人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集7(5)

2025年01月05日 15時23分48秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉選集 7 - 5 神様の競技場に立つ人々 (1959年8月9日)
1959年8月9日(日)、旧本部教会
コリント人への第一の手紙 9:14-27




1
<祈り>


父なる神様、この日は多くのあなたの息子や娘たちが羊の群れを集め、あなたが残された摂理の御心を受け継ぎ、その命令の言葉を分かち合う時間であることを知っております。彼らの心と思いに同じ恵みで働いてくださいますようお願いいたします。


私たちもその一部の姿として父なる神様の御前に集いました。どうか、立っている姿を憐れんでくださり、座っている姿を憐み見守ってくださいませ。


今、私たちの中に、自分を中心としたいかなる主義や主張、あるいは自分が感じている意識的な観念があったとしても、これらすべてを取り除いてくださいますようお願い申し上げます。私たちは新たに創造されるべき運命に置かれており、復帰の恨みを未だに拭えない者たちです。たとえ天の御前で堂々と何かを主張するものを持っているとしても、それが父なる神様の御前では何の理念的な条件にも、対象にもなり得ないことを悟りました。


どれほど私たちが天の御前で自分を弁明し、自分の困難を訴えたとしても、父なる神様の無限の善と労苦の前には、比較することもできない哀れで惨めな姿であることを知っています。


今、私は自らが自分であるのではなく、私が「私」ではないことを悟りました。そして、私を「私」にしてくださった本然の存在を慕い、本然の心に溶け込み、本然のその主人の前で頭を垂れるこのひとときをお許しください。


2


万物宇宙の絶対的な主人がいることを心では知っています。そして、その存在が私たちのすべての行動を制約していることを知るとき、それは無目的な縁の中で起こるものではなく、絶対的な目的によって制限された環境の道を進まねばならない運命を背負っている存在であることを感じられる子どもたちにしてください。


今、父なる神様の栄光に満ちた御座を思い描き、父なる神様の御膝元に集いました。しかし、私たちの心がどこへ流れていくのか、またどちらを向いて動いているのか分からずにおります。父なる神様、どうか本然の私自身が天と共に喜び楽しむ方向へと導いてください。たとえ私たちの顔が恥ずかしく、視線が恥じらいを帯びていようとも、父なる神様への想いが募る心から「父よ!」と叫び、拙い手を差し出すならば、その手を父なる神様が握りしめてくださるとの約束が与えられるひとときとなることを心から願い、切に祈ります。


私たちは礼拝をする際にも、父なる神様の御心を握りしめて礼拝したいと願い、父なる神様との深い縁を結びたいと願っています。それ以外のすべてのものを望んでおりません。天の国の金銀財宝のような輝かしく栄光に満ちた条件が備わっているとしても、それを望むことはなく、ただ父なる神様の御心を握りしめ、父なる神様と共に暮らすことができる、その一つの約束、その一つの生活的な真実だけを求めております。


そのようなことが永遠に誇ることのできる栄光の証となることを願いながら、私たちは父なる神様の御前にひれ伏しました。この日に私たちが至らぬところがあったとしても、どうか父なる神様、お許しください。御心を成し遂げたいという願いを成し遂げてくださり、父なる神様と私たちとの間に決して切り離すことのできない親子の絆を結んでくださることを、心から願い求めます。


多くの人々が「父よ」と呼び求めておりますが、父なる神様の事情や御心を知ることなく呼び求めている者もおります。私たちはそのような息子や娘であることを望んでおりません。「息子の中には息子のような者もおり、養子もおり、真の息子もいる」とありますが、私たちは息子のような者も、養子も望んでおりません。父なる神様の心の中で永遠に消えることがなく、その骨と肉が父なる神様と永遠に結ばれた事実を否定できない、父なる神様と永遠に共に住むことのできる直系の血統の真の息子娘、血と肉を継いだ真の息子娘となることを願っております。


3


そのような息子娘となるためには、父なる神様が受けられた苦痛が私たちの苦痛となり、父なる神様の悲しみが私たちの悲しみとなり、父なる神様の悔しさが私たちの悔しさとなり、父なる神様が成し遂げねばならない責任を私たちが背負わねばならない責任として感じられねばならないことを悟ります。そのような私たちとなることを、どうかお許しくださり導いてくださいますよう、心から願い、祈ります。


父なる神様、今ここに立ち、何を語るべきでしょうか? 私たちは父なる神様の息子娘になりたいと願っています。しかし、もしこの時間に父なる神様がその御心を私たちに感じさせてくださらず、私たちと絆を結ぼうとされる事実を感じられないなら、どれほど素晴らしい言葉であっても、父なる神様と私たちとの間には何の縁も結ばれないことを知っています。


ですから、どうか父なる神様の御心に触れ、父なる神様の心を通じ、父なる神様の体に寄り添うことのできる、このひとときをお導きくださるよう、心から願い祈ります。


どうか語る者の心が父なる神様の心に溶け込むことを許してください。そして聞く者の心が父なる神様の御心に反応し、与え、受け取る栄光の時間となりますように。私たち自身のすべてを失い、再び形作られ、本然の姿を取り戻し、父なる神様の御心に従って動くことができるようお導きください。そして、父なる神様の本然の御性を慕う自主的な働きがこの時間に起こるようお許しください。


また、この日、地方に散らばりながらも厳しい迫害の矢を受けつつ、天を仰ぎ訴えている孤独な家族たちを祝福してください。こうした道に追いやられるのも、父なる神様の御心があるからこそであり、この道こそが、行かざるを得ない最後の運命の道であることを知っています。私たちが心に決めた決意と、私たちの行動が勝利の条件となり、父なる神様に捧げられる捧げ物となりますように。どうか、父なる神様の約束の中で生きる息子娘として私たちを形作ってくださるよう、心からお願い申し上げます。そして、この時間、サタンが入り込むことがないようお守りください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


4


<御言葉>
コリント人への第一の手紙9章24節にこうあります。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を得る者はただ一人であることを知らないのか。あなた方もそのようにして賞を得るよう走りなさい。」


この御言葉を中心として、「神様の競技場に立つ人々」という題で、しばし皆様の前でお話ししたいと思います。


歴代の多くの預言者たちがそうであったように、現在生きている人々も、自分でははっきりと理解していなくても、何らかの目標に向かって人生という道を走っていることは確かです。その目標がどれほど漠然としていようと、目標を前にして生活の形態が様々に展開され、また、民族や歴史の形態も様々に展開されてきたのです。


こうしたすべての事柄が、何の縁もなく結果として現れたわけではありません。必ず何らかの縁のもとで現実に適合し、特定の目的に向かって動いてきたという事実を、私たちは知らなければなりません。もしそのような縁や目的を中心として動いていないのであれば、「神」やその存在を立証することさえできないでしょう。


もし神が存在するとするならば、神は堕落した人類に対して縁を結ぼうとされるに違いありません。したがって、私たちが何らかの目的に向かって進む存在である以上、その縁の中で生きているという事実を否定することはできません。


5


人間が堕落したことにより、神と善の縁を結ぶことができず、サタンと悪の縁を結んでしまったということを私たちは知っています。それにもかかわらず、神はそのような悪の縁を持つ私たち人間を捨てるのではなく、再び見つけ出そうとしておられるのです。そのために、神と私たちは人類の歴史という道を共に進みながら、絶えず取り戻すための闘いを続けてきたという厳然たる事実を私たちは理解する必要があります。


歴史の方向性は、その目的を成就する一時に向かって動いています。ですから、皆さんは日々の生活を通じて、自分の良心を基準とし、その目的地に向かって走る一人の競争者であることを知るべきです。この地上に生まれ、去っていった誰もが、神の復帰摂理の競技場に立っていた存在であったということを私たちは理解しなければなりません。


神は堕落した人類を前にして、多様な形で摂理を進めておられます。民族が異なればその民族に応じて、思想が異なればその思想に応じて、また伝統が異なればその伝統に応じて、神は歴史の背後で様々に調整を進めてこられました。そして、神が定められた一つの目的が成就する時、つまり一つの競技が行われ、その競技の幕が下りるその瞬間まで、神は私たち人間と共に、悪を滅ぼすために戦っておられるという事実を、私たちは知らなければなりません。


それでは、誰であれ、このような競争者としての立場に立つ存在であると認めるならば、私たちはどうすべきかという問題に直面することになります。天が労苦して立ててくださった自分自身であることを知り、この競技場に立って走らなければならないと理解するなら、天は私たちにどのような訓練を課し、この競技場で走らせるのでしょうか。そして、私はどのような試練とどのような道を経て、その目的地まで走るべきなのでしょうか。これは、誰もが共通して解決しなければならない重要な問題です。


過去にこの世を去った預言者や先達の中には、この競技のプログラムの一部を担い、ある基準を立てていった人々もいたでしょう。つまり、これらの預言者や先達たちは、最終的な幕が下りるその瞬間までの競技全体、すなわち天の全体的な摂理をすべて経験したわけではなく、その一部一部を担い、それを終わらせ、次へと進めていったという事実を私たちは理解しなければなりません。


6


神はこのような復帰の競技場を設けられました。したがって、この場に立つ私たちは、自分の命を懸け、生涯を通じて走る存在であり、走らなければならない存在であり、走らないわけにはいかない存在であるという事実を知らなければなりません。


今日、この地上を見渡すと、多くの主義思想があります。また、宗教界を見ると、宗派も多く、教派も多いです。民族が異なることによって、その民族に基づいた主義や、その民族のために現れた宗教など、さまざまな形が展開されています。しかし、それらの主義や宗教は、本来、神の摂理プログラムの全体的な内容を備えたものであるべきでした。それにもかかわらず、そうならなかったのです。それらは、ある特定の民族や時代に対応する主義や宗教の形態に過ぎませんでした。


これらは、神の競技場において全体の一部分にすぎず、特定の部分の使命を担った主義や宗教であったということを、私たちは知るべきです。


競技場に行くと、100メートル競走や200メートル競走、さらには5,000メートルや10,000メートル競走があり、最終的にはマラソン競技があります。同じように、皆さんは復帰摂理を進める神の競技場に立つ存在です。そこで、どの競技を引き受け、どのようにして宇宙史の前に立つことができるか、それが問題です。各人の価値や人格に差があったとしても、特定の分野を定め、その競技種目で責任を果たし、天が望む基準を立てることを、神は確かに待ち望んでおられます。皆さんはそのような競技場に立つ者として、命を懸けて走り続けなければなりません。生涯を通じて、どの競技で何を成し遂げ、神の前に立つべきかを私たちは知る必要があります。


神は6千年の間摂理を進めてこられましたが、全体を見渡しても、神の競技のすべての種目がまだ終わっていません。今も競技は続いており、今日も、そして明日も走り続けなければなりません。この競技が終わるとき、神は全世界の人類、さらには過去に生きてきた無数の人々、そして競技が終わるまで生きる多くの人々に対し、それぞれの競技種目に応じた賞を授けられることでしょう。その賞を授ける日がいわゆる「審判の日」です。審判の日とは、実際には賞を授ける日なのです。今日の時代的な表現を用いるなら、それは「終わりの日」と言えるでしょう。


7


それでは、皆さん自身に戻って考えてみると、皆さんは一つの競技種目で賞を受けるにふさわしい勝利の基準を立てたでしょうか。それが問われるのです。これは、皆さん自身が反省しなければならない問題です。走るという行為にもさまざまな状況があります。競技場に入り、正しいコースを走るべきなのに、自分勝手に競技場の外を走る人も多いでしょう。また、競技場に入って正しいコースを走りはするものの、力が足りず途中で倒れる人もいるでしょう。そして、最後まで走り切ったとしても、賞を受けられない人もいるかもしれません。賞を受ける人は限られています。このことを私たちは知らなければなりません。


神は6千年間摂理を進めてこられましたが、いまだ競技者たちに直接賞を授けることができない立場におられます。だからこそ、神が全世界の人類の前に現れ、これまで走り続けてきた多くの競技者たちに、それぞれの競技種目に応じて賞を授けるその一日を、霊界の霊人たちも、地上の私たちも待ち望んでいます。この日が終わりの日なのです。このことを皆さんは知る必要があります。


