さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

集落も空も秋が輝いて

2015-08-25 | 日記
 
ようやくの晴れ間が美しい



 酷暑がようやく去ったと思ったら毎日曇り雨の日が続いて鬱々していたんですけど、昨日の午後すっかり晴れ渡って楽しい散歩が出来ました。

 でも、一週間前はエアコンつけて酷暑にあえいでいたのに今朝は寒くってストーブを焚いて食事をしました。異常気象ですね。テレビでは西日本に台風が上陸して最大風速35m/s、瞬間最大風速50m/s,山口で1時間120mmの豪雨、47万個停電と大きな被害が報じられていて心が痛みます。う~むなんか怖い気もします。もう地震や火山の大噴火などして欲しくありませんね。


私の胸にお出で 泣かないで

2015-08-24 | 日記
 

 澄み切った空に観音様がお立ちになていっらしゃいます。
 かつてこの地に痛ましい交通死亡事故があって遺族の方の悲しみを悼み、そして再び悲しく痛ましい交通事故が起こらないことを祈願してここにこの観音さまが建立されました。



 交通安全観音と申しあげ人々は親しみをこめて祈願しお像の前に花の絶えたことはありません。

 観音様の台座には「慈眼視衆生」とお有り難い観音様のお言葉が刻まれております。慈しみの眼で衆生を視お救いくださるということなんでしょうか。



 この観音様は県道から町の緑地公園遊歩道の入口にお立ちになっていらっしゃって公園の散歩をなさる多くの皆さんがこの観音さまにお祈りをなさっています。観音様はいろんな人のいろんな願いを慈愛の眼で優しく聞いていらっしゃるんですよね。

 観音様の右に立っている石の柱には美しい音色の鐘が下げられており、左の石の柱には菩提車と言われれる石の車がついています。人々は鐘を鳴らしてお祈りし菩提車を回して亡き人の冥福をお祈りするのです。

 私は交通事故でご主人を亡くされた方を知っています。私は奥様が花と水をもってこの観音様にお参りなさる姿にお会いすることが度々あります。尊いことだといつも心打たれます。

 この場所は明るくて見晴らしのいい場所なんですよ。ベンチもあって中学生の女の子達などがおしゃべりしているのを見かけることもあります。楽しい待ち合わせの場所にもなっているんですね。観音様が慈愛の眼で見て見ていらっしゃるんですよね。

 青空をバックにお立ちになっているお姿が美しいと思いました。

大きな大きな空の青 秋ですね

2015-08-22 | 日記



広い圃場の稲穂が出揃うて集落の秋が静です



 
今年も豊作らしいです。出揃うた稲穂が豊かです。



 もうすぐ9月秋の祭りが楽しみです。
 祭り囃子の笛太鼓・・「やぁ~っこやれやれ」笑顔で山車引く子らの声・・

 今年も重い一眼デジもって駆けずり廻ることができそうです。神様ありがとうございます。るんるんわくわくしてる私です。元気です。嬉しいです。

母だったかな 祖母だったかな

2015-08-20 | 日記
 
堤の上の桑の木に遠い日の思い甦り



 たぶん私が3歳の頃だったと思います。誰かが鉄の鍋で繭を煮て、座繰りとよばれる木製の歯車のついた素朴な機械を手で回しながら絹糸を繭からとっていました。かすかな蚕のさなぎの匂いがして鉄の鍋の中の繭がくるくる回りながら細い糸が繭から引き出されて木の枠に巻き取られているのです。母だったかな 祖母だったかな、糸をとっているその様子がほんとにかすかなんですけど懐かしく思い出されたのです。

 私が4歳の頃でしょうか、集落のはずれの流れの急な所に大きな水車のついた繭から絹糸をとる小さな製糸工場が出来て母達や集落の娘達が一緒になって繭から絹糸をとっていました。母を訪ねて工場を訪れて見ると繭を煮る湯気の熱気の中で母達は熱心の糸をとっていました。

