甲州は昔から博徒が多い地域である。その理由の一つは養蚕が盛んで経済的に豊かであること、二つに富士川の物流拠点で人の出入りが多いこと、三つ目は周囲山に囲まれ逃亡に適していることによる。幕末、甲州博徒で、黒駒勝蔵と壮烈な抗争をし、その後、清河八郎が江戸で募集した浪士組に参加した博徒・祐天仙之助(山本仙之助)がいる。
この浪士組に参加した草莽の志士には後に新選組となった近藤勇、土方歳三もいた。京都到着後すぐに分裂して、多くの浪士は江戸に帰還、結成されたのが新徴組である。新徴組は江戸で、荘内藩の支配下に置かれ、江戸城下取締の任務に就いた。その後、薩長軍と東北戊辰戦争で激しい戦いをした部隊である。歴史的には新選組が有名であるが、本来は新選組が反主流、少数派の分家に対し、新徴組は主流派、多数派の本家、本元である。ではその甲州博徒・祐天仙之助とはどういう人物だろうか?
(博徒名) 祐天 仙之助 (別名) 山本 仙之助
(本 名) 吉松
(生没年) 文政元年(1818年)頃 ~ 文久3年(1863年)11月25日
桑原来助の子である大村龍男(達男)に父の仇として殺害される。享年45歳
祐天仙之助の生まれは甲斐生まれと言われるが、詳細はわからない。親族は修験者と言われ、法印の号「祐天」を名乗ったが、修験者修行は一切行っていない。若い頃から「三人力」の暴れん坊で、剣術を好み、ケンカで負けたことはないと言う。また自ら山本勘助の末裔と豪語し、山本仙之助とも名乗った。祐天仙之助は甲府山田町の二足草鞋の博徒・三井卯吉(別名・猿屋勘助)の子分となり、勝沼(甲州市勝沼)を本拠に勢力を強めた。
当時、甲府では三井卯吉と国分三蔵・祐天仙之助を中心とするグループは、竹居村の中村甚兵衛・竹居安五郎兄弟や安五郎の弟分である上黒駒村の黒駒勝蔵の勢力と対立していた。更に市川大門(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に拠点を持つ鬼神喜之助・小天狗亀吉勢力とも長年敵対していた。祐天は清水次郎長の妻・おちょう(初代)の実兄江尻大熊の子分を殺害している。そのため次郎長の盟友津向文吉、更には次郎長一家、大熊一家とも敵対関係にあった。
弘化3年(1846年)、祐天仙之助が竹居安五郎の用心棒と言われる桑原来助を殺害する事件が起きた。但し、桑原来助の息子・大村龍男(達男)の後日の供述では、桑原来助は竹居安五郎の用心棒ではなく、剣術修行のため鰍沢(現・富士川町)を通った時に祐天の非道を諭したところ襲撃殺害されたとされる。
嘉永2年(1849年)に津向文吉が捕縛され八丈島に遠島、嘉永4年(1851年)竹居安五郎は捕縛、伊豆新島に遠島となった。これにより甲斐では三井卯吉と国分三蔵・祐天仙之助に敵対する勢力が居なくなり、抗争の空白期が生まれた。しかし嘉永6年(1853年)竹居安五郎が新島を脱出して甲斐に戻ったことにより安五郎・黒駒勝蔵の勢力と三井卯吉・国分三蔵・祐天仙之助との抗争が再開された。
安政4年(1857年)正月1月4日、三井卯吉が甲府山田町の妾宅に居るところを、敵対する市川大門の無宿・小天狗亀吉に率いられた甲斐・駿河博徒の連合部隊11名に襲撃され、殺害される事件が発生した。卯吉殺害の背景には、祐天仙之助と江尻大熊との抗争があった。この抗争に清水次郎長も参加、これが原因で尾張逃亡を余儀なくされ、旅の途中、初代お蝶が死亡した。
この時、亀吉は卯吉をバラバラに切断し、卯吉の体を門松に隠し、首を持ち帰ったと言う。卯吉の横死後、祐天は独力で仇を探し出し、その殺害に成功した。この功により卯吉の有する勢力を引き継ぎ、親分の卯吉の目明し業も引き継いだ。
