吉原遊郭は人の欲望と哀しみの溜まり場、人生の縮図である。家康が江戸に幕府を開くと江戸の都市機能は急速に発展した。特に傾城屋(遊女屋)の乱立が相次ぎ、駿府出身の傾城屋主人・庄司甚右衛門は新しい遊郭の設置を陳情した。それが吉原遊郭である。
場所は現在の日本橋人形町あたり。今でも「大門通り」の名が残っている。この辺りは海岸に近く葦が茂る湿地であるため、「吉原」と呼ばれた。その後も江戸は都市化が進み、全国から人が集まった。当時、江戸の人口の男女比は男性が圧倒的に多く、人口の3分の2が男性であると言われる。
徳川家光の時代、幕府は武断政策で、多くの大名を潰した。全国から浪人が江戸に集まり、治安悪化と都市化が進んだ。慶安4年(1651年)由井正雪の乱(慶安の変)が発生する。
幕府は都市化対策と遊郭の管理強化のため、吉原遊郭の浅草寺裏日本堤(現・東京都台東区千束4丁目付近)へ移転を計画する。明暦3年(1657年)正月に起きた明暦の大火で移転計画は遅れたが、その年6月には移転は終了した。移転後の吉原を「新吉原」、以前の吉原を「元吉原」と言う。
遊女にはそれぞれランクがある。上から「太夫」「格子」「散茶」「埋茶」「局」である。「散茶」とは粉茶のことで「ふらずに出る」、客の指名を断らない遊女を指す。「埋茶」は薄めた茶でランクはさらに下がる。太夫と遊ぶためには、太夫の揚げ代2両、茶屋4両、太夫への贈り物に3両、全部で約10両近くかかる。現在の価値で100万円ほどである。よほど裕福でないと太夫を呼ぶことはできない。
寛文8年(1668年)幕府は江戸の湯屋の遊女(私娼)の取締りを実施、遊女512人が検挙されて、新吉原に移された。この時、移った遊女のランクが「散茶」「埋茶」と呼ばれた遊女である。享保年間には、吉原遊郭で働く人数は8,171人、うち遊女は2,105人、禿は941人を数えた。
幕末の安政地震による火事では、郭内の死者は千人余り、遊女だけでも500人以上が死亡した。この時、600人近くの遊女の死体が浄閑寺に投げ込まれた。そのため、浄閑寺は「投げ込み寺」と呼ばれるようになったという。
遊女は8歳から9歳で奉公に出る。15歳から16歳位まで教育を受け、16歳から26歳頃まで遊女として10年間年季奉公する。年季奉公で支払う一時金額は5両から10両、現在価値で60万から120万円。年季明け解放される者、身請けされる者、引き続き吉原で遊女を勤め、「やり手婆」になる。労働環境は熾烈で、途中で病死する者も多い。
投げ込み寺として有名な浄閑寺の過去帳によれば、遊女死亡の平均年齢は21歳である。また年季明け率は8割という。かなり割合は高いが、実際は病気、体調を崩して商品価値がなくなると、葬儀代、生活費など費用がかかるため、強制的に年季明け処理、解雇されるケースが多い。
「間夫狂い」という言葉がある。相思相愛の相手男性が現れること。浄瑠璃で有名な近松門左衛門「曽根崎心中」がある。曽根崎新地の遊女・お初と商家手代・徳兵衛の心中事件。徳兵衛は主人の姪との縁談を断り、更に主人より預かった金をだまし取られる。徳兵衛は大坂に居られなくなり、お初を連れ出して心中を図る。
「この世の名残り、夜も名残り、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつ消えていく。夢の夢こそあわれなり。あれ数えれば暁の、七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりか草も木も、空も名残りと見あぐれば、雲心なき水の音、北斗は冴えて影映る。星の妹背の天の川、梅田の橋をかささぎの、橋と契りていつまでも、我とそなたは夫婦星、必ず添うとすがり寄り、二人が中に降る涙、川のみかさも増すべし。」涙なしで聞かれない名文句である。
もう一つ哀しい遊女の物語。吉原の三浦屋の遊女・小紫、21歳である。彼女には通い詰める客、元鳥取藩士で平井(白井)権八、25歳、美男子の武士がいた。権八は、父の同僚を殺害して逃亡、江戸に流れついた。
二人は相思相愛、権八は吉原に通う金のため、毎夜、辻斬り強盗を重ねる。被害者数は100人以上、罪の重さに耐えかね、権八は奉行所に自首、鈴ケ森刑場で処刑される。そのことを知った小紫は、知らぬ振りをして遊女を続け、身請けされる。身請けされ、吉原を出た日、小紫は権八の墓の前で、自らの首を突いて自決した。
(参考)「吉原はこうしてつくられた」西まさる著・新葉館出版
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相対死(心中)した二川宿の飯盛女
吉原遊女の哀しい川柳
写真は三ノ輪浄閑寺の遊女の総霊塔。「生まれて苦界、死して浄閑寺」と石板に刻まれている。
下の写真は総霊塔の下に納められた遊女の「骨つぼ」素っ気なく積まれた骨壺がわびしい。
下の写真は吉原・角海老楼の遊女・若紫の墓。
若紫は、5年の年季明けが5日後である。若紫には年季明け後、所帯を持つ男性がいた。その直前、若紫は登楼した客の凶刀に倒れる。客が若紫に一方的に惚れていたのか、トバッチリなのかはわからない。享年25歳。号名は「紫雲清蓮真女」である。