私たちはこのように走り続けるべき存在です。それでは、どうせ走るべきなら、どのように走るべきでしょうか?競技場に立つ者として必要なのは「準備」です。それも、内的な準備と外的な準備の両方が求められます。


内的には、まず自分がどの目標に向かって走っているのかという信念が必要です。「このような指示のもと、このようなコースを走らなければならない」という認識を持ち、そのコースに障害物がある場合、それを乗り越えるための確固たる信念を持たなければなりません。そして、この信念を中心として、実際に正しい目標に向かって走り続けるための内面的な準備が必要です。


具体的には、心と体を鍛え、最終的な目的地に到達するまで倒れないという意志、また誰にも負けないという意志、さらには最終的な勝者として立つための意志を固めることが求められます。そして、最終的な目的地まで進む中で、自分がどのような障害に直面しても、それを乗り越えて走り続けるという決意が必要です。


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一方で、外的には、実際の競技者としての態勢を整え、目標に向かって走る意識と準備が必要です。しかし、今日の地上には、多くの人がいるものの、競技者としての意識を持ち、目的地に向かって走る準備をしている人がどれほどいるでしょうか?言葉だけでなく、歴史の動きに巻き込まれ、その中で実際に行動する自分であることを認めるならば、自分自身が競技者としての準備を整えているかどうか、反省する必要があります。


人間はどの分野であっても、何かに属し、目指すべき位置や目標を持たなければ、哀れな存在となります。どの目標に向かい、どのコースを走るべきかという明確な視点がない人は、不幸な人です。そして、私たちの多くがそのような状態にあるのです。


そのため必要なのは、「自分はこの目標のもとで、これだけの覚悟で心と体を鍛え、多くの敵と戦い、勝利しなければならない」と自ら準備する時間を持つことです。そのような準備の時間を持たない人がいるならば、自分自身を振り返る必要があります。


では、私たちはどのような内的準備をすべきでしょうか?それは、個人のための準備ではいけません。例えば、ある国を代表するマラソン選手がいるとしましょう。その選手が走るとき、最終的な勝利を自分の栄光のためだけに目指すのではなく、「自分の背後には、自分を生んでくれた民族があり、世界の前で自国の威信を高めなければならない」という信念を持って走るならば、どのような困難にも耐え抜く余裕が生まれるでしょう。しかし、自分個人の栄光や目標だけを求めて走るならば、困難に直面したとき、容易にあきらめてしまうでしょう。


私たちは個人の栄光のためではなく、自分の背後にある民族、さらには全人類のために走るべきです。そのためには、内的にも外的にも、目的に向かって障害を乗り越え、勝利する準備を整える必要があります。それが競技者としての正しい在り方なのです。


9


私たちが信念を持つ際、それが自己中心的な信念であってはなりません。信念は民族を中心とした信念、さらに世界を中心とした信念、そして最終的には天と地を中心とした信念を持つべきです。「この天地間に存在する被造万物全体の勝敗が自分にかかっている」という信念を持って走るならば、たとえ倒れることがあっても、再び立ち上がって走る余裕が生まれるでしょう。しかし、自己中心的に進むならば、これまで耐えてきた困難を上回る困難に直面したとき、必ず倒れてしまいます。また、自分を中心に望んだ希望を超える困難が押し寄せてきたときには、その希望も打ち砕かれてしまうでしょう。


だからこそ、私たちには心と体を鍛えること、そして天と地に対して使命的な目標のもとで「自分はその目標に向かって走っているのだ」という信念が必要です。そのため、人間は漠然としていながらも神のため、善のために生きるという意識を持っています。


善とは、限られた環境を超越することです。善は制限されたものではありません。制限され、限定された境界線を超えて存在するものが善です。したがって、人間は漠然としながらも、そのような基準のもとで生きているのです。


私たちが目指すべきは、自己中心ではなく、天と地、そして万物のための信念を持つことです。この信念を抱き、倒れても立ち上がり、困難を乗り越え、天と地を超える善の目標を目指して生きることが、真の生き方なのです。


しかし、今日の私たちは漠然としていてはいけません。「自分はどの競技種目で必ず何位以内に入らなければならない」という信念を持たなければなりません。このような信念を抱き、出発点に立って走り出せる人間でなければなりません。過去にこの世を去った聖人たちは、私たち人間に対し、どの事業分野を教えるために存在していたのではありません。どのように事業で成功するかを教えたのでもありません。私たちの人生の進むべき道、心の進むべき道、精神の進むべき道、そして私たちの命が動き進むべき道を指し示し、教えたのです。


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私たちの思想が動きうる道、私たちの命が動きうる道、それは自分個人のためだけの道ではありません。それは未来永劫にわたり、あるいは歴史全体を通じて、どの時代でも公式的であり、共通の道です。私たちは、そのような道で戦い、勝利できる天の民を切に求めるべきです。


その道が自己中心的なものでないとするならば、その目的が成し遂げられる日、私によって天と地がともに喜び合えることになるのです。民族を代表して立つ競技者が優勝する時、その勝利は民族全体の勝利となります。その競技種目が少ないとしても、その価値の栄光は全体に及ぶのです。


したがって、皆さんにはそのような内面的な信念を持つことができる価値ある基準のもとで、その価値ある目標を成し遂げるために自分自身の価値ある信念を鍛える日が必要です。しかし、今日まで皆さんはそのようなことを感じることも、考えることもありませんでした。


私たちはいずれにせよ走り続けている存在です。その結果、敗者になるか、勝者になるかは分かりませんが、勝者となるためには秘訣があります。それは、内的には「勝つ」という信念と目標への不変の心情を持つこと、そして外的には走りやすくする準備をすることです。競技場に出る人は、できるだけ簡潔で単純な状態であるべきです。心の方向に体がいつでもすぐ動ける準備を整えておかなければなりません。そのためには、心と体を鍛える訓練が必要です。


しかし、競技場は目標に向かって自由に走れる場ではありません。この競技場には数多くの障害物が設置されています。それらの障害物は、私たちの先祖たちが敗北して倒れた瞬間の数々なのです。どれほど自分の能力や決意を誇る偉人であっても、これらの障害物に躓いて倒れてしまいました。私たちの前の道には、先祖たちが障害物に躓き倒れた場面が置かれているのです。だからこそ、できるだけ簡潔に、心が動くときに体もすぐ動けるようにする必要があります。そのために、体を自ら鍛える必要があるのです。


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鍛錬は快適な場所では行えません。鍛錬というのは、試練が押し寄せる場で行われるものです。このような内的準備を繰り返し行うためには、内的な衝撃があってもそれを突破できる体が必要です。内的な決意が揺るぐことは許されず、さらに体に降りかかる試練の嵐に直面しても、それに負けてはいけません。


だからこそ、天は道を進む人々に「すべてを捨てて私に従いなさい」と求めます。イエスもまた、網を修繕していたペテロを呼ぶ際に「すべてを捨てて私に従いなさい」と言いました。道を探し求めるために山中で修行することにも、それなりの理由があります。そのような理由があるのです。


したがって、私たちは内的な決意のもと、それに対応する外的な準備、つまり清算の条件を備え、どのような困難に直面しても進み続ける覚悟を持つ必要があります。どん底に落ちても心身を支えられる自分自身を持たなければなりません。そうでなければ、走ることも競技場に立つこともできません。


私たちは、この競技場で一つの種目を選び、それに向かって走る競技者です。目標を達成するためには、揺るぎない信念を持ち、鍛錬しなければなりません。そのため、皆さんは信仰者としての態度、走る者としての態度、道を進む者としての態度を持たなければなりません。昼夜問わず、その目標を克服しようと燃え上がる決意の心が必要なのです。


今日ここに集まった人々の中には、「漠然とイエスを信じれば天国に行ける」と考えている人もいるかもしれません。しかし、天国とはどのようなものなのでしょうか?天国は、さまざまな競技種目を通過したグループごとに構成されています。単に「イエスを信じているから天国に行ける」と漠然と考えるべきではありません。もちろん、天が助けてくださる分野もありますが、皆さん自身が備えなければならない分野もあるのだということを理解する必要があります。


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競技者として準備すべきことは、内的準備と外的準備を整えることです。その次に競技者として知っておくべきことは、自分が走るべきコースについて明確に理解することです。どこに何があるのか、またどこにどのような障害があるのかをはっきりと知る必要があります。


さらに、知っておかなければならないのは、このコースは過去にも多くの人々が走ったが、失敗したコースだということです。すべての人が走ったからといって勝利したわけではなく、途中で諦めてしまったコースであることも理解しなければなりません。


道の道はそのようなものです。歴史が始まって以来、道の道を歩んだどのような人であっても、またその道の名誉をかけて神の前に立った人であったとしても、神が「あなたが最終的な勝者だ」として賞を授けたことはありません。今なお、競争は続いているのです。私たちが目指す目標は、神が主宰される全体の競技、すなわち宇宙的な目的とつながっています。そのため、どの競技種目が小さなものであっても、宇宙的に連結されるその時まで走り続けなければなりません。もし100メートル競技で一時的に優勝した者がいても、それだけで彼を最終的な勝者とすることはできないのです。その価値と栄光を最終的な終わりの日まで支え続けなければならないのです。


私たち、走る場に立っている者は、この競技コースのあらゆる節目で多くの人々が倒れた事情を知る必要があります。どの時にどのように倒れ、どのように戦って挫折していったのかを理解しなければなりません。


これまで私たち人間は漠然と目標に向かって走り続けてきました。しかし、今日の時代を生きる私たちは、漠然とした目標のもとで走ることは許されません。走る以上、そのコースについてすべてを明確に把握しなければならないのです。


13


私たちが神の摂理のコースを走るためには、復帰のコースを通過しなければならないことを知っています。考えてみてください。天を目指す道を競技者として進む私たちは、どこからスタートすべきでしょうか?それは、アダム家庭からスタートすべきです。人間が出発した起点はアダム家庭から始まっています。そこから走り出し、神と人類が6,000年もの間伴走し、今日この瞬間まで進んできたのです。しかし、その競技はまだ終わっていません。今もなお続いています。


それでは、私たちはどうすべきでしょうか?先祖から続くすべての伝統的な精神を受け継がなければなりません。自分がどこに所属しているのかを知らなければなりません。どの競技に参加しているのか、どの場に属し、どのような使命を果たしているのかを理解する必要があります。そして、自分がどの競技種目に関わっているのかを明確に認識しなければなりません。また、過去にどのような人が記録を残したのか、どのような人が失敗したのかを知る必要があります。


このすべての悪条件や善の条件を把握し、悪条件に引っかかる可能性のあるすべてに備えなければならないのです。


私たちの人生の道には、多くの敵が障害物を置き、進路を妨げています。それは目に見える障害物ではなく、目に見えない障害物です。それらは、歴史上の多くの預言者たちが倒れた難所なのです。このように多くの節目や難所が存在するため、それについての知識が必要です。したがって、私たちは今日、歴史を知らなければなりません。過去を知り、現在を知り、未来を知らなければならないのです。これが競技者が持つべき基本的な知識です。


競技の途中で、主催者側が目標に基づいて計画したコースを変更する可能性もあります。そのため、過去の預言者たちが通ってきた歴史的なコースを知り、そのコースでどのように戦い抜いてきたかを理解する必要があります。また、現在どのような状況で戦っているのか、そしてこれからどのような計画で戦うべきかをすべて知る必要があります。これらすべてを理解して初めて、最終的な勝者になることができるのです。


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しかし、今日の信仰者たちの生活を振り返ると、神がどのように歴史を導いてきたかを理解していない場合が多いのです。神が現在、どのようなプログラムや計画のもとでどのように動いておられるかも知らないのです。そのような状態で競技者といえるでしょうか?皆さんはこれを明確に理解する必要があります。


神は6千年間、歴史を導きながら、この競技の種目を運営する方向性を持っておられます。つまり、その本質と核があるのです。私たちはそれを知らなければなりません。人類の始祖から人類の終末まで、一貫した目標のもと、一貫したプログラムで神は動いておられるのです。


このような観点から、自分がどのような人生の道を走る競技者であるかを感じ、勝利者になりたいと願うならば、歴史性を持つ宗教を探さなければなりません。また、時代性を持つ宗教、さらに未来性を持つ宗教を見つけなければならないのです。そのような宗教であれば、人間が最後まで信じても失望することがないのです。


過去に多くの宗教が存在しましたが、その寿命はせいぜい数世紀にすぎません。その観点で考えると、神は人間が知らないうちに摂理を進めてこられました。人間が堕落したその日から始まり、私たちが去った後の未来に至るまで摂理を進めておられるのです。そのような神の摂理を担う宗教があるとすれば、それはどのような宗教でなければならないのでしょうか?それは、歴史的に貢献する宗教であり、人類の歴史の始まりと関わる宗教でなければなりません。また、善悪の起源を論じる宗教であり、人生のすべての歴史を包括し、未来の最終目的地で勝敗を決定できる宗教でなければならないのです。この点で、今日のキリスト教が問題となるのです。


私たちが神の前で賞を受けるとしても、今日この時代に良い行いをしたからといって賞を受けることはできません。あの霊界には、数多くの競技者たちがいます。神の摂理の道で競技場を走り抜いた多くの人々がそこにいるのです。その中には、競技場で倒れて死んだ人々や、さまざまな事情を抱えた人々もいます。そのような多くの人々をすべて集め、その代表として賞を受ける存在となるならば、その人は過去の先祖たちが成し得なかったことをすべて成し遂げたという勝利の条件を持たなければなりません。そして、現代の人々の前でも勝利の条件を備え、さらに未来の人々も「その通りだ」と認める基準を持つ者だけが、神から表彰を受けることができるのです。そうではありませんか?


