さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

 226事件に94歳爺いの思うこと。(2)

2021-06-01 | 日記

昭和の初期は、昭和7年(1932)5月15日海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入して時の内閣総理大臣犬養毅を殺害した515事件や、 昭和7年(1932)の2月から3月にかけて起こった連続テロ事件で前大蔵大臣井上準之助と三井財閥のトップ團琢磨が暗殺された 血盟団事件などの不穏な動きがありました

でも昭和11年(1936)2月26日に起きた226事件はスケールの大きさでも国の政治に与えた影響でもそれらの事件とは大きく違っていました。

陸軍の皇道派に属している青年将校が約1.500名の下士官兵に機関銃.重機関銃.軽機関銃.歩兵銃.ピストルなどの兵器に数万発の弾薬を持たせてクーデター起こし、複数のグループに別れて高橋是清蔵相・斉藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監を暗殺しました。

また、終戦時の首相になる鈴木貫太郎侍従長をピストルで重症を負わせ日本刀でとどめをさそうとしたのを侍従長の奥様の必死の懇願で取りやめ、鈴木貫太郎侍従長は死をまぬがれました。
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首相官邸では秘書の松尾伝蔵大佐が首相と勘違いされて軽機関銃の乱射で即死しました。岡田首相は女中部屋の押し入れに隠れて無事でした。

高橋是清蔵相の場合は寝て居たのをピストルでうたれ死亡したのを日本刀で滅多切りされたと言われています。

陸軍士官学校を出て将校に任官したものうち成績優秀な一部の者は陸軍大学に進み陸軍中枢の幕僚へ進みました。それ以外の者は隊付の将校になり兵卒を指導統率したと言われています。。兵卒と親しく接するようになると兵の出身地の農村が娘を身売りしなければならないような悲惨な状況であるを知るようになりました。一部の隊付将校たちは北一輝の日本改造法案大綱などの影響もうけ、日本がそのような苦しく悲しい状況になっているのは、君側の奸と言われる元老、重臣、軍閥、官僚、政党など人達が悪いからであると思うようになり。これらの奸臣軍賊を滅して昭和維新を行い国民を救わなければならないと考え計画し実行しようと思うようになり、やがてそれが226事件の暴挙になった言われています。

226事件では個人的には何の恨みのない政府要人の惨殺に機関銃の乱射やピストルで撃った上日本刀で切るなど残酷凄惨なものもあだったようです。

襲撃が終わった反乱軍は帝都の中枢を占拠し決起趣意書を時の陸軍大臣に提出し昭和維新の断行を軍が進めるようせまりました。その時の軍の中枢は「断固反乱軍を鎮圧すべし」「反乱軍の行為を諒とする」「無断で兵を動かしたのは許せないがその真意はよしとする」の三つの立場に別れていて反乱軍への軍中枢の対応は混乱していたようです

しかし反乱軍の行動の報告を聞いた昭和天皇は激しく怒りすぐに鎮圧するよう命じました。それでもすぐに鎮圧行動を起こせない軍に天皇は「朕が近衛兵を率いて鎮圧する」と決然と申されたのです。

それにより軍が鎮圧にのりだし「下士官兵に告ぐ、天皇の命令が出た。上官の命令で動いた下士官兵に罪はない。すぐに原隊に帰れ」と飛行機からのビラをまいたりそれをアドバルーンで高くかかげたりしました。

それに応じて下士官兵は櫛の歯を引くように原隊に帰ってしまい残った反乱将校は階級章を剥奪されて逮捕収監され、弁護士なし・非公開・一審だけで上告審なしの軍事裁判で死刑が宣告され、時を置かず銃殺刑に処せられました。

銃殺された将校たちは事件の指導者の磯部淺一1名を除き全員が「天皇陛下万歳」を叫び、処刑されたらすぐに天皇陛下のもとに集まろうと言い合って処刑されたと言われています。

すごくむなしい感じがします。処刑は収容された獄舎のなかに作られた土塁を背に木製の小さな十字架が立てられ腕を広げた姿で縛り付けられて銃殺されました。処刑中はそれを気づかれないように機関銃の空砲を乱射し上空を飛行機が飛んだと言われていました

 

 「天皇陛下はなにを考えて御座られますか。何ぜ側近の悪人輩を御叱り遊ばさぬので御座ります。陛下の側近に対してする全国民の囂々たる声をお聞きください。」

「今の私は怒髪天をつくの怒りに燃えいます。私は今は、陛下を御叱り申しあげるところに迄精神が高まりました。毎日朝から晩まで陛下を御叱り申しております。」磯部淺一の獄中手記の一部です

磯部淺一の刑の執行は他の同志より1年遅れて昭和12年8月9日に執行されました刑の執行場に現れた磯部は怒髪天をつく獄中磯部ではなく穏やかな磯部になっていました。そして刑の執行者に「長い間お世話になりました。ありがとうございました」「これは妻の髪の毛です、刑が執行されて棺にいれていただく時この髪の毛を一緒にいれてください」と言って穏やかな態度で刑の執行を受けたと言われています。

私は226事件のなかで昭和天皇陛下が「軍が反乱軍の鎮圧をためろうなら朕が近衛師団を率いて鎮圧する」とおっしゃったことと

磯部が「妻の髪を自分の死体と一緒棺にいれてください」と言った二つの言葉にすごく感動してしまうんです。

磯部の妻登美子です。

中公文庫の「磯部淺一獄中手記」からお借りしました。

 

妻登美子は磯部の刑の執行から4年後お亡くなりになりました。28歳だったそうです。今はご主人の淺一さんと同じ墓にご一緒されていらっしゃるとのことです。