文鮮明先生 御言葉選集 7 - 4. 終わりの日に残る父の真の息子と娘 (1959年7月26日)
1959年7月26日(日)、旧本部教会
ローマ人への手紙 8:12-27
<祈祷>
お父様、今日この時間、ここに集まった私たちに、多くの御言葉は必要ではありません。そのような中で、骨の髄から静かに湧き上がる慕う心情でお父様が「愛する息子よ、娘よ」と語ってくださる御言葉だけが、私たちの凡ゆる目的のすべてを満たすことができることを知っています。
お父様、私たちが天に向き合うとき、その心情が深く胸に染みわたり、身の置き場を知らない者とならない様にしてください。
崇敬の念が満ち溢れ、あらゆる意識を超越してお父様の胸に抱かれることを望む私たちであることをご存知ですから、この時間、私たちにそのような恩恵をお与えくださいますよう、心から願い求めております。
私たちが御言葉を通じてお父様を知る者ではなく、心情を通じてお父様を知る者となることを切に願い求めます。御言葉によって救いを得ようとする者ではなく、心情を通じてお父様の前で救われ、命の歌を歌える私たちとなれるよう導いてください。
そうして、まずお父様がどれほど苦労され、どれほどの痛みを経験されたのかを、お父様の姿を見つめながら知る私たちとなり、頭を垂れて慰め申し上げられるようにしてください。お父様、切に願い心から求めております。
私たちが何かを持っているとするならば、それが私たち自身のものとなるようにしてください。また、誇れるものがあるとするならば、それが私たちの誇りの条件となることを許してください。
人生の目標があるならば、心情をもってその目標を追求できるようにしてください。生活の内容を整える必要があるならば、ただ一つの心情だけが私たちの生活の内容となるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。
多くの人々がお父様の前に集まりました。この者たちが誰のために留まり、何のために動き、どのような場所を目指して進んでいるのかを自ら見出せるようにしてください。
「お前は私のものだ」と言える主を持たない哀れな者たちです。
「お前は永遠に私の心情と共にいる者だ」と認められる者がいるとするならば、それ以上に幸せな人はいないことを私たちは知っています。
お父様、永遠なる命と永遠なる理念、そして永遠なる愛の心情をもって私たちを探し求めてくださるお父様が、私たちの心の中に共におられることを知っています。
お父様のものが私のものであり、私のものがお父様のものであるように、二つではなく一つの理念を中心として歌い、喜び合える子女の姿をお父様が切に望んでおられることを知りました。
私たちもお父様をお迎えし、お父様の前にあらゆる栄光の要素をお返しし、その後で歓喜しながら全世界に誇ることのできる時が訪れることを心待ちにしております。
お父様はこのすべてをご存じです。どうか心と心をつなぎ合わせ、過去の天上のすべてと地上のすべてを動かし、心情の世界にすべてを調和させてください。
そうして、栄光の感動をもたらす衝撃と喜びの境地の中で、私たちが覚悟し決意できるこのひとときを与えて下さいますよう、心より願い求めます。
今、御言葉を伝えようとしています。ただ御言葉の内容だけを伝えるのではなく、お父様の心情を伝えることができるようにしてください。
お父様の内情を感じ取り、自らを見つめ直すことのできる時間として、御言葉が現れるように導いてください。
伝える者の心と受け取る者の心の間に隔たりを生じさせるのがサタンの働きであることを私たちは知っています。
どうか一つの心に調和し、一つの心情に調和して、お父様をお迎えできるこの時間としてください。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
<御言葉>
本日は皆さんの前で「終わりの日に残るお父様の真の息子娘」という題でお話しいたします。
これまでの人類の中で、どれほど権勢があり、どれほど人格が高潔であり、どれほど栄光に満ちたものを備えた人がいたとしても、自分自身を立てて「私は神の真の息子であり、真の娘だ」と誇りをもって宣言した人は一人もいませんでした。
真の息子娘となるには、真の父母を持ち、真の家族の縁を通じ、真の兄弟と結ばれた何らかの内容を持たなければなりません。それなくしては、息子としての環境、息子としての位置、あるいは娘としての環境、娘としての位置に立つことはできないのです。
神が存在し、人類に対してある摂理を進めておられるとするならば、その神が摂理を進めながら望む最高の目的とは何でしょうか。それは他でもありません。「あなたは私の真の息子であり、真の娘だ」と言える人を探し、立てることです。そして、その真の息子娘と永遠の心情を通じ、存在世界のすべての縁を通じる立場において、「父」と「息子娘」という一言を交わせる日を持つことが、神の最高の目的なのです。
神がそのような日を待ち望んでおられることを、私たちは知らなければなりません。
創造主であり、全宇宙の根本であり、すべての存在世界の主体となる一つの中心があるとするならば、その中心が望む理想世界は、この地上の存在世界ではないでしょう。
神が望まれる世界は、天上にある何かの理念の世界でもなく、外的な世界でもありません。その世界とは、心情の縁を中心に動き出し、静的な流れの中で全体を投じて「息子」「娘」と呼ばれることのできる世界なのです。
そのため、神がいかに素晴らしい方であり、創造主であり、絶対者であったとしても、神ご自身もそのような内容を持った人間を待ち望んでおられることを、私たちは否定することができません。
歴史は「真」を志向しています。真の人間、真の国家、真の世界を目指しています。
私たち自身も、真なる存在になりたいという意識を持ってそれを望んでいます。
では、真の縁の中で基準となる縁とは何でしょうか。それは、神と人間の間に結ばれる親子の縁です。この縁から生まれる心情は、どのような存在の権威によっても屈することのない、永遠で不変で唯一のものです。また、この心情の権威は絶対的なものです。そのため、この権威を持って現れるとき、すべての存在はその存在の前に頭を垂れざるを得ません。この心情の権威をもって動くとき、万物はそれに従って動かざるを得ないのです。これが宇宙の鉄則です。もしそうでなければ、私たちが望む真の目的を成し遂げることはできず、一つの絶対的な縁を結ぶことはできない、という結論に至ります。
そういう理由から、どれほど偉大で崇高な神であったとしても、その神が「私の愛する真の息子よ、娘よ」と呼べる一日を持てなかったことが、神にとって最も大きな悲しみなのです。それ以上に悲しむべきことはありません。また、天の縁を通じて創造された人間であるならば、そのような一人の人間、そのような一人の息子娘を地上から立てられなかったことが、最大の悲しみです。これこそが人類の悲しみの中の悲しみなのです。
もし神が「私の息子、娘」と呼べる真の息子娘がいて、彼らを呼びながら6千年間続けてこられた苦労を忘れ、これまでのすべての紆余曲折を忘れることができる瞬間がこの地上に訪れるならば、その時から天の恨みを晴らす聖業が始まるでしょう。人類はその時に初めて、神による幸福の歌を歌うことができるのです。このような時が訪れることを、私たちは予期しなければなりません。
もし人類と天倫に「終わりの日」があるとするならば、その日とはどのような日であるべきでしょうか。その日は、神が人間に対して「お前は永遠に否定しようとしても否定できない私の真の息子、娘だ。私の息子よ、娘よ、ようやく私の恨みをすべて晴らすことができた。」と言い、心から安心し、心から楽しむことができる日であるべきです。そのような息子娘がこの地上に現れるその日、その時が来て初めて、神の新しい理念の世界が始まるのです。
しかし、今に至るまでそのような息子娘は現れず、真の息子娘との縁を決定づけることのできる一時を迎えることができませんでした。「真の息子」「真の娘」として立てられる存在が現れていないのです。このような存在が現れない限り、神の願いと人類の希望は完結されないということを、私たちは知っておかなければなりません。
今日、私たちは堕落した子孫であることを知っています。どれほど立派な人であっても、どんな伝統を誇り、歴史的な面で自分の貢献を自慢したとしても、それはすべて堕落した子孫としての自慢にすぎません。また、自分が持っている地位や姿が立派で、この世で天を貫くような権威を持っているとしても、それもまた堕落した子孫の権威にすぎないのです。人間がこのような逆境と、天が許すことのできない環境に置かれているため、人間社会は天と相反し、対立する罪悪の世界になっています。罪深い人間、罪深い世界であることは、誰もがよく知っていることです。
神の真の息子娘の姿は「至善至高」(最も善で最も高い)の姿であるのに対し、地上に生きている私たちの姿は極めて悪く、極めて粗末な姿です。この隔たりをどうやって打破するのか?これを打破するための働きが、神の救済の歴史です。神はこの隔たりを埋め、繋げるために、6千年という長い年月を通して苦労を続けてこられました。人間が知ろうと知らずに関わらず、歴史の背後で血の滲むような戦いを続けてこられたのが、神の働きであることを私たちは知るべきです。
このような歴史的な神の苦労に対して、何をもって報いるべきかを考え、天を仰ぎ見て恥じ入る心を持ち、自らを悔いる人がほとんどいません。
今日、「宗教」という名の下に、あるいは宗教的な内容を備えた指導者を立てて、人類に対して告知し、勧告していることは何でしょうか。それは、人生の道程を通して、神が摂理してこられた歴史的な内容を知りつつ、自分の感性を通して天の心情と縁を結びなさい、と私たちに教示しているのです。その役割を果たすのが宗教です。
しかし、多くの宗教人は、心情から伸びてくる縁を軽視したり忘れたりし、今日目の前に現れている事実にのみ執着しがちでした。宗教の重大な使命は、堕落の縁から脱し、心情の世界に立脚して、神がこれまで人類を導いてこられた中で経験された悲しみと苦しみの歴史を共にし、その歴史的な苦難と戦う心情を持つことにありました。ところが、宗教はこれまでそのような立場から人類の歴史を補い、人類の心情を結びつける働きを十分に果たしてきたとは言えません。
それゆえに、神が真の息子娘を探し求める心が切実であればあるほど、時代と世紀を超えて深く染み入る思いを持ちながら、真の息子娘を恋い慕い、人類に対してこれまで労苦を続けてこられたことを、私たちは理解しなければなりません。
天はこの唯一の目的を達成するために、個人を立て、家庭を立て、民族と国家を立て、世界的な主導理念を掲げて摂理を進めてこられました。天はこの一つの目的を成就するために、これほどまでに苦労されてきたのです。しかし、その目的を担い、成し遂げる責任を負うべき天が選んだイスラエル民族は、どこかへ行ってしまいました。宮廷から引き出された60万人のイスラエル民は跡形もなく消え去ってしまいました。また、120年間苦労して築き上げたノアの家庭も同様であり、アベルの祭壇も跡形なく消えてしまったことを、私たちは知っています。
このように歴史を知り、神の摂理的な意図を知れば知るほど、神の悲しみは言葉に尽くせないほど大きいという事実を理解できます。神の理念は、個人から始まり、真の息子娘を中心とする家庭へ、さらに民族、国家、世界、そして宇宙へと進むものでした。それが神の心情に染み入る理念であったにもかかわらず、この地上には「私は永遠の父の心情を通じることができる真の息子です」と言える存在がいませんでした。また、「私は父の心情と共に心を慰め、その苦悩を晴らすことができる永遠の娘です」と言える存在もいませんでした。そのような息子娘を中心に神をお迎えして生きる家庭もなく、そのような民族も国家も、世界もありませんでした。
神が目指す目的とは何でしょうか?それは、真を貫くことのできる子女から始まり、家庭、民族、国家、世界、そして宇宙までを縁で結びつけ、一つにすることです。この使命を果たすことこそが、今日私たちが知っている復帰の使命です。この使命の道を歩むことが救いの歴史であり、摂理の意図であり、天倫の目的であることを、私たちは理解しなければなりません。
私たちはこの時代を「終わりの日」と呼んでいます。では、終わりの日とはどのような時でしょうか?それは、真の息子娘が現れ、全世界を天理に基づいて治めることができる時です。その息子娘が現れて、歴史的な怨恨を清算し、悲しみと苦しみの歴史を終結させ、喜びと幸福を歌うことのできる日。このような運命を分ける時、この分岐点となる日が「終わりの日」なのです。
では、終わりの日に誰が来ると言われていますか?聖書ははっきりと述べています。「主が来られる」と。では、その主とは誰でしょうか?それは再臨のイエスです。再臨のイエスとはどのような方でしょうか?それは、万物の歴史を動員し、神が労苦の末に見いだされる方です。神が「あなたは永遠無窮にわたって私の心の中に、私の存在の中に、私が創造した世界の中に生きることのできる息子だ」と言える存在です。その方こそが、再び来られる主なのです。