15


だからこそ、私たちは神を信じます。私たちは人生の道を走っています。そして、最終的な目標の日に向かって進んでいるのです。


では、私たちが信じている神とはどのような方でしょうか?それは、歴史的な神であり、さらに時代的な神、そして未来的な神です。その神が定められた目標もまた、歴史的な目標、時代的な目標、未来的な目標です。


私たちが信じる神がそのような方であり、私たち人間が求める希望の基準も同様であるならば、私たちは神を歴史的な神、時代的な神、未来的な神として理解し、信じなければならないのです。そうして初めて、神が私たちに賞を与えるとき、悲しみながらではなく、喜びの中で与えてくださるのです。その賞を与える神の心情を理解できる最終的な瞬間が来るべきなのです。


多くの宗教は数千年、あるいは数百年の間存続してきましたが、現代の時代的な潮流の前で押し流される傾向を示しています。キリスト教も数千年間存続してきたものの、未来に向けて新たな壁を越えなければならない運命にあります。もし神の核から生まれた競技コースがあるとすれば、そのコースは歴史的なコース、時代的なコース、未来的なコースであるため、それについての知識が必要です。


そのため、この時代に新たな真理が現れるとしても、その真理は時代的なものにとどまってはならないのです。皆さん、特に青年たちはこれを明確に理解しなければなりません。単なる時代性を帯びたものであっては絶対にいけません。たとえどのような主義や思想であっても、一つの時代や一つの瞬間に適合するものであれば、それはやがて消え去ってしまうのです。継続的な歴史の背景を持ち、現代の潮流を越えていける理念、新たな主義が必要なのです。


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なぜなら、私たちは神と共に喜び、神と共に勝利することを願っているからです。神が歴史的な神であり、時代的な神であり、未来的な神である以上、私たちも同じように、歴史的、時代的、未来的な条件を備えた競技者として、それに関する知識を持たなければなりません。そうでなければ、未来のどのような潮流にも押し流されてしまうでしょう。


このため、基本的な知識を持つだけでなく、歴史的な神の心情を知る必要があります。私たち信仰者は、それぞれが状況に絡み合った関係を持っています。状況は相対的な関係性です。歴史的な神の心情、時代的な神の心情、未来的な神の心情を理解し、その心情を中心に運営される神の競技プログラムに関するすべての知識を持ち、さらにその心情に合わせて調和していく必要があります。


最終的に、勝利を収め、最後に満足し、神と対面して永遠に喜びを分かち合う存在となることを神は望んでおられます。そのため、宗教は単に真理だけで成り立っているのではありません。道とは単なる真理ではないのです。主義や思想は真理を中心に進むものですが、宗教には真理に加えて心情が含まれています。これが違いです。主義や思想には心情がありません。しかし宗教には、親子が言葉なく愛し合うように、何かが絡み合ったものがあります。論理的な条件を超えて動く何かが備わっているのです。宗教とはそのようなものです。しかし、主義は違います。主義は組織的な結合であり、心情的な結合ではありません。


今日、目標に向かって走る競技者として、私たちが備えるべきことは、歴史的なコースに関する知識を持ち、時代的な現実を正確に把握することです。そして、未来に関する内容や計画をある程度知ることが必要です。このすべてを備えて初めて、競技者として進むことができるのです。


さらに、天に向かって命を懸けて進む中で、神の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を理解する人がいるならば、また、神がこのコースを築き整えてこられるためにどれほど労苦されたかを感じられる人がいるならば、その人はどのような困難に直面しても、それを無事に乗り越えるでしょう。


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次に、目標に向かって進む際には、闘志を失わない心情を持つことが重要です。すべての準備を整え、知識を備え、どのような敵に対しても戦い抜いて勝利するという決意を持たなければなりません。戦いに敗れることは許されないのです。


実践の場では、戦いが求められます。この地上のどのようなものとも戦って勝利し、最後には神が私に挑んでこられても、ひるまずに立ち向かえる勇者でなければなりません。私はそのように考えています。


道の道を進むには、必ず多くの試練が伴います。この競技場を走る中で、自分自身が苦しいのはもちろんのこと、予期しない無数の試練が訪れます。肉眼では見えない多くの悪霊たちが私たちを試みる過程があり、そのコースを通過すると天使たちが試みます。さらにその先には、道を究めた人や導く人々が試みます。もしイエスを信じて進むならば、イエス自身も試みます。最初は私たちを導いてくれても、最終的には試すのです。そして神もまた、最初は私たちを導いてくださいますが、最後に賞を与えるときには試みます。それが摂理の在り方なのです。


なぜそうなのか。それは、人間が神を裏切ったからです。神は人間に賞を与えるために自然環境を整えてくださいましたが、人間が神を裏切ったため、それを取り戻すには必ず試練の過程を通過しなければならなくなりました。試練なしで与えられるはずだったものが、人間の裏切りによって試される条件が加わり、必然的に試練を受けなければならなくなったのです。イエスもまた十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ26:46)と叫ばれたように、神は一時的に見捨てることもあるのです。


こうした戦いの勇者として、私が走ることは重要ですが、それだけではありません。その中で心の戦いと体の戦いが絡み合って現れるのです。単なる決心だけでは不十分です。走る中で、心の戦いと体の戦いが複雑に絡み合い、自分の内面で表れるのです。6,000年という摂理のコースを通じて、神とサタンが戦い続けた内面的な葛藤が、走る者の心中に現れます。神とサタンの戦いが、私自身に直接ぶつかってくるのです。このようにして、その内的な葛藤と外的な試練が、今日の私に降りかかってくるということです。


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私たちは単に走るだけではなく、内的な戦いと外的な戦いをしなければならず、さらに天の試練にも打ち勝たなければなりません。人生の道で勝利するためには、その戦いに勝利しなければならないのです。これは必ずそうであるといえます。


なぜなら、歴史が6,000年を経ても、このコースでまだゴールした人はいないからです。「私は行く」と言った人々はいましたが、結末のゴールに到達した人は一人もいないのです。


多くの人々は、イエス様がすでに天国にいると信じていますが、実際には楽園におられるのです。イエス様自身が「楽園に行く」とおっしゃいました。楽園とは天国に入るための待合室のような場所です。イエス様が再び来られるのは、この楽園の扉を開き、天国の扉を解放するためなのです。地上で果たすべきことをすべて果たせなかったので、再び走り出し、最終的なゴールに到達しなければならないのです。


したがって、今日私たちが走っている競技は、「信仰」という名を掲げた最終コースなのです。この競技を例えるならば、マラソンのようなものです。競技の中でも最も輝かしく、王座を占めることができる競技が宗教という種目です。


では、このような競技種目に立つ私たちは、どのように走るべきでしょうか?自分の決意だけで走ることはできません。ここにはさまざまな戦いが絡み合っていることを理解しなければなりません。心の戦いと体の戦い、さらには敵との戦いがあるのです。体をこの競技に捧げようとすると、この世が引っ張ろうとします。そうではありませんか?真の信仰生活を送る中で、体を捧げればこの世が引っ張り、心を捧げれば思想や主義が引っ張るのです。


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その目標はどこにあるのでしょうか?それは漠然としているかもしれません。進む道には無数の敵が見えない場所から矢を放ってきます。それだけではありません。信じてきたイエスさえも、さらには神ご自身も、最終的には「お前は誰だ?」と問い、知らないと言われることがあるのです。このようなことが必ず起こるのです。


これが、私たちが走らなければならないコースの現実です。それでもなお、内的にも外的にも試練を乗り越え、最終的なゴールに到達するために走り続けなければなりません。


それでは、私たちが戦いの勇者としてどのような決意をすべきでしょうか?自分が走るこの道の目標が確かであると確信したときには、死を覚悟してでも進むという決意をしなければなりません。それができて初めて、そのコースで勝利することができます。


失敗するなら最高に失敗する覚悟、死ぬならこの世で最も哀れに死ぬ覚悟、苦しむなら誰よりも苦しむ覚悟を持たなければなりません。そして、神が苦しまれた以上の苦しみを耐え抜く覚悟が必要です。


皆さん、今私たちが走っている現実を見てみましょう。特に私たち統一教会の信徒たちは、ある目標を掲げて歩み始め、現在も走り続けています。走る生活とは戦いであり、戦いとは自分の体を引きずりながら進むことです。


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これまで信じてきた信仰観念が私たちを引っ張り、また同時に敵が襲いかかります。その戦いが終わると、最後には神が挑んでこられるのです。「お前は本当に私の息子、娘なのか?自信はあるのか?」と問われるでしょう。「お前は何で勝利を収めたのか?」、「はい、このようなことで勝利しました」と答えられるかどうかです。そして、神が「本当にそうか?」と問うなら、実績を見せなければならないのです。世の教師でさえ、自分の弟子に何かを任せる際には、さまざまな方法で試すものです。


だからこそ、私たちは人生の最終コースを走る競技者であり、戦いの勇者であることを自覚しなければなりません。また、天の精鋭兵士であることを理解し、その精鋭兵士としての覚悟を持つ必要があります。たとえ体が打たれても「打ちたければ打て」、どのような理念や思想が私を攻撃してきても「構わない」、どんな迫害が来ても「受け入れる」、国家や世界、さらには天そのものが私に反対しても「反対するならするがいい」、そして神がさえも反対されるなら「どうぞ反対してください」と言えるほどの覚悟が必要なのです。


もし、このように天地が総動員して反対しても勝利を収める者がいるならば、その者こそが神にとって永遠に誇りうる息子、娘となるでしょう。神が「復帰の摂理を始めてから、こんな人間に出会ったのは初めてだ」と言えるような人が現れるならば、その人にすべてが降伏するのです。それが生死を懸けた戦いであろうと、どのような戦いであろうと、同じです。私自身の体験から言えることは、まさにこのような内容です。


終末の時代において、この最終的な道の道を走る競技者がいるならば、また最終的な勝利を目指して走る競技者がいるならば、その人は覚悟を持たなければなりません。信じている教祖が救主ではないのです。最終的には実力で証明する時が来るのだということを理解しなければなりません。


なぜならば、救いの摂理はまだ終わっていないからです。歴史的な神の競技場ですべての競技が終了し、神が賞を授けるまで、戦いは続くのです。


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2千年前、イエスがこの競技場で勝利し、4,000年の歴史を代行するメシアの使命を果たしました。しかし、キリスト教徒たちはそのメシアの勝利のバトンを受け取り、2,000年の歴史を生きた歴史として神の前に示すべきでしたが、それができていません。イエスが地上に来てから現在に至るまで、キリスト教は形を整えましたが、心情問題やその他の戦いで勝利の基準を立てることができていないのです。イエスが地上を去ったその日から現在に至るまで、「勝利した」といえる一つの基準が出現していないということです。


