人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集7(5)

2025年01月05日 15時23分48秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉選集 7 - 5 神様の競技場に立つ人々 (1959年8月9日)
1959年8月9日(日)、旧本部教会
コリント人への第一の手紙 9:14-27




1
<祈り>


父なる神様、この日は多くのあなたの息子や娘たちが羊の群れを集め、あなたが残された摂理の御心を受け継ぎ、その命令の言葉を分かち合う時間であることを知っております。彼らの心と思いに同じ恵みで働いてくださいますようお願いいたします。


私たちもその一部の姿として父なる神様の御前に集いました。どうか、立っている姿を憐れんでくださり、座っている姿を憐み見守ってくださいませ。


今、私たちの中に、自分を中心としたいかなる主義や主張、あるいは自分が感じている意識的な観念があったとしても、これらすべてを取り除いてくださいますようお願い申し上げます。私たちは新たに創造されるべき運命に置かれており、復帰の恨みを未だに拭えない者たちです。たとえ天の御前で堂々と何かを主張するものを持っているとしても、それが父なる神様の御前では何の理念的な条件にも、対象にもなり得ないことを悟りました。


どれほど私たちが天の御前で自分を弁明し、自分の困難を訴えたとしても、父なる神様の無限の善と労苦の前には、比較することもできない哀れで惨めな姿であることを知っています。


今、私は自らが自分であるのではなく、私が「私」ではないことを悟りました。そして、私を「私」にしてくださった本然の存在を慕い、本然の心に溶け込み、本然のその主人の前で頭を垂れるこのひとときをお許しください。


2


万物宇宙の絶対的な主人がいることを心では知っています。そして、その存在が私たちのすべての行動を制約していることを知るとき、それは無目的な縁の中で起こるものではなく、絶対的な目的によって制限された環境の道を進まねばならない運命を背負っている存在であることを感じられる子どもたちにしてください。


今、父なる神様の栄光に満ちた御座を思い描き、父なる神様の御膝元に集いました。しかし、私たちの心がどこへ流れていくのか、またどちらを向いて動いているのか分からずにおります。父なる神様、どうか本然の私自身が天と共に喜び楽しむ方向へと導いてください。たとえ私たちの顔が恥ずかしく、視線が恥じらいを帯びていようとも、父なる神様への想いが募る心から「父よ!」と叫び、拙い手を差し出すならば、その手を父なる神様が握りしめてくださるとの約束が与えられるひとときとなることを心から願い、切に祈ります。


私たちは礼拝をする際にも、父なる神様の御心を握りしめて礼拝したいと願い、父なる神様との深い縁を結びたいと願っています。それ以外のすべてのものを望んでおりません。天の国の金銀財宝のような輝かしく栄光に満ちた条件が備わっているとしても、それを望むことはなく、ただ父なる神様の御心を握りしめ、父なる神様と共に暮らすことができる、その一つの約束、その一つの生活的な真実だけを求めております。


そのようなことが永遠に誇ることのできる栄光の証となることを願いながら、私たちは父なる神様の御前にひれ伏しました。この日に私たちが至らぬところがあったとしても、どうか父なる神様、お許しください。御心を成し遂げたいという願いを成し遂げてくださり、父なる神様と私たちとの間に決して切り離すことのできない親子の絆を結んでくださることを、心から願い求めます。


多くの人々が「父よ」と呼び求めておりますが、父なる神様の事情や御心を知ることなく呼び求めている者もおります。私たちはそのような息子や娘であることを望んでおりません。「息子の中には息子のような者もおり、養子もおり、真の息子もいる」とありますが、私たちは息子のような者も、養子も望んでおりません。父なる神様の心の中で永遠に消えることがなく、その骨と肉が父なる神様と永遠に結ばれた事実を否定できない、父なる神様と永遠に共に住むことのできる直系の血統の真の息子娘、血と肉を継いだ真の息子娘となることを願っております。


3


そのような息子娘となるためには、父なる神様が受けられた苦痛が私たちの苦痛となり、父なる神様の悲しみが私たちの悲しみとなり、父なる神様の悔しさが私たちの悔しさとなり、父なる神様が成し遂げねばならない責任を私たちが背負わねばならない責任として感じられねばならないことを悟ります。そのような私たちとなることを、どうかお許しくださり導いてくださいますよう、心から願い、祈ります。


父なる神様、今ここに立ち、何を語るべきでしょうか? 私たちは父なる神様の息子娘になりたいと願っています。しかし、もしこの時間に父なる神様がその御心を私たちに感じさせてくださらず、私たちと絆を結ぼうとされる事実を感じられないなら、どれほど素晴らしい言葉であっても、父なる神様と私たちとの間には何の縁も結ばれないことを知っています。


ですから、どうか父なる神様の御心に触れ、父なる神様の心を通じ、父なる神様の体に寄り添うことのできる、このひとときをお導きくださるよう、心から願い祈ります。


どうか語る者の心が父なる神様の心に溶け込むことを許してください。そして聞く者の心が父なる神様の御心に反応し、与え、受け取る栄光の時間となりますように。私たち自身のすべてを失い、再び形作られ、本然の姿を取り戻し、父なる神様の御心に従って動くことができるようお導きください。そして、父なる神様の本然の御性を慕う自主的な働きがこの時間に起こるようお許しください。


また、この日、地方に散らばりながらも厳しい迫害の矢を受けつつ、天を仰ぎ訴えている孤独な家族たちを祝福してください。こうした道に追いやられるのも、父なる神様の御心があるからこそであり、この道こそが、行かざるを得ない最後の運命の道であることを知っています。私たちが心に決めた決意と、私たちの行動が勝利の条件となり、父なる神様に捧げられる捧げ物となりますように。どうか、父なる神様の約束の中で生きる息子娘として私たちを形作ってくださるよう、心からお願い申し上げます。そして、この時間、サタンが入り込むことがないようお守りください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


4


<御言葉>
コリント人への第一の手紙9章24節にこうあります。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を得る者はただ一人であることを知らないのか。あなた方もそのようにして賞を得るよう走りなさい。」