イエス様は教えてくださいました。「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」と。それは、息子となるべき主の現れと、娘となるべき花嫁の姿が地上に現れることを意味しています。そして、息子と娘が出会い、探し求めてこられた神とその息子娘が出会うのです。その瞬間、真の息子娘の立場は限定されたものでも、限界のあるものでもありません。その日は、息子娘と結ばれた世界全体が一斉に動員され、天を賛美する縁が結ばれる日となるのです。
神は人類と共に真理を求め、人類と共に悲しみ、人類と共に戦い続けてこられました。その神の前で、人類が頭を垂れて祈るべきことは何でしょうか?「天が立てようとする真の息子が現れるようにしてください」と祈ることです。
では、その真の息子とはどのような方でしょうか?その方は真の息子であると同時に、真の花婿としての資格を持ち、真の花嫁を見いだし、真の人類の親となるべき方です。
そのため、歴史を通じて人間を導き、真の息子娘と結びつけるために摂理を進めてこられるのが、神の救済摂理の歴史なのです。
今日読んだ御言葉の中に、「あなたがたは養子の霊を受けたので、アバ、父よと呼び求める」とあり、「聖霊の初穂を受けた私たちも、養子となることを待ち望んでいる」と書かれています。したがって、この地上に生きている人間がどれほど信仰深いと言われても、誰であれ、天の前では養子に過ぎません。では、天の息子がいるとすれば、その息子はどのような形で現れるのでしょうか?息子ではない者がいて、養子がいて、真の息子がいます。世間でもそうではありませんか?自分の息子でない他人の息子がいて、息子がいない場合に代わりとなる養子がいて、真の息子がいます。天地の道理も同じです。
今日、この地上は善悪が交差し、衝突する混乱の中で、真理が真理ではないように見え、偽りが真理のように見える状況が入り乱れています。これが現実です。天は真の息子を探し、真の娘を探す理念と心情を持って人間に向き合い、歴史の道を歩んでこられました。それにもかかわらず、この地上で真の息子娘とは誰のことか、誰も知りません。人間はわからないのです。しかし、天は人間世界の息子でない者たちを養子の形でまとめ、彼らを再び直系の子女として結びつけることを目指しています。これが天の救済摂理の歴史です。
息子としての縁は血統的に結ばれていなければなりません。自分の血統が直接つながっているか、あるいは自分の父や祖先の血統がつながっているか、いずれにしても血統的な条件がある立場でのみ、息子娘という名を立てることができます。世の理(ことわり)がそうであるように、天の理もまた同じです。
人類の始祖であるアダムとエバが創造されたその日から、神の心情が彼らの骨髄に流れ込み、一つの帰結点を築き、その理念のすべてがアダムとエバに和合していたならば、私たちは神の直系血統の縁を持つ子女となっていたはずです。しかし、堕落によって望まない他の血統と結びついてしまいました。そのため、今日どれほど優れた人間であったとしても、血統が異なるため、養子にすぎません。いくら摂理の意図のために心を尽くしても、他人の子を連れてきて繋いだとしても、養子の血統を引き継ぐことしかできないのです。これがイエスが福音を立て、新約時代の救済摂理として進めてきた内容です。
では、神がその養子を立てて「私の真の息子娘」と言えるでしょうか?それはできません。世の中の出来事でも同じです。どれほど苦痛や無念を抱える人が心情から言葉を発したとしても、その心情を通じる立場にいない人は「そうだろう」程度にしか理解できません。ある人は「そうかもしれない」と言い、またある人は「そんなことどうでもいい」と言うかもしれません。しかし、その体験を通じて心情を共有できる縁のある人であれば、話す人の心情に悲しみが染み込むとき、その言葉を聞いても自分の心情に悲しみが染み込むのを感じるでしょう。それこそが同じ立場にあると言える状態です。そうではありませんか?
今日、人類が望むものとは何でしょうか?それは、神の前で「養子」という名を取り除き、直系の真の息子娘となることです。これこそが人類が望み、歴史が目指してきた最高の目的であり、摂理の意図を掲げて進めてこられた神の中心的な目的です。このようになって初めて救いの目的が達成され、救済摂理が完了したと言えるのです。
偉大なる神、愛の本体であり、愛の中心であるその神が、私たち人間を養子の立場で愛してくださるとしても、私たちはそのような愛を望みません。骨髄に染み込む心情が通じる愛の実体としての息子娘が求められるのです。
今日、この地上でいくら徳のある生活をし、いくら神を「父」と呼んだとしても、その「父」の意味はさまざまです。息子でない立場で「父」と呼ぶ人もいれば、養子の立場で「父」と呼ぶ人もいるでしょう。しかし、最終的に残り、天が求める最高の目的とは何でしょうか?それは、養子の名でもなく、養子の位置を越えた直系の真の息子娘となることを切望することです。
聖書には、イエスが養子の縁を復帰してくださると書かれていますが、その理念の世界に満足するだけでは、救いは完全なものとは言えません。これまでイエスを信じて生きた多くの信徒たちは、あの世に行ったものの、彼らは楽園、つまり天国に入る前の待合室に留まっているというのです。だからこそ、イエスが再び来ると約束された目的は、私たちを養子ではなく、直系の縁で結びつけるためなのです。
神は、教訓や命令によって動かされるのではなく、その姿を見て動き、縁を結ぶことができ、心情をもって深く結ばれることのできる息子娘を切望しておられます。
そのため、歴史の中で偉人や賢人とされる者であっても、神に向かって「父よ」と呼ぶことができず、神がその人に対して「お前は私の息子だ」と言える内容を持たなければ、それらの人々は未完成品です。このことをしっかりと理解しなければなりません。
キリスト教が持つ唯一無二の特徴はまさにここにあります。イエスは神に向かって「私の父」と呼び、「私はその独り子である」と宣言しました。イエスは、宇宙の根本、天倫の根本を貫き、心情の世界を支配する一つの基準を立て、実体を持った存在でした。この内容を見れば、私たちはイエスが全人類のメシアであることを知ることができます。
メシア、救主とは何でしょうか?それは、死の領域に留まっている人間を救い出す模範となる人物のことです。したがって、キリスト教が持つ愛の最大の特徴はただ一つです。それは、「神は私の父である」と言える縁が結ばれることです。神がどれほど高く、善の主体であり、絶対者であるとしても、その神が「私の父」であると言えるようになれば、神のものは私のものとなり、私は神のものとなります。これこそが、人類が望む希望の最高基準でしょう。
もし神が最高の愛の基準を掲げて人間に接しながらも、その愛の目的地となる位置に人間を導くことができなければ、神は偽りの存在となってしまいます。もしそうであれば、神は人間の理想や全体の理想を成し遂げるためではなく、自分自身の欲望や欲求を満たすために摂理を進めてきたことになり、その結論に至ってしまうのです。そのため、神は真の息子娘を探し求めておられるのです。
聖書66巻を通して見ると、この内容に関連するパウロの言葉があります。それは、血統的に罪と無縁の立場に立つことができない人間が、亡くなられたイエスを信じることによって養子の相続権を得られるということです。しかし、これがイエスが来られた究極の目的ではありませんでした。
神がイエスを遣わされた目的は、人間が神の真の息子であるイエスと縁を結び、その人々をイエスに接ぎ木することでした。聖書にも「私はぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」とあります。つまり、サタンの世界に属する人間を養子の縁を経て直系の息子となる手続きを進めることが神の計画でした。しかし、人間が信じなかったため、イエスはこの地上で直系の子となる手続きを教えることができず、養子となるための内容だけを説明して帰らざるを得ませんでした。
では、なぜ私たちは来たるべき主を待ち望むのでしょうか?なぜ全人類がイエスの再臨の日を待ち望むのでしょうか?それは、いかに優れた人間であっても養子の立場を超えられない私たちに対して、直系の子となる心情的な縁を確立し、その手続きを教える使命を持って主が来られるからです。それゆえ、全人類がその日を待ち望むのは当然のことです。私たちは、そのような使命をもって来られたイエスを知らなければなりません。
再臨の日を待ち望み、花嫁という対象的な名の下でその目的を探し求める私たちにとって、再臨の日とはどのような日でしょうか?それは、神が6千年もの間にわたり費やされた労苦をすべて振り払い、6千年の悲しみをすべて忘れ、苦しみをすべて忘れることができる日です。見いだされた息子の姿を見たとき、悲しみも苦しみも無念さも跡形もなく消え、「ああ、我が息子よ」と言える歓喜の日です。その日は天が待ち望んだ日であり、地上の人類が長い歴史を通して待ち望んできた日なのです。
つまり、養子の恨みを脱し、直系の子女として「私の父の天国が私の天国であり、父が治める世界を私も治めることができる世界だ」と言える権威を持って現れるとき、神が祝福された堕落前のアダムとエバのように、真の楽園の主人として、また万物の霊長として現れることができるのです。
万物を治めるとしても、心情を通じる何らかの内容がなければ、万物も支配されることを望みません。真の息子娘と呼ばれるためには、歴史的な怨恨を清算できる立場に立つ必要があります。そのため、聖書にはこう書かれています。「被造物もまた、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいる」と。真の息子娘として認められないまま現れる者であれば、万物もそのような者を受け入れたくないということです。
したがって、天の恨みを解消するための歴史的な道を、私たちは今日歩んでいかなければなりません。
このような摂理の道を経て、「終わりの日」と一口に言われているこの時代に、私たちはどうすべきでしょうか?これが大きな問題です。
皆さん、自分自身を振り返ってみてください。あなたはどのような立場にいますか?本当に天の心情と縁を結び、父が動けば共に動き、父が止まれば共に止まり、父が悲しめば共に悲しみ、父が喜べば共に喜ぶことができますか?身体(体)は異なっていても、内面的には心情の世界で通じ合える立場にありますか?天との縁が結ばれていますか?
どれほど外的な環境が華やかであろうとも、心情に反していれば、それは消え去るべきものであり、焼き尽くされるしかありません。世間でも同じことが言えます。愛する息子娘が持っている物がどれほど貴重であっても、その息子娘が亡くなれば、それは価値を失い、焼却されるしかないのです。
心情の縁を通じて真の息子娘となることこそが、天倫が求める最高の目的であり、人倫が目指す最高の目的であるとするならば、今、自分がどの段階にいるのかを冷静に振り返って批判する必要があります。私たちは、どうしても真の息子娘になるべき解怨の歴史を中心に進む運命にあります。この運命から逃れられない天と地の運行の中に私たちは置かれていることを否定できません。
では、この過程を経て進む中で、どのように解明し、進んでいくべきでしょうか?その方法は一つしかありません。それは、神の心情を中心として戻っていくことです。そのため、自分自身の心情がどうであるかを冷静に、第三者の立場から批判してみる必要があります。その時期に来ています。
天倫が目指す方向がそのようであり、父が望まれる日がそのようなものであるとするなら、今日、あなた自身はどのような境地にありますか?心情が通じる真の息子娘の境地にあるならば、祈りは必要ありません。ただ「父よ」と呼ぶだけで、血と肉が震えるような衝撃を感じ、父の心情が自分の心に染み込んでくるような直系の息子娘となっているはずです。そうなっていれば、考えるだけでも憎らしい堕落の恨みを解くことができ、罪悪の世界における堕落した行動はできないでしょう。
歴史とともに悲しまれてきた神の心情を知り、神を苦しめた憎むべき罪悪の縁を断とうと努力した自分自身を思い返すだけで、身震いするほどの気持ちになります。あなたはそのような感情を感じたことがありますか?自分を批判してみてください。神の前で「息子」という名を持つにふさわしい立場に、どれだけ近づいているでしょうか?もし心情的な縁があるかどうかすらわからないならば、その人は息子ではありません。
しかし、たとえ直系ではなく養子であっても、父となる存在の苦しみの内容を完全には理解できなくても、その言葉を聞いてある程度理解することができるはずです。心情的に完全に共感することはできなくても、その言葉を聞いて「その通りです」と肯定できる立場にはいるべきです。あなたはそのような位置に進んでいますか?
