴史の古さの象徴ですね。

今の熊野神社の本殿です。

そしてお隣のお文殊様のお賽銭箱に千円(ちょっと少ないけどじじも貧しいので)を奉納しお礼のお参りをしました。残念ながらセットを間違えてお社の写真が写っていませんでした。あまりにも遅いお礼参り、そしてわずかの賽銭にお文殊様がお怒りになったのかもしれません。
お文殊様の境内の鐘楼です。


心筋梗塞で息を切らしてお参りしたり、写真を撮ったりしているうちにばばちゃんがいなくなりました。はて?、と思って車の所に行っても見えません。
するとどこかで、「じいちゃん」と言う声がします。ばばちゃんはさっさとお参りを済まして神社前の美多屋さん(食堂と売店)に入っておばさんと談笑していたんです。
みればおばさんが大根やら柿やらなにやら・・いっぱい袋に詰めて持っていらっしゃるんです。ばばちゃんは安いと言うんです。大きな大根が2本で100円だといいます。
じじいは人が一生懸命探しているのに行方不明になってとむっとして返事をしないでいると、おばさんが自分で作ったものだからと、荷物を車のトランクに積んでくれました。
女の人はたくましいと思いました。
でも、昨日で3日目ですけどばばちゃんはドライブはよかったと言ってました。ほんとに何年ぶりかの二人だけのドライブでしたから。
それで昨日は、ばばちゃんと山茶花で、じじいは焼き肉定食(1050円)ばばちゃんはヒレカツ定食(1400えん)を食べてちょっと贅沢しました。

じじいはひそかにばばちゃんのほうが350円高いと思いましたがいつものことですから黙っていました。 ご同情ください。