 女工哀史という言葉がありますね。貧しい農家の娘達が大きな製糸工場に金で売られるようにして集められ過酷な労働をさせられた悲しい物語りを言うんでしょうね。娘達は厳しい監視のなかで寄宿舎に入れられ外出もままならず「出るに出られぬ籠の鳥」などと歌われていました。厳しい環境のなかでの厳しい労働で結核などにかかり村に返された者も少なくなかったと聞いています。当時結核は労咳などと言われる不治の病いでした。

 でも、集落の製糸工場で働いていた母達や娘達の姿は真剣でしたけどみんな一緒に糸をとる喜びで生き生きしていたように思います。女工哀史とは趣きが違う工場(こうば)のようでした。

 5歳の頃私の家は父の仕事で集落を離れサラリーマンの生活をするようになり養蚕や製糸の仕事から離れ私の記憶から消えました。

 そして私が13歳の頃父は再び集落に帰り農業をやるようになりました。当時の農村はいま考えると本当に貧しい生活でした。食事と言えば主食のご飯は「かてめし」といって大根の葉を乾燥したものを細かく刻んで一緒に炊いたもの、米より大根の葉のほうが多いくらいのまずい主食で、たんぱく質は子どもが川で穫ってきたカジカやウグイなど川魚、それにはらわたがやわらかくなって匂いのするような塩鰯を「しょいっこあきんど」などと呼ばれる行商人がらたまに買うのが大きなご馳走だったのです。

 子どもの履き物と言えば「あしなか」と呼ばれる足裏の半分ほどの藁草履を履いて遊んでいました。学校に行く時はゴム製の短靴を履きましたけど足の裏の皮が厚くなっていて裸足で砂利道をあるっても平気でした。

 居間は囲炉裏を囲んで藁を編んで作った筵の上で生活しておりました。でも正月とかお盆とか祭りには畳が敷かれそれはそれはリッチな気分になるのでした。

 家の居間には10燭光と呼ばれる電灯(10Wくらい)がひとつ、それに真空管ラジオ1つ。煮炊きや冬にの暖房は囲炉裏で焚く薪の火で、炬燵には囲炉裏で出来た「おき」(燃えた残りの赤い炭火)を入れていました。

 当時は農家の大きな現金収入としてどの家でも養蚕(蚕を飼って繭をとる)をやっていて、畑や緩やかな山の斜面などにはは蚕のための桑が植えられていました。

 桑の葉が大きくなる頃種紙と言われる厚い紙に蚕の卵が産みつけられてるものを購入して蚕を飼い始めるのです。どういう分けでしょうか私の家では母が中心になって養蚕の指揮をとりみんなが忙しく働きました。

 蚕が大きくなるにしたがって家の中は座敷と寝間と居間をのぞいて蚕を育てる棚でいっぱいになります。蚕の食べる桑の量も多くなります。桑畑から家族全員が桑の葉を取って籠に入れ運びました、蚕の出す桑の食べかすや糞も絶えず取り替えて清潔にしなければなりません。蚕はは昆虫ですから殺虫剤は使えません。蚕のいる間は蠅は家の中いっぱいになります。蚕が繭を作るまで養蚕は戦争のように忙しいのです。

 収穫した輝くように美しい純白の繭、それを見る母の姿は喜びに輝いていました。その繭を大きな袋にいれて「かんけんじょ」(どんな漢字でかくのか分かりません)に持って行き等級を決め重さを計って記録してもらうのです。

 私が21歳の頃、村に養蚕を指導する若い方がお出でになって巡回指導されるようになりました。24~25歳の方でした。私の家にやって来ると蚕の様子を見て母にそれなりの助言をすると、囲炉裏端の筵をしいたむさ苦しい場所で私にいろんなことを教えてくれるのです。小説のこと映画のこと新しい時代の考え方のこと、そして巡回して得た村々のいろんなニュースなど、私はわくわくしながら話を聞き会話するのです。ちょっと酸っぱくなりかけたくあんなどかじりながら安い茶などを飲みながら話し合うひとときはわたしにとってはすばらしい楽しいひとときでした。

 そんな私の貧しい生活でしたけど、でもそれが私の青春でした。もんぺをはいて日焼けした顔の娘達は美しくまぶしかったし、養蚕の指導員の方とお茶を飲みながらのひとときも楽しかったし、もちろん苦しいこと、惑い悩み時には絶望するようなこともありましたけど、やっぱり青春は輝いていたなといまは思うのです。