文久元年(1861年)祐天仙之助・国分三蔵・犬上郡次郎の奸計により、敵対する竹居安五郎が捕縛され、安五郎は牢死した。安五郎の弟分の黒駒勝蔵は安五郎の仇を討つため、国分三蔵・祐天仙之助を必死で追い、両者間の抗争が更に激化した。この状況下、文久元年6月に祐天仙之助は甲斐から逃亡する。祐天は甲斐を逃亡の際、関所にあたる上小田原村(現・甲州市塩山上小田原)の柳屋に押し入り、金品強奪し、逃亡している。
一方、国分三蔵は、二足草鞋の博徒・武州高萩万次郎と同一人物という説がある。二人とも二足草鞋の博徒で関東取締出役と結びつきがあり、竹居安五郎捕縛に際して、関東取締出役との協力関係があったことから出た説である。また国分三蔵の配下に清水次郎長の舎弟分である御殿場村無宿・御殿伝蔵がいたこと、次郎長と友好関係にあったことなどがその理由とされている。
しかし国分伝蔵は生涯、甲斐国分村を中心に勢力を張っており、明治維新まで生存していたことが最近の研究で判明した。その後の詳細は不明であるが、高萩万次郎とは別人と考えた方が良いだろう。当時、国分三蔵の子分は300人、竹居安五郎の子分は1,000人、黒駒勝蔵の子分は500人と言われている。
文久3年(1863年)正月、江戸で尊王攘夷派浪士・清河八郎献策による浪士組募集が行われた。祐天仙之助は子分の内田(菱山)佐太郎、若林宗兵衛、石原新作、千野栄太郎、大森濱治ら20名の子分を引き連れ、入隊し、5番隊小頭に任命される。名前を山本仙之助と名乗った。この時、同じ浪士組に桑原来助の息子大村龍男(達男)が6番隊に所属していた。
浪士組は同年2月23日京都に到着するも、清河は浪士組の目的は尊王攘夷の実行であると演説し、江戸帰還を主張した。近藤勇、芹沢鴨らは京都残留を主張し、祐天らは清河に従い江戸に帰還した。清河八郎は攘夷実行のため、浪士組を利用して外国人殺害を計画する。計画阻止のため、幕府浪士取締役の佐々木只三郎らによって清河八郎は暗殺される。
指導者を失った浪士組はあらたに新徴組として発足し、庄内藩の支配下で江戸市内取締の任務に就いた。一方、大村龍男も新徴組に所属して、新徴組仲間うちの情報で祐天(山本)仙之助が父・桑原来助の仇であることが発覚した。
文久3年10月15日夜、祐天は北千住の遊郭・広瀬屋から出てきたところを、大村龍男とその友人の新徴組隊士・藤林鬼一郎によって斬殺された。当時、大村龍男は19歳、同行した藤林鬼一郎は23歳だった。山本仙之助は45歳。二人は役人に捕縛された。その時の記録には「右の者、元甲州にて法印の由、祐天と相唱へ、其実奸民無頼の醜面に候」と記してある。
維新後、二人は放免されたとの噂も、祐天の子分で新徴組隊士・菱山(内山)佐太郎が現れて「本当の仇は祐天でなく俺である。」と言い、決闘後、大村龍男が反対に返り討ちにあったとの噂もある。詳細は明らかではない。
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写真は祐天仙之助の墓。墓の正面には、上半分だけの菊の紋が彫ってある。その下に戒名「本哲院宗勇智山居士」とある。向かって左側面には「甲斐国古府中、山本仙之助藤原清儀」とある。右側面には「文久三癸亥年十月十五日」とあり、その左に「祠堂金三両納」と刻んである。
墓は東京都墨田区大平 法恩寺塔頭 日蓮宗陽運院の境内にある。
この浪士組に参加した草莽の志士には後に新選組となった近藤勇、土方歳三もいた。京都到着後すぐに分裂して、多くの浪士は江戸に帰還、結成されたのが新徴組である。新徴組は江戸で、荘内藩の支配下に置かれ、江戸城下取締の任務に就いた。その後、薩長軍と東北戊辰戦争で激しい戦いをした部隊である。歴史的には新選組が有名であるが、本来は新選組が反主流、少数派の分家に対し、新徴組は主流派、多数派の本家、本元である。ではその甲州博徒・祐天仙之助とはどういう人物だろうか?