イエス自身が反対し、神が反対してみても、「お前は合格だ」とイエスと神が手を挙げて祝福できる人物でなければなりません。そのためには、どのような障害物でも乗り越えられる人物である必要があります。その通りではないでしょうか?神は救いの摂理を進める中で、どのような摂理的代表者を立てたいと望まれるでしょうか?それは、サタンの前でも、さらには神の前でも「どうしようもない」と言わせるほどの勝利の息子娘です。そしてその人物をサタン世界や天の世界に誇りたいと神は願われるでしょう。人間の心がそうであるように、神の心も同じなのです。


したがって、今日、道の道を歩む私たち、特に統一教会の信徒たちは、最終的には神の試練に直面することになります。神は「この道を進むな」と言われるでしょう。それでも、「私は進みます。走りながら死にます」と言える人物が現れる必要があります。そのような人物がいなければ、聖書を超える言葉は出現しません。イエスが来られたときの言葉を超える言葉は現れません。それは絶対にありません。イエスの後、神が語りたかった言葉が出てくることはないということです。


私たちがこのコースを走る際には、イエス以上の十字架も受け入れる覚悟が必要です。さらに、神が6,000年の摂理の道で経験された苦難や悲しみの痛みも受け入れるべきです。そして、今日この地上にいるすべての27億の人類が総動員され、一斉に矢を放つような場面にも立ち向かう覚悟が必要です。神の摂理も人間を中心に行われ、サタンの反対も人間を中心に起こるのです。したがって、全世界の人類が動員されるような場面でも、「地獄も最高まで行き、天国も最高まで行く」という信念を持たなければなりません。


心で肯定してみて、反対してみて、さらに試してみて、「間違いない」と確信したなら、迷わず走るべきです。そして、走る際には、誰にも止められてはなりません。どんな障害が訪れても、それを打ち破り進む覚悟が必要です。そうして初めて、6,000年間積み重なってきた恨みの山を無事に越えることができるのです。


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統一教会の信徒の皆さん、もしここに先生がいるならば、その先生に向かって「一緒にやりましょう!」と言えるほどの気概を持つ勇者を天は待ち望んでいます。それがあってこそ、天の意志が成し遂げられるのです。


もし、そのような知識を備え、そのような決意を持ち、戦いへの覚悟を持って進む息子娘がいるならば、天がその人を無視することはできません。天はどうするでしょうか?その人物が、「父よ、こうではありませんか?あなたの心情はこうではありませんか?あなたの歴史的な希望、時代的な希望、未来的な希望はこうではありませんか?そして、現段階でこれではいけません。これを無視し、こうするべきではありませんか?」と言いながら、未来への希望の条件を持って進むならば、イエスでさえ反対できず、どんな者が反対しても、神は「その通りだ、お前の言うことが正しい」と認めざるを得ないのです。


そのような覚悟と信念を持つ競技者が現れることを、天は切に望んでいるのです。


過去にこの世を去った多くの聖人や、私たちが信じている救主は、その時代の世界だけでなく、未来の世界を切り拓くために立てられた存在です。したがって、もし誰かがイエスの前に立ち、イエスが語ろうとした未来の内容を持って現れ、「イエス様、このことを早く進めるべきではありませんか?これを優先すべきではありませんか?」と訴えれば、イエスは感謝するでしょう。


また、誰かが摂理を中心に、この時代の次に続く未来の摂理的内容を持って、「神よ!これを早く進めるべきではありませんか?これをすべきではありませんか?」と言いながら現在の内容を越えて未来の希望を掲げて進むならば、神はその人を叱るどころか、むしろ称賛するでしょう。


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私たちはこのような戦いの覚悟を持って進む必要があります。そして、天がその人を認める日が来るとき、その人はどのような賞を受けるでしょうか?現代の競技では、勝利者に主催者が賞を授けますが、それは一時的なものにすぎません。一度その競技が終われば、次の競技では別の人が勝利して賞を受けるものです。しかし、神の競技場で最終ゴールに到達する者は、二度と現れない、唯一無二の存在です。その競技が終われば、永遠に終わり、それ以上の競技は存在しません。


この最終的な競技で賞を受ける喜びは、今日限りのものではなく、永遠に続く喜びです。それ以上の栄光が展開されることはあっても、それ以下に落ちることはありません。神は勝利した者にどのような栄光を与えるでしょうか?神の息子、娘という栄光を授け、神が創造された天と地のすべての権威をその人たちに託すでしょう。そして、天のどのような王宮があっても、その人たちをそこで暮らす王族として迎えるでしょう。永遠に続く報賞を与えるのです。


そのようにして勝利した息子娘が現れるならば、神は6,000年間準備してきた天国全体を動員し、その人たちを歓迎する宴を開かれるでしょう。その宴は一日限りで終わるものではなく、永遠に続く宴となります。そして、その世界こそが天国、すなわちパラダイス(Paradise)です。


したがって、皆さんはこのような理念のもとで走る競技者の一人となるべきです。最終的なゴールに向かって、揺るぎない信念と覚悟で走り続けなければならないのです。


今日、多くの宗教があります。儒教、仏教、イスラム教など、多様な宗派が存在します。競技場の中にも、さまざまな道があります。しかし、神は場所を指定されます。「この競技場で、この競技種目を行いなさい」と条件が定められているのです。特定の教派や宗派、あるいは誰かの命令の下で動く人間であることは、悲しいことです。それは人間が堕落したために起きた結果なのです。


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皆さんは必然的に神の競技場に参加しなければなりません。そして、どの種目であっても走る必要があります。しかし、民族ごとに競技が異なるわけではありません。神が求める競技は、民族別の競技ではなく、世界的な競技なのです。これは、オリンピックに似ています。この競技場では、各民族の代表が選ばれて集まり、走るのです。今日の神の復帰摂理も同じです。神は、世界的なマラソン大会で勝利する者を探すために摂理を進めておられます。そして、数ある競技の中でも最も重要で、王座を占めるような立場にあるのが宗教なのです。


したがって、すべての宗教が良いわけではありません。正しい系統が確立された宗教だけが良い宗教なのです。そして、そのためには十分な知識を備えなければなりません。もしその知識がなければ、どれだけ準備を整えたとしても、勝利する人を生み出すことはできません。つまり、教えることができないのです。盲目的に走るだけでは勝利を得られません。


皆さんは、心と体の準備、そして知識を備え、最終的な戦いの場で、天と地がすべて動員されて反対しても怯まず、それを突破する信念を持って進む人になるべきです。そのような人だけが、人生の最終コースで勝利するグループに参加することができることを忘れないでください。




<祈り>


私たちの先祖たちは走り続けてきました。しかし、アダムは神の競技種目の一部を担いながら、自己を重んじた結果、倒れました。ノアを神に仕えるような敬虔な心で接すべきだったハムが、軽率な態度をとったために、ノアも走る途中で倒れてしまいました。アブラハムもまた、神に仕える道で、小さなことから大きなことまで、すべてを神のものとして最も大切にし、それらの相対的な価値を尊重すべきだったのに、それができなかったために挫折しました。


このような歴史を通して、私たちもまた、神の意志を正しく理解し、最終的な競技の勝者となるための準備を整えて進むべきです。


25


私たちがモーセの道を振り返ってみると、イスラエル民族も倒れ、モーセもまた倒れました。神が怒られる前に怒るべきではなかったモーセであり、神が失望される前に失望すべきではなかったイスラエル民族でしたが、神が怒られる前にモーセが先に怒り、岩を二度打ち、神を信じないという立場に立つイスラエル民族となった結果、皆荒野で倒れました。


イエス様の時代を見れば、三人の弟子さえもイエスを裏切った出来事はどうだったでしょうか。命を懸けて進むべき道でしたが、それを拒み、死への恐れに囚われて消え去っていった三人の弟子たちの惨めな姿が、人類の恨みの塔となったことを知っています。


今日、私たちは復帰の原理を通じて、歴代の預言者たちが歩んだ道がそのまま私たちが歩むべき道であることを学びました。アダム家庭から始まり、節々でぶつかった歴史的なすべてが、天に向かって「父よ、私の願いではなく、あなたの御心のままにしてください」と祈られたイエス様の時代に至って、初めて命を懸けた勝利者の姿を備えられたことを知っています。私たちもまた、そのような姿を備えなければ、この競技場で競技者として戦うことができないことを理解しました。


お父様、復帰の内容がどのようなものであるかを知り、復帰を目指す私たちの覚悟がどのようなものでなければならないかを知りました。また、戦いがどれほど激しいものであるかも知りました。どうか、この競技場で敗者とならないよう私たちをお守りください。天と地の前で誓った私たちが、どのような死が訪れようとも、どのような困難や苦痛が襲いかかろうとも、たとえ全人類の反対が嵐のように押し寄せようとも、また天地が変わろうとも、立てた中心は揺るがないという確固たる信念を持ち、そのすべての困難を取り除き、暗い雲を切り開いて、光り輝く天地で天の喜びの恵みを望むことができる、勝利した栄光の息子娘とならせてくださいと切に願い求めます。


今日ここに出席している私たちを、父なる神よ、憐れんでください。同じ競技場に立っていますが、走っている者もいれば、まだ走り出していない者もいます。どうかそれぞれが自らを省みて、この運命的なコースを避けることなく進むよう導いてください。訪れる困難や試練を甘んじて受け、それを私たちのものとして消化し、お父様の前に誇りと栄光の条件を立て、それを一つの捧げ物の条件とすることができる堂々とした姿を私たちに備えてくださるよう、父なる神よ、切にお願い申し上げます。


26


6千年間、賞を与えたいと願ってこられた父の御心の中に隠されていた遺産、それは父の心情の遺産であることを知りました。これを基に「私は新郎であり、あなたたちは新婦である」と言われ、「私はあなたたちの真の父であり、あなたたちは私の真の息子娘である」と言われました。そして、真の家庭、真の国家、真の世界を論じられたのが父であることを知りました。しかし、今日の私たちには家庭もなく、民族もなく、国家もありません。何一つ忠実に備えているもののない哀れな私たちが、それらすべてを回復しようとされる親の前に、天の家庭の前に、天の国の前に、何を恐れることがあり、何をためらう理由があるのでしょうか?覚悟を持ち、一途な情熱を傾け、走り、また走ってサタンの陣営を占領し、天の勝利の旗を掲げ、「父よ、恨みを晴らしてください」と言える者とならなければなりません。


そのためには、どのような苦難が訪れようとも耐え抜き、戦いに勝利する者とならなければならないことを知りました。どうか人生の道を走る競技者として、脱落者とならないよう私たちをお守りください。父が望み、立ててくださったその気概を失う者とならないようにしてください。そして、お父様の心を傷つける者とならないようにしてください。


今日も、明日も、生涯をかけて堂々と力強く走り続けることのできる天の息子娘となれるよう許してください。このコースで脱落する息子娘とならないようにしてください。私たちが神の競技場で最終的な勝利者となり、父の栄光を全ての世界の前に誇ることのできる貴い息子娘となるよう許してくださいと切にお願い申し上げます。


すべての御言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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御言葉選集7(4)

2025年01月01日 18時51分06秒 | 学習

文鮮明先生 御言葉選集 7 - 4. 終わりの日に残る父の真の息子と娘 (1959年7月26日)
1959年7月26日(日)、旧本部教会
ローマ人への手紙 8:12-27


<祈祷>
お父様、今日この時間、ここに集まった私たちに、多くの御言葉は必要ではありません。そのような中で、骨の髄から静かに湧き上がる慕う心情でお父様が「愛する息子よ、娘よ」と語ってくださる御言葉だけが、私たちの凡ゆる目的のすべてを満たすことができることを知っています。
お父様、私たちが天に向き合うとき、その心情が深く胸に染みわたり、身の置き場を知らない者とならない様にしてください。


崇敬の念が満ち溢れ、あらゆる意識を超越してお父様の胸に抱かれることを望む私たちであることをご存知ですから、この時間、私たちにそのような恩恵をお与えくださいますよう、心から願い求めております。


私たちが御言葉を通じてお父様を知る者ではなく、心情を通じてお父様を知る者となることを切に願い求めます。御言葉によって救いを得ようとする者ではなく、心情を通じてお父様の前で救われ、命の歌を歌える私たちとなれるよう導いてください。