イエスはこの地上に人類の真の父として、そして神の真の息子として来られましたが、十字架にかけられて亡くなられました。彼は、神が4千年間地上の人間を導きながら抱かれた一つの決意をもって来られたのです。彼の四肢や身体のすべては、4千年の歴史の道程において神が人間を通して立てようとされた真の息子を切望し、探し求めてこられた部分部分の実体を代わりに具現化した存在だったのです。
そのため、彼の目は4千年の間に神が見つめられた目の代わりであり、彼の耳は4千年の間に神が聞かれた耳の代わりであり、彼の口は4千年の間に神が語られた口の代わりだったのです。彼の感情も身体も同じく、神の歴史的な代替物として現れた存在でした。イエスは歴史的な実体であり、歴史的な結実体だったのです。
それゆえにイエスも、「私は律法を完全にするために来た」と語られました。その目的は一貫しており、神の心情と摂理を完成させるためだったのです。
イエスはユダヤの国とユダヤの民を見つめ、またユダヤ教の教団を見つめながら、4千年間神の愛の領域の中にあった国であり、民族であり、教団であったにもかかわらず、「今や神が抱いて愛することのできない国、民族、教団になってしまった」と嘆かれました。彼らは4千年の間、神の摂理の歴史を歩んできたにもかかわらず、その4千年の歴史の主人として来られたイエスを認識できませんでした。
これはどういうことでしょうか?その当時の人々はそれを理解していませんでした。4千年の歴史の終わりの時代に生きていたイスラエルの民は、4千年前、堕落直前のアダムとエバが神の愛の領域の中に抱かれていたように、自分たちもその一部であり、分子であることを感じ取るべきだったのです。
もし神の摂理が復帰の摂理であるなら、復帰とは失われたものを取り戻すことです。神が探し求めておられるのは何でしょうか?それは失われた息子娘です。失われたアダムを探し、失われたエバを探しておられるのです。
今日ここに集っている私たち、終わりの日に直面している私たちには、6千年もの間、死ぬことなくサタンと戦い抜いて勝利を収めた祖先が必要です。つまり、堕落の縁を断ち切り、勝利の権威を持って父の前に誇りをもって立つことのできる祖先が必要なのです。本来、善なる祖先となるべきアダムが堕落し、死んだアダムとなってしまったため、神は堕落していない実体を探し求めるために、アダムから始まり6千年もの間苦労され、その実体を希望しながら探し続けてこられたのです。
今日、キリスト教で語られるイエスについての教えには多くの内容がありますが、実際にはそうではない場合もあります。私たちはそのような固定観念を打ち破り、強い覚悟をもって歩み出さなければなりません。真実と偽りがあり、さらに真実のようなものと偽りのようなものも存在します。私たちは真実を見極める必要があります。
今日、私たちがイエスを正しく知り、迎え入れることができなかったと言うのはなぜでしょうか?それは、エデンの園でアダムとエバが堕落し、神のもとで成長できなくなった後、サタンと対決しながら戦い続けた4千年の歴史の末に、ようやくユダヤの国に現れたイエスをイスラエル民族が知らなかったからです。当時のイスラエル民族がイエスの前に降伏していれば、モーセがイスラエル民族を率いたときの失敗も、ノアの家庭が失敗したことも、アブラハムが献祭を間違えたことも、アベルが殺されたことも、すべて勝利へと帰結することができました。イエスとはそのような存在でした。歴史の中で実体として現れた、生きた摂理の実体です。アダムは死にましたが、アダムを立てようとされた父の心情は死なず、それが生きた実体としてイエスの中に現れたのです。
終わりの日には、多くの人が自分を中心に「私は宇宙の中心だ」といったような宗教観を持って登場します。しかし、4千年、さらには6千年を経て進められてきた神の摂理の目的は何でしょうか?それは失われたものを取り戻すことです。アダムが失敗したために代わりに送られたイエスとはどのような方でしょうか?それは第二のアダムです。聖書にもイエスを「後のアダム」と記されています。イエスを神そのものとする教えもありますが、それは正確ではありません。
真の息子、すなわち神が「これが私の息子だ」と言える第三のアダムが必要です。この第三のアダムの使命が終わり、真の息子としての立場に立つまでは、どれほど「花嫁」や「養子」と称されようとも、完全ではありません。イエスも「息子」としての栄光を持ってこの地上に来られましたが、息子としてのすべてを果たすことはできませんでした。すべてを果たすには、天の手続きを完了する必要があり、そのためには「息子」だけでは不十分で、「花嫁」を持たなければなりません。
エデンの園で失われたのは何ですか?アダムとエバです。彼らは人類の真の祖先となるべき存在でした。しかし、その真の祖先を失ったため、真の祖先を復帰する必要があります。
イエスは父の位置に相当する存在です。人類の真の父に相当する方です。そして聖霊は母の位置に相当します。人類の真の母に相当する方です。このように、霊的に真の父と真の母を立て、それを実体としてこの地上に顕現させることが再臨の目的です。
人類の前に真の息子娘が現れる時が「終わりの日」です。その時とはどのような時でしょうか?それは、真の祖先を失ったことで堕落した子孫となり、真の父母と血統的な縁を結べなかった私たちが、反対の道を通じてエデンの園で失われた息子娘を探し出す時です。この逆さまの歴史、復帰の歴史を通じて、神との縁を結び、その人々を養子から直系へと昇進させるのが神の摂理の歴史です。もしこの話を聞いて「間違っている」と思うなら、霊界に行って直接尋ねてください。「ある時、誰々がこのように言っていましたが、その言葉は正しいですか、それとも間違っていますか?」と。きっと間違いないと言われるでしょう。
幻想的で空想的な信仰の時代は過ぎ去りました。観念的な神を信じ、その理念のもとで生きる時代も過ぎ去りました。これからは、骨と肉が心情に一致する基準を持って、神を「父」と呼び、その父が6千年にわたって歩まれた心情を今日の自分の心情に結びつけることが求められます。そして、その心情的基準を通じた立場から、神との父子の関係を誇ることができる位置に立たなければなりません。
天を探し求める人類、または目的の世界を目指す人類は、この道を歩まなければなりません。そのために、東洋では三綱五倫を立て、「天に心を尽くし、忠臣となれ、貞節な婦人となれ」と教えてきたのです。このように、東洋では内面的な思想を中心に進んできました。一方、西洋は外面的なアプローチをしてきました。時間が経てば、その違いが明らかになるでしょう。
養子たちが栄える時代はこれまでの20世紀の文明です。そして、これから真の息子娘が栄える時代は理想世界です。神が存在するならば、それが道理でしょう。昔は他人の子供たちがよく生きる時代でした。現在は、イエスの理念を中心として民主主義陣営を基盤にした養子たちがよく生きる時代です。そして、この時代を超えて、真の息子娘がよく生きる時代がクリスチャンたちが待ち望む再臨時代であり、理想時代です。
では、そのような立場に立つ真の息子娘となり、神が探し求める一時、一瞬に「真の息子娘」の名分を持って現れるには、どうすればよいのでしょうか?「私は何十年も信仰してきました」と胸を張るような小人物ではいけません。また、「私はある教会の牧師であり、ある教会の指導者です。私のおかげで多くの人々がイエスの名前を知り、彼に従いました」などと自慢する人々も不十分です。
その理由は何でしょうか?それは、神が6千年間という長い歴史を摂理してこられた間、一日たりとも、たった一時間たりとも真の喜びの日を持たれたことがなかったからです。真の息子娘を探し求める父が、まだその息子娘を見つけられていないのに、どのようにして喜びがあると言えるでしょうか?
歴史を通じて、人類は喜びの時間を持ち、享楽を楽しんだ人々も多かったかもしれません。また、ある支配者たちは自分の権力を中心に神に代わって栄光を享受したかもしれません。しかし、4千年、6千年の歴史を苦労しながら、真の息子娘を切望し探し求めてこられた神には、そのような時間は一度もありませんでした。栄光を享受し、喜びを味わうべき神は、いまだにそのような時間を持たれていないのです。
神は悲しみの主人公であり、苦しみの主人公です。私たちが迎えるべき父は、喜びと栄光を味わいたいという願いを持ちながらも、その願いを実現できず、喜びも栄光も享受したことのない神です。その代わりに何を持っておられるのでしょうか?それは、堕落の恨みとともに、悲しみと苦しみの内容を抱え込まれた、悲しみの神であり、苦しみの神であるということです。
そうではありませんか?
今日、私たちは天国を幸福の楽園だと思っていますが、決してそうではありません。実際に行ってみてください。どれほど喜びの要素があるかと隅々まで探しても、そうはなっていません。神が世を治める権威を持ち、栄光を享受し、幸福を歌うべきであるにもかかわらず、神には喜びや栄光、善の結実、理想的な要素がすべて失われ、悲しみと苦しみだけが残されています。これがどれほど無念なことでしょうか。この無念さに満ちた神の前で、「父よ」と叫びながら骨身に染み入る悲しみを感じ、身をもって苦しみを共有する人こそ、天に近い息子娘であると言えます。
**イエスはこの地上に万王の王として来られました。**天から指導者としての権限を認められ、地上に現れました。しかし、生まれたその日から、彼には一時間の喜びさえありませんでした。彼は地上の人類のため、全ての民を救う救い主として現れましたが、その身には栄光が訪れることはありませんでした。栄光が訪れる前に、彼は苦しみの世界を通らなければならず、悲しみの道を歩まなければなりませんでした。
なぜそうだったのでしょうか?
