組織の中で自分のことを自分で決めて実行するには、それなりの合理性と強い決断が必要で、人のこと、つまり「人事(じんじ)」と表現するように、自分のことは本人ではなく、他人が決める方が良さそうです。
人のことと言えば、時には「おせっかい役」を引き受けることがあります。他人の中に入り込んで世話をすることから、褒められる場合と、その逆で悪役となる場合もあります。
自民党総裁へ立候補するには20人の議員推薦を確保しなければならず、自ら立候補する強い意思と決意があっても、そう簡単ではなさそうです
では、建前上は派閥がなくなった今、総裁になる合理性はあるのかといえば、当選回数や閣僚経験などの実績かといえば、そうでもなさそうで、まるで「国民 栄誉賞」が決定する様に、本人のパホーマンスがマスコミなどで「どれだけ取り上げられたかの程度」によって決まりそうです。
マスコミの取り上げ方も、「親切」か「おせっかい」か、視聴者は戸惑います。候補者として取り上げられた人は、誰でも多くの人から「いい人」に見てほしいとの思いがあって、全く打算(利害や損得)がないなんて人は少なく、議員でも党員でもない人からすれば「シラー・・・」としか見えません。
総裁 イコール総理大臣という自民党のルートに対抗して、立憲民主党の代表選挙も近いことから、野党も利害関係を意識するものの、考え方は大枠で差がないようです。各論になるとかみ合わず、有識者の「おせっかいの判断」がマスコミをにぎわしそうです。
つまり、国民の声とは、マスコミが取り上げる程度の差(繰り返す回数)なのでしょうか? ・・・余計なお世話なのでは・・・。