そうして、まずお父様がどれほど苦労され、どれほどの痛みを経験されたのかを、お父様の姿を見つめながら知る私たちとなり、頭を垂れて慰め申し上げられるようにしてください。お父様、切に願い心から求めております。


私たちが何かを持っているとするならば、それが私たち自身のものとなるようにしてください。また、誇れるものがあるとするならば、それが私たちの誇りの条件となることを許してください。


人生の目標があるならば、心情をもってその目標を追求できるようにしてください。生活の内容を整える必要があるならば、ただ一つの心情だけが私たちの生活の内容となるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。


多くの人々がお父様の前に集まりました。この者たちが誰のために留まり、何のために動き、どのような場所を目指して進んでいるのかを自ら見出せるようにしてください。
「お前は私のものだ」と言える主を持たない哀れな者たちです。
「お前は永遠に私の心情と共にいる者だ」と認められる者がいるとするならば、それ以上に幸せな人はいないことを私たちは知っています。


お父様、永遠なる命と永遠なる理念、そして永遠なる愛の心情をもって私たちを探し求めてくださるお父様が、私たちの心の中に共におられることを知っています。
お父様のものが私のものであり、私のものがお父様のものであるように、二つではなく一つの理念を中心として歌い、喜び合える子女の姿をお父様が切に望んでおられることを知りました。


私たちもお父様をお迎えし、お父様の前にあらゆる栄光の要素をお返しし、その後で歓喜しながら全世界に誇ることのできる時が訪れることを心待ちにしております。


お父様はこのすべてをご存じです。どうか心と心をつなぎ合わせ、過去の天上のすべてと地上のすべてを動かし、心情の世界にすべてを調和させてください。
そうして、栄光の感動をもたらす衝撃と喜びの境地の中で、私たちが覚悟し決意できるこのひとときを与えて下さいますよう、心より願い求めます。


今、御言葉を伝えようとしています。ただ御言葉の内容だけを伝えるのではなく、お父様の心情を伝えることができるようにしてください。
お父様の内情を感じ取り、自らを見つめ直すことのできる時間として、御言葉が現れるように導いてください。


伝える者の心と受け取る者の心の間に隔たりを生じさせるのがサタンの働きであることを私たちは知っています。
どうか一つの心に調和し、一つの心情に調和して、お父様をお迎えできるこの時間としてください。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>
本日は皆さんの前で「終わりの日に残るお父様の真の息子娘」という題でお話しいたします。
これまでの人類の中で、どれほど権勢があり、どれほど人格が高潔であり、どれほど栄光に満ちたものを備えた人がいたとしても、自分自身を立てて「私は神の真の息子であり、真の娘だ」と誇りをもって宣言した人は一人もいませんでした。
真の息子娘となるには、真の父母を持ち、真の家族の縁を通じ、真の兄弟と結ばれた何らかの内容を持たなければなりません。それなくしては、息子としての環境、息子としての位置、あるいは娘としての環境、娘としての位置に立つことはできないのです。


神が存在し、人類に対してある摂理を進めておられるとするならば、その神が摂理を進めながら望む最高の目的とは何でしょうか。それは他でもありません。「あなたは私の真の息子であり、真の娘だ」と言える人を探し、立てることです。そして、その真の息子娘と永遠の心情を通じ、存在世界のすべての縁を通じる立場において、「父」と「息子娘」という一言を交わせる日を持つことが、神の最高の目的なのです。


神がそのような日を待ち望んでおられることを、私たちは知らなければなりません。


創造主であり、全宇宙の根本であり、すべての存在世界の主体となる一つの中心があるとするならば、その中心が望む理想世界は、この地上の存在世界ではないでしょう。
神が望まれる世界は、天上にある何かの理念の世界でもなく、外的な世界でもありません。その世界とは、心情の縁を中心に動き出し、静的な流れの中で全体を投じて「息子」「娘」と呼ばれることのできる世界なのです。
そのため、神がいかに素晴らしい方であり、創造主であり、絶対者であったとしても、神ご自身もそのような内容を持った人間を待ち望んでおられることを、私たちは否定することができません。


歴史は「真」を志向しています。真の人間、真の国家、真の世界を目指しています。
私たち自身も、真なる存在になりたいという意識を持ってそれを望んでいます。


では、真の縁の中で基準となる縁とは何でしょうか。それは、神と人間の間に結ばれる親子の縁です。この縁から生まれる心情は、どのような存在の権威によっても屈することのない、永遠で不変で唯一のものです。また、この心情の権威は絶対的なものです。そのため、この権威を持って現れるとき、すべての存在はその存在の前に頭を垂れざるを得ません。この心情の権威をもって動くとき、万物はそれに従って動かざるを得ないのです。これが宇宙の鉄則です。もしそうでなければ、私たちが望む真の目的を成し遂げることはできず、一つの絶対的な縁を結ぶことはできない、という結論に至ります。


そういう理由から、どれほど偉大で崇高な神であったとしても、その神が「私の愛する真の息子よ、娘よ」と呼べる一日を持てなかったことが、神にとって最も大きな悲しみなのです。それ以上に悲しむべきことはありません。また、天の縁を通じて創造された人間であるならば、そのような一人の人間、そのような一人の息子娘を地上から立てられなかったことが、最大の悲しみです。これこそが人類の悲しみの中の悲しみなのです。


もし神が「私の息子、娘」と呼べる真の息子娘がいて、彼らを呼びながら6千年間続けてこられた苦労を忘れ、これまでのすべての紆余曲折を忘れることができる瞬間がこの地上に訪れるならば、その時から天の恨みを晴らす聖業が始まるでしょう。人類はその時に初めて、神による幸福の歌を歌うことができるのです。このような時が訪れることを、私たちは予期しなければなりません。


もし人類と天倫に「終わりの日」があるとするならば、その日とはどのような日であるべきでしょうか。その日は、神が人間に対して「お前は永遠に否定しようとしても否定できない私の真の息子、娘だ。私の息子よ、娘よ、ようやく私の恨みをすべて晴らすことができた。」と言い、心から安心し、心から楽しむことができる日であるべきです。そのような息子娘がこの地上に現れるその日、その時が来て初めて、神の新しい理念の世界が始まるのです。


しかし、今に至るまでそのような息子娘は現れず、真の息子娘との縁を決定づけることのできる一時を迎えることができませんでした。「真の息子」「真の娘」として立てられる存在が現れていないのです。このような存在が現れない限り、神の願いと人類の希望は完結されないということを、私たちは知っておかなければなりません。


今日、私たちは堕落した子孫であることを知っています。どれほど立派な人であっても、どんな伝統を誇り、歴史的な面で自分の貢献を自慢したとしても、それはすべて堕落した子孫としての自慢にすぎません。また、自分が持っている地位や姿が立派で、この世で天を貫くような権威を持っているとしても、それもまた堕落した子孫の権威にすぎないのです。人間がこのような逆境と、天が許すことのできない環境に置かれているため、人間社会は天と相反し、対立する罪悪の世界になっています。罪深い人間、罪深い世界であることは、誰もがよく知っていることです。


神の真の息子娘の姿は「至善至高」(最も善で最も高い)の姿であるのに対し、地上に生きている私たちの姿は極めて悪く、極めて粗末な姿です。この隔たりをどうやって打破するのか?これを打破するための働きが、神の救済の歴史です。神はこの隔たりを埋め、繋げるために、6千年という長い年月を通して苦労を続けてこられました。人間が知ろうと知らずに関わらず、歴史の背後で血の滲むような戦いを続けてこられたのが、神の働きであることを私たちは知るべきです。


このような歴史的な神の苦労に対して、何をもって報いるべきかを考え、天を仰ぎ見て恥じ入る心を持ち、自らを悔いる人がほとんどいません。


今日、「宗教」という名の下に、あるいは宗教的な内容を備えた指導者を立てて、人類に対して告知し、勧告していることは何でしょうか。それは、人生の道程を通して、神が摂理してこられた歴史的な内容を知りつつ、自分の感性を通して天の心情と縁を結びなさい、と私たちに教示しているのです。その役割を果たすのが宗教です。


しかし、多くの宗教人は、心情から伸びてくる縁を軽視したり忘れたりし、今日目の前に現れている事実にのみ執着しがちでした。宗教の重大な使命は、堕落の縁から脱し、心情の世界に立脚して、神がこれまで人類を導いてこられた中で経験された悲しみと苦しみの歴史を共にし、その歴史的な苦難と戦う心情を持つことにありました。ところが、宗教はこれまでそのような立場から人類の歴史を補い、人類の心情を結びつける働きを十分に果たしてきたとは言えません。


それゆえに、神が真の息子娘を探し求める心が切実であればあるほど、時代と世紀を超えて深く染み入る思いを持ちながら、真の息子娘を恋い慕い、人類に対してこれまで労苦を続けてこられたことを、私たちは理解しなければなりません。


天はこの唯一の目的を達成するために、個人を立て、家庭を立て、民族と国家を立て、世界的な主導理念を掲げて摂理を進めてこられました。天はこの一つの目的を成就するために、これほどまでに苦労されてきたのです。しかし、その目的を担い、成し遂げる責任を負うべき天が選んだイスラエル民族は、どこかへ行ってしまいました。宮廷から引き出された60万人のイスラエル民は跡形もなく消え去ってしまいました。また、120年間苦労して築き上げたノアの家庭も同様であり、アベルの祭壇も跡形なく消えてしまったことを、私たちは知っています。


このように歴史を知り、神の摂理的な意図を知れば知るほど、神の悲しみは言葉に尽くせないほど大きいという事実を理解できます。神の理念は、個人から始まり、真の息子娘を中心とする家庭へ、さらに民族、国家、世界、そして宇宙へと進むものでした。それが神の心情に染み入る理念であったにもかかわらず、この地上には「私は永遠の父の心情を通じることができる真の息子です」と言える存在がいませんでした。また、「私は父の心情と共に心を慰め、その苦悩を晴らすことができる永遠の娘です」と言える存在もいませんでした。そのような息子娘を中心に神をお迎えして生きる家庭もなく、そのような民族も国家も、世界もありませんでした。


神が目指す目的とは何でしょうか?それは、真を貫くことのできる子女から始まり、家庭、民族、国家、世界、そして宇宙までを縁で結びつけ、一つにすることです。この使命を果たすことこそが、今日私たちが知っている復帰の使命です。この使命の道を歩むことが救いの歴史であり、摂理の意図であり、天倫の目的であることを、私たちは理解しなければなりません。


私たちはこの時代を「終わりの日」と呼んでいます。では、終わりの日とはどのような時でしょうか?それは、真の息子娘が現れ、全世界を天理に基づいて治めることができる時です。その息子娘が現れて、歴史的な怨恨を清算し、悲しみと苦しみの歴史を終結させ、喜びと幸福を歌うことのできる日。このような運命を分ける時、この分岐点となる日が「終わりの日」なのです。


では、終わりの日に誰が来ると言われていますか?聖書ははっきりと述べています。「主が来られる」と。では、その主とは誰でしょうか?それは再臨のイエスです。再臨のイエスとはどのような方でしょうか?それは、万物の歴史を動員し、神が労苦の末に見いだされる方です。神が「あなたは永遠無窮にわたって私の心の中に、私の存在の中に、私が創造した世界の中に生きることのできる息子だ」と言える存在です。その方こそが、再び来られる主なのです。




イエス様は教えてくださいました。「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」と。それは、息子となるべき主の現れと、娘となるべき花嫁の姿が地上に現れることを意味しています。そして、息子と娘が出会い、探し求めてこられた神とその息子娘が出会うのです。その瞬間、真の息子娘の立場は限定されたものでも、限界のあるものでもありません。その日は、息子娘と結ばれた世界全体が一斉に動員され、天を賛美する縁が結ばれる日となるのです。


神は人類と共に真理を求め、人類と共に悲しみ、人類と共に戦い続けてこられました。その神の前で、人類が頭を垂れて祈るべきことは何でしょうか?「天が立てようとする真の息子が現れるようにしてください」と祈ることです。