この御言葉を中心として、「神様の競技場に立つ人々」という題で、しばし皆様の前でお話ししたいと思います。


歴代の多くの預言者たちがそうであったように、現在生きている人々も、自分でははっきりと理解していなくても、何らかの目標に向かって人生という道を走っていることは確かです。その目標がどれほど漠然としていようと、目標を前にして生活の形態が様々に展開され、また、民族や歴史の形態も様々に展開されてきたのです。


こうしたすべての事柄が、何の縁もなく結果として現れたわけではありません。必ず何らかの縁のもとで現実に適合し、特定の目的に向かって動いてきたという事実を、私たちは知らなければなりません。もしそのような縁や目的を中心として動いていないのであれば、「神」やその存在を立証することさえできないでしょう。


もし神が存在するとするならば、神は堕落した人類に対して縁を結ぼうとされるに違いありません。したがって、私たちが何らかの目的に向かって進む存在である以上、その縁の中で生きているという事実を否定することはできません。


5


人間が堕落したことにより、神と善の縁を結ぶことができず、サタンと悪の縁を結んでしまったということを私たちは知っています。それにもかかわらず、神はそのような悪の縁を持つ私たち人間を捨てるのではなく、再び見つけ出そうとしておられるのです。そのために、神と私たちは人類の歴史という道を共に進みながら、絶えず取り戻すための闘いを続けてきたという厳然たる事実を私たちは理解する必要があります。


歴史の方向性は、その目的を成就する一時に向かって動いています。ですから、皆さんは日々の生活を通じて、自分の良心を基準とし、その目的地に向かって走る一人の競争者であることを知るべきです。この地上に生まれ、去っていった誰もが、神の復帰摂理の競技場に立っていた存在であったということを私たちは理解しなければなりません。


神は堕落した人類を前にして、多様な形で摂理を進めておられます。民族が異なればその民族に応じて、思想が異なればその思想に応じて、また伝統が異なればその伝統に応じて、神は歴史の背後で様々に調整を進めてこられました。そして、神が定められた一つの目的が成就する時、つまり一つの競技が行われ、その競技の幕が下りるその瞬間まで、神は私たち人間と共に、悪を滅ぼすために戦っておられるという事実を、私たちは知らなければなりません。


それでは、誰であれ、このような競争者としての立場に立つ存在であると認めるならば、私たちはどうすべきかという問題に直面することになります。天が労苦して立ててくださった自分自身であることを知り、この競技場に立って走らなければならないと理解するなら、天は私たちにどのような訓練を課し、この競技場で走らせるのでしょうか。そして、私はどのような試練とどのような道を経て、その目的地まで走るべきなのでしょうか。これは、誰もが共通して解決しなければならない重要な問題です。


過去にこの世を去った預言者や先達の中には、この競技のプログラムの一部を担い、ある基準を立てていった人々もいたでしょう。つまり、これらの預言者や先達たちは、最終的な幕が下りるその瞬間までの競技全体、すなわち天の全体的な摂理をすべて経験したわけではなく、その一部一部を担い、それを終わらせ、次へと進めていったという事実を私たちは理解しなければなりません。


6


神はこのような復帰の競技場を設けられました。したがって、この場に立つ私たちは、自分の命を懸け、生涯を通じて走る存在であり、走らなければならない存在であり、走らないわけにはいかない存在であるという事実を知らなければなりません。


今日、この地上を見渡すと、多くの主義思想があります。また、宗教界を見ると、宗派も多く、教派も多いです。民族が異なることによって、その民族に基づいた主義や、その民族のために現れた宗教など、さまざまな形が展開されています。しかし、それらの主義や宗教は、本来、神の摂理プログラムの全体的な内容を備えたものであるべきでした。それにもかかわらず、そうならなかったのです。それらは、ある特定の民族や時代に対応する主義や宗教の形態に過ぎませんでした。


これらは、神の競技場において全体の一部分にすぎず、特定の部分の使命を担った主義や宗教であったということを、私たちは知るべきです。


競技場に行くと、100メートル競走や200メートル競走、さらには5,000メートルや10,000メートル競走があり、最終的にはマラソン競技があります。同じように、皆さんは復帰摂理を進める神の競技場に立つ存在です。そこで、どの競技を引き受け、どのようにして宇宙史の前に立つことができるか、それが問題です。各人の価値や人格に差があったとしても、特定の分野を定め、その競技種目で責任を果たし、天が望む基準を立てることを、神は確かに待ち望んでおられます。皆さんはそのような競技場に立つ者として、命を懸けて走り続けなければなりません。生涯を通じて、どの競技で何を成し遂げ、神の前に立つべきかを私たちは知る必要があります。


神は6千年の間摂理を進めてこられましたが、全体を見渡しても、神の競技のすべての種目がまだ終わっていません。今も競技は続いており、今日も、そして明日も走り続けなければなりません。この競技が終わるとき、神は全世界の人類、さらには過去に生きてきた無数の人々、そして競技が終わるまで生きる多くの人々に対し、それぞれの競技種目に応じた賞を授けられることでしょう。その賞を授ける日がいわゆる「審判の日」です。審判の日とは、実際には賞を授ける日なのです。今日の時代的な表現を用いるなら、それは「終わりの日」と言えるでしょう。


7


それでは、皆さん自身に戻って考えてみると、皆さんは一つの競技種目で賞を受けるにふさわしい勝利の基準を立てたでしょうか。それが問われるのです。これは、皆さん自身が反省しなければならない問題です。走るという行為にもさまざまな状況があります。競技場に入り、正しいコースを走るべきなのに、自分勝手に競技場の外を走る人も多いでしょう。また、競技場に入って正しいコースを走りはするものの、力が足りず途中で倒れる人もいるでしょう。そして、最後まで走り切ったとしても、賞を受けられない人もいるかもしれません。賞を受ける人は限られています。このことを私たちは知らなければなりません。