それは、イエスが4千年の歴史を蕩減しなければならない立場にあったからです。万王の王となるためには、まず悲しみの王子として合格し、次に苦しみの王子として合格しなければなりません。そうでなければ、天の悲しみを通り抜けてきた無数の霊人たちを慰めることができないからです。
イエスの道は、ただ栄光の道ではなく、苦難を通じて全てを清算し、真の救いをもたらすための道だったのです。
そのため、イエスの30余年の生涯、特に3年間の公生涯の道は、悲しみの道でした。イエスは涙を流しながらも、4千年の歴史の中で先祖たちが流した涙の谷間を彷徨いました。4千年の歴史の中で血の滲むような死の峠を越え、天に向かって叫び続けてきた人々の跡を引き継ぎ、その苦労を背負われました。そして最終的に彼の道は、十字架の道でありました。私たちはイエスを愛の王子、幸福の王子、栄光の王子だと考えていますが、実際には彼は苦しみの王子であり、悲しみの王子だったのです。
終わりの日の裁きの時が来るでしょう。その裁きの日、天はどのような内容をもって現れるでしょうか?「私はこのような栄光と幸福を持っているが、なぜお前たちはそれを持たないのか」と問いかけることはありません。裁きの内容は、6千年にわたる悲しみの人類の歴史と悲しみの神の歴史、苦しみの人類の歴史と苦しみの神の歴史をお前たちは知っているのかということです。その歴史の中で、神が手を差し伸べられた跡があることを認識しているかどうかが問われるのです。
そのような神の前に立ち、息子としての栄光を求める者、娘としての希望を求める者に対して、神は尋ねられるでしょう。「お前はこの歴史と共にどれほど悲しみ、どれほど苦しんできたのか」と。その時、「ありません」と答える者は、息子としての栄光を得ることができません。
神が6千年もの間戦い、耐え忍んでこられた歴史を知り、その心情と苦労に共鳴する者だけが、神の息子娘として認められるのです。それは、栄光のための資格ではなく、悲しみと苦しみを共にする資格だからです。
見てください。イエスの手と足には釘の跡が残っています。イエスの頭には茨の冠が被せられ、イエスの胸には槍の傷跡が残っています。イエスは死なれましたが、悲しみの王子として、苦しみの王子として合格し、神の恨みを清算するために死の峠を越えなければならなかったのです。しかし、今日の多くのキリスト教信者はそのことを知りません。イエスは心情において合格者であり、心情の指導者としての権威を持って現れたのです。
救い主とは何でしょうか?身体の救い主ではありません。イエスは骨の髄まで染み入るように愛おしく、会いたくてたまらず、永遠に共に生きたいと願われる心情の救い主です。心情に染み入る内容を持ち、その心情を掴んで神の悲しみを押し出し、歴史的な神の苦しみをこの人間世界から取り除くことができる心の基準、一途な心情をもってイエスは救い主となったのです。
このような内容をもう一度よく考えてみましょう。終わりの日は確実にやって来ます。その時、天はどのような基準で裁きを行うのでしょうか?はっきりと知ってください。それは揺るぎない事実です。信仰している人も、これから信じようとする人も、しっかりと理解する必要があります。
終わりの日に、神は喜びの内容で微笑みながら現れることはないでしょう。主も同じです。復活されたイエスを見て、マグダラのマリアが「主よ!」と叫んで抱きつこうとした時、「触れるな」と言われたのはなぜでしょうか?それは、悲しみを抱えるイエスの心情、苦しみを経験したイエスの心情、天倫の苦難と悲しみの道を通じて初めて、イエスを抱きしめることができるということを示しているのです。
私たちは、この事実を深く理解しなければなりません。イエスを知ることは、彼の苦しみと悲しみを知り、その心情を共有することなのです。
皆さんが自分自身で深い悲しみの涙を流し、苦しみの境地に入り、「父よ」と呼ぶことができるようになった時、父の姿を一度見上げてみてください。父の目は、6千年もの間、涙が止むことのなかった目です。父の耳は、6千年もの間、すべての敵の嘲笑と非難、侮蔑を絶え間なく受け続けた耳です。父の口は、6千年もの間、語りたいことも語れず、飢えた人類と共に飢えに苦しんだ口です。父の手は、血の涙と血の汗が染み込んだ手であることを私たちは知らなければなりません。父の足もまた、何百回、何千万回と死のゴルゴタの険しい山を越えてきた足です。父の身体には、傷つき、無念のうちに打たれた跡が残っています。
では、この父がなぜそのような苦しみを受けたのでしょうか?それは、哀れな人類のためでした。このことを思うとき、私たちは限りない感謝と恥じ入る気持ちを持たなければなりません。「私のような罪人は、何千万回死んでも父の悲しみを防ぐことができず、何千万回死んでも父の涙を拭うことはできません」という思いに深く染み入って、初めて「父よ」と呼ぶべきです。
皆さんはそのように父を呼んだことがありますか?もしないのであれば、悔い改め、悔い改めるべきです。父の苦しみを知り、その悲しみを共にする心を持たなければ、真の父子関係には至れません。
私たちは裁きの日を恐れの一日と信じ、その日を避けようとしています。しかし、イエスは「全世界の誰よりも私を愛しなさい。十字架を背負って私についてきなさい」と宣言しました。これが絶対的な第一の鉄則であり、聖書の中でも最も重要な内容であり、福音の核心中の核心です。歴史の悲しみを自分の悲しみとし、歴史の苦しみを自分の苦しみとして、歴史と共に生きたと言える存在でなければ、歴史と共に戦い抜いてきたイエスと、歴史と共に摂理を進めてこられた神の裁きの場に立つことはできません。
今日、多くの信者たちは、裁きの日に主が現れ、すべてを準備して栄光の世界で空中の婚宴を開き、自分をその宴に招いてくれると信じています。しかし、それは幼稚な空想です。もしそうならなかったら、彼らはどうするでしょうか?そのような人々は神を恨み、イエスが再び来ても反対することでしょう。
**私たちは父の前に置かれた歴史的な罪状の前で、傷つき、弄ばれた血統を受け継いだ子孫です。**したがって、何度弄ばれようとも、歴史と共に悲しみを背負ってこられた神の労苦と神の悲しみの前に、無限の感謝と畏敬の念を持たなければなりません。しかし、神の救済摂理という父の意志があるからこそ、「できるならば、もし可能ならば、どうか憐れんでください」と願うしかありません。
天国とは何でしょうか?
もしこのような心情を持たずして天国に行けるのであれば、誰でも天国に行けるでしょう。しかし、天国はそのような場所ではありません。神の心情に共鳴し、歴史の悲しみと苦しみを自分のものとする人だけが、天国に入る資格を持つのです。それは単なる安易な信仰や期待では達成されません。神の心情を知り、体験することが求められるのです。
裁きの場に立たなければならない今日の私たちは、まず神が無限の悲しみの中におられることを宣言しなければなりません。そして、神がこのような歴史の道を通ってこられたということを宣言する必要があります。
神の悲しみとイエスの悲しみとは何か?
それは、真実であり正しい立場におられながらも、偽りや偽装によって踏みにじられることです。これ以上の悲しみはありません。
イエスの苦しみとは何でしょうか?それは、愛する息子娘を探し求める道を遮られ、愛する花嫁を探し求める道を遮られ、踏みにじられることでした。これ以上の苦しみはありません。
息子娘を探し求める道、息子娘と出会う道は、ゴルゴタの丘を越えなければならない道でした。そのため、イエスの時代のゴルゴタが残されていると同時に、終わりの日には世界的なゴルゴタの道が残されているのです。
今日の信者たちは、天の栄光を担って再臨される主の栄光を見つめることを再臨の理想としています。しかし、復活されたイエスにただ会うだけを期待してはなりません。復活されたイエスが現れる前に、私たち自身が生きながら世界的なゴルゴタの峠を越えることを知らなければならないのです。
世界的なゴルゴタを越えるとはどういうことでしょうか?
それは、自分の心、血、肉、そして命そのものを懸けて、死ぬか生きるかの分岐点に立ちながら「父よ、私の願いではなく、父のご意志が成されますように」と祈ることです。この覚悟がなければ、終わりの日に耐え抜くことはできません。
聖書には、終わりの日に7年の大患難があると記されています。その試練の中で最後まで耐える者が救われるのです。それは単なる信仰の表明ではなく、試練と苦難を通して神の心情を深く理解し、共に歩む者に与えられる救いです。
主の花嫁として歓喜の主の園に参加できる者は、6千年の歴史の道程で苦しみに立ち向かい、勝利した勝利の王子であり、また人類を代表して悲しみの心情を担った悲しみの王子でなければならないことを理解しなければなりません。このような人物こそ、主が花嫁として迎えようとされているのです。
なぜ幸福の要素が否定されるのか?
神はまだ一度も喜びを経験されたことのない方です。神は、ご自身が創造された被造物においても、真の主人として振る舞うことができませんでした。さらに、アダムとエバという、一つの家庭を中心に祝福を与え、喜びを味わおうとされたその存在さえ、サタンに奪われてしまったのです。このため、天と地に嘆きが広がりました。
神の直接的な主管下にあるべきすべてのものがサタンの主管下に入り、息子娘はもちろん、万物までもが踏みにじられる状況をご覧になった神の悲しみを超える悲しみがどこにあるでしょうか?それでも神は、「悲しい」と言うことすらできる相手がいなかったため、その悲しみを胸に秘めながら、歴史と共に、再び悲しみを重ねてこられたのです。
皆さんはこの神の心情について考えたことがありますか?
神は、誰にも言えない悲しみを抱え、孤独に耐えながら、歴史を通じてその悲しみを繰り返し経験されてきたのです。このような神の心情を理解し、共有しようとする心構えを持つことが、真の信仰の基本であり、主の花嫁としてふさわしい道なのです。
統一信徒の皆さん、あなた方は確かに哀れな立場にあるかもしれません。
しかし、もしあなた方が、2千年間、あるいは6千年間、イエスや神が耳で聞かれたような声を聞くことができるなら、そのことに感謝すべきです。また、目の前の民族を見つめて涙を流し、世界の人類を見て「これはどうしたらよいのか」と胸を叩きながら涙を流せる立場にあるなら、そのことをありがたく思うべきです。
もし、食べるものがない、あるいは食べていても喉が詰まり、言いたいことを抑えざるを得ない立場にあるなら、その口は祝福された口です。また、手があり、戦う力があってもサタンと血みどろの戦いをできない無念さを感じているならば、それにも感謝すべきです。サタンの勢力が迫り来る中で、勇敢に足を踏み出す力があっても、その力を抑え、一日を待ちわびる悲しみの心情を抱えているならば、そのことにも感謝すべきです。
神は遠くにおられる方ではありません。
神は、遠いと感じる時ほど近くにおられ、近いと感じる時ほど遠くにおられます。歴史の道のりにおいても、神の前に近いと誇っていた人々からは遠く離れ、遠いと恐れ多く思う人々には近く寄り添ってこられました。
この神の逆説的なご臨在を知ることが大切です。
神は、自分を低くし、神の心情を深く理解しようとする者にこそ、近くにおられるのです。このような心構えで歩む信徒たちこそ、真の信仰者として成長していけるのです。
苦しみが増すからといって嘆かず、迫害に直面するからといって嘆かないでください。その代わりに、こう祈ることができるようになりましょう。
「父の心情に宿る悲しみを私に与えてください。父の心情に深く刻まれた絡み合う苦しみを私が背負わせてください。もしサタンの訴えやサタンによる踏みにじりがあるならば、その訴えをこの私一人に受けさせてください。そして、歴史的な悲しみを全て蕩減し、苦しみを全て清算できるようにしてください。」
このように父を呼び、涙に満ちた心情と涙に濡れた手で必死に祈る息子娘がいるならば、その者を父はしっかりと抱きしめてくださるでしょう。それは間違いありません。
私たちは栄光を求めているのではありません。
たとえ栄光があるとしても、それは父のものです。私たちのものは、苦しみと悲しみだけです。しかし、その苦しみと悲しみを命の要素として消化できる心を持つべきです。そして、神が「おお、我が息子よ、我が娘よ」と抱き寄せてくださったとしても、その目を見上げるのも恐れ多いと感じる心を持つならば、裁きの日、悲しみの歴史と苦しみの歴史を前にしたその宣言の日に、たとえ膝をつき、顔を上げることができなくても、天の手は必ずあなたの上に留まるでしょう。
真の信仰者は、喜びを求めるのではなく、神の悲しみと苦しみを自らのものとして受け入れる覚悟を持つ者です。その覚悟こそが、裁きの日に救いを受ける基準となるのです。
私たちは、悲しみの中で天国を切望し、苦しみの生活の中で天国を切望し、悲しい歴史の中で悲しむ主を迎えて慰め、苦しみの歴史の中で苦しむ主を迎えて慰める心を持たなければなりません。このように、悲しみを体験し、苦しみを受け入れる中でも、さらなる悲しみが加わったとしても、その場に神を迎え、神を慰めることのできる者がいるならば、どれほど栄光を捧げて慰めた者であっても、その者には及びません。これこそが私たちの目指すべき基準であり、統一信徒が進むべき道です。
統一信徒の歩むべき道
追い詰められ、蔑まれ、孤独で、果てしない悲しみの中にあっても、悲しむ神を迎え、その苦しみを抑え、その悲しみを抑えながらも、父を慰め、父の苦しみを再び背負おうとする者こそ、終わりの日の裁きの場に残る者です。
ここで必要とされるのは、多くの人数ではありません。数の多さではなく、神の悲しみと苦しみを感じ、断食しながらでも「父よ、私だけがこの状況にいるのではなく、世界中の人々が同じような苦しみの中にいます。私よりもさらに哀れな立場にいる人がどれほど多いことでしょうか」と言い、さらに人類の悲しみを自分の責任として引き受けようとする者が必要なのです。
イエスが歩まれた道はまさにそのような道でした。
イエスは、自分の苦しみだけでなく、世界中の人々の苦しみを自分のものとし、それを背負いながら神を慰めるためにその道を歩まれました。この道こそが、私たちが進むべき道です。栄光や喜びを求めるのではなく、悲しみの中で神と共に立ち、慰める心を持つことこそが、私たちの真の使命なのです。
皆さん、天は真の息子娘を探し求めてこられました。
もし、あなたが父の手を握りながら「その手は、かつて私が歩んだ道を思い起こさせる手だ」と感じ、父の姿を見て「かつての私の姿と似ている」と思い、さらに父の心情と焦燥感に触れ「それはかつて私が感じた心情と焦燥感に似ている」と思う立場で「父よ」と呼ぶことができるなら、その一言は歴史上のすべての不幸を取り除き、幸福の決定的な条件となることを、今日の私たち、クリスチャン、そして世界中の信徒たちは知るべきです。
今、ここにいる皆さんへ
ここに参加された皆さんが、どのような事情やどのような心情を持っていらっしゃるかは分かりません。しかし、今心に感じている何かがあるならば、それは偽りではありません。
もし、「そうだ、それが正しい。それが私の進むべき道だ」と感じ、それに基づいて一生を覚悟し、それを決意し、それと共に戦い、それと共に倒れる者がいるならば、その者こそ、来るべき裁きの日に神が抱きしめてくださる真の息子娘となるでしょう。それは間違いありません。
真の息子娘の条件
真の息子娘となるためには、父の心情を深く理解し、その苦しみを自分のものとして受け入れる覚悟が必要です。そして、その心情に基づいて生き、戦い、時に倒れることがあっても、その心を失わない者が、神の愛の対象となり得るのです。
この決意を持つ者が、最終的に裁きの日に神の心に触れ、天が求める息子娘として迎えられるのです。あなたが今感じている思いを大切にし、それを行動に移すことこそ、あなた自身を真の信仰者へと成長させる道となるのです。
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崇敬の念が満ち溢れ、あらゆる意識を超越してお父様の胸に抱かれることを望む私たちであることをご存知ですから、この時間、私たちにそのような恩恵をお与えくださいますよう、心から願い求めております。