 桑の木から思い出が甦り思わず駄文を書いてしまいました。もしここまで駄文を読んでくださった方がいっらしゃったら深くお礼を申しあげ、そして駄文を書いて投稿したことをお詫びいたします。有り難うございました。そしてごめんなさい。

野の道を楽しく歩くのが好き 心重くても

2015-08-16 | 日記


 生きていくって楽しいことばかりじゃあありませんようね。突然に思いも掛けない苦境に襲われて必死に耐えて生きていかなくちゃあならない時もありますよね。

 「苦しくたって心楽しく生きましょう」
 私は宇野千代さんの「生きて行く私」から教えて頂いた言葉で心を励ましてようやく苦境を乗り切った10日間でした。

 今は本当に心が明るくなりました。そして老いの命ですけど新しい心で生きる道を見つけることも出来ました。必死にがんばった甲斐がありました。

 でも本当に疲れました。山は疲れた心を癒やし、汚れた心を洗ってくれます。しばらくぶりの尾根道です。



 山の道っていいですよね、自然のエアコンっていいですよね、さわやかな風が心地いいんです。鮮やかな緑が大気中の二酸化炭素を吸って新鮮な酸素を出して尾根道いっぱいに満たしてくれます。一歩一歩登る山の道は楽しいです。
 
ああもう栗のいががこんなに大きくなって秋が近いことを教えてくれています



 
大きな葛の葉の陰にこんなきれいな花が咲いていました


 葛って言うと今は野にも山にも里の土手や空き地にもはびこって嫌われています。
 でも私の幼かった頃の古里ではとっても大事な植物でした。葛は豆科の植物で葉にも茎にも栄養がたっぷりとあって馬や牛などの大事な家畜の冬の飼い葉としてとても大事な植物でした。だから山に茂る葛は無断で刈り取ることは禁じられていました。

 葛を刈り取る日を決めて集落の人が一斉に刈りとるのです。「鎌揃え」と言ってきめられた時刻決められた場所に集落の人が鎌を持って集まり一斉に山に入って葛を刈り取るのです。
 
 刈り取った葛は乾燥させて曲がり屋の馬小屋の二階に保存し細かく刻んで飼い葉に混ぜて馬や牛に食べさせたのです。

 また特殊な技能をお持ちの家では葛に根を掘り取りでんぶんを取りました。葛粉といって上品な和菓子の材料になりました。少し黒っぽいデンプンなんですけど私など風をひいた時などは葛湯を作ってもらって飲みました。美味しくて元気が出るんですね。
 葛根湯(かっこんとう)は古くから伝わる大事な風邪薬でした。いまでも葛根湯は薬局で売っていますね。風邪を引くと私も家内も必ず飲みます。これがよく効くんで重宝しているんですよ。

 
このトンボなんて言うんでしょうかね。シオカラトンボの雌なんでしょうか?


 でもとてもちいさくて人なつこいんです。峠入り口の小さな堀の枯れ草に止まっているんです。カメラのレンズを向けるとさっと逃げるんですけど近くをひとまわりしてまたすぐ近くの草に止まるんです。しまいにレンズを近づけも逃げなくなりました。
 この写真は10cmくらいカメラを近づけて撮りました。今のコンデジっていいんですねマクロ撮影にセットしなくても10cmくらいの接写をこんなにきれいに撮ってくれますから便利です。

 
旧スキー場の下り道キキョウがいっぱい咲いていました



  7月下旬にもいっぱい咲いていましたけど3週間ほど過ぎたいまでも咲いていました。花期が長いんですね。今は絶滅危惧種に指定されているところもあるそうなんですけどもこの場所に野生のキキョウがいっぱい咲いていることはとても嬉しいです。

 2時間ほどの山の尾根道の散策でしたけど心地よい疲れに心が晴々しました。杉林の中をゆっくりと登る山の道の私です。「分けいっても分け言っても青い山」「うしろ姿の時雨れて行くか・・」時雨れてもいないのに山頭火さんの有名な句を気取っているからアホな私が楽しいです。えへへへ・・・