場所は現在の日本橋人形町あたり。今でも「大門通り」の名が残っている。この辺りは海岸に近く葦が茂る湿地であるため、「吉原」と呼ばれた。その後も江戸は都市化が進み、全国から人が集まった。当時、江戸の人口の男女比は男性が圧倒的に多く、人口の3分の2が男性であると言われる。
徳川家光の時代、幕府は武断政策で、多くの大名を潰した。全国から浪人が江戸に集まり、治安悪化と都市化が進んだ。慶安4年(1651年)由井正雪の乱(慶安の変)が発生する。
幕府は都市化対策と遊郭の管理強化のため、吉原遊郭の浅草寺裏日本堤(現・東京都台東区千束4丁目付近)へ移転を計画する。明暦3年(1657年)正月に起きた明暦の大火で移転計画は遅れたが、その年6月には移転は終了した。移転後の吉原を「新吉原」、以前の吉原を「元吉原」と言う。
遊女にはそれぞれランクがある。上から「太夫」「格子」「散茶」「埋茶」「局」である。「散茶」とは粉茶のことで「ふらずに出る」、客の指名を断らない遊女を指す。「埋茶」は薄めた茶でランクはさらに下がる。太夫と遊ぶためには、太夫の揚げ代2両、茶屋4両、太夫への贈り物に3両、全部で約10両近くかかる。現在の価値で100万円ほどである。よほど裕福でないと太夫を呼ぶことはできない。
寛文8年(1668年)幕府は江戸の湯屋の遊女(私娼)の取締りを実施、遊女512人が検挙されて、新吉原に移された。この時、移った遊女のランクが「散茶」「埋茶」と呼ばれた遊女である。享保年間には、吉原遊郭で働く人数は8,171人、うち遊女は2,105人、禿は941人を数えた。
幕末の安政地震による火事では、郭内の死者は千人余り、遊女だけでも500人以上が死亡した。この時、600人近くの遊女の死体が浄閑寺に投げ込まれた。そのため、浄閑寺は「投げ込み寺」と呼ばれるようになったという。
遊女は8歳から9歳で奉公に出る。15歳から16歳位まで教育を受け、16歳から26歳頃まで遊女として10年間年季奉公する。年季奉公で支払う一時金額は5両から10両、現在価値で60万から120万円。年季明け解放される者、身請けされる者、引き続き吉原で遊女を勤め、「やり手婆」になる。労働環境は熾烈で、途中で病死する者も多い。
投げ込み寺として有名な浄閑寺の過去帳によれば、遊女死亡の平均年齢は21歳である。また年季明け率は8割という。かなり割合は高いが、実際は病気、体調を崩して商品価値がなくなると、葬儀代、生活費など費用がかかるため、強制的に年季明け処理、解雇されるケースが多い。
「間夫狂い」という言葉がある。相思相愛の相手男性が現れること。浄瑠璃で有名な近松門左衛門「曽根崎心中」がある。曽根崎新地の遊女・お初と商家手代・徳兵衛の心中事件。徳兵衛は主人の姪との縁談を断り、更に主人より預かった金をだまし取られる。徳兵衛は大坂に居られなくなり、お初を連れ出して心中を図る。
「この世の名残り、夜も名残り、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつ消えていく。夢の夢こそあわれなり。あれ数えれば暁の、七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり。鐘ばかりか草も木も、空も名残りと見あぐれば、雲心なき水の音、北斗は冴えて影映る。星の妹背の天の川、梅田の橋をかささぎの、橋と契りていつまでも、我とそなたは夫婦星、必ず添うとすがり寄り、二人が中に降る涙、川のみかさも増すべし。」涙なしで聞かれない名文句である。
もう一つ哀しい遊女の物語。吉原の三浦屋の遊女・小紫、21歳である。彼女には通い詰める客、元鳥取藩士で平井(白井)権八、25歳、美男子の武士がいた。権八は、父の同僚を殺害して逃亡、江戸に流れついた。
二人は相思相愛、権八は吉原に通う金のため、毎夜、辻斬り強盗を重ねる。被害者数は100人以上、罪の重さに耐えかね、権八は奉行所に自首、鈴ケ森刑場で処刑される。そのことを知った小紫は、知らぬ振りをして遊女を続け、身請けされる。身請けされ、吉原を出た日、小紫は権八の墓の前で、自らの首を突いて自決した。
(参考)「吉原はこうしてつくられた」西まさる著・新葉館出版
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吉原遊女の哀しい川柳
写真は三ノ輪浄閑寺の遊女の総霊塔。「生まれて苦界、死して浄閑寺」と石板に刻まれている。
下の写真は総霊塔の下に納められた遊女の「骨つぼ」素っ気なく積まれた骨壺がわびしい。
下の写真は吉原・角海老楼の遊女・若紫の墓。
若紫は、5年の年季明けが5日後である。若紫には年季明け後、所帯を持つ男性がいた。その直前、若紫は登楼した客の凶刀に倒れる。客が若紫に一方的に惚れていたのか、トバッチリなのかはわからない。享年25歳。号名は「紫雲清蓮真女」である。
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