私たちが御言葉を通じてお父様を知る者ではなく、心情を通じてお父様を知る者となることを切に願い求めます。御言葉によって救いを得ようとする者ではなく、心情を通じてお父様の前で救われ、命の歌を歌える私たちとなれるよう導いてください。
そうして、まずお父様がどれほど苦労され、どれほどの痛みを経験されたのかを、お父様の姿を見つめながら知る私たちとなり、頭を垂れて慰め申し上げられるようにしてください。お父様、切に願い心から求めております。
私たちが何かを持っているとするならば、それが私たち自身のものとなるようにしてください。また、誇れるものがあるとするならば、それが私たちの誇りの条件となることを許してください。
人生の目標があるならば、心情をもってその目標を追求できるようにしてください。生活の内容を整える必要があるならば、ただ一つの心情だけが私たちの生活の内容となるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。
多くの人々がお父様の前に集まりました。この者たちが誰のために留まり、何のために動き、どのような場所を目指して進んでいるのかを自ら見出せるようにしてください。
「お前は私のものだ」と言える主を持たない哀れな者たちです。
「お前は永遠に私の心情と共にいる者だ」と認められる者がいるとするならば、それ以上に幸せな人はいないことを私たちは知っています。
お父様、永遠なる命と永遠なる理念、そして永遠なる愛の心情をもって私たちを探し求めてくださるお父様が、私たちの心の中に共におられることを知っています。
お父様のものが私のものであり、私のものがお父様のものであるように、二つではなく一つの理念を中心として歌い、喜び合える子女の姿をお父様が切に望んでおられることを知りました。
私たちもお父様をお迎えし、お父様の前にあらゆる栄光の要素をお返しし、その後で歓喜しながら全世界に誇ることのできる時が訪れることを心待ちにしております。
お父様はこのすべてをご存じです。どうか心と心をつなぎ合わせ、過去の天上のすべてと地上のすべてを動かし、心情の世界にすべてを調和させてください。
そうして、栄光の感動をもたらす衝撃と喜びの境地の中で、私たちが覚悟し決意できるこのひとときを与えて下さいますよう、心より願い求めます。
今、御言葉を伝えようとしています。ただ御言葉の内容だけを伝えるのではなく、お父様の心情を伝えることができるようにしてください。
お父様の内情を感じ取り、自らを見つめ直すことのできる時間として、御言葉が現れるように導いてください。
伝える者の心と受け取る者の心の間に隔たりを生じさせるのがサタンの働きであることを私たちは知っています。
どうか一つの心に調和し、一つの心情に調和して、お父様をお迎えできるこの時間としてください。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。
<御言葉>
本日は皆さんの前で「終わりの日に残るお父様の真の息子娘」という題でお話しいたします。
これまでの人類の中で、どれほど権勢があり、どれほど人格が高潔であり、どれほど栄光に満ちたものを備えた人がいたとしても、自分自身を立てて「私は神の真の息子であり、真の娘だ」と誇りをもって宣言した人は一人もいませんでした。
真の息子娘となるには、真の父母を持ち、真の家族の縁を通じ、真の兄弟と結ばれた何らかの内容を持たなければなりません。それなくしては、息子としての環境、息子としての位置、あるいは娘としての環境、娘としての位置に立つことはできないのです。
神が存在し、人類に対してある摂理を進めておられるとするならば、その神が摂理を進めながら望む最高の目的とは何でしょうか。それは他でもありません。「あなたは私の真の息子であり、真の娘だ」と言える人を探し、立てることです。そして、その真の息子娘と永遠の心情を通じ、存在世界のすべての縁を通じる立場において、「父」と「息子娘」という一言を交わせる日を持つことが、神の最高の目的なのです。
神がそのような日を待ち望んでおられることを、私たちは知らなければなりません。
創造主であり、全宇宙の根本であり、すべての存在世界の主体となる一つの中心があるとするならば、その中心が望む理想世界は、この地上の存在世界ではないでしょう。
神が望まれる世界は、天上にある何かの理念の世界でもなく、外的な世界でもありません。その世界とは、心情の縁を中心に動き出し、静的な流れの中で全体を投じて「息子」「娘」と呼ばれることのできる世界なのです。
そのため、神がいかに素晴らしい方であり、創造主であり、絶対者であったとしても、神ご自身もそのような内容を持った人間を待ち望んでおられることを、私たちは否定することができません。
歴史は「真」を志向しています。真の人間、真の国家、真の世界を目指しています。
私たち自身も、真なる存在になりたいという意識を持ってそれを望んでいます。
では、真の縁の中で基準となる縁とは何でしょうか。それは、神と人間の間に結ばれる親子の縁です。この縁から生まれる心情は、どのような存在の権威によっても屈することのない、永遠で不変で唯一のものです。また、この心情の権威は絶対的なものです。そのため、この権威を持って現れるとき、すべての存在はその存在の前に頭を垂れざるを得ません。この心情の権威をもって動くとき、万物はそれに従って動かざるを得ないのです。これが宇宙の鉄則です。もしそうでなければ、私たちが望む真の目的を成し遂げることはできず、一つの絶対的な縁を結ぶことはできない、という結論に至ります。
そういう理由から、どれほど偉大で崇高な神であったとしても、その神が「私の愛する真の息子よ、娘よ」と呼べる一日を持てなかったことが、神にとって最も大きな悲しみなのです。それ以上に悲しむべきことはありません。また、天の縁を通じて創造された人間であるならば、そのような一人の人間、そのような一人の息子娘を地上から立てられなかったことが、最大の悲しみです。これこそが人類の悲しみの中の悲しみなのです。
もし神が「私の息子、娘」と呼べる真の息子娘がいて、彼らを呼びながら6千年間続けてこられた苦労を忘れ、これまでのすべての紆余曲折を忘れることができる瞬間がこの地上に訪れるならば、その時から天の恨みを晴らす聖業が始まるでしょう。人類はその時に初めて、神による幸福の歌を歌うことができるのです。このような時が訪れることを、私たちは予期しなければなりません。
もし人類と天倫に「終わりの日」があるとするならば、その日とはどのような日であるべきでしょうか。その日は、神が人間に対して「お前は永遠に否定しようとしても否定できない私の真の息子、娘だ。私の息子よ、娘よ、ようやく私の恨みをすべて晴らすことができた。」と言い、心から安心し、心から楽しむことができる日であるべきです。そのような息子娘がこの地上に現れるその日、その時が来て初めて、神の新しい理念の世界が始まるのです。
しかし、今に至るまでそのような息子娘は現れず、真の息子娘との縁を決定づけることのできる一時を迎えることができませんでした。「真の息子」「真の娘」として立てられる存在が現れていないのです。このような存在が現れない限り、神の願いと人類の希望は完結されないということを、私たちは知っておかなければなりません。
今日、私たちは堕落した子孫であることを知っています。どれほど立派な人であっても、どんな伝統を誇り、歴史的な面で自分の貢献を自慢したとしても、それはすべて堕落した子孫としての自慢にすぎません。また、自分が持っている地位や姿が立派で、この世で天を貫くような権威を持っているとしても、それもまた堕落した子孫の権威にすぎないのです。人間がこのような逆境と、天が許すことのできない環境に置かれているため、人間社会は天と相反し、対立する罪悪の世界になっています。罪深い人間、罪深い世界であることは、誰もがよく知っていることです。
神の真の息子娘の姿は「至善至高」(最も善で最も高い)の姿であるのに対し、地上に生きている私たちの姿は極めて悪く、極めて粗末な姿です。この隔たりをどうやって打破するのか?これを打破するための働きが、神の救済の歴史です。神はこの隔たりを埋め、繋げるために、6千年という長い年月を通して苦労を続けてこられました。人間が知ろうと知らずに関わらず、歴史の背後で血の滲むような戦いを続けてこられたのが、神の働きであることを私たちは知るべきです。
このような歴史的な神の苦労に対して、何をもって報いるべきかを考え、天を仰ぎ見て恥じ入る心を持ち、自らを悔いる人がほとんどいません。
今日、「宗教」という名の下に、あるいは宗教的な内容を備えた指導者を立てて、人類に対して告知し、勧告していることは何でしょうか。それは、人生の道程を通して、神が摂理してこられた歴史的な内容を知りつつ、自分の感性を通して天の心情と縁を結びなさい、と私たちに教示しているのです。その役割を果たすのが宗教です。
しかし、多くの宗教人は、心情から伸びてくる縁を軽視したり忘れたりし、今日目の前に現れている事実にのみ執着しがちでした。宗教の重大な使命は、堕落の縁から脱し、心情の世界に立脚して、神がこれまで人類を導いてこられた中で経験された悲しみと苦しみの歴史を共にし、その歴史的な苦難と戦う心情を持つことにありました。ところが、宗教はこれまでそのような立場から人類の歴史を補い、人類の心情を結びつける働きを十分に果たしてきたとは言えません。
それゆえに、神が真の息子娘を探し求める心が切実であればあるほど、時代と世紀を超えて深く染み入る思いを持ちながら、真の息子娘を恋い慕い、人類に対してこれまで労苦を続けてこられたことを、私たちは理解しなければなりません。
天はこの唯一の目的を達成するために、個人を立て、家庭を立て、民族と国家を立て、世界的な主導理念を掲げて摂理を進めてこられました。天はこの一つの目的を成就するために、これほどまでに苦労されてきたのです。しかし、その目的を担い、成し遂げる責任を負うべき天が選んだイスラエル民族は、どこかへ行ってしまいました。宮廷から引き出された60万人のイスラエル民は跡形もなく消え去ってしまいました。また、120年間苦労して築き上げたノアの家庭も同様であり、アベルの祭壇も跡形なく消えてしまったことを、私たちは知っています。
このように歴史を知り、神の摂理的な意図を知れば知るほど、神の悲しみは言葉に尽くせないほど大きいという事実を理解できます。神の理念は、個人から始まり、真の息子娘を中心とする家庭へ、さらに民族、国家、世界、そして宇宙へと進むものでした。それが神の心情に染み入る理念であったにもかかわらず、この地上には「私は永遠の父の心情を通じることができる真の息子です」と言える存在がいませんでした。また、「私は父の心情と共に心を慰め、その苦悩を晴らすことができる永遠の娘です」と言える存在もいませんでした。そのような息子娘を中心に神をお迎えして生きる家庭もなく、そのような民族も国家も、世界もありませんでした。
神が目指す目的とは何でしょうか?それは、真を貫くことのできる子女から始まり、家庭、民族、国家、世界、そして宇宙までを縁で結びつけ、一つにすることです。この使命を果たすことこそが、今日私たちが知っている復帰の使命です。この使命の道を歩むことが救いの歴史であり、摂理の意図であり、天倫の目的であることを、私たちは理解しなければなりません。
私たちはこの時代を「終わりの日」と呼んでいます。では、終わりの日とはどのような時でしょうか?それは、真の息子娘が現れ、全世界を天理に基づいて治めることができる時です。その息子娘が現れて、歴史的な怨恨を清算し、悲しみと苦しみの歴史を終結させ、喜びと幸福を歌うことのできる日。このような運命を分ける時、この分岐点となる日が「終わりの日」なのです。
では、終わりの日に誰が来ると言われていますか?聖書ははっきりと述べています。「主が来られる」と。では、その主とは誰でしょうか?それは再臨のイエスです。再臨のイエスとはどのような方でしょうか?それは、万物の歴史を動員し、神が労苦の末に見いだされる方です。神が「あなたは永遠無窮にわたって私の心の中に、私の存在の中に、私が創造した世界の中に生きることのできる息子だ」と言える存在です。その方こそが、再び来られる主なのです。
イエス様は教えてくださいました。「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」と。それは、息子となるべき主の現れと、娘となるべき花嫁の姿が地上に現れることを意味しています。そして、息子と娘が出会い、探し求めてこられた神とその息子娘が出会うのです。その瞬間、真の息子娘の立場は限定されたものでも、限界のあるものでもありません。その日は、息子娘と結ばれた世界全体が一斉に動員され、天を賛美する縁が結ばれる日となるのです。
神は人類と共に真理を求め、人類と共に悲しみ、人類と共に戦い続けてこられました。その神の前で、人類が頭を垂れて祈るべきことは何でしょうか?「天が立てようとする真の息子が現れるようにしてください」と祈ることです。
では、その真の息子とはどのような方でしょうか?その方は真の息子であると同時に、真の花婿としての資格を持ち、真の花嫁を見いだし、真の人類の親となるべき方です。
そのため、歴史を通じて人間を導き、真の息子娘と結びつけるために摂理を進めてこられるのが、神の救済摂理の歴史なのです。
今日読んだ御言葉の中に、「あなたがたは養子の霊を受けたので、アバ、父よと呼び求める」とあり、「聖霊の初穂を受けた私たちも、養子となることを待ち望んでいる」と書かれています。したがって、この地上に生きている人間がどれほど信仰深いと言われても、誰であれ、天の前では養子に過ぎません。では、天の息子がいるとすれば、その息子はどのような形で現れるのでしょうか?息子ではない者がいて、養子がいて、真の息子がいます。世間でもそうではありませんか?自分の息子でない他人の息子がいて、息子がいない場合に代わりとなる養子がいて、真の息子がいます。天地の道理も同じです。
今日、この地上は善悪が交差し、衝突する混乱の中で、真理が真理ではないように見え、偽りが真理のように見える状況が入り乱れています。これが現実です。天は真の息子を探し、真の娘を探す理念と心情を持って人間に向き合い、歴史の道を歩んでこられました。それにもかかわらず、この地上で真の息子娘とは誰のことか、誰も知りません。人間はわからないのです。しかし、天は人間世界の息子でない者たちを養子の形でまとめ、彼らを再び直系の子女として結びつけることを目指しています。これが天の救済摂理の歴史です。
息子としての縁は血統的に結ばれていなければなりません。自分の血統が直接つながっているか、あるいは自分の父や祖先の血統がつながっているか、いずれにしても血統的な条件がある立場でのみ、息子娘という名を立てることができます。世の理(ことわり)がそうであるように、天の理もまた同じです。
人類の始祖であるアダムとエバが創造されたその日から、神の心情が彼らの骨髄に流れ込み、一つの帰結点を築き、その理念のすべてがアダムとエバに和合していたならば、私たちは神の直系血統の縁を持つ子女となっていたはずです。しかし、堕落によって望まない他の血統と結びついてしまいました。そのため、今日どれほど優れた人間であったとしても、血統が異なるため、養子にすぎません。いくら摂理の意図のために心を尽くしても、他人の子を連れてきて繋いだとしても、養子の血統を引き継ぐことしかできないのです。これがイエスが福音を立て、新約時代の救済摂理として進めてきた内容です。
では、神がその養子を立てて「私の真の息子娘」と言えるでしょうか?それはできません。世の中の出来事でも同じです。どれほど苦痛や無念を抱える人が心情から言葉を発したとしても、その心情を通じる立場にいない人は「そうだろう」程度にしか理解できません。ある人は「そうかもしれない」と言い、またある人は「そんなことどうでもいい」と言うかもしれません。しかし、その体験を通じて心情を共有できる縁のある人であれば、話す人の心情に悲しみが染み込むとき、その言葉を聞いても自分の心情に悲しみが染み込むのを感じるでしょう。それこそが同じ立場にあると言える状態です。そうではありませんか?
