冬の間は我が家のベランダによく来ていたウグイスも全く姿を見せなくなりましたが、淀川の河川敷を散歩しているとウグイスの鳴き声が良く聞こえて、思わず聞き惚れています。
先日、散歩中に知り合ってよく話をする人に、「エエ声で鳴いてますな!」と言ったところ、その人の返事が何と「あっ、あの屁のような鳥ですか?」という事で、一瞬唖然!
更に聞くと、その人もウグイスの鳴き声だとは知っているのですが、姿を見たことがないので“声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような・・・”という言葉に引っかけて、勝手にウグイスを「屁のような鳥」だと呼んでいると言うのです。
そういえば、いくら綺麗な声で鳴いても竹藪や樹木に隠れていて、その姿を見たことがない人が殆どなのでしょう。納得です。
しかし、私は“声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような…”という言い回しの由来が気になり、帰宅後に調べて見た所、思いがけない由来が判明しました。
・元々、江戸初期からの名歌の一つ「山家鳥中歌 和泉の項」に、『声はすれども姿は見えぬ 君は深山(みやま)のきりぎりす』というのがあるようです。(因みに「きりぎりす」はコオロギの古称ということです)
・この歌が、「声は聞けども姿は見えじ、君は深みのきりぎりす」などと変容し、男の訪れをを待つ女心のやるせなさを詠った都々逸や、さらに各地の民謡にも取り入れられて行ったようです。
中には、宮城県定義節では下の句が「・・・藪に鶯声ばかり」などと変化したものが多くあるようです。
・更に、講談(寛永三馬術等)や、落語(石返し、もぐら、鮑のし等)などで、『…ほんにお前は屁のような』と変わり、全国に広がったという事です。
従って、ウグイスを「屁のような鳥」といった人は、単なる思い付きでの言葉ではなく、このような故事に精通されていたのかも知れませんね・・・(まさ)