竹居の吃安の子分には、四天王と十人衆と呼ばれる子分がいた。四天王とは、大場の久八、土井出の熊五郎、沢登の伴兵衛、一つ谷の浅五郎の四人を言う。四天王のうち、大場の久八は、伊豆函南村間宮の生まれ、お台場の砲台作りを手伝った博徒して有名である。他の三人は詳細不明である。
十人衆は、黒駒の勝蔵、八代の綱五郎、塩田の玉五郎、二階の弥五郎、鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎、岡の孫右衛門、八代の伊之吉、八代の大亀、女無宿・おりは、この10人を言う。十人衆で出身がはっきりしているのは、黒駒の勝蔵だけである。この中で、ひとり女無宿・おりはだけが、女性の博徒である。
おりはは、伊勢の出身とも、尾張の出身とも言われ、大柄な美人であったという。甲州に流れ着いたのは、安政3年(1856年)頃で、病身の亭主をかかえていた。亭主は浪人者で、博徒の用心棒をして渡り歩いている間に、おりはと夫婦となった。間もなく、亭主は病死して、おりはは、各地の親分衆の間を転々として、博奕を打って回った。
女ながら度胸が良く、負けても顔色一つ変えたことがなかった。吃安の子分となってからは、素人の旦那博奕打ちを集めて回る、客集めのような役柄だった。年は30歳、美人で人当りも良いので人気もあった。おりはが客を集めた賭場は一晩で百両、二百両の大金が動いたという。テラ銭のあがりも多額で、吃安十人衆の子分の中でも、おりはだけは別格な扱いだった。
おりはは、男以上に気っ風が良く、近くに吃安の目が光っているため、おりはに一目ぼれする旦那衆も多かったが、手を出せなかった。おりはという名前は本名ではない。博徒の符牒で「おりは」とは、折端、折葉の字を当て、下っ端の意味である。おりはは、自ら卑下して、女の名前にもじって、「おりは」と称した。
おりはの前身は一切不明である。身の上話一つせず、口も堅かった。吃安が捕まると、その直後から甲州から姿を消した。甲州での博徒の生活は4年足らずの短い期間だった。
「日本侠客100選」今川徳三著
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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎
品川台場建設に貢献した博徒・大場久八
竹居の吃安こと安五郎の墓。笛吹市石和町の常在寺にある。戒名は「心誠院諦吾日道信士」と刻まれている。
笛吹市八代町竹居の浄源寺にあるもう一つの吃安の墓である。戒名は「鐘嶽玄微居士」と刻まれ、側面には父親である「中村甚兵衛建立」とある。
十人衆は、黒駒の勝蔵、八代の綱五郎、塩田の玉五郎、二階の弥五郎、鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎、岡の孫右衛門、八代の伊之吉、八代の大亀、女無宿・おりは、この10人を言う。十人衆で出身がはっきりしているのは、黒駒の勝蔵だけである。この中で、ひとり女無宿・おりはだけが、女性の博徒である。
おりはは、伊勢の出身とも、尾張の出身とも言われ、大柄な美人であったという。甲州に流れ着いたのは、安政3年(1856年)頃で、病身の亭主をかかえていた。亭主は浪人者で、博徒の用心棒をして渡り歩いている間に、おりはと夫婦となった。間もなく、亭主は病死して、おりはは、各地の親分衆の間を転々として、博奕を打って回った。
女ながら度胸が良く、負けても顔色一つ変えたことがなかった。吃安の子分となってからは、素人の旦那博奕打ちを集めて回る、客集めのような役柄だった。年は30歳、美人で人当りも良いので人気もあった。おりはが客を集めた賭場は一晩で百両、二百両の大金が動いたという。テラ銭のあがりも多額で、吃安十人衆の子分の中でも、おりはだけは別格な扱いだった。
おりはは、男以上に気っ風が良く、近くに吃安の目が光っているため、おりはに一目ぼれする旦那衆も多かったが、手を出せなかった。おりはという名前は本名ではない。博徒の符牒で「おりは」とは、折端、折葉の字を当て、下っ端の意味である。おりはは、自ら卑下して、女の名前にもじって、「おりは」と称した。
おりはの前身は一切不明である。身の上話一つせず、口も堅かった。吃安が捕まると、その直後から甲州から姿を消した。甲州での博徒の生活は4年足らずの短い期間だった。
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笛吹市八代町竹居の浄源寺にあるもう一つの吃安の墓である。戒名は「鐘嶽玄微居士」と刻まれ、側面には父親である「中村甚兵衛建立」とある。
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