今日、人類が望むものとは何でしょうか?それは、神の前で「養子」という名を取り除き、直系の真の息子娘となることです。これこそが人類が望み、歴史が目指してきた最高の目的であり、摂理の意図を掲げて進めてこられた神の中心的な目的です。このようになって初めて救いの目的が達成され、救済摂理が完了したと言えるのです。
偉大なる神、愛の本体であり、愛の中心であるその神が、私たち人間を養子の立場で愛してくださるとしても、私たちはそのような愛を望みません。骨髄に染み込む心情が通じる愛の実体としての息子娘が求められるのです。
今日、この地上でいくら徳のある生活をし、いくら神を「父」と呼んだとしても、その「父」の意味はさまざまです。息子でない立場で「父」と呼ぶ人もいれば、養子の立場で「父」と呼ぶ人もいるでしょう。しかし、最終的に残り、天が求める最高の目的とは何でしょうか?それは、養子の名でもなく、養子の位置を越えた直系の真の息子娘となることを切望することです。
聖書には、イエスが養子の縁を復帰してくださると書かれていますが、その理念の世界に満足するだけでは、救いは完全なものとは言えません。これまでイエスを信じて生きた多くの信徒たちは、あの世に行ったものの、彼らは楽園、つまり天国に入る前の待合室に留まっているというのです。だからこそ、イエスが再び来ると約束された目的は、私たちを養子ではなく、直系の縁で結びつけるためなのです。
神は、教訓や命令によって動かされるのではなく、その姿を見て動き、縁を結ぶことができ、心情をもって深く結ばれることのできる息子娘を切望しておられます。
そのため、歴史の中で偉人や賢人とされる者であっても、神に向かって「父よ」と呼ぶことができず、神がその人に対して「お前は私の息子だ」と言える内容を持たなければ、それらの人々は未完成品です。このことをしっかりと理解しなければなりません。
キリスト教が持つ唯一無二の特徴はまさにここにあります。イエスは神に向かって「私の父」と呼び、「私はその独り子である」と宣言しました。イエスは、宇宙の根本、天倫の根本を貫き、心情の世界を支配する一つの基準を立て、実体を持った存在でした。この内容を見れば、私たちはイエスが全人類のメシアであることを知ることができます。
メシア、救主とは何でしょうか?それは、死の領域に留まっている人間を救い出す模範となる人物のことです。したがって、キリスト教が持つ愛の最大の特徴はただ一つです。それは、「神は私の父である」と言える縁が結ばれることです。神がどれほど高く、善の主体であり、絶対者であるとしても、その神が「私の父」であると言えるようになれば、神のものは私のものとなり、私は神のものとなります。これこそが、人類が望む希望の最高基準でしょう。
もし神が最高の愛の基準を掲げて人間に接しながらも、その愛の目的地となる位置に人間を導くことができなければ、神は偽りの存在となってしまいます。もしそうであれば、神は人間の理想や全体の理想を成し遂げるためではなく、自分自身の欲望や欲求を満たすために摂理を進めてきたことになり、その結論に至ってしまうのです。そのため、神は真の息子娘を探し求めておられるのです。
聖書66巻を通して見ると、この内容に関連するパウロの言葉があります。それは、血統的に罪と無縁の立場に立つことができない人間が、亡くなられたイエスを信じることによって養子の相続権を得られるということです。しかし、これがイエスが来られた究極の目的ではありませんでした。
神がイエスを遣わされた目的は、人間が神の真の息子であるイエスと縁を結び、その人々をイエスに接ぎ木することでした。聖書にも「私はぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」とあります。つまり、サタンの世界に属する人間を養子の縁を経て直系の息子となる手続きを進めることが神の計画でした。しかし、人間が信じなかったため、イエスはこの地上で直系の子となる手続きを教えることができず、養子となるための内容だけを説明して帰らざるを得ませんでした。
では、なぜ私たちは来たるべき主を待ち望むのでしょうか?なぜ全人類がイエスの再臨の日を待ち望むのでしょうか?それは、いかに優れた人間であっても養子の立場を超えられない私たちに対して、直系の子となる心情的な縁を確立し、その手続きを教える使命を持って主が来られるからです。それゆえ、全人類がその日を待ち望むのは当然のことです。私たちは、そのような使命をもって来られたイエスを知らなければなりません。
再臨の日を待ち望み、花嫁という対象的な名の下でその目的を探し求める私たちにとって、再臨の日とはどのような日でしょうか?それは、神が6千年もの間にわたり費やされた労苦をすべて振り払い、6千年の悲しみをすべて忘れ、苦しみをすべて忘れることができる日です。見いだされた息子の姿を見たとき、悲しみも苦しみも無念さも跡形もなく消え、「ああ、我が息子よ」と言える歓喜の日です。その日は天が待ち望んだ日であり、地上の人類が長い歴史を通して待ち望んできた日なのです。
つまり、養子の恨みを脱し、直系の子女として「私の父の天国が私の天国であり、父が治める世界を私も治めることができる世界だ」と言える権威を持って現れるとき、神が祝福された堕落前のアダムとエバのように、真の楽園の主人として、また万物の霊長として現れることができるのです。
万物を治めるとしても、心情を通じる何らかの内容がなければ、万物も支配されることを望みません。真の息子娘と呼ばれるためには、歴史的な怨恨を清算できる立場に立つ必要があります。そのため、聖書にはこう書かれています。「被造物もまた、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいる」と。真の息子娘として認められないまま現れる者であれば、万物もそのような者を受け入れたくないということです。
したがって、天の恨みを解消するための歴史的な道を、私たちは今日歩んでいかなければなりません。
このような摂理の道を経て、「終わりの日」と一口に言われているこの時代に、私たちはどうすべきでしょうか?これが大きな問題です。
皆さん、自分自身を振り返ってみてください。あなたはどのような立場にいますか?本当に天の心情と縁を結び、父が動けば共に動き、父が止まれば共に止まり、父が悲しめば共に悲しみ、父が喜べば共に喜ぶことができますか?身体(体)は異なっていても、内面的には心情の世界で通じ合える立場にありますか?天との縁が結ばれていますか?
どれほど外的な環境が華やかであろうとも、心情に反していれば、それは消え去るべきものであり、焼き尽くされるしかありません。世間でも同じことが言えます。愛する息子娘が持っている物がどれほど貴重であっても、その息子娘が亡くなれば、それは価値を失い、焼却されるしかないのです。
心情の縁を通じて真の息子娘となることこそが、天倫が求める最高の目的であり、人倫が目指す最高の目的であるとするならば、今、自分がどの段階にいるのかを冷静に振り返って批判する必要があります。私たちは、どうしても真の息子娘になるべき解怨の歴史を中心に進む運命にあります。この運命から逃れられない天と地の運行の中に私たちは置かれていることを否定できません。
では、この過程を経て進む中で、どのように解明し、進んでいくべきでしょうか?その方法は一つしかありません。それは、神の心情を中心として戻っていくことです。そのため、自分自身の心情がどうであるかを冷静に、第三者の立場から批判してみる必要があります。その時期に来ています。
天倫が目指す方向がそのようであり、父が望まれる日がそのようなものであるとするなら、今日、あなた自身はどのような境地にありますか?心情が通じる真の息子娘の境地にあるならば、祈りは必要ありません。ただ「父よ」と呼ぶだけで、血と肉が震えるような衝撃を感じ、父の心情が自分の心に染み込んでくるような直系の息子娘となっているはずです。そうなっていれば、考えるだけでも憎らしい堕落の恨みを解くことができ、罪悪の世界における堕落した行動はできないでしょう。
歴史とともに悲しまれてきた神の心情を知り、神を苦しめた憎むべき罪悪の縁を断とうと努力した自分自身を思い返すだけで、身震いするほどの気持ちになります。あなたはそのような感情を感じたことがありますか?自分を批判してみてください。神の前で「息子」という名を持つにふさわしい立場に、どれだけ近づいているでしょうか?もし心情的な縁があるかどうかすらわからないならば、その人は息子ではありません。
しかし、たとえ直系ではなく養子であっても、父となる存在の苦しみの内容を完全には理解できなくても、その言葉を聞いてある程度理解することができるはずです。心情的に完全に共感することはできなくても、その言葉を聞いて「その通りです」と肯定できる立場にはいるべきです。あなたはそのような位置に進んでいますか?