神は6千年間摂理を進めてこられましたが、いまだ競技者たちに直接賞を授けることができない立場におられます。だからこそ、神が全世界の人類の前に現れ、これまで走り続けてきた多くの競技者たちに、それぞれの競技種目に応じて賞を授けるその一日を、霊界の霊人たちも、地上の私たちも待ち望んでいます。この日が終わりの日なのです。このことを皆さんは知る必要があります。


私たちはこのように走り続けるべき存在です。それでは、どうせ走るべきなら、どのように走るべきでしょうか?競技場に立つ者として必要なのは「準備」です。それも、内的な準備と外的な準備の両方が求められます。


内的には、まず自分がどの目標に向かって走っているのかという信念が必要です。「このような指示のもと、このようなコースを走らなければならない」という認識を持ち、そのコースに障害物がある場合、それを乗り越えるための確固たる信念を持たなければなりません。そして、この信念を中心として、実際に正しい目標に向かって走り続けるための内面的な準備が必要です。


具体的には、心と体を鍛え、最終的な目的地に到達するまで倒れないという意志、また誰にも負けないという意志、さらには最終的な勝者として立つための意志を固めることが求められます。そして、最終的な目的地まで進む中で、自分がどのような障害に直面しても、それを乗り越えて走り続けるという決意が必要です。


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一方で、外的には、実際の競技者としての態勢を整え、目標に向かって走る意識と準備が必要です。しかし、今日の地上には、多くの人がいるものの、競技者としての意識を持ち、目的地に向かって走る準備をしている人がどれほどいるでしょうか?言葉だけでなく、歴史の動きに巻き込まれ、その中で実際に行動する自分であることを認めるならば、自分自身が競技者としての準備を整えているかどうか、反省する必要があります。


人間はどの分野であっても、何かに属し、目指すべき位置や目標を持たなければ、哀れな存在となります。どの目標に向かい、どのコースを走るべきかという明確な視点がない人は、不幸な人です。そして、私たちの多くがそのような状態にあるのです。


そのため必要なのは、「自分はこの目標のもとで、これだけの覚悟で心と体を鍛え、多くの敵と戦い、勝利しなければならない」と自ら準備する時間を持つことです。そのような準備の時間を持たない人がいるならば、自分自身を振り返る必要があります。


では、私たちはどのような内的準備をすべきでしょうか?それは、個人のための準備ではいけません。例えば、ある国を代表するマラソン選手がいるとしましょう。その選手が走るとき、最終的な勝利を自分の栄光のためだけに目指すのではなく、「自分の背後には、自分を生んでくれた民族があり、世界の前で自国の威信を高めなければならない」という信念を持って走るならば、どのような困難にも耐え抜く余裕が生まれるでしょう。しかし、自分個人の栄光や目標だけを求めて走るならば、困難に直面したとき、容易にあきらめてしまうでしょう。


私たちは個人の栄光のためではなく、自分の背後にある民族、さらには全人類のために走るべきです。そのためには、内的にも外的にも、目的に向かって障害を乗り越え、勝利する準備を整える必要があります。それが競技者としての正しい在り方なのです。


9


私たちが信念を持つ際、それが自己中心的な信念であってはなりません。信念は民族を中心とした信念、さらに世界を中心とした信念、そして最終的には天と地を中心とした信念を持つべきです。「この天地間に存在する被造万物全体の勝敗が自分にかかっている」という信念を持って走るならば、たとえ倒れることがあっても、再び立ち上がって走る余裕が生まれるでしょう。しかし、自己中心的に進むならば、これまで耐えてきた困難を上回る困難に直面したとき、必ず倒れてしまいます。また、自分を中心に望んだ希望を超える困難が押し寄せてきたときには、その希望も打ち砕かれてしまうでしょう。


だからこそ、私たちには心と体を鍛えること、そして天と地に対して使命的な目標のもとで「自分はその目標に向かって走っているのだ」という信念が必要です。そのため、人間は漠然としていながらも神のため、善のために生きるという意識を持っています。


善とは、限られた環境を超越することです。善は制限されたものではありません。制限され、限定された境界線を超えて存在するものが善です。したがって、人間は漠然としながらも、そのような基準のもとで生きているのです。


私たちが目指すべきは、自己中心ではなく、天と地、そして万物のための信念を持つことです。この信念を抱き、倒れても立ち上がり、困難を乗り越え、天と地を超える善の目標を目指して生きることが、真の生き方なのです。


しかし、今日の私たちは漠然としていてはいけません。「自分はどの競技種目で必ず何位以内に入らなければならない」という信念を持たなければなりません。このような信念を抱き、出発点に立って走り出せる人間でなければなりません。過去にこの世を去った聖人たちは、私たち人間に対し、どの事業分野を教えるために存在していたのではありません。どのように事業で成功するかを教えたのでもありません。私たちの人生の進むべき道、心の進むべき道、精神の進むべき道、そして私たちの命が動き進むべき道を指し示し、教えたのです。


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私たちの思想が動きうる道、私たちの命が動きうる道、それは自分個人のためだけの道ではありません。それは未来永劫にわたり、あるいは歴史全体を通じて、どの時代でも公式的であり、共通の道です。私たちは、そのような道で戦い、勝利できる天の民を切に求めるべきです。


その道が自己中心的なものでないとするならば、その目的が成し遂げられる日、私によって天と地がともに喜び合えることになるのです。民族を代表して立つ競技者が優勝する時、その勝利は民族全体の勝利となります。その競技種目が少ないとしても、その価値の栄光は全体に及ぶのです。


したがって、皆さんにはそのような内面的な信念を持つことができる価値ある基準のもとで、その価値ある目標を成し遂げるために自分自身の価値ある信念を鍛える日が必要です。しかし、今日まで皆さんはそのようなことを感じることも、考えることもありませんでした。


私たちはいずれにせよ走り続けている存在です。その結果、敗者になるか、勝者になるかは分かりませんが、勝者となるためには秘訣があります。それは、内的には「勝つ」という信念と目標への不変の心情を持つこと、そして外的には走りやすくする準備をすることです。競技場に出る人は、できるだけ簡潔で単純な状態であるべきです。心の方向に体がいつでもすぐ動ける準備を整えておかなければなりません。そのためには、心と体を鍛える訓練が必要です。


