江戸時代、世の中が安定すると庶民も伊勢参りなど旅に出かける機会が増えた。街道の宿場も旅籠が整備された。そこに生まれたのが「飯盛女」である。歌川広重東海道五十三次「御油宿留女」も飯盛女の一形態である。
「飯盛女」の語源は次のように言われる。飯盛女の常食は粥飯、いつも空腹だった。翌朝、一夜泊まり客の夕食の残り飯を食べるのが楽しみだった。そのため客の食べ残しがあるように山盛りに飯を盛ったためという。哀しい身の上を現す話である。
飯盛女を置く旅籠を「飯盛旅籠」という。1616年(元和2年)幕府は人身売買禁止令を出す。子女を勾引して売った者は斬罪となった。抜け道があり、年季奉公は別、最長10年以内の借金の質物としての年季奉公は公認された。質証文には「盗み、駈け落ち仕り候共、急度、尋ね出し返上仕り候」と記載される。
1718年(享保3年)旅籠屋1軒に飯盛女2人まで、新宿内藤、板橋、千住は上限150人、品川は上限500人と定められた。現実はその倍の飯盛女を抱えるのが普通だった。飯盛女が置かれない宿場は箱根、江尻、鞠子、掛川、舞阪、新居。関所などがあって治安が厳しい宿場である。反対に遊里がある宿場は、府中、吉田、岡崎、両者の競争もあって、賑やかである。
「遊女、飯盛女の稼ぎはどれくらいだろうか?」
吉原遊女は太夫、格子、散茶、局のランクがある。太夫となると揚げ代は居留守役、大商人なら10両、旗本、番頭クラスで3両必要と言われる。「散茶」とは袋に入れてないお茶の葉のこと。「振らない」即ち、客を断らない遊女の意味である。
飯盛女の玉代は、上玉700文(10,500円)、普通500文(7,500円)、昼400文、一晩2朱(12,500円)と言われる。1朱は1両の1/16。飯盛女は10両前後の借金の質物として年季奉公する。10両前借で10年年季なら1年1両あたり、単純に約半月間の稼ぎで返済できる。いかに抱え主の利益が大きいかわかる。また途中、病死すれば、全額返済、または代わりの子女を出さなければならない。過酷な契約である。
「飯盛女の出身地はどこか?」
中山道・安中宿飯盛女55人の生国は、越後20人、尾張10人、江戸8人、信濃5人、武蔵4人、美濃4人、上野2人、三河、相模各1人である。地元は知人に会う可能性があるので遠国出身が多い。更に抱え主の資金繰りの都合から他の宿場の旅籠に転売される「住替え」という制度もあった。
曲亭馬琴が著した「羇旅漫録」に「東海道吉田宿の飯盛女は伊勢訛りの者が多い。伊勢出身が多いのだろう」との記述がある。吉田宿と伊勢とは海路一本で昔からつながっている。
「飯盛女の平均寿命はどれくらいか?」
「加賀のなんだい節」にこんな文句がある。「7つの歳に身を売られ、14の春から勤めをすれど、いまだ受け出す人もない。身は高山の石灯篭、今宵はあなたととぼされて、明日の晩はどなたにトコなんだい」・・飯盛女の身の上を歌ったものだ。
彼女らの生活環境は過労と非衛生、過酷な労働条件のため、平均寿命は22~23歳と言われる。ある宿場の統計によれば、21.3歳の数字がある。死亡原因には自殺もあるが、病死がほとんど。死因は梅毒、脚気衝心が多い。脚気衝心とはビタミンB1の欠乏による心不全である。過酷な職業病と食生活がその原因である。
江戸時代、飢饉は21回発生した。大飢饉は享保、天明、天保の3回である。ともに7年ほどの長期に渡った。農村は困窮、宿場助郷負担等、宿場の財政も厳しい。それを救ったのが旅籠の飯盛女一人当たり月200文負担金徴収制である。飯盛女は二重の意味で搾取されていた。
(参考)「飯盛女・宿場の娼婦たち」五十嵐富夫著・新人物往来社昭和56年1月発行。
著者は1916年生まれ、群馬県立高校長経て、群馬女子短大教授、伊勢崎市、太田市史編さん委員歴任する。
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吉原遊郭の遊女
吉原遊女の哀しい川柳
相対死(心中)した二川宿の飯盛女
下の写真は神奈川県藤沢市永勝寺にある飯盛女の墓。藤沢宿旅籠小松屋源蔵お抱えの飯盛女である。
1761年(宝暦11年)~1801年(享和元年)41年間に死亡した飯盛女、下女の墓、39基。うち34基が飯盛女である。
1年で1人弱が死亡した勘定になる。当時、藤沢宿には本陣、脇本陣が各1軒、旅籠は49軒、うち飯盛旅籠が27軒あった。
「安永4年正月28日・釋尼妙教不退位・伊豆国・俗名キヨ」
「宝暦10年11月7日・釋妙喜不退位・豆州・俗名コマツ」
「寛政7年5月14日・釋妙元信女・豆州・俗名ハツ」と刻まれている。出身は伊豆国8人、遠江5人、駿河1人、25基は未記入。
下の写真は小松屋源蔵の墓。飯盛女の墓は源蔵の墓を囲むように建てられている。源蔵の人柄が解かる。