イエスはこの地上に人類の真の父として、そして神の真の息子として来られましたが、十字架にかけられて亡くなられました。彼は、神が4千年間地上の人間を導きながら抱かれた一つの決意をもって来られたのです。彼の四肢や身体のすべては、4千年の歴史の道程において神が人間を通して立てようとされた真の息子を切望し、探し求めてこられた部分部分の実体を代わりに具現化した存在だったのです。
そのため、彼の目は4千年の間に神が見つめられた目の代わりであり、彼の耳は4千年の間に神が聞かれた耳の代わりであり、彼の口は4千年の間に神が語られた口の代わりだったのです。彼の感情も身体も同じく、神の歴史的な代替物として現れた存在でした。イエスは歴史的な実体であり、歴史的な結実体だったのです。
それゆえにイエスも、「私は律法を完全にするために来た」と語られました。その目的は一貫しており、神の心情と摂理を完成させるためだったのです。
イエスはユダヤの国とユダヤの民を見つめ、またユダヤ教の教団を見つめながら、4千年間神の愛の領域の中にあった国であり、民族であり、教団であったにもかかわらず、「今や神が抱いて愛することのできない国、民族、教団になってしまった」と嘆かれました。彼らは4千年の間、神の摂理の歴史を歩んできたにもかかわらず、その4千年の歴史の主人として来られたイエスを認識できませんでした。
これはどういうことでしょうか?その当時の人々はそれを理解していませんでした。4千年の歴史の終わりの時代に生きていたイスラエルの民は、4千年前、堕落直前のアダムとエバが神の愛の領域の中に抱かれていたように、自分たちもその一部であり、分子であることを感じ取るべきだったのです。
もし神の摂理が復帰の摂理であるなら、復帰とは失われたものを取り戻すことです。神が探し求めておられるのは何でしょうか?それは失われた息子娘です。失われたアダムを探し、失われたエバを探しておられるのです。
今日ここに集っている私たち、終わりの日に直面している私たちには、6千年もの間、死ぬことなくサタンと戦い抜いて勝利を収めた祖先が必要です。つまり、堕落の縁を断ち切り、勝利の権威を持って父の前に誇りをもって立つことのできる祖先が必要なのです。本来、善なる祖先となるべきアダムが堕落し、死んだアダムとなってしまったため、神は堕落していない実体を探し求めるために、アダムから始まり6千年もの間苦労され、その実体を希望しながら探し続けてこられたのです。
今日、キリスト教で語られるイエスについての教えには多くの内容がありますが、実際にはそうではない場合もあります。私たちはそのような固定観念を打ち破り、強い覚悟をもって歩み出さなければなりません。真実と偽りがあり、さらに真実のようなものと偽りのようなものも存在します。私たちは真実を見極める必要があります。
今日、私たちがイエスを正しく知り、迎え入れることができなかったと言うのはなぜでしょうか?それは、エデンの園でアダムとエバが堕落し、神のもとで成長できなくなった後、サタンと対決しながら戦い続けた4千年の歴史の末に、ようやくユダヤの国に現れたイエスをイスラエル民族が知らなかったからです。当時のイスラエル民族がイエスの前に降伏していれば、モーセがイスラエル民族を率いたときの失敗も、ノアの家庭が失敗したことも、アブラハムが献祭を間違えたことも、アベルが殺されたことも、すべて勝利へと帰結することができました。イエスとはそのような存在でした。歴史の中で実体として現れた、生きた摂理の実体です。アダムは死にましたが、アダムを立てようとされた父の心情は死なず、それが生きた実体としてイエスの中に現れたのです。
終わりの日には、多くの人が自分を中心に「私は宇宙の中心だ」といったような宗教観を持って登場します。しかし、4千年、さらには6千年を経て進められてきた神の摂理の目的は何でしょうか?それは失われたものを取り戻すことです。アダムが失敗したために代わりに送られたイエスとはどのような方でしょうか?それは第二のアダムです。聖書にもイエスを「後のアダム」と記されています。イエスを神そのものとする教えもありますが、それは正確ではありません。
真の息子、すなわち神が「これが私の息子だ」と言える第三のアダムが必要です。この第三のアダムの使命が終わり、真の息子としての立場に立つまでは、どれほど「花嫁」や「養子」と称されようとも、完全ではありません。イエスも「息子」としての栄光を持ってこの地上に来られましたが、息子としてのすべてを果たすことはできませんでした。すべてを果たすには、天の手続きを完了する必要があり、そのためには「息子」だけでは不十分で、「花嫁」を持たなければなりません。
エデンの園で失われたのは何ですか?アダムとエバです。彼らは人類の真の祖先となるべき存在でした。しかし、その真の祖先を失ったため、真の祖先を復帰する必要があります。
イエスは父の位置に相当する存在です。人類の真の父に相当する方です。そして聖霊は母の位置に相当します。人類の真の母に相当する方です。このように、霊的に真の父と真の母を立て、それを実体としてこの地上に顕現させることが再臨の目的です。
人類の前に真の息子娘が現れる時が「終わりの日」です。その時とはどのような時でしょうか?それは、真の祖先を失ったことで堕落した子孫となり、真の父母と血統的な縁を結べなかった私たちが、反対の道を通じてエデンの園で失われた息子娘を探し出す時です。この逆さまの歴史、復帰の歴史を通じて、神との縁を結び、その人々を養子から直系へと昇進させるのが神の摂理の歴史です。もしこの話を聞いて「間違っている」と思うなら、霊界に行って直接尋ねてください。「ある時、誰々がこのように言っていましたが、その言葉は正しいですか、それとも間違っていますか?」と。きっと間違いないと言われるでしょう。
幻想的で空想的な信仰の時代は過ぎ去りました。観念的な神を信じ、その理念のもとで生きる時代も過ぎ去りました。これからは、骨と肉が心情に一致する基準を持って、神を「父」と呼び、その父が6千年にわたって歩まれた心情を今日の自分の心情に結びつけることが求められます。そして、その心情的基準を通じた立場から、神との父子の関係を誇ることができる位置に立たなければなりません。
天を探し求める人類、または目的の世界を目指す人類は、この道を歩まなければなりません。そのために、東洋では三綱五倫を立て、「天に心を尽くし、忠臣となれ、貞節な婦人となれ」と教えてきたのです。このように、東洋では内面的な思想を中心に進んできました。一方、西洋は外面的なアプローチをしてきました。時間が経てば、その違いが明らかになるでしょう。
養子たちが栄える時代はこれまでの20世紀の文明です。そして、これから真の息子娘が栄える時代は理想世界です。神が存在するならば、それが道理でしょう。昔は他人の子供たちがよく生きる時代でした。現在は、イエスの理念を中心として民主主義陣営を基盤にした養子たちがよく生きる時代です。そして、この時代を超えて、真の息子娘がよく生きる時代がクリスチャンたちが待ち望む再臨時代であり、理想時代です。
では、そのような立場に立つ真の息子娘となり、神が探し求める一時、一瞬に「真の息子娘」の名分を持って現れるには、どうすればよいのでしょうか?「私は何十年も信仰してきました」と胸を張るような小人物ではいけません。また、「私はある教会の牧師であり、ある教会の指導者です。私のおかげで多くの人々がイエスの名前を知り、彼に従いました」などと自慢する人々も不十分です。
その理由は何でしょうか?それは、神が6千年間という長い歴史を摂理してこられた間、一日たりとも、たった一時間たりとも真の喜びの日を持たれたことがなかったからです。真の息子娘を探し求める父が、まだその息子娘を見つけられていないのに、どのようにして喜びがあると言えるでしょうか?
歴史を通じて、人類は喜びの時間を持ち、享楽を楽しんだ人々も多かったかもしれません。また、ある支配者たちは自分の権力を中心に神に代わって栄光を享受したかもしれません。しかし、4千年、6千年の歴史を苦労しながら、真の息子娘を切望し探し求めてこられた神には、そのような時間は一度もありませんでした。栄光を享受し、喜びを味わうべき神は、いまだにそのような時間を持たれていないのです。
神は悲しみの主人公であり、苦しみの主人公です。私たちが迎えるべき父は、喜びと栄光を味わいたいという願いを持ちながらも、その願いを実現できず、喜びも栄光も享受したことのない神です。その代わりに何を持っておられるのでしょうか?それは、堕落の恨みとともに、悲しみと苦しみの内容を抱え込まれた、悲しみの神であり、苦しみの神であるということです。
そうではありませんか?
今日、私たちは天国を幸福の楽園だと思っていますが、決してそうではありません。実際に行ってみてください。どれほど喜びの要素があるかと隅々まで探しても、そうはなっていません。神が世を治める権威を持ち、栄光を享受し、幸福を歌うべきであるにもかかわらず、神には喜びや栄光、善の結実、理想的な要素がすべて失われ、悲しみと苦しみだけが残されています。これがどれほど無念なことでしょうか。この無念さに満ちた神の前で、「父よ」と叫びながら骨身に染み入る悲しみを感じ、身をもって苦しみを共有する人こそ、天に近い息子娘であると言えます。
**イエスはこの地上に万王の王として来られました。**天から指導者としての権限を認められ、地上に現れました。しかし、生まれたその日から、彼には一時間の喜びさえありませんでした。彼は地上の人類のため、全ての民を救う救い主として現れましたが、その身には栄光が訪れることはありませんでした。栄光が訪れる前に、彼は苦しみの世界を通らなければならず、悲しみの道を歩まなければなりませんでした。
なぜそうだったのでしょうか?
それは、イエスが4千年の歴史を蕩減しなければならない立場にあったからです。万王の王となるためには、まず悲しみの王子として合格し、次に苦しみの王子として合格しなければなりません。そうでなければ、天の悲しみを通り抜けてきた無数の霊人たちを慰めることができないからです。
イエスの道は、ただ栄光の道ではなく、苦難を通じて全てを清算し、真の救いをもたらすための道だったのです。
そのため、イエスの30余年の生涯、特に3年間の公生涯の道は、悲しみの道でした。イエスは涙を流しながらも、4千年の歴史の中で先祖たちが流した涙の谷間を彷徨いました。4千年の歴史の中で血の滲むような死の峠を越え、天に向かって叫び続けてきた人々の跡を引き継ぎ、その苦労を背負われました。そして最終的に彼の道は、十字架の道でありました。私たちはイエスを愛の王子、幸福の王子、栄光の王子だと考えていますが、実際には彼は苦しみの王子であり、悲しみの王子だったのです。
終わりの日の裁きの時が来るでしょう。その裁きの日、天はどのような内容をもって現れるでしょうか?「私はこのような栄光と幸福を持っているが、なぜお前たちはそれを持たないのか」と問いかけることはありません。裁きの内容は、6千年にわたる悲しみの人類の歴史と悲しみの神の歴史、苦しみの人類の歴史と苦しみの神の歴史をお前たちは知っているのかということです。その歴史の中で、神が手を差し伸べられた跡があることを認識しているかどうかが問われるのです。
そのような神の前に立ち、息子としての栄光を求める者、娘としての希望を求める者に対して、神は尋ねられるでしょう。「お前はこの歴史と共にどれほど悲しみ、どれほど苦しんできたのか」と。その時、「ありません」と答える者は、息子としての栄光を得ることができません。
神が6千年もの間戦い、耐え忍んでこられた歴史を知り、その心情と苦労に共鳴する者だけが、神の息子娘として認められるのです。それは、栄光のための資格ではなく、悲しみと苦しみを共にする資格だからです。
見てください。イエスの手と足には釘の跡が残っています。イエスの頭には茨の冠が被せられ、イエスの胸には槍の傷跡が残っています。イエスは死なれましたが、悲しみの王子として、苦しみの王子として合格し、神の恨みを清算するために死の峠を越えなければならなかったのです。しかし、今日の多くのキリスト教信者はそのことを知りません。イエスは心情において合格者であり、心情の指導者としての権威を持って現れたのです。
救い主とは何でしょうか?身体の救い主ではありません。イエスは骨の髄まで染み入るように愛おしく、会いたくてたまらず、永遠に共に生きたいと願われる心情の救い主です。心情に染み入る内容を持ち、その心情を掴んで神の悲しみを押し出し、歴史的な神の苦しみをこの人間世界から取り除くことができる心の基準、一途な心情をもってイエスは救い主となったのです。
このような内容をもう一度よく考えてみましょう。終わりの日は確実にやって来ます。その時、天はどのような基準で裁きを行うのでしょうか?はっきりと知ってください。それは揺るぎない事実です。信仰している人も、これから信じようとする人も、しっかりと理解する必要があります。
終わりの日に、神は喜びの内容で微笑みながら現れることはないでしょう。主も同じです。復活されたイエスを見て、マグダラのマリアが「主よ!」と叫んで抱きつこうとした時、「触れるな」と言われたのはなぜでしょうか?それは、悲しみを抱えるイエスの心情、苦しみを経験したイエスの心情、天倫の苦難と悲しみの道を通じて初めて、イエスを抱きしめることができるということを示しているのです。
私たちは、この事実を深く理解しなければなりません。イエスを知ることは、彼の苦しみと悲しみを知り、その心情を共有することなのです。
皆さんが自分自身で深い悲しみの涙を流し、苦しみの境地に入り、「父よ」と呼ぶことができるようになった時、父の姿を一度見上げてみてください。父の目は、6千年もの間、涙が止むことのなかった目です。父の耳は、6千年もの間、すべての敵の嘲笑と非難、侮蔑を絶え間なく受け続けた耳です。父の口は、6千年もの間、語りたいことも語れず、飢えた人類と共に飢えに苦しんだ口です。父の手は、血の涙と血の汗が染み込んだ手であることを私たちは知らなければなりません。父の足もまた、何百回、何千万回と死のゴルゴタの険しい山を越えてきた足です。父の身体には、傷つき、無念のうちに打たれた跡が残っています。
では、この父がなぜそのような苦しみを受けたのでしょうか?それは、哀れな人類のためでした。このことを思うとき、私たちは限りない感謝と恥じ入る気持ちを持たなければなりません。「私のような罪人は、何千万回死んでも父の悲しみを防ぐことができず、何千万回死んでも父の涙を拭うことはできません」という思いに深く染み入って、初めて「父よ」と呼ぶべきです。
皆さんはそのように父を呼んだことがありますか?もしないのであれば、悔い改め、悔い改めるべきです。父の苦しみを知り、その悲しみを共にする心を持たなければ、真の父子関係には至れません。
私たちは裁きの日を恐れの一日と信じ、その日を避けようとしています。しかし、イエスは「全世界の誰よりも私を愛しなさい。十字架を背負って私についてきなさい」と宣言しました。これが絶対的な第一の鉄則であり、聖書の中でも最も重要な内容であり、福音の核心中の核心です。歴史の悲しみを自分の悲しみとし、歴史の苦しみを自分の苦しみとして、歴史と共に生きたと言える存在でなければ、歴史と共に戦い抜いてきたイエスと、歴史と共に摂理を進めてこられた神の裁きの場に立つことはできません。
今日、多くの信者たちは、裁きの日に主が現れ、すべてを準備して栄光の世界で空中の婚宴を開き、自分をその宴に招いてくれると信じています。しかし、それは幼稚な空想です。もしそうならなかったら、彼らはどうするでしょうか?そのような人々は神を恨み、イエスが再び来ても反対することでしょう。
**私たちは父の前に置かれた歴史的な罪状の前で、傷つき、弄ばれた血統を受け継いだ子孫です。**したがって、何度弄ばれようとも、歴史と共に悲しみを背負ってこられた神の労苦と神の悲しみの前に、無限の感謝と畏敬の念を持たなければなりません。しかし、神の救済摂理という父の意志があるからこそ、「できるならば、もし可能ならば、どうか憐れんでください」と願うしかありません。
天国とは何でしょうか?