しかし、競技場は目標に向かって自由に走れる場ではありません。この競技場には数多くの障害物が設置されています。それらの障害物は、私たちの先祖たちが敗北して倒れた瞬間の数々なのです。どれほど自分の能力や決意を誇る偉人であっても、これらの障害物に躓いて倒れてしまいました。私たちの前の道には、先祖たちが障害物に躓き倒れた場面が置かれているのです。だからこそ、できるだけ簡潔に、心が動くときに体もすぐ動けるようにする必要があります。そのために、体を自ら鍛える必要があるのです。


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鍛錬は快適な場所では行えません。鍛錬というのは、試練が押し寄せる場で行われるものです。このような内的準備を繰り返し行うためには、内的な衝撃があってもそれを突破できる体が必要です。内的な決意が揺るぐことは許されず、さらに体に降りかかる試練の嵐に直面しても、それに負けてはいけません。


だからこそ、天は道を進む人々に「すべてを捨てて私に従いなさい」と求めます。イエスもまた、網を修繕していたペテロを呼ぶ際に「すべてを捨てて私に従いなさい」と言いました。道を探し求めるために山中で修行することにも、それなりの理由があります。そのような理由があるのです。


したがって、私たちは内的な決意のもと、それに対応する外的な準備、つまり清算の条件を備え、どのような困難に直面しても進み続ける覚悟を持つ必要があります。どん底に落ちても心身を支えられる自分自身を持たなければなりません。そうでなければ、走ることも競技場に立つこともできません。


私たちは、この競技場で一つの種目を選び、それに向かって走る競技者です。目標を達成するためには、揺るぎない信念を持ち、鍛錬しなければなりません。そのため、皆さんは信仰者としての態度、走る者としての態度、道を進む者としての態度を持たなければなりません。昼夜問わず、その目標を克服しようと燃え上がる決意の心が必要なのです。


今日ここに集まった人々の中には、「漠然とイエスを信じれば天国に行ける」と考えている人もいるかもしれません。しかし、天国とはどのようなものなのでしょうか?天国は、さまざまな競技種目を通過したグループごとに構成されています。単に「イエスを信じているから天国に行ける」と漠然と考えるべきではありません。もちろん、天が助けてくださる分野もありますが、皆さん自身が備えなければならない分野もあるのだということを理解する必要があります。


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競技者として準備すべきことは、内的準備と外的準備を整えることです。その次に競技者として知っておくべきことは、自分が走るべきコースについて明確に理解することです。どこに何があるのか、またどこにどのような障害があるのかをはっきりと知る必要があります。


さらに、知っておかなければならないのは、このコースは過去にも多くの人々が走ったが、失敗したコースだということです。すべての人が走ったからといって勝利したわけではなく、途中で諦めてしまったコースであることも理解しなければなりません。


道の道はそのようなものです。歴史が始まって以来、道の道を歩んだどのような人であっても、またその道の名誉をかけて神の前に立った人であったとしても、神が「あなたが最終的な勝者だ」として賞を授けたことはありません。今なお、競争は続いているのです。私たちが目指す目標は、神が主宰される全体の競技、すなわち宇宙的な目的とつながっています。そのため、どの競技種目が小さなものであっても、宇宙的に連結されるその時まで走り続けなければなりません。もし100メートル競技で一時的に優勝した者がいても、それだけで彼を最終的な勝者とすることはできないのです。その価値と栄光を最終的な終わりの日まで支え続けなければならないのです。


私たち、走る場に立っている者は、この競技コースのあらゆる節目で多くの人々が倒れた事情を知る必要があります。どの時にどのように倒れ、どのように戦って挫折していったのかを理解しなければなりません。


これまで私たち人間は漠然と目標に向かって走り続けてきました。しかし、今日の時代を生きる私たちは、漠然とした目標のもとで走ることは許されません。走る以上、そのコースについてすべてを明確に把握しなければならないのです。


13


私たちが神の摂理のコースを走るためには、復帰のコースを通過しなければならないことを知っています。考えてみてください。天を目指す道を競技者として進む私たちは、どこからスタートすべきでしょうか?それは、アダム家庭からスタートすべきです。人間が出発した起点はアダム家庭から始まっています。そこから走り出し、神と人類が6,000年もの間伴走し、今日この瞬間まで進んできたのです。しかし、その競技はまだ終わっていません。今もなお続いています。


それでは、私たちはどうすべきでしょうか?先祖から続くすべての伝統的な精神を受け継がなければなりません。自分がどこに所属しているのかを知らなければなりません。どの競技に参加しているのか、どの場に属し、どのような使命を果たしているのかを理解する必要があります。そして、自分がどの競技種目に関わっているのかを明確に認識しなければなりません。また、過去にどのような人が記録を残したのか、どのような人が失敗したのかを知る必要があります。


このすべての悪条件や善の条件を把握し、悪条件に引っかかる可能性のあるすべてに備えなければならないのです。


私たちの人生の道には、多くの敵が障害物を置き、進路を妨げています。それは目に見える障害物ではなく、目に見えない障害物です。それらは、歴史上の多くの預言者たちが倒れた難所なのです。このように多くの節目や難所が存在するため、それについての知識が必要です。したがって、私たちは今日、歴史を知らなければなりません。過去を知り、現在を知り、未来を知らなければならないのです。これが競技者が持つべき基本的な知識です。


競技の途中で、主催者側が目標に基づいて計画したコースを変更する可能性もあります。そのため、過去の預言者たちが通ってきた歴史的なコースを知り、そのコースでどのように戦い抜いてきたかを理解する必要があります。また、現在どのような状況で戦っているのか、そしてこれからどのような計画で戦うべきかをすべて知る必要があります。これらすべてを理解して初めて、最終的な勝者になることができるのです。


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しかし、今日の信仰者たちの生活を振り返ると、神がどのように歴史を導いてきたかを理解していない場合が多いのです。神が現在、どのようなプログラムや計画のもとでどのように動いておられるかも知らないのです。そのような状態で競技者といえるでしょうか?皆さんはこれを明確に理解する必要があります。