では、その真の息子とはどのような方でしょうか?その方は真の息子であると同時に、真の花婿としての資格を持ち、真の花嫁を見いだし、真の人類の親となるべき方です。


そのため、歴史を通じて人間を導き、真の息子娘と結びつけるために摂理を進めてこられるのが、神の救済摂理の歴史なのです。


今日読んだ御言葉の中に、「あなたがたは養子の霊を受けたので、アバ、父よと呼び求める」とあり、「聖霊の初穂を受けた私たちも、養子となることを待ち望んでいる」と書かれています。したがって、この地上に生きている人間がどれほど信仰深いと言われても、誰であれ、天の前では養子に過ぎません。では、天の息子がいるとすれば、その息子はどのような形で現れるのでしょうか?息子ではない者がいて、養子がいて、真の息子がいます。世間でもそうではありませんか?自分の息子でない他人の息子がいて、息子がいない場合に代わりとなる養子がいて、真の息子がいます。天地の道理も同じです。


今日、この地上は善悪が交差し、衝突する混乱の中で、真理が真理ではないように見え、偽りが真理のように見える状況が入り乱れています。これが現実です。天は真の息子を探し、真の娘を探す理念と心情を持って人間に向き合い、歴史の道を歩んでこられました。それにもかかわらず、この地上で真の息子娘とは誰のことか、誰も知りません。人間はわからないのです。しかし、天は人間世界の息子でない者たちを養子の形でまとめ、彼らを再び直系の子女として結びつけることを目指しています。これが天の救済摂理の歴史です。


息子としての縁は血統的に結ばれていなければなりません。自分の血統が直接つながっているか、あるいは自分の父や祖先の血統がつながっているか、いずれにしても血統的な条件がある立場でのみ、息子娘という名を立てることができます。世の理(ことわり)がそうであるように、天の理もまた同じです。


人類の始祖であるアダムとエバが創造されたその日から、神の心情が彼らの骨髄に流れ込み、一つの帰結点を築き、その理念のすべてがアダムとエバに和合していたならば、私たちは神の直系血統の縁を持つ子女となっていたはずです。しかし、堕落によって望まない他の血統と結びついてしまいました。そのため、今日どれほど優れた人間であったとしても、血統が異なるため、養子にすぎません。いくら摂理の意図のために心を尽くしても、他人の子を連れてきて繋いだとしても、養子の血統を引き継ぐことしかできないのです。これがイエスが福音を立て、新約時代の救済摂理として進めてきた内容です。


では、神がその養子を立てて「私の真の息子娘」と言えるでしょうか?それはできません。世の中の出来事でも同じです。どれほど苦痛や無念を抱える人が心情から言葉を発したとしても、その心情を通じる立場にいない人は「そうだろう」程度にしか理解できません。ある人は「そうかもしれない」と言い、またある人は「そんなことどうでもいい」と言うかもしれません。しかし、その体験を通じて心情を共有できる縁のある人であれば、話す人の心情に悲しみが染み込むとき、その言葉を聞いても自分の心情に悲しみが染み込むのを感じるでしょう。それこそが同じ立場にあると言える状態です。そうではありませんか?


今日、人類が望むものとは何でしょうか?それは、神の前で「養子」という名を取り除き、直系の真の息子娘となることです。これこそが人類が望み、歴史が目指してきた最高の目的であり、摂理の意図を掲げて進めてこられた神の中心的な目的です。このようになって初めて救いの目的が達成され、救済摂理が完了したと言えるのです。


偉大なる神、愛の本体であり、愛の中心であるその神が、私たち人間を養子の立場で愛してくださるとしても、私たちはそのような愛を望みません。骨髄に染み込む心情が通じる愛の実体としての息子娘が求められるのです。


今日、この地上でいくら徳のある生活をし、いくら神を「父」と呼んだとしても、その「父」の意味はさまざまです。息子でない立場で「父」と呼ぶ人もいれば、養子の立場で「父」と呼ぶ人もいるでしょう。しかし、最終的に残り、天が求める最高の目的とは何でしょうか?それは、養子の名でもなく、養子の位置を越えた直系の真の息子娘となることを切望することです。


聖書には、イエスが養子の縁を復帰してくださると書かれていますが、その理念の世界に満足するだけでは、救いは完全なものとは言えません。これまでイエスを信じて生きた多くの信徒たちは、あの世に行ったものの、彼らは楽園、つまり天国に入る前の待合室に留まっているというのです。だからこそ、イエスが再び来ると約束された目的は、私たちを養子ではなく、直系の縁で結びつけるためなのです。


神は、教訓や命令によって動かされるのではなく、その姿を見て動き、縁を結ぶことができ、心情をもって深く結ばれることのできる息子娘を切望しておられます。


そのため、歴史の中で偉人や賢人とされる者であっても、神に向かって「父よ」と呼ぶことができず、神がその人に対して「お前は私の息子だ」と言える内容を持たなければ、それらの人々は未完成品です。このことをしっかりと理解しなければなりません。


キリスト教が持つ唯一無二の特徴はまさにここにあります。イエスは神に向かって「私の父」と呼び、「私はその独り子である」と宣言しました。イエスは、宇宙の根本、天倫の根本を貫き、心情の世界を支配する一つの基準を立て、実体を持った存在でした。この内容を見れば、私たちはイエスが全人類のメシアであることを知ることができます。


メシア、救主とは何でしょうか?それは、死の領域に留まっている人間を救い出す模範となる人物のことです。したがって、キリスト教が持つ愛の最大の特徴はただ一つです。それは、「神は私の父である」と言える縁が結ばれることです。神がどれほど高く、善の主体であり、絶対者であるとしても、その神が「私の父」であると言えるようになれば、神のものは私のものとなり、私は神のものとなります。これこそが、人類が望む希望の最高基準でしょう。


もし神が最高の愛の基準を掲げて人間に接しながらも、その愛の目的地となる位置に人間を導くことができなければ、神は偽りの存在となってしまいます。もしそうであれば、神は人間の理想や全体の理想を成し遂げるためではなく、自分自身の欲望や欲求を満たすために摂理を進めてきたことになり、その結論に至ってしまうのです。そのため、神は真の息子娘を探し求めておられるのです。


聖書66巻を通して見ると、この内容に関連するパウロの言葉があります。それは、血統的に罪と無縁の立場に立つことができない人間が、亡くなられたイエスを信じることによって養子の相続権を得られるということです。しかし、これがイエスが来られた究極の目的ではありませんでした。


神がイエスを遣わされた目的は、人間が神の真の息子であるイエスと縁を結び、その人々をイエスに接ぎ木することでした。聖書にも「私はぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」とあります。つまり、サタンの世界に属する人間を養子の縁を経て直系の息子となる手続きを進めることが神の計画でした。しかし、人間が信じなかったため、イエスはこの地上で直系の子となる手続きを教えることができず、養子となるための内容だけを説明して帰らざるを得ませんでした。


では、なぜ私たちは来たるべき主を待ち望むのでしょうか?なぜ全人類がイエスの再臨の日を待ち望むのでしょうか?それは、いかに優れた人間であっても養子の立場を超えられない私たちに対して、直系の子となる心情的な縁を確立し、その手続きを教える使命を持って主が来られるからです。それゆえ、全人類がその日を待ち望むのは当然のことです。私たちは、そのような使命をもって来られたイエスを知らなければなりません。


再臨の日を待ち望み、花嫁という対象的な名の下でその目的を探し求める私たちにとって、再臨の日とはどのような日でしょうか?それは、神が6千年もの間にわたり費やされた労苦をすべて振り払い、6千年の悲しみをすべて忘れ、苦しみをすべて忘れることができる日です。見いだされた息子の姿を見たとき、悲しみも苦しみも無念さも跡形もなく消え、「ああ、我が息子よ」と言える歓喜の日です。その日は天が待ち望んだ日であり、地上の人類が長い歴史を通して待ち望んできた日なのです。


つまり、養子の恨みを脱し、直系の子女として「私の父の天国が私の天国であり、父が治める世界を私も治めることができる世界だ」と言える権威を持って現れるとき、神が祝福された堕落前のアダムとエバのように、真の楽園の主人として、また万物の霊長として現れることができるのです。


万物を治めるとしても、心情を通じる何らかの内容がなければ、万物も支配されることを望みません。真の息子娘と呼ばれるためには、歴史的な怨恨を清算できる立場に立つ必要があります。そのため、聖書にはこう書かれています。「被造物もまた、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいる」と。真の息子娘として認められないまま現れる者であれば、万物もそのような者を受け入れたくないということです。


したがって、天の恨みを解消するための歴史的な道を、私たちは今日歩んでいかなければなりません。


このような摂理の道を経て、「終わりの日」と一口に言われているこの時代に、私たちはどうすべきでしょうか?これが大きな問題です。


皆さん、自分自身を振り返ってみてください。あなたはどのような立場にいますか?本当に天の心情と縁を結び、父が動けば共に動き、父が止まれば共に止まり、父が悲しめば共に悲しみ、父が喜べば共に喜ぶことができますか?身体(体)は異なっていても、内面的には心情の世界で通じ合える立場にありますか?天との縁が結ばれていますか?


どれほど外的な環境が華やかであろうとも、心情に反していれば、それは消え去るべきものであり、焼き尽くされるしかありません。世間でも同じことが言えます。愛する息子娘が持っている物がどれほど貴重であっても、その息子娘が亡くなれば、それは価値を失い、焼却されるしかないのです。


心情の縁を通じて真の息子娘となることこそが、天倫が求める最高の目的であり、人倫が目指す最高の目的であるとするならば、今、自分がどの段階にいるのかを冷静に振り返って批判する必要があります。私たちは、どうしても真の息子娘になるべき解怨の歴史を中心に進む運命にあります。この運命から逃れられない天と地の運行の中に私たちは置かれていることを否定できません。


では、この過程を経て進む中で、どのように解明し、進んでいくべきでしょうか?その方法は一つしかありません。それは、神の心情を中心として戻っていくことです。そのため、自分自身の心情がどうであるかを冷静に、第三者の立場から批判してみる必要があります。その時期に来ています。


天倫が目指す方向がそのようであり、父が望まれる日がそのようなものであるとするなら、今日、あなた自身はどのような境地にありますか?心情が通じる真の息子娘の境地にあるならば、祈りは必要ありません。ただ「父よ」と呼ぶだけで、血と肉が震えるような衝撃を感じ、父の心情が自分の心に染み込んでくるような直系の息子娘となっているはずです。そうなっていれば、考えるだけでも憎らしい堕落の恨みを解くことができ、罪悪の世界における堕落した行動はできないでしょう。


歴史とともに悲しまれてきた神の心情を知り、神を苦しめた憎むべき罪悪の縁を断とうと努力した自分自身を思い返すだけで、身震いするほどの気持ちになります。あなたはそのような感情を感じたことがありますか?自分を批判してみてください。神の前で「息子」という名を持つにふさわしい立場に、どれだけ近づいているでしょうか?もし心情的な縁があるかどうかすらわからないならば、その人は息子ではありません。


しかし、たとえ直系ではなく養子であっても、父となる存在の苦しみの内容を完全には理解できなくても、その言葉を聞いてある程度理解することができるはずです。心情的に完全に共感することはできなくても、その言葉を聞いて「その通りです」と肯定できる立場にはいるべきです。あなたはそのような位置に進んでいますか?