もしこのような心情を持たずして天国に行けるのであれば、誰でも天国に行けるでしょう。しかし、天国はそのような場所ではありません。神の心情に共鳴し、歴史の悲しみと苦しみを自分のものとする人だけが、天国に入る資格を持つのです。それは単なる安易な信仰や期待では達成されません。神の心情を知り、体験することが求められるのです。
裁きの場に立たなければならない今日の私たちは、まず神が無限の悲しみの中におられることを宣言しなければなりません。そして、神がこのような歴史の道を通ってこられたということを宣言する必要があります。
神の悲しみとイエスの悲しみとは何か?
それは、真実であり正しい立場におられながらも、偽りや偽装によって踏みにじられることです。これ以上の悲しみはありません。
イエスの苦しみとは何でしょうか?それは、愛する息子娘を探し求める道を遮られ、愛する花嫁を探し求める道を遮られ、踏みにじられることでした。これ以上の苦しみはありません。
息子娘を探し求める道、息子娘と出会う道は、ゴルゴタの丘を越えなければならない道でした。そのため、イエスの時代のゴルゴタが残されていると同時に、終わりの日には世界的なゴルゴタの道が残されているのです。
今日の信者たちは、天の栄光を担って再臨される主の栄光を見つめることを再臨の理想としています。しかし、復活されたイエスにただ会うだけを期待してはなりません。復活されたイエスが現れる前に、私たち自身が生きながら世界的なゴルゴタの峠を越えることを知らなければならないのです。
世界的なゴルゴタを越えるとはどういうことでしょうか?
それは、自分の心、血、肉、そして命そのものを懸けて、死ぬか生きるかの分岐点に立ちながら「父よ、私の願いではなく、父のご意志が成されますように」と祈ることです。この覚悟がなければ、終わりの日に耐え抜くことはできません。
聖書には、終わりの日に7年の大患難があると記されています。その試練の中で最後まで耐える者が救われるのです。それは単なる信仰の表明ではなく、試練と苦難を通して神の心情を深く理解し、共に歩む者に与えられる救いです。
主の花嫁として歓喜の主の園に参加できる者は、6千年の歴史の道程で苦しみに立ち向かい、勝利した勝利の王子であり、また人類を代表して悲しみの心情を担った悲しみの王子でなければならないことを理解しなければなりません。このような人物こそ、主が花嫁として迎えようとされているのです。
なぜ幸福の要素が否定されるのか?
神はまだ一度も喜びを経験されたことのない方です。神は、ご自身が創造された被造物においても、真の主人として振る舞うことができませんでした。さらに、アダムとエバという、一つの家庭を中心に祝福を与え、喜びを味わおうとされたその存在さえ、サタンに奪われてしまったのです。このため、天と地に嘆きが広がりました。
神の直接的な主管下にあるべきすべてのものがサタンの主管下に入り、息子娘はもちろん、万物までもが踏みにじられる状況をご覧になった神の悲しみを超える悲しみがどこにあるでしょうか?それでも神は、「悲しい」と言うことすらできる相手がいなかったため、その悲しみを胸に秘めながら、歴史と共に、再び悲しみを重ねてこられたのです。
皆さんはこの神の心情について考えたことがありますか?
神は、誰にも言えない悲しみを抱え、孤独に耐えながら、歴史を通じてその悲しみを繰り返し経験されてきたのです。このような神の心情を理解し、共有しようとする心構えを持つことが、真の信仰の基本であり、主の花嫁としてふさわしい道なのです。
統一信徒の皆さん、あなた方は確かに哀れな立場にあるかもしれません。
しかし、もしあなた方が、2千年間、あるいは6千年間、イエスや神が耳で聞かれたような声を聞くことができるなら、そのことに感謝すべきです。また、目の前の民族を見つめて涙を流し、世界の人類を見て「これはどうしたらよいのか」と胸を叩きながら涙を流せる立場にあるなら、そのことをありがたく思うべきです。
もし、食べるものがない、あるいは食べていても喉が詰まり、言いたいことを抑えざるを得ない立場にあるなら、その口は祝福された口です。また、手があり、戦う力があってもサタンと血みどろの戦いをできない無念さを感じているならば、それにも感謝すべきです。サタンの勢力が迫り来る中で、勇敢に足を踏み出す力があっても、その力を抑え、一日を待ちわびる悲しみの心情を抱えているならば、そのことにも感謝すべきです。
神は遠くにおられる方ではありません。
神は、遠いと感じる時ほど近くにおられ、近いと感じる時ほど遠くにおられます。歴史の道のりにおいても、神の前に近いと誇っていた人々からは遠く離れ、遠いと恐れ多く思う人々には近く寄り添ってこられました。
この神の逆説的なご臨在を知ることが大切です。
神は、自分を低くし、神の心情を深く理解しようとする者にこそ、近くにおられるのです。このような心構えで歩む信徒たちこそ、真の信仰者として成長していけるのです。
苦しみが増すからといって嘆かず、迫害に直面するからといって嘆かないでください。その代わりに、こう祈ることができるようになりましょう。
「父の心情に宿る悲しみを私に与えてください。父の心情に深く刻まれた絡み合う苦しみを私が背負わせてください。もしサタンの訴えやサタンによる踏みにじりがあるならば、その訴えをこの私一人に受けさせてください。そして、歴史的な悲しみを全て蕩減し、苦しみを全て清算できるようにしてください。」
このように父を呼び、涙に満ちた心情と涙に濡れた手で必死に祈る息子娘がいるならば、その者を父はしっかりと抱きしめてくださるでしょう。それは間違いありません。
私たちは栄光を求めているのではありません。
たとえ栄光があるとしても、それは父のものです。私たちのものは、苦しみと悲しみだけです。しかし、その苦しみと悲しみを命の要素として消化できる心を持つべきです。そして、神が「おお、我が息子よ、我が娘よ」と抱き寄せてくださったとしても、その目を見上げるのも恐れ多いと感じる心を持つならば、裁きの日、悲しみの歴史と苦しみの歴史を前にしたその宣言の日に、たとえ膝をつき、顔を上げることができなくても、天の手は必ずあなたの上に留まるでしょう。
真の信仰者は、喜びを求めるのではなく、神の悲しみと苦しみを自らのものとして受け入れる覚悟を持つ者です。その覚悟こそが、裁きの日に救いを受ける基準となるのです。
私たちは、悲しみの中で天国を切望し、苦しみの生活の中で天国を切望し、悲しい歴史の中で悲しむ主を迎えて慰め、苦しみの歴史の中で苦しむ主を迎えて慰める心を持たなければなりません。このように、悲しみを体験し、苦しみを受け入れる中でも、さらなる悲しみが加わったとしても、その場に神を迎え、神を慰めることのできる者がいるならば、どれほど栄光を捧げて慰めた者であっても、その者には及びません。これこそが私たちの目指すべき基準であり、統一信徒が進むべき道です。
統一信徒の歩むべき道
追い詰められ、蔑まれ、孤独で、果てしない悲しみの中にあっても、悲しむ神を迎え、その苦しみを抑え、その悲しみを抑えながらも、父を慰め、父の苦しみを再び背負おうとする者こそ、終わりの日の裁きの場に残る者です。
ここで必要とされるのは、多くの人数ではありません。数の多さではなく、神の悲しみと苦しみを感じ、断食しながらでも「父よ、私だけがこの状況にいるのではなく、世界中の人々が同じような苦しみの中にいます。私よりもさらに哀れな立場にいる人がどれほど多いことでしょうか」と言い、さらに人類の悲しみを自分の責任として引き受けようとする者が必要なのです。
イエスが歩まれた道はまさにそのような道でした。
イエスは、自分の苦しみだけでなく、世界中の人々の苦しみを自分のものとし、それを背負いながら神を慰めるためにその道を歩まれました。この道こそが、私たちが進むべき道です。栄光や喜びを求めるのではなく、悲しみの中で神と共に立ち、慰める心を持つことこそが、私たちの真の使命なのです。
皆さん、天は真の息子娘を探し求めてこられました。
もし、あなたが父の手を握りながら「その手は、かつて私が歩んだ道を思い起こさせる手だ」と感じ、父の姿を見て「かつての私の姿と似ている」と思い、さらに父の心情と焦燥感に触れ「それはかつて私が感じた心情と焦燥感に似ている」と思う立場で「父よ」と呼ぶことができるなら、その一言は歴史上のすべての不幸を取り除き、幸福の決定的な条件となることを、今日の私たち、クリスチャン、そして世界中の信徒たちは知るべきです。
今、ここにいる皆さんへ
ここに参加された皆さんが、どのような事情やどのような心情を持っていらっしゃるかは分かりません。しかし、今心に感じている何かがあるならば、それは偽りではありません。
もし、「そうだ、それが正しい。それが私の進むべき道だ」と感じ、それに基づいて一生を覚悟し、それを決意し、それと共に戦い、それと共に倒れる者がいるならば、その者こそ、来るべき裁きの日に神が抱きしめてくださる真の息子娘となるでしょう。それは間違いありません。
真の息子娘の条件
真の息子娘となるためには、父の心情を深く理解し、その苦しみを自分のものとして受け入れる覚悟が必要です。そして、その心情に基づいて生き、戦い、時に倒れることがあっても、その心を失わない者が、神の愛の対象となり得るのです。
この決意を持つ者が、最終的に裁きの日に神の心に触れ、天が求める息子娘として迎えられるのです。あなたが今感じている思いを大切にし、それを行動に移すことこそ、あなた自身を真の信仰者へと成長させる道となるのです。
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