神は6千年間、歴史を導きながら、この競技の種目を運営する方向性を持っておられます。つまり、その本質と核があるのです。私たちはそれを知らなければなりません。人類の始祖から人類の終末まで、一貫した目標のもと、一貫したプログラムで神は動いておられるのです。


このような観点から、自分がどのような人生の道を走る競技者であるかを感じ、勝利者になりたいと願うならば、歴史性を持つ宗教を探さなければなりません。また、時代性を持つ宗教、さらに未来性を持つ宗教を見つけなければならないのです。そのような宗教であれば、人間が最後まで信じても失望することがないのです。


過去に多くの宗教が存在しましたが、その寿命はせいぜい数世紀にすぎません。その観点で考えると、神は人間が知らないうちに摂理を進めてこられました。人間が堕落したその日から始まり、私たちが去った後の未来に至るまで摂理を進めておられるのです。そのような神の摂理を担う宗教があるとすれば、それはどのような宗教でなければならないのでしょうか?それは、歴史的に貢献する宗教であり、人類の歴史の始まりと関わる宗教でなければなりません。また、善悪の起源を論じる宗教であり、人生のすべての歴史を包括し、未来の最終目的地で勝敗を決定できる宗教でなければならないのです。この点で、今日のキリスト教が問題となるのです。


私たちが神の前で賞を受けるとしても、今日この時代に良い行いをしたからといって賞を受けることはできません。あの霊界には、数多くの競技者たちがいます。神の摂理の道で競技場を走り抜いた多くの人々がそこにいるのです。その中には、競技場で倒れて死んだ人々や、さまざまな事情を抱えた人々もいます。そのような多くの人々をすべて集め、その代表として賞を受ける存在となるならば、その人は過去の先祖たちが成し得なかったことをすべて成し遂げたという勝利の条件を持たなければなりません。そして、現代の人々の前でも勝利の条件を備え、さらに未来の人々も「その通りだ」と認める基準を持つ者だけが、神から表彰を受けることができるのです。そうではありませんか?


15


だからこそ、私たちは神を信じます。私たちは人生の道を走っています。そして、最終的な目標の日に向かって進んでいるのです。


では、私たちが信じている神とはどのような方でしょうか?それは、歴史的な神であり、さらに時代的な神、そして未来的な神です。その神が定められた目標もまた、歴史的な目標、時代的な目標、未来的な目標です。


私たちが信じる神がそのような方であり、私たち人間が求める希望の基準も同様であるならば、私たちは神を歴史的な神、時代的な神、未来的な神として理解し、信じなければならないのです。そうして初めて、神が私たちに賞を与えるとき、悲しみながらではなく、喜びの中で与えてくださるのです。その賞を与える神の心情を理解できる最終的な瞬間が来るべきなのです。


多くの宗教は数千年、あるいは数百年の間存続してきましたが、現代の時代的な潮流の前で押し流される傾向を示しています。キリスト教も数千年間存続してきたものの、未来に向けて新たな壁を越えなければならない運命にあります。もし神の核から生まれた競技コースがあるとすれば、そのコースは歴史的なコース、時代的なコース、未来的なコースであるため、それについての知識が必要です。


そのため、この時代に新たな真理が現れるとしても、その真理は時代的なものにとどまってはならないのです。皆さん、特に青年たちはこれを明確に理解しなければなりません。単なる時代性を帯びたものであっては絶対にいけません。たとえどのような主義や思想であっても、一つの時代や一つの瞬間に適合するものであれば、それはやがて消え去ってしまうのです。継続的な歴史の背景を持ち、現代の潮流を越えていける理念、新たな主義が必要なのです。


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なぜなら、私たちは神と共に喜び、神と共に勝利することを願っているからです。神が歴史的な神であり、時代的な神であり、未来的な神である以上、私たちも同じように、歴史的、時代的、未来的な条件を備えた競技者として、それに関する知識を持たなければなりません。そうでなければ、未来のどのような潮流にも押し流されてしまうでしょう。


このため、基本的な知識を持つだけでなく、歴史的な神の心情を知る必要があります。私たち信仰者は、それぞれが状況に絡み合った関係を持っています。状況は相対的な関係性です。歴史的な神の心情、時代的な神の心情、未来的な神の心情を理解し、その心情を中心に運営される神の競技プログラムに関するすべての知識を持ち、さらにその心情に合わせて調和していく必要があります。


最終的に、勝利を収め、最後に満足し、神と対面して永遠に喜びを分かち合う存在となることを神は望んでおられます。そのため、宗教は単に真理だけで成り立っているのではありません。道とは単なる真理ではないのです。主義や思想は真理を中心に進むものですが、宗教には真理に加えて心情が含まれています。これが違いです。主義や思想には心情がありません。しかし宗教には、親子が言葉なく愛し合うように、何かが絡み合ったものがあります。論理的な条件を超えて動く何かが備わっているのです。宗教とはそのようなものです。しかし、主義は違います。主義は組織的な結合であり、心情的な結合ではありません。


今日、目標に向かって走る競技者として、私たちが備えるべきことは、歴史的なコースに関する知識を持ち、時代的な現実を正確に把握することです。そして、未来に関する内容や計画をある程度知ることが必要です。このすべてを備えて初めて、競技者として進むことができるのです。


さらに、天に向かって命を懸けて進む中で、神の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を理解する人がいるならば、また、神がこのコースを築き整えてこられるためにどれほど労苦されたかを感じられる人がいるならば、その人はどのような困難に直面しても、それを無事に乗り越えるでしょう。


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次に、目標に向かって進む際には、闘志を失わない心情を持つことが重要です。すべての準備を整え、知識を備え、どのような敵に対しても戦い抜いて勝利するという決意を持たなければなりません。戦いに敗れることは許されないのです。


実践の場では、戦いが求められます。この地上のどのようなものとも戦って勝利し、最後には神が私に挑んでこられても、ひるまずに立ち向かえる勇者でなければなりません。私はそのように考えています。