(博徒名) 祐天 仙之助 (別名) 山本 仙之助
(本 名) 吉松
(生没年) 文政元年(1818年)頃 ~ 文久3年(1863年)11月25日
桑原来助の子である大村龍男(達男)に父の仇として殺害される。享年45歳
祐天仙之助の生まれは甲斐生まれと言われるが、詳細はわからない。親族は修験者と言われ、法印の号「祐天」を名乗ったが、修験者修行は一切行っていない。若い頃から「三人力」の暴れん坊で、剣術を好み、ケンカで負けたことはないと言う。また自ら山本勘助の末裔と豪語し、山本仙之助とも名乗った。祐天仙之助は甲府山田町の二足草鞋の博徒・三井卯吉(別名・猿屋勘助)の子分となり、勝沼(甲州市勝沼)を本拠に勢力を強めた。
当時、甲府では三井卯吉と国分三蔵・祐天仙之助を中心とするグループは、竹居村の中村甚兵衛・竹居安五郎兄弟や安五郎の弟分である上黒駒村の黒駒勝蔵の勢力と対立していた。更に市川大門(現・山梨県西八代郡市川三郷町)に拠点を持つ鬼神喜之助・小天狗亀吉勢力とも長年敵対していた。祐天は清水次郎長の妻・おちょう(初代)の実兄江尻大熊の子分を殺害している。そのため次郎長の盟友津向文吉、更には次郎長一家、大熊一家とも敵対関係にあった。
弘化3年(1846年)、祐天仙之助が竹居安五郎の用心棒と言われる桑原来助を殺害する事件が起きた。但し、桑原来助の息子・大村龍男(達男)の後日の供述では、桑原来助は竹居安五郎の用心棒ではなく、剣術修行のため鰍沢(現・富士川町)を通った時に祐天の非道を諭したところ襲撃殺害されたとされる。
嘉永2年(1849年)に津向文吉が捕縛され八丈島に遠島、嘉永4年(1851年)竹居安五郎は捕縛、伊豆新島に遠島となった。これにより甲斐では三井卯吉と国分三蔵・祐天仙之助に敵対する勢力が居なくなり、抗争の空白期が生まれた。しかし嘉永6年(1853年)竹居安五郎が新島を脱出して甲斐に戻ったことにより安五郎・黒駒勝蔵の勢力と三井卯吉・国分三蔵・祐天仙之助との抗争が再開された。
安政4年(1857年)正月1月4日、三井卯吉が甲府山田町の妾宅に居るところを、敵対する市川大門の無宿・小天狗亀吉に率いられた甲斐・駿河博徒の連合部隊11名に襲撃され、殺害される事件が発生した。卯吉殺害の背景には、祐天仙之助と江尻大熊との抗争があった。この抗争に清水次郎長も参加、これが原因で尾張逃亡を余儀なくされ、旅の途中、初代お蝶が死亡した。
この時、亀吉は卯吉をバラバラに切断し、卯吉の体を門松に隠し、首を持ち帰ったと言う。卯吉の横死後、祐天は独力で仇を探し出し、その殺害に成功した。この功により卯吉の有する勢力を引き継ぎ、親分の卯吉の目明し業も引き継いだ。
文久元年(1861年)祐天仙之助・国分三蔵・犬上郡次郎の奸計により、敵対する竹居安五郎が捕縛され、安五郎は牢死した。安五郎の弟分の黒駒勝蔵は安五郎の仇を討つため、国分三蔵・祐天仙之助を必死で追い、両者間の抗争が更に激化した。この状況下、文久元年6月に祐天仙之助は甲斐から逃亡する。祐天は甲斐を逃亡の際、関所にあたる上小田原村(現・甲州市塩山上小田原)の柳屋に押し入り、金品強奪し、逃亡している。
