清水一家・森の石松をだまし討ちした都田吉兵衛は悪役博徒の代表とされる。吉兵衛の出身の都田村は、浜名湖にそそぐ都田川に沿った村。三方ガ原古戦場にも近い。実父・源八も博徒で「火の玉の源八」と呼ばれた。源八は、寺島(現・浜北市)の女侠客・お民に見込まれて、跡目を継いだ。そのため「源八一家」のことを「寺島一家」と呼んだ。
子供は吉兵衛のほかに常吉、末弟の留吉の男の兄弟がいる。長兄の吉兵衛は人柄が温厚であったので、父・源八も博徒には不向きと考えて浜松の紺屋へ小僧に出した。
吉兵衛は文政11年(1828年)生まれ、12歳のとき、父・源八が博徒の争いで殺された。源八の死亡で、都田一家は散り散りになった。その後、気が短く、乱暴者の弟・常吉が一家の再興を企てた。吉兵衛も紺屋職人から博徒に転じ、末弟の留吉を補佐役に、三兄弟で都田一家を再興した。またたく間に、遠州一帯の縄張りを押さえ、大親分にのし上がった。その貫禄は次郎長を大きく超える親分だったという。
次郎長と対立することとなったのは、森の石松が、都田の縄張りの池新田(現・静岡県御前崎市池新田)で賭場荒らしを行ったのを、吉兵衛一家の代貸・伊賀蔵が石松を袋叩きにし、追い出したのがキッカケである。その後、石松は仲間を連れてきて、伊賀蔵に殴り込みをかけ、逆に叩きのめした。
石松は気が短く、喧嘩早い男。同じような性格の吉兵衛の弟・常吉とは気が合い、仲が良かった。伊賀蔵の騒動を聞いて、常吉は石松ならやりそうなことだと笑い飛ばした。伊賀蔵は、腹の虫が収まらず、都田一家親分・吉兵衛のもとへ行って、石松の悪口をたたきつけた。吉兵衛も自分の縄張りで暴れた石松に良い印象はない。
次郎長も子分が袋叩きにされ、吉兵衛と決着をつけるという。ここで次郎長の義兄・江尻の大熊、安東の文吉が間に入り、和解させた。その後、万延元年4月、次郎長は保下田の久六を斬った刀を讃岐の金毘羅神社に奉納する。その役目を石松が買って出た。帰り道、江州草津御幸山堅太郎から次郎長の妻・お蝶の香典銀25枚を預かった。そのまま帰れば良いもの、石松は都田一家の末弟・留吉の顔を見るため、都田一家に立ち寄った。
その頃、吉兵衛は博徒仲間の駿州大宮の年蔵の賭場に居た。この賭場に手入れがあり、年蔵が捕り方を傷つけた。一緒にいた吉兵衛も身が危ないと草鞋を履こうと、逃亡資金工面のため、都田に戻った。ここでばったり、石松と顔を合わせる。石松が自慢して見せた銀25枚を、少しの間貸してほしいと金をだまし取った。
金員の返金のもつれで、石松が殺されたのは万延元年6月1日。都田一家は、次郎長報復の先手を打って30人近い人数を船に乗せて、清水湊に殴り込みをかけた。その時、次郎長は瘧を患い、実父の美濃輪の家に居て難を逃れた。それを知った次郎長は都田襲撃を計画も、心配した安東の文吉がまた間に入り、金で一時解決させた。
文久元年1月15日、吉兵衛は、年始と次郎長への詫びを兼ねて清水を訪問する。安東の文吉の指導もあって、府中から清水への入口、東海道追分の旅籠茶屋に代貸の伊賀蔵ら三人の少人数で立ち寄った。ここで土地の博徒・沼繁と一緒となり、座敷で酒を飲んだ。
この座敷で沼繁の居候の博徒・馬鹿国といざこざが起きた。頭に来た馬鹿国は次郎長の子分に「吉兵衛が殴り込みに来た」と告げ口をする。子分の知らせを受け、次郎長は喧嘩支度して、7~8人で茶屋に乗り込み、吉兵衛の弁解も聞かず、吉兵衛、伊賀蔵ら3人を斬り殺した。吉兵衛34歳。次郎長は吉兵衛の腕を斬り落とし、遠州小松の石松の墓に供えたという。
翌年の文久2年7月、都田一家の常吉・留吉兄弟は、浜北と天竜市の中間地の本沢合の博徒・為五郎を「次郎長の身替り」として殴り込みをかけた。為五郎を殺して、兄・吉兵衛の恨みを晴らした。ところがこの時に受けた疵がもとで常吉は翌8月21日死亡。末弟の留吉は、翌年の文久3年3月、為五郎の弟・為蔵によって殺された。
博徒の話は一方的に善悪が決められ、相手が悪者にされやすい。講談や映画のストーリーになり易く、庶民の受けも良いからだ。従って、過去の常識も疑う必要がある。歴史は常に勝者、生き残った者にとって都合の良いように作られる。真実も修正主義で作り直される。都田吉兵衛も伝えられるような悪役とは言えず、博徒としてはそれなりの人物と思われる。
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次郎長より有名な博徒・森の石松
次郎長お目付け役博徒・安東の文吉
写真は「都田吉兵衛供養塔」吉兵衛が殺された茶屋跡に建立された。静岡市清水区追分2丁目、旧東海道沿いにある。