道の道を進むには、必ず多くの試練が伴います。この競技場を走る中で、自分自身が苦しいのはもちろんのこと、予期しない無数の試練が訪れます。肉眼では見えない多くの悪霊たちが私たちを試みる過程があり、そのコースを通過すると天使たちが試みます。さらにその先には、道を究めた人や導く人々が試みます。もしイエスを信じて進むならば、イエス自身も試みます。最初は私たちを導いてくれても、最終的には試すのです。そして神もまた、最初は私たちを導いてくださいますが、最後に賞を与えるときには試みます。それが摂理の在り方なのです。


なぜそうなのか。それは、人間が神を裏切ったからです。神は人間に賞を与えるために自然環境を整えてくださいましたが、人間が神を裏切ったため、それを取り戻すには必ず試練の過程を通過しなければならなくなりました。試練なしで与えられるはずだったものが、人間の裏切りによって試される条件が加わり、必然的に試練を受けなければならなくなったのです。イエスもまた十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ26:46)と叫ばれたように、神は一時的に見捨てることもあるのです。


こうした戦いの勇者として、私が走ることは重要ですが、それだけではありません。その中で心の戦いと体の戦いが絡み合って現れるのです。単なる決心だけでは不十分です。走る中で、心の戦いと体の戦いが複雑に絡み合い、自分の内面で表れるのです。6,000年という摂理のコースを通じて、神とサタンが戦い続けた内面的な葛藤が、走る者の心中に現れます。神とサタンの戦いが、私自身に直接ぶつかってくるのです。このようにして、その内的な葛藤と外的な試練が、今日の私に降りかかってくるということです。


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私たちは単に走るだけではなく、内的な戦いと外的な戦いをしなければならず、さらに天の試練にも打ち勝たなければなりません。人生の道で勝利するためには、その戦いに勝利しなければならないのです。これは必ずそうであるといえます。


なぜなら、歴史が6,000年を経ても、このコースでまだゴールした人はいないからです。「私は行く」と言った人々はいましたが、結末のゴールに到達した人は一人もいないのです。


多くの人々は、イエス様がすでに天国にいると信じていますが、実際には楽園におられるのです。イエス様自身が「楽園に行く」とおっしゃいました。楽園とは天国に入るための待合室のような場所です。イエス様が再び来られるのは、この楽園の扉を開き、天国の扉を解放するためなのです。地上で果たすべきことをすべて果たせなかったので、再び走り出し、最終的なゴールに到達しなければならないのです。


したがって、今日私たちが走っている競技は、「信仰」という名を掲げた最終コースなのです。この競技を例えるならば、マラソンのようなものです。競技の中でも最も輝かしく、王座を占めることができる競技が宗教という種目です。


では、このような競技種目に立つ私たちは、どのように走るべきでしょうか?自分の決意だけで走ることはできません。ここにはさまざまな戦いが絡み合っていることを理解しなければなりません。心の戦いと体の戦い、さらには敵との戦いがあるのです。体をこの競技に捧げようとすると、この世が引っ張ろうとします。そうではありませんか?真の信仰生活を送る中で、体を捧げればこの世が引っ張り、心を捧げれば思想や主義が引っ張るのです。


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その目標はどこにあるのでしょうか?それは漠然としているかもしれません。進む道には無数の敵が見えない場所から矢を放ってきます。それだけではありません。信じてきたイエスさえも、さらには神ご自身も、最終的には「お前は誰だ?」と問い、知らないと言われることがあるのです。このようなことが必ず起こるのです。


これが、私たちが走らなければならないコースの現実です。それでもなお、内的にも外的にも試練を乗り越え、最終的なゴールに到達するために走り続けなければなりません。


それでは、私たちが戦いの勇者としてどのような決意をすべきでしょうか?自分が走るこの道の目標が確かであると確信したときには、死を覚悟してでも進むという決意をしなければなりません。それができて初めて、そのコースで勝利することができます。


失敗するなら最高に失敗する覚悟、死ぬならこの世で最も哀れに死ぬ覚悟、苦しむなら誰よりも苦しむ覚悟を持たなければなりません。そして、神が苦しまれた以上の苦しみを耐え抜く覚悟が必要です。


皆さん、今私たちが走っている現実を見てみましょう。特に私たち統一教会の信徒たちは、ある目標を掲げて歩み始め、現在も走り続けています。走る生活とは戦いであり、戦いとは自分の体を引きずりながら進むことです。


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これまで信じてきた信仰観念が私たちを引っ張り、また同時に敵が襲いかかります。その戦いが終わると、最後には神が挑んでこられるのです。「お前は本当に私の息子、娘なのか?自信はあるのか?」と問われるでしょう。「お前は何で勝利を収めたのか?」、「はい、このようなことで勝利しました」と答えられるかどうかです。そして、神が「本当にそうか?」と問うなら、実績を見せなければならないのです。世の教師でさえ、自分の弟子に何かを任せる際には、さまざまな方法で試すものです。


だからこそ、私たちは人生の最終コースを走る競技者であり、戦いの勇者であることを自覚しなければなりません。また、天の精鋭兵士であることを理解し、その精鋭兵士としての覚悟を持つ必要があります。たとえ体が打たれても「打ちたければ打て」、どのような理念や思想が私を攻撃してきても「構わない」、どんな迫害が来ても「受け入れる」、国家や世界、さらには天そのものが私に反対しても「反対するならするがいい」、そして神がさえも反対されるなら「どうぞ反対してください」と言えるほどの覚悟が必要なのです。


もし、このように天地が総動員して反対しても勝利を収める者がいるならば、その者こそが神にとって永遠に誇りうる息子、娘となるでしょう。神が「復帰の摂理を始めてから、こんな人間に出会ったのは初めてだ」と言えるような人が現れるならば、その人にすべてが降伏するのです。それが生死を懸けた戦いであろうと、どのような戦いであろうと、同じです。私自身の体験から言えることは、まさにこのような内容です。


