今週はお盆休みで、お墓参りする人も多いと思います。私が住む岡崎市は山あいの丘陵地にあり、公園、病院、寺社、火葬場、墓園があり、年齢を重ねると伴に必要となる施設には事欠きません。ところが、核 家族が定着し、日常生活で「老い」や「死をみとる」ことが少なくなって、死が身近なものでなくなったと思います。
仏教では、「死を見据えながら人生を生きよ」と教え、愛する人の死に会い、人生の終末について考え 「自らの生きる意味を知り、真の優しさと慈愛に目覚めよ」としています。
亡き人を思い、手を合わせる場所が墓ですが、墓は死者の霊が集うところではないと親鸞は教えたのです。自ら「今生の終わりが来たら、亡骸は、加茂川へ捨て魚に与えよ」とも・・・・・。
それでも、私たちは愛する人の死に出会って、去って逝った人を思い、残された私たちが、己の心に向き合う場所として墓を定め、永代使用料を支払い、墓を安置するのです。振り返ってみれば、自らの心の乱れや、余裕を失ったとき、墓の花は枯れ、雑草がはびこっていることに気がつきます。
墓は自分自身の生きる姿を現すもの、お盆に休みを取って墓参できることは、自らの心に向き合える時間が与えられたと、深く感謝すべきでしょう。