イエスはこの地上に人類の真の父として、そして神の真の息子として来られましたが、十字架にかけられて亡くなられました。彼は、神が4千年間地上の人間を導きながら抱かれた一つの決意をもって来られたのです。彼の四肢や身体のすべては、4千年の歴史の道程において神が人間を通して立てようとされた真の息子を切望し、探し求めてこられた部分部分の実体を代わりに具現化した存在だったのです。


そのため、彼の目は4千年の間に神が見つめられた目の代わりであり、彼の耳は4千年の間に神が聞かれた耳の代わりであり、彼の口は4千年の間に神が語られた口の代わりだったのです。彼の感情も身体も同じく、神の歴史的な代替物として現れた存在でした。イエスは歴史的な実体であり、歴史的な結実体だったのです。


それゆえにイエスも、「私は律法を完全にするために来た」と語られました。その目的は一貫しており、神の心情と摂理を完成させるためだったのです。


イエスはユダヤの国とユダヤの民を見つめ、またユダヤ教の教団を見つめながら、4千年間神の愛の領域の中にあった国であり、民族であり、教団であったにもかかわらず、「今や神が抱いて愛することのできない国、民族、教団になってしまった」と嘆かれました。彼らは4千年の間、神の摂理の歴史を歩んできたにもかかわらず、その4千年の歴史の主人として来られたイエスを認識できませんでした。


これはどういうことでしょうか?その当時の人々はそれを理解していませんでした。4千年の歴史の終わりの時代に生きていたイスラエルの民は、4千年前、堕落直前のアダムとエバが神の愛の領域の中に抱かれていたように、自分たちもその一部であり、分子であることを感じ取るべきだったのです。


もし神の摂理が復帰の摂理であるなら、復帰とは失われたものを取り戻すことです。神が探し求めておられるのは何でしょうか?それは失われた息子娘です。失われたアダムを探し、失われたエバを探しておられるのです。


今日ここに集っている私たち、終わりの日に直面している私たちには、6千年もの間、死ぬことなくサタンと戦い抜いて勝利を収めた祖先が必要です。つまり、堕落の縁を断ち切り、勝利の権威を持って父の前に誇りをもって立つことのできる祖先が必要なのです。本来、善なる祖先となるべきアダムが堕落し、死んだアダムとなってしまったため、神は堕落していない実体を探し求めるために、アダムから始まり6千年もの間苦労され、その実体を希望しながら探し続けてこられたのです。


今日、キリスト教で語られるイエスについての教えには多くの内容がありますが、実際にはそうではない場合もあります。私たちはそのような固定観念を打ち破り、強い覚悟をもって歩み出さなければなりません。真実と偽りがあり、さらに真実のようなものと偽りのようなものも存在します。私たちは真実を見極める必要があります。


今日、私たちがイエスを正しく知り、迎え入れることができなかったと言うのはなぜでしょうか?それは、エデンの園でアダムとエバが堕落し、神のもとで成長できなくなった後、サタンと対決しながら戦い続けた4千年の歴史の末に、ようやくユダヤの国に現れたイエスをイスラエル民族が知らなかったからです。当時のイスラエル民族がイエスの前に降伏していれば、モーセがイスラエル民族を率いたときの失敗も、ノアの家庭が失敗したことも、アブラハムが献祭を間違えたことも、アベルが殺されたことも、すべて勝利へと帰結することができました。イエスとはそのような存在でした。歴史の中で実体として現れた、生きた摂理の実体です。アダムは死にましたが、アダムを立てようとされた父の心情は死なず、それが生きた実体としてイエスの中に現れたのです。


終わりの日には、多くの人が自分を中心に「私は宇宙の中心だ」といったような宗教観を持って登場します。しかし、4千年、さらには6千年を経て進められてきた神の摂理の目的は何でしょうか?それは失われたものを取り戻すことです。アダムが失敗したために代わりに送られたイエスとはどのような方でしょうか?それは第二のアダムです。聖書にもイエスを「後のアダム」と記されています。イエスを神そのものとする教えもありますが、それは正確ではありません。


真の息子、すなわち神が「これが私の息子だ」と言える第三のアダムが必要です。この第三のアダムの使命が終わり、真の息子としての立場に立つまでは、どれほど「花嫁」や「養子」と称されようとも、完全ではありません。イエスも「息子」としての栄光を持ってこの地上に来られましたが、息子としてのすべてを果たすことはできませんでした。すべてを果たすには、天の手続きを完了する必要があり、そのためには「息子」だけでは不十分で、「花嫁」を持たなければなりません。


エデンの園で失われたのは何ですか?アダムとエバです。彼らは人類の真の祖先となるべき存在でした。しかし、その真の祖先を失ったため、真の祖先を復帰する必要があります。


イエスは父の位置に相当する存在です。人類の真の父に相当する方です。そして聖霊は母の位置に相当します。人類の真の母に相当する方です。このように、霊的に真の父と真の母を立て、それを実体としてこの地上に顕現させることが再臨の目的です。


人類の前に真の息子娘が現れる時が「終わりの日」です。その時とはどのような時でしょうか?それは、真の祖先を失ったことで堕落した子孫となり、真の父母と血統的な縁を結べなかった私たちが、反対の道を通じてエデンの園で失われた息子娘を探し出す時です。この逆さまの歴史、復帰の歴史を通じて、神との縁を結び、その人々を養子から直系へと昇進させるのが神の摂理の歴史です。もしこの話を聞いて「間違っている」と思うなら、霊界に行って直接尋ねてください。「ある時、誰々がこのように言っていましたが、その言葉は正しいですか、それとも間違っていますか?」と。きっと間違いないと言われるでしょう。


幻想的で空想的な信仰の時代は過ぎ去りました。観念的な神を信じ、その理念のもとで生きる時代も過ぎ去りました。これからは、骨と肉が心情に一致する基準を持って、神を「父」と呼び、その父が6千年にわたって歩まれた心情を今日の自分の心情に結びつけることが求められます。そして、その心情的基準を通じた立場から、神との父子の関係を誇ることができる位置に立たなければなりません。


天を探し求める人類、または目的の世界を目指す人類は、この道を歩まなければなりません。そのために、東洋では三綱五倫を立て、「天に心を尽くし、忠臣となれ、貞節な婦人となれ」と教えてきたのです。このように、東洋では内面的な思想を中心に進んできました。一方、西洋は外面的なアプローチをしてきました。時間が経てば、その違いが明らかになるでしょう。


養子たちが栄える時代はこれまでの20世紀の文明です。そして、これから真の息子娘が栄える時代は理想世界です。神が存在するならば、それが道理でしょう。昔は他人の子供たちがよく生きる時代でした。現在は、イエスの理念を中心として民主主義陣営を基盤にした養子たちがよく生きる時代です。そして、この時代を超えて、真の息子娘がよく生きる時代がクリスチャンたちが待ち望む再臨時代であり、理想時代です。


では、そのような立場に立つ真の息子娘となり、神が探し求める一時、一瞬に「真の息子娘」の名分を持って現れるには、どうすればよいのでしょうか?「私は何十年も信仰してきました」と胸を張るような小人物ではいけません。また、「私はある教会の牧師であり、ある教会の指導者です。私のおかげで多くの人々がイエスの名前を知り、彼に従いました」などと自慢する人々も不十分です。


その理由は何でしょうか?それは、神が6千年間という長い歴史を摂理してこられた間、一日たりとも、たった一時間たりとも真の喜びの日を持たれたことがなかったからです。真の息子娘を探し求める父が、まだその息子娘を見つけられていないのに、どのようにして喜びがあると言えるでしょうか?


歴史を通じて、人類は喜びの時間を持ち、享楽を楽しんだ人々も多かったかもしれません。また、ある支配者たちは自分の権力を中心に神に代わって栄光を享受したかもしれません。しかし、4千年、6千年の歴史を苦労しながら、真の息子娘を切望し探し求めてこられた神には、そのような時間は一度もありませんでした。栄光を享受し、喜びを味わうべき神は、いまだにそのような時間を持たれていないのです。


神は悲しみの主人公であり、苦しみの主人公です。私たちが迎えるべき父は、喜びと栄光を味わいたいという願いを持ちながらも、その願いを実現できず、喜びも栄光も享受したことのない神です。その代わりに何を持っておられるのでしょうか?それは、堕落の恨みとともに、悲しみと苦しみの内容を抱え込まれた、悲しみの神であり、苦しみの神であるということです。


そうではありませんか?


今日、私たちは天国を幸福の楽園だと思っていますが、決してそうではありません。実際に行ってみてください。どれほど喜びの要素があるかと隅々まで探しても、そうはなっていません。神が世を治める権威を持ち、栄光を享受し、幸福を歌うべきであるにもかかわらず、神には喜びや栄光、善の結実、理想的な要素がすべて失われ、悲しみと苦しみだけが残されています。これがどれほど無念なことでしょうか。この無念さに満ちた神の前で、「父よ」と叫びながら骨身に染み入る悲しみを感じ、身をもって苦しみを共有する人こそ、天に近い息子娘であると言えます。


**イエスはこの地上に万王の王として来られました。**天から指導者としての権限を認められ、地上に現れました。しかし、生まれたその日から、彼には一時間の喜びさえありませんでした。彼は地上の人類のため、全ての民を救う救い主として現れましたが、その身には栄光が訪れることはありませんでした。栄光が訪れる前に、彼は苦しみの世界を通らなければならず、悲しみの道を歩まなければなりませんでした。


なぜそうだったのでしょうか?
それは、イエスが4千年の歴史を蕩減しなければならない立場にあったからです。万王の王となるためには、まず悲しみの王子として合格し、次に苦しみの王子として合格しなければなりません。そうでなければ、天の悲しみを通り抜けてきた無数の霊人たちを慰めることができないからです。


イエスの道は、ただ栄光の道ではなく、苦難を通じて全てを清算し、真の救いをもたらすための道だったのです。


そのため、イエスの30余年の生涯、特に3年間の公生涯の道は、悲しみの道でした。イエスは涙を流しながらも、4千年の歴史の中で先祖たちが流した涙の谷間を彷徨いました。4千年の歴史の中で血の滲むような死の峠を越え、天に向かって叫び続けてきた人々の跡を引き継ぎ、その苦労を背負われました。そして最終的に彼の道は、十字架の道でありました。私たちはイエスを愛の王子、幸福の王子、栄光の王子だと考えていますが、実際には彼は苦しみの王子であり、悲しみの王子だったのです。


終わりの日の裁きの時が来るでしょう。その裁きの日、天はどのような内容をもって現れるでしょうか?「私はこのような栄光と幸福を持っているが、なぜお前たちはそれを持たないのか」と問いかけることはありません。裁きの内容は、6千年にわたる悲しみの人類の歴史と悲しみの神の歴史、苦しみの人類の歴史と苦しみの神の歴史をお前たちは知っているのかということです。その歴史の中で、神が手を差し伸べられた跡があることを認識しているかどうかが問われるのです。


そのような神の前に立ち、息子としての栄光を求める者、娘としての希望を求める者に対して、神は尋ねられるでしょう。「お前はこの歴史と共にどれほど悲しみ、どれほど苦しんできたのか」と。その時、「ありません」と答える者は、息子としての栄光を得ることができません。


神が6千年もの間戦い、耐え忍んでこられた歴史を知り、その心情と苦労に共鳴する者だけが、神の息子娘として認められるのです。それは、栄光のための資格ではなく、悲しみと苦しみを共にする資格だからです。




見てください。イエスの手と足には釘の跡が残っています。イエスの頭には茨の冠が被せられ、イエスの胸には槍の傷跡が残っています。イエスは死なれましたが、悲しみの王子として、苦しみの王子として合格し、神の恨みを清算するために死の峠を越えなければならなかったのです。しかし、今日の多くのキリスト教信者はそのことを知りません。イエスは心情において合格者であり、心情の指導者としての権威を持って現れたのです。


救い主とは何でしょうか?身体の救い主ではありません。イエスは骨の髄まで染み入るように愛おしく、会いたくてたまらず、永遠に共に生きたいと願われる心情の救い主です。心情に染み入る内容を持ち、その心情を掴んで神の悲しみを押し出し、歴史的な神の苦しみをこの人間世界から取り除くことができる心の基準、一途な心情をもってイエスは救い主となったのです。


このような内容をもう一度よく考えてみましょう。終わりの日は確実にやって来ます。その時、天はどのような基準で裁きを行うのでしょうか?はっきりと知ってください。それは揺るぎない事実です。信仰している人も、これから信じようとする人も、しっかりと理解する必要があります。


終わりの日に、神は喜びの内容で微笑みながら現れることはないでしょう。主も同じです。復活されたイエスを見て、マグダラのマリアが「主よ!」と叫んで抱きつこうとした時、「触れるな」と言われたのはなぜでしょうか?それは、悲しみを抱えるイエスの心情、苦しみを経験したイエスの心情、天倫の苦難と悲しみの道を通じて初めて、イエスを抱きしめることができるということを示しているのです。