供養塔横に立っている説明の案内板。殺された吉兵衛を偲んで地元の人が管理している。
都田吉兵衛住居跡。浜松市浜北区にある。都田一家の本拠地はここから少し離れた横須賀村(現・浜北区横須賀)にあった。
子供は吉兵衛のほかに常吉、末弟の留吉の男の兄弟がいる。長兄の吉兵衛は人柄が温厚であったので、父・源八も博徒には不向きと考えて浜松の紺屋へ小僧に出した。
吉兵衛は文政11年(1828年)生まれ、12歳のとき、父・源八が博徒の争いで殺された。源八の死亡で、都田一家は散り散りになった。その後、気が短く、乱暴者の弟・常吉が一家の再興を企てた。吉兵衛も紺屋職人から博徒に転じ、末弟の留吉を補佐役に、三兄弟で都田一家を再興した。またたく間に、遠州一帯の縄張りを押さえ、大親分にのし上がった。その貫禄は次郎長を大きく超える親分だったという。
次郎長と対立することとなったのは、森の石松が、都田の縄張りの池新田(現・静岡県御前崎市池新田)で賭場荒らしを行ったのを、吉兵衛一家の代貸・伊賀蔵が石松を袋叩きにし、追い出したのがキッカケである。その後、石松は仲間を連れてきて、伊賀蔵に殴り込みをかけ、逆に叩きのめした。
石松は気が短く、喧嘩早い男。同じような性格の吉兵衛の弟・常吉とは気が合い、仲が良かった。伊賀蔵の騒動を聞いて、常吉は石松ならやりそうなことだと笑い飛ばした。伊賀蔵は、腹の虫が収まらず、都田一家親分・吉兵衛のもとへ行って、石松の悪口をたたきつけた。吉兵衛も自分の縄張りで暴れた石松に良い印象はない。
次郎長も子分が袋叩きにされ、吉兵衛と決着をつけるという。ここで次郎長の義兄・江尻の大熊、安東の文吉が間に入り、和解させた。その後、万延元年4月、次郎長は保下田の久六を斬った刀を讃岐の金毘羅神社に奉納する。その役目を石松が買って出た。帰り道、江州草津御幸山堅太郎から次郎長の妻・お蝶の香典銀25枚を預かった。そのまま帰れば良いもの、石松は都田一家の末弟・留吉の顔を見るため、都田一家に立ち寄った。
その頃、吉兵衛は博徒仲間の駿州大宮の年蔵の賭場に居た。この賭場に手入れがあり、年蔵が捕り方を傷つけた。一緒にいた吉兵衛も身が危ないと草鞋を履こうと、逃亡資金工面のため、都田に戻った。ここでばったり、石松と顔を合わせる。石松が自慢して見せた銀25枚を、少しの間貸してほしいと金をだまし取った。
金員の返金のもつれで、石松が殺されたのは万延元年6月1日。都田一家は、次郎長報復の先手を打って30人近い人数を船に乗せて、清水湊に殴り込みをかけた。その時、次郎長は瘧を患い、実父の美濃輪の家に居て難を逃れた。それを知った次郎長は都田襲撃を計画も、心配した安東の文吉がまた間に入り、金で一時解決させた。
文久元年1月15日、吉兵衛は、年始と次郎長への詫びを兼ねて清水を訪問する。安東の文吉の指導もあって、府中から清水への入口、東海道追分の旅籠茶屋に代貸の伊賀蔵ら三人の少人数で立ち寄った。ここで土地の博徒・沼繁と一緒となり、座敷で酒を飲んだ。
この座敷で沼繁の居候の博徒・馬鹿国といざこざが起きた。頭に来た馬鹿国は次郎長の子分に「吉兵衛が殴り込みに来た」と告げ口をする。子分の知らせを受け、次郎長は喧嘩支度して、7~8人で茶屋に乗り込み、吉兵衛の弁解も聞かず、吉兵衛、伊賀蔵ら3人を斬り殺した。吉兵衛34歳。次郎長は吉兵衛の腕を斬り落とし、遠州小松の石松の墓に供えたという。
翌年の文久2年7月、都田一家の常吉・留吉兄弟は、浜北と天竜市の中間地の本沢合の博徒・為五郎を「次郎長の身替り」として殴り込みをかけた。為五郎を殺して、兄・吉兵衛の恨みを晴らした。ところがこの時に受けた疵がもとで常吉は翌8月21日死亡。末弟の留吉は、翌年の文久3年3月、為五郎の弟・為蔵によって殺された。
博徒の話は一方的に善悪が決められ、相手が悪者にされやすい。講談や映画のストーリーになり易く、庶民の受けも良いからだ。従って、過去の常識も疑う必要がある。歴史は常に勝者、生き残った者にとって都合の良いように作られる。真実も修正主義で作り直される。都田吉兵衛も伝えられるような悪役とは言えず、博徒としてはそれなりの人物と思われる。
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次郎長お目付け役博徒・安東の文吉
写真は「都田吉兵衛供養塔」吉兵衛が殺された茶屋跡に建立された。静岡市清水区追分2丁目、旧東海道沿いにある。
供養塔横に立っている説明の案内板。殺された吉兵衛を偲んで地元の人が管理している。
都田吉兵衛住居跡。浜松市浜北区にある。都田一家の本拠地はここから少し離れた横須賀村(現・浜北区横須賀)にあった。