終末の時代において、この最終的な道の道を走る競技者がいるならば、また最終的な勝利を目指して走る競技者がいるならば、その人は覚悟を持たなければなりません。信じている教祖が救主ではないのです。最終的には実力で証明する時が来るのだということを理解しなければなりません。


なぜならば、救いの摂理はまだ終わっていないからです。歴史的な神の競技場ですべての競技が終了し、神が賞を授けるまで、戦いは続くのです。


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2千年前、イエスがこの競技場で勝利し、4,000年の歴史を代行するメシアの使命を果たしました。しかし、キリスト教徒たちはそのメシアの勝利のバトンを受け取り、2,000年の歴史を生きた歴史として神の前に示すべきでしたが、それができていません。イエスが地上に来てから現在に至るまで、キリスト教は形を整えましたが、心情問題やその他の戦いで勝利の基準を立てることができていないのです。イエスが地上を去ったその日から現在に至るまで、「勝利した」といえる一つの基準が出現していないということです。


イエス自身が反対し、神が反対してみても、「お前は合格だ」とイエスと神が手を挙げて祝福できる人物でなければなりません。そのためには、どのような障害物でも乗り越えられる人物である必要があります。その通りではないでしょうか?神は救いの摂理を進める中で、どのような摂理的代表者を立てたいと望まれるでしょうか?それは、サタンの前でも、さらには神の前でも「どうしようもない」と言わせるほどの勝利の息子娘です。そしてその人物をサタン世界や天の世界に誇りたいと神は願われるでしょう。人間の心がそうであるように、神の心も同じなのです。


したがって、今日、道の道を歩む私たち、特に統一教会の信徒たちは、最終的には神の試練に直面することになります。神は「この道を進むな」と言われるでしょう。それでも、「私は進みます。走りながら死にます」と言える人物が現れる必要があります。そのような人物がいなければ、聖書を超える言葉は出現しません。イエスが来られたときの言葉を超える言葉は現れません。それは絶対にありません。イエスの後、神が語りたかった言葉が出てくることはないということです。


私たちがこのコースを走る際には、イエス以上の十字架も受け入れる覚悟が必要です。さらに、神が6,000年の摂理の道で経験された苦難や悲しみの痛みも受け入れるべきです。そして、今日この地上にいるすべての27億の人類が総動員され、一斉に矢を放つような場面にも立ち向かう覚悟が必要です。神の摂理も人間を中心に行われ、サタンの反対も人間を中心に起こるのです。したがって、全世界の人類が動員されるような場面でも、「地獄も最高まで行き、天国も最高まで行く」という信念を持たなければなりません。


心で肯定してみて、反対してみて、さらに試してみて、「間違いない」と確信したなら、迷わず走るべきです。そして、走る際には、誰にも止められてはなりません。どんな障害が訪れても、それを打ち破り進む覚悟が必要です。そうして初めて、6,000年間積み重なってきた恨みの山を無事に越えることができるのです。


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統一教会の信徒の皆さん、もしここに先生がいるならば、その先生に向かって「一緒にやりましょう!」と言えるほどの気概を持つ勇者を天は待ち望んでいます。それがあってこそ、天の意志が成し遂げられるのです。


もし、そのような知識を備え、そのような決意を持ち、戦いへの覚悟を持って進む息子娘がいるならば、天がその人を無視することはできません。天はどうするでしょうか?その人物が、「父よ、こうではありませんか?あなたの心情はこうではありませんか?あなたの歴史的な希望、時代的な希望、未来的な希望はこうではありませんか?そして、現段階でこれではいけません。これを無視し、こうするべきではありませんか?」と言いながら、未来への希望の条件を持って進むならば、イエスでさえ反対できず、どんな者が反対しても、神は「その通りだ、お前の言うことが正しい」と認めざるを得ないのです。


そのような覚悟と信念を持つ競技者が現れることを、天は切に望んでいるのです。


過去にこの世を去った多くの聖人や、私たちが信じている救主は、その時代の世界だけでなく、未来の世界を切り拓くために立てられた存在です。したがって、もし誰かがイエスの前に立ち、イエスが語ろうとした未来の内容を持って現れ、「イエス様、このことを早く進めるべきではありませんか?これを優先すべきではありませんか?」と訴えれば、イエスは感謝するでしょう。


また、誰かが摂理を中心に、この時代の次に続く未来の摂理的内容を持って、「神よ!これを早く進めるべきではありませんか?これをすべきではありませんか?」と言いながら現在の内容を越えて未来の希望を掲げて進むならば、神はその人を叱るどころか、むしろ称賛するでしょう。


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私たちはこのような戦いの覚悟を持って進む必要があります。そして、天がその人を認める日が来るとき、その人はどのような賞を受けるでしょうか?現代の競技では、勝利者に主催者が賞を授けますが、それは一時的なものにすぎません。一度その競技が終われば、次の競技では別の人が勝利して賞を受けるものです。しかし、神の競技場で最終ゴールに到達する者は、二度と現れない、唯一無二の存在です。その競技が終われば、永遠に終わり、それ以上の競技は存在しません。


この最終的な競技で賞を受ける喜びは、今日限りのものではなく、永遠に続く喜びです。それ以上の栄光が展開されることはあっても、それ以下に落ちることはありません。神は勝利した者にどのような栄光を与えるでしょうか?神の息子、娘という栄光を授け、神が創造された天と地のすべての権威をその人たちに託すでしょう。そして、天のどのような王宮があっても、その人たちをそこで暮らす王族として迎えるでしょう。永遠に続く報賞を与えるのです。


そのようにして勝利した息子娘が現れるならば、神は6,000年間準備してきた天国全体を動員し、その人たちを歓迎する宴を開かれるでしょう。その宴は一日限りで終わるものではなく、永遠に続く宴となります。そして、その世界こそが天国、すなわちパラダイス(Paradise)です。


したがって、皆さんはこのような理念のもとで走る競技者の一人となるべきです。最終的なゴールに向かって、揺るぎない信念と覚悟で走り続けなければならないのです。


今日、多くの宗教があります。儒教、仏教、イスラム教など、多様な宗派が存在します。競技場の中にも、さまざまな道があります。しかし、神は場所を指定されます。「この競技場で、この競技種目を行いなさい」と条件が定められているのです。特定の教派や宗派、あるいは誰かの命令の下で動く人間であることは、悲しいことです。それは人間が堕落したために起きた結果なのです。