私たちは、この事実を深く理解しなければなりません。イエスを知ることは、彼の苦しみと悲しみを知り、その心情を共有することなのです。


皆さんが自分自身で深い悲しみの涙を流し、苦しみの境地に入り、「父よ」と呼ぶことができるようになった時、父の姿を一度見上げてみてください。父の目は、6千年もの間、涙が止むことのなかった目です。父の耳は、6千年もの間、すべての敵の嘲笑と非難、侮蔑を絶え間なく受け続けた耳です。父の口は、6千年もの間、語りたいことも語れず、飢えた人類と共に飢えに苦しんだ口です。父の手は、血の涙と血の汗が染み込んだ手であることを私たちは知らなければなりません。父の足もまた、何百回、何千万回と死のゴルゴタの険しい山を越えてきた足です。父の身体には、傷つき、無念のうちに打たれた跡が残っています。


では、この父がなぜそのような苦しみを受けたのでしょうか?それは、哀れな人類のためでした。このことを思うとき、私たちは限りない感謝と恥じ入る気持ちを持たなければなりません。「私のような罪人は、何千万回死んでも父の悲しみを防ぐことができず、何千万回死んでも父の涙を拭うことはできません」という思いに深く染み入って、初めて「父よ」と呼ぶべきです。


皆さんはそのように父を呼んだことがありますか?もしないのであれば、悔い改め、悔い改めるべきです。父の苦しみを知り、その悲しみを共にする心を持たなければ、真の父子関係には至れません。


私たちは裁きの日を恐れの一日と信じ、その日を避けようとしています。しかし、イエスは「全世界の誰よりも私を愛しなさい。十字架を背負って私についてきなさい」と宣言しました。これが絶対的な第一の鉄則であり、聖書の中でも最も重要な内容であり、福音の核心中の核心です。歴史の悲しみを自分の悲しみとし、歴史の苦しみを自分の苦しみとして、歴史と共に生きたと言える存在でなければ、歴史と共に戦い抜いてきたイエスと、歴史と共に摂理を進めてこられた神の裁きの場に立つことはできません。


今日、多くの信者たちは、裁きの日に主が現れ、すべてを準備して栄光の世界で空中の婚宴を開き、自分をその宴に招いてくれると信じています。しかし、それは幼稚な空想です。もしそうならなかったら、彼らはどうするでしょうか?そのような人々は神を恨み、イエスが再び来ても反対することでしょう。


**私たちは父の前に置かれた歴史的な罪状の前で、傷つき、弄ばれた血統を受け継いだ子孫です。**したがって、何度弄ばれようとも、歴史と共に悲しみを背負ってこられた神の労苦と神の悲しみの前に、無限の感謝と畏敬の念を持たなければなりません。しかし、神の救済摂理という父の意志があるからこそ、「できるならば、もし可能ならば、どうか憐れんでください」と願うしかありません。


天国とは何でしょうか?
もしこのような心情を持たずして天国に行けるのであれば、誰でも天国に行けるでしょう。しかし、天国はそのような場所ではありません。神の心情に共鳴し、歴史の悲しみと苦しみを自分のものとする人だけが、天国に入る資格を持つのです。それは単なる安易な信仰や期待では達成されません。神の心情を知り、体験することが求められるのです。


裁きの場に立たなければならない今日の私たちは、まず神が無限の悲しみの中におられることを宣言しなければなりません。そして、神がこのような歴史の道を通ってこられたということを宣言する必要があります。


神の悲しみとイエスの悲しみとは何か?
それは、真実であり正しい立場におられながらも、偽りや偽装によって踏みにじられることです。これ以上の悲しみはありません。
イエスの苦しみとは何でしょうか?それは、愛する息子娘を探し求める道を遮られ、愛する花嫁を探し求める道を遮られ、踏みにじられることでした。これ以上の苦しみはありません。


息子娘を探し求める道、息子娘と出会う道は、ゴルゴタの丘を越えなければならない道でした。そのため、イエスの時代のゴルゴタが残されていると同時に、終わりの日には世界的なゴルゴタの道が残されているのです。


今日の信者たちは、天の栄光を担って再臨される主の栄光を見つめることを再臨の理想としています。しかし、復活されたイエスにただ会うだけを期待してはなりません。復活されたイエスが現れる前に、私たち自身が生きながら世界的なゴルゴタの峠を越えることを知らなければならないのです。


世界的なゴルゴタを越えるとはどういうことでしょうか?
それは、自分の心、血、肉、そして命そのものを懸けて、死ぬか生きるかの分岐点に立ちながら「父よ、私の願いではなく、父のご意志が成されますように」と祈ることです。この覚悟がなければ、終わりの日に耐え抜くことはできません。


聖書には、終わりの日に7年の大患難があると記されています。その試練の中で最後まで耐える者が救われるのです。それは単なる信仰の表明ではなく、試練と苦難を通して神の心情を深く理解し、共に歩む者に与えられる救いです。


主の花嫁として歓喜の主の園に参加できる者は、6千年の歴史の道程で苦しみに立ち向かい、勝利した勝利の王子であり、また人類を代表して悲しみの心情を担った悲しみの王子でなければならないことを理解しなければなりません。このような人物こそ、主が花嫁として迎えようとされているのです。


なぜ幸福の要素が否定されるのか?
神はまだ一度も喜びを経験されたことのない方です。神は、ご自身が創造された被造物においても、真の主人として振る舞うことができませんでした。さらに、アダムとエバという、一つの家庭を中心に祝福を与え、喜びを味わおうとされたその存在さえ、サタンに奪われてしまったのです。このため、天と地に嘆きが広がりました。


神の直接的な主管下にあるべきすべてのものがサタンの主管下に入り、息子娘はもちろん、万物までもが踏みにじられる状況をご覧になった神の悲しみを超える悲しみがどこにあるでしょうか?それでも神は、「悲しい」と言うことすらできる相手がいなかったため、その悲しみを胸に秘めながら、歴史と共に、再び悲しみを重ねてこられたのです。


皆さんはこの神の心情について考えたことがありますか?
神は、誰にも言えない悲しみを抱え、孤独に耐えながら、歴史を通じてその悲しみを繰り返し経験されてきたのです。このような神の心情を理解し、共有しようとする心構えを持つことが、真の信仰の基本であり、主の花嫁としてふさわしい道なのです。


統一信徒の皆さん、あなた方は確かに哀れな立場にあるかもしれません。
しかし、もしあなた方が、2千年間、あるいは6千年間、イエスや神が耳で聞かれたような声を聞くことができるなら、そのことに感謝すべきです。また、目の前の民族を見つめて涙を流し、世界の人類を見て「これはどうしたらよいのか」と胸を叩きながら涙を流せる立場にあるなら、そのことをありがたく思うべきです。


もし、食べるものがない、あるいは食べていても喉が詰まり、言いたいことを抑えざるを得ない立場にあるなら、その口は祝福された口です。また、手があり、戦う力があってもサタンと血みどろの戦いをできない無念さを感じているならば、それにも感謝すべきです。サタンの勢力が迫り来る中で、勇敢に足を踏み出す力があっても、その力を抑え、一日を待ちわびる悲しみの心情を抱えているならば、そのことにも感謝すべきです。


神は遠くにおられる方ではありません。
神は、遠いと感じる時ほど近くにおられ、近いと感じる時ほど遠くにおられます。歴史の道のりにおいても、神の前に近いと誇っていた人々からは遠く離れ、遠いと恐れ多く思う人々には近く寄り添ってこられました。


この神の逆説的なご臨在を知ることが大切です。
神は、自分を低くし、神の心情を深く理解しようとする者にこそ、近くにおられるのです。このような心構えで歩む信徒たちこそ、真の信仰者として成長していけるのです。


苦しみが増すからといって嘆かず、迫害に直面するからといって嘆かないでください。その代わりに、こう祈ることができるようになりましょう。


「父の心情に宿る悲しみを私に与えてください。父の心情に深く刻まれた絡み合う苦しみを私が背負わせてください。もしサタンの訴えやサタンによる踏みにじりがあるならば、その訴えをこの私一人に受けさせてください。そして、歴史的な悲しみを全て蕩減し、苦しみを全て清算できるようにしてください。」


このように父を呼び、涙に満ちた心情と涙に濡れた手で必死に祈る息子娘がいるならば、その者を父はしっかりと抱きしめてくださるでしょう。それは間違いありません。


私たちは栄光を求めているのではありません。
たとえ栄光があるとしても、それは父のものです。私たちのものは、苦しみと悲しみだけです。しかし、その苦しみと悲しみを命の要素として消化できる心を持つべきです。そして、神が「おお、我が息子よ、我が娘よ」と抱き寄せてくださったとしても、その目を見上げるのも恐れ多いと感じる心を持つならば、裁きの日、悲しみの歴史と苦しみの歴史を前にしたその宣言の日に、たとえ膝をつき、顔を上げることができなくても、天の手は必ずあなたの上に留まるでしょう。


真の信仰者は、喜びを求めるのではなく、神の悲しみと苦しみを自らのものとして受け入れる覚悟を持つ者です。その覚悟こそが、裁きの日に救いを受ける基準となるのです。


私たちは、悲しみの中で天国を切望し、苦しみの生活の中で天国を切望し、悲しい歴史の中で悲しむ主を迎えて慰め、苦しみの歴史の中で苦しむ主を迎えて慰める心を持たなければなりません。このように、悲しみを体験し、苦しみを受け入れる中でも、さらなる悲しみが加わったとしても、その場に神を迎え、神を慰めることのできる者がいるならば、どれほど栄光を捧げて慰めた者であっても、その者には及びません。これこそが私たちの目指すべき基準であり、統一信徒が進むべき道です。


統一信徒の歩むべき道
追い詰められ、蔑まれ、孤独で、果てしない悲しみの中にあっても、悲しむ神を迎え、その苦しみを抑え、その悲しみを抑えながらも、父を慰め、父の苦しみを再び背負おうとする者こそ、終わりの日の裁きの場に残る者です。


ここで必要とされるのは、多くの人数ではありません。数の多さではなく、神の悲しみと苦しみを感じ、断食しながらでも「父よ、私だけがこの状況にいるのではなく、世界中の人々が同じような苦しみの中にいます。私よりもさらに哀れな立場にいる人がどれほど多いことでしょうか」と言い、さらに人類の悲しみを自分の責任として引き受けようとする者が必要なのです。


イエスが歩まれた道はまさにそのような道でした。
イエスは、自分の苦しみだけでなく、世界中の人々の苦しみを自分のものとし、それを背負いながら神を慰めるためにその道を歩まれました。この道こそが、私たちが進むべき道です。栄光や喜びを求めるのではなく、悲しみの中で神と共に立ち、慰める心を持つことこそが、私たちの真の使命なのです。


皆さん、天は真の息子娘を探し求めてこられました。
もし、あなたが父の手を握りながら「その手は、かつて私が歩んだ道を思い起こさせる手だ」と感じ、父の姿を見て「かつての私の姿と似ている」と思い、さらに父の心情と焦燥感に触れ「それはかつて私が感じた心情と焦燥感に似ている」と思う立場で「父よ」と呼ぶことができるなら、その一言は歴史上のすべての不幸を取り除き、幸福の決定的な条件となることを、今日の私たち、クリスチャン、そして世界中の信徒たちは知るべきです。


今、ここにいる皆さんへ
ここに参加された皆さんが、どのような事情やどのような心情を持っていらっしゃるかは分かりません。しかし、今心に感じている何かがあるならば、それは偽りではありません。
もし、「そうだ、それが正しい。それが私の進むべき道だ」と感じ、それに基づいて一生を覚悟し、それを決意し、それと共に戦い、それと共に倒れる者がいるならば、その者こそ、来るべき裁きの日に神が抱きしめてくださる真の息子娘となるでしょう。それは間違いありません。


真の息子娘の条件
真の息子娘となるためには、父の心情を深く理解し、その苦しみを自分のものとして受け入れる覚悟が必要です。そして、その心情に基づいて生き、戦い、時に倒れることがあっても、その心を失わない者が、神の愛の対象となり得るのです。


この決意を持つ者が、最終的に裁きの日に神の心に触れ、天が求める息子娘として迎えられるのです。あなたが今感じている思いを大切にし、それを行動に移すことこそ、あなた自身を真の信仰者へと成長させる道となるのです。


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