写真は墓の前にある案内板である。
「飯盛女」の語源は次のように言われる。飯盛女の常食は粥飯、いつも空腹だった。翌朝、一夜泊まり客の夕食の残り飯を食べるのが楽しみだった。そのため客の食べ残しがあるように山盛りに飯を盛ったためという。哀しい身の上を現す話である。
飯盛女を置く旅籠を「飯盛旅籠」という。1616年(元和2年)幕府は人身売買禁止令を出す。子女を勾引して売った者は斬罪となった。抜け道があり、年季奉公は別、最長10年以内の借金の質物としての年季奉公は公認された。質証文には「盗み、駈け落ち仕り候共、急度、尋ね出し返上仕り候」と記載される。
1718年(享保3年)旅籠屋1軒に飯盛女2人まで、新宿内藤、板橋、千住は上限150人、品川は上限500人と定められた。現実はその倍の飯盛女を抱えるのが普通だった。飯盛女が置かれない宿場は箱根、江尻、鞠子、掛川、舞阪、新居。関所などがあって治安が厳しい宿場である。反対に遊里がある宿場は、府中、吉田、岡崎、両者の競争もあって、賑やかである。
「遊女、飯盛女の稼ぎはどれくらいだろうか?」
吉原遊女は太夫、格子、散茶、局のランクがある。太夫となると揚げ代は居留守役、大商人なら10両、旗本、番頭クラスで3両必要と言われる。「散茶」とは袋に入れてないお茶の葉のこと。「振らない」即ち、客を断らない遊女の意味である。
飯盛女の玉代は、上玉700文(10,500円)、普通500文(7,500円)、昼400文、一晩2朱(12,500円)と言われる。1朱は1両の1/16。飯盛女は10両前後の借金の質物として年季奉公する。10両前借で10年年季なら1年1両あたり、単純に約半月間の稼ぎで返済できる。いかに抱え主の利益が大きいかわかる。また途中、病死すれば、全額返済、または代わりの子女を出さなければならない。過酷な契約である。
「飯盛女の出身地はどこか?」
中山道・安中宿飯盛女55人の生国は、越後20人、尾張10人、江戸8人、信濃5人、武蔵4人、美濃4人、上野2人、三河、相模各1人である。地元は知人に会う可能性があるので遠国出身が多い。更に抱え主の資金繰りの都合から他の宿場の旅籠に転売される「住替え」という制度もあった。
曲亭馬琴が著した「羇旅漫録」に「東海道吉田宿の飯盛女は伊勢訛りの者が多い。伊勢出身が多いのだろう」との記述がある。吉田宿と伊勢とは海路一本で昔からつながっている。
「飯盛女の平均寿命はどれくらいか?」
「加賀のなんだい節」にこんな文句がある。「7つの歳に身を売られ、14の春から勤めをすれど、いまだ受け出す人もない。身は高山の石灯篭、今宵はあなたととぼされて、明日の晩はどなたにトコなんだい」・・飯盛女の身の上を歌ったものだ。
彼女らの生活環境は過労と非衛生、過酷な労働条件のため、平均寿命は22~23歳と言われる。ある宿場の統計によれば、21.3歳の数字がある。死亡原因には自殺もあるが、病死がほとんど。死因は梅毒、脚気衝心が多い。脚気衝心とはビタミンB1の欠乏による心不全である。過酷な職業病と食生活がその原因である。
江戸時代、飢饉は21回発生した。大飢饉は享保、天明、天保の3回である。ともに7年ほどの長期に渡った。農村は困窮、宿場助郷負担等、宿場の財政も厳しい。それを救ったのが旅籠の飯盛女一人当たり月200文負担金徴収制である。飯盛女は二重の意味で搾取されていた。
(参考)「飯盛女・宿場の娼婦たち」五十嵐富夫著・新人物往来社昭和56年1月発行。
著者は1916年生まれ、群馬県立高校長経て、群馬女子短大教授、伊勢崎市、太田市史編さん委員歴任する。
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吉原遊郭の遊女
吉原遊女の哀しい川柳
相対死(心中)した二川宿の飯盛女
下の写真は神奈川県藤沢市永勝寺にある飯盛女の墓。藤沢宿旅籠小松屋源蔵お抱えの飯盛女である。
1761年(宝暦11年)~1801年(享和元年)41年間に死亡した飯盛女、下女の墓、39基。うち34基が飯盛女である。
1年で1人弱が死亡した勘定になる。当時、藤沢宿には本陣、脇本陣が各1軒、旅籠は49軒、うち飯盛旅籠が27軒あった。
「安永4年正月28日・釋尼妙教不退位・伊豆国・俗名キヨ」
「宝暦10年11月7日・釋妙喜不退位・豆州・俗名コマツ」
「寛政7年5月14日・釋妙元信女・豆州・俗名ハツ」と刻まれている。出身は伊豆国8人、遠江5人、駿河1人、25基は未記入。
下の写真は小松屋源蔵の墓。飯盛女の墓は源蔵の墓を囲むように建てられている。源蔵の人柄が解かる。
写真は墓の前にある案内板である。
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