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皆さんは必然的に神の競技場に参加しなければなりません。そして、どの種目であっても走る必要があります。しかし、民族ごとに競技が異なるわけではありません。神が求める競技は、民族別の競技ではなく、世界的な競技なのです。これは、オリンピックに似ています。この競技場では、各民族の代表が選ばれて集まり、走るのです。今日の神の復帰摂理も同じです。神は、世界的なマラソン大会で勝利する者を探すために摂理を進めておられます。そして、数ある競技の中でも最も重要で、王座を占めるような立場にあるのが宗教なのです。


したがって、すべての宗教が良いわけではありません。正しい系統が確立された宗教だけが良い宗教なのです。そして、そのためには十分な知識を備えなければなりません。もしその知識がなければ、どれだけ準備を整えたとしても、勝利する人を生み出すことはできません。つまり、教えることができないのです。盲目的に走るだけでは勝利を得られません。


皆さんは、心と体の準備、そして知識を備え、最終的な戦いの場で、天と地がすべて動員されて反対しても怯まず、それを突破する信念を持って進む人になるべきです。そのような人だけが、人生の最終コースで勝利するグループに参加することができることを忘れないでください。




<祈り>


私たちの先祖たちは走り続けてきました。しかし、アダムは神の競技種目の一部を担いながら、自己を重んじた結果、倒れました。ノアを神に仕えるような敬虔な心で接すべきだったハムが、軽率な態度をとったために、ノアも走る途中で倒れてしまいました。アブラハムもまた、神に仕える道で、小さなことから大きなことまで、すべてを神のものとして最も大切にし、それらの相対的な価値を尊重すべきだったのに、それができなかったために挫折しました。


このような歴史を通して、私たちもまた、神の意志を正しく理解し、最終的な競技の勝者となるための準備を整えて進むべきです。


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私たちがモーセの道を振り返ってみると、イスラエル民族も倒れ、モーセもまた倒れました。神が怒られる前に怒るべきではなかったモーセであり、神が失望される前に失望すべきではなかったイスラエル民族でしたが、神が怒られる前にモーセが先に怒り、岩を二度打ち、神を信じないという立場に立つイスラエル民族となった結果、皆荒野で倒れました。


イエス様の時代を見れば、三人の弟子さえもイエスを裏切った出来事はどうだったでしょうか。命を懸けて進むべき道でしたが、それを拒み、死への恐れに囚われて消え去っていった三人の弟子たちの惨めな姿が、人類の恨みの塔となったことを知っています。


今日、私たちは復帰の原理を通じて、歴代の預言者たちが歩んだ道がそのまま私たちが歩むべき道であることを学びました。アダム家庭から始まり、節々でぶつかった歴史的なすべてが、天に向かって「父よ、私の願いではなく、あなたの御心のままにしてください」と祈られたイエス様の時代に至って、初めて命を懸けた勝利者の姿を備えられたことを知っています。私たちもまた、そのような姿を備えなければ、この競技場で競技者として戦うことができないことを理解しました。


お父様、復帰の内容がどのようなものであるかを知り、復帰を目指す私たちの覚悟がどのようなものでなければならないかを知りました。また、戦いがどれほど激しいものであるかも知りました。どうか、この競技場で敗者とならないよう私たちをお守りください。天と地の前で誓った私たちが、どのような死が訪れようとも、どのような困難や苦痛が襲いかかろうとも、たとえ全人類の反対が嵐のように押し寄せようとも、また天地が変わろうとも、立てた中心は揺るがないという確固たる信念を持ち、そのすべての困難を取り除き、暗い雲を切り開いて、光り輝く天地で天の喜びの恵みを望むことができる、勝利した栄光の息子娘とならせてくださいと切に願い求めます。


今日ここに出席している私たちを、父なる神よ、憐れんでください。同じ競技場に立っていますが、走っている者もいれば、まだ走り出していない者もいます。どうかそれぞれが自らを省みて、この運命的なコースを避けることなく進むよう導いてください。訪れる困難や試練を甘んじて受け、それを私たちのものとして消化し、お父様の前に誇りと栄光の条件を立て、それを一つの捧げ物の条件とすることができる堂々とした姿を私たちに備えてくださるよう、父なる神よ、切にお願い申し上げます。


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6千年間、賞を与えたいと願ってこられた父の御心の中に隠されていた遺産、それは父の心情の遺産であることを知りました。これを基に「私は新郎であり、あなたたちは新婦である」と言われ、「私はあなたたちの真の父であり、あなたたちは私の真の息子娘である」と言われました。そして、真の家庭、真の国家、真の世界を論じられたのが父であることを知りました。しかし、今日の私たちには家庭もなく、民族もなく、国家もありません。何一つ忠実に備えているもののない哀れな私たちが、それらすべてを回復しようとされる親の前に、天の家庭の前に、天の国の前に、何を恐れることがあり、何をためらう理由があるのでしょうか?覚悟を持ち、一途な情熱を傾け、走り、また走ってサタンの陣営を占領し、天の勝利の旗を掲げ、「父よ、恨みを晴らしてください」と言える者とならなければなりません。


そのためには、どのような苦難が訪れようとも耐え抜き、戦いに勝利する者とならなければならないことを知りました。どうか人生の道を走る競技者として、脱落者とならないよう私たちをお守りください。父が望み、立ててくださったその気概を失う者とならないようにしてください。そして、お父様の心を傷つける者とならないようにしてください。


今日も、明日も、生涯をかけて堂々と力強く走り続けることのできる天の息子娘となれるよう許してください。このコースで脱落する息子娘とならないようにしてください。私たちが神の競技場で最終的な勝利者となり、父の栄光を全ての世界の前に誇ることのできる貴い息子娘となるよう許してくださいと切にお願い申し上げます。


すべての御言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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