一方、国分三蔵は、二足草鞋の博徒・武州高萩万次郎と同一人物という説がある。二人とも二足草鞋の博徒で関東取締出役と結びつきがあり、竹居安五郎捕縛に際して、関東取締出役との協力関係があったことから出た説である。また国分三蔵の配下に清水次郎長の舎弟分である御殿場村無宿・御殿伝蔵がいたこと、次郎長と友好関係にあったことなどがその理由とされている。
しかし国分伝蔵は生涯、甲斐国分村を中心に勢力を張っており、明治維新まで生存していたことが最近の研究で判明した。その後の詳細は不明であるが、高萩万次郎とは別人と考えた方が良いだろう。当時、国分三蔵の子分は300人、竹居安五郎の子分は1,000人、黒駒勝蔵の子分は500人と言われている。
文久3年(1863年)正月、江戸で尊王攘夷派浪士・清河八郎献策による浪士組募集が行われた。祐天仙之助は子分の内田(菱山)佐太郎、若林宗兵衛、石原新作、千野栄太郎、大森濱治ら20名の子分を引き連れ、入隊し、5番隊小頭に任命される。名前を山本仙之助と名乗った。この時、同じ浪士組に桑原来助の息子大村龍男(達男)が6番隊に所属していた。
浪士組は同年2月23日京都に到着するも、清河は浪士組の目的は尊王攘夷の実行であると演説し、江戸帰還を主張した。近藤勇、芹沢鴨らは京都残留を主張し、祐天らは清河に従い江戸に帰還した。清河八郎は攘夷実行のため、浪士組を利用して外国人殺害を計画する。計画阻止のため、幕府浪士取締役の佐々木只三郎らによって清河八郎は暗殺される。
指導者を失った浪士組はあらたに新徴組として発足し、庄内藩の支配下で江戸市内取締の任務に就いた。一方、大村龍男も新徴組に所属して、新徴組仲間うちの情報で祐天(山本)仙之助が父・桑原来助の仇であることが発覚した。
文久3年10月15日夜、祐天は北千住の遊郭・広瀬屋から出てきたところを、大村龍男とその友人の新徴組隊士・藤林鬼一郎によって斬殺された。当時、大村龍男は19歳、同行した藤林鬼一郎は23歳だった。山本仙之助は45歳。二人は役人に捕縛された。その時の記録には「右の者、元甲州にて法印の由、祐天と相唱へ、其実奸民無頼の醜面に候」と記してある。
維新後、二人は放免されたとの噂も、祐天の子分で新徴組隊士・菱山(内山)佐太郎が現れて「本当の仇は祐天でなく俺である。」と言い、決闘後、大村龍男が反対に返り討ちにあったとの噂もある。詳細は明らかではない。
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写真は祐天仙之助の墓。墓の正面には、上半分だけの菊の紋が彫ってある。その下に戒名「本哲院宗勇智山居士」とある。向かって左側面には「甲斐国古府中、山本仙之助藤原清儀」とある。右側面には「文久三癸亥年十月十五日」とあり、その左に「祠堂金三両納」と刻んである。
墓は東京都墨田区大平 法恩寺塔頭 日蓮宗陽運院の境内にある。
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