* * * * 様
ご無沙汰いたしております。
先日、丁卯艦・山県久太郎の足跡を訪ねて函館~福島町~松前町を巡ってきました。
現地では福島町史研究会の方々が応対くださり、福島大神宮に残る砲台跡や楢崎頼三さんなど新政府(薩長)軍が一進一退の攻防を繰り広げた殿様(松前)街道を歩いてきました。
鏡山の砲台跡から津軽海峡を見下ろしたときは、この海にかの艦船が居たのかと思うだけでなんだか熱くなりました。
当家の資料は、品川から宮古・函館へ向えという辞令、次は、箱館戦勝利の酒宴の書き付けなのですが、福島の史料にはその間の戦いや艦船・陸軍の動向が記されていました。
作戦時の丁卯艦等の配置図もありました。村長に燃料石炭の補給を依頼するも、他の大型の艦船だけで石炭が底をつき、丁卯艦は青森側三厩へ慌てて補給をしに行った史料とかも・・こういった小話は当時の村長や宮司の日記などから読み解くのだそうです。
気になっていた、わずか236tの小さな丁卯艦がどこまで役に立っていたのか?
については、「小さい故に大きな活躍ができた」とのことでした。旧幕府軍の開陽や咸臨丸が座礁しているように、津軽海峡の蝦夷側は遠浅が随所にあり、大型の艦船が動くのには不向きだったようです。丁卯艦は奇襲も含めてずいぶん素早く、また陸に近く活動したようでした。
旧幕府軍の開陽が座礁してから、アメリカが旧幕府軍を見放し、新政府軍の勢いが増したことからも、小さいものには小さいものなりの働き方があると分かりましたし、船一隻が歴史を変えることもわかりました。
新政府軍の艦船4隻は仲良く並んでくるくる回りながら艦砲射撃をしたそうです。信長が行ったと伝えられる火縄銃の三段構えの海洋版のようなものと理解しました。この戦法が功を奏したので、これはその後旅順港(203高地)でも作戦に使われ、第二次大戦では逆に日本が焼け野原になりました。
昨年オープンした五稜郭内の箱館奉行所(中は資料館)にも箱館戦の展示がありましたし、ちょうど函館市立博物館でも幕末の企画展を催しておりましたので、いろいろ回って、あちらこちらで「丁卯」という文字を見つけることができました。
現地を訪れてみて、福島では、つくづく戦争は戦地となってしまった地域の人々を苦しめる。と思いました。それと、函館ではヒーローは榎本・土方ら旧幕府軍で、だれも薩長はじめ新政府軍には興味がない。これも肌で感じました。
先に記した「殿様街道」機会があったらお出かけください。萩往還を思わせる佇まいがありますが、落葉樹ばかりの森の中、木々の緑がとても優しくて、地面がふかふかで、冬でなければすてきな街道です。途中に松前藩が幕府に内緒で砂金を洗ったという池がいくつもありました。
最後に福島町の方々に、明治が落ち着いてからも久太郎は、「丁卯艦や別の艦で、ラッコの密猟取り締まりと測量のためこの地方を訪れているんですよ。」とお伝えしたら、とても興味深そうに話を聞いてくださいました。福島大神宮の当時の宮司の「日記にそんな話が出てくるかもしれませんね。」なんて仰って、今後も村長や宮司さんの日記の解読を進められるそうです。地道な研究活動に頭が下がりました。
おみやげに萩のしそわかめを持って行きました。
以上 長くなりましたがご報告まで。
江戸期までは箱館、明治9年から函館と表記するのだそうです。
ご無沙汰いたしております。
先日、丁卯艦・山県久太郎の足跡を訪ねて函館~福島町~松前町を巡ってきました。
現地では福島町史研究会の方々が応対くださり、福島大神宮に残る砲台跡や楢崎頼三さんなど新政府(薩長)軍が一進一退の攻防を繰り広げた殿様(松前)街道を歩いてきました。
鏡山の砲台跡から津軽海峡を見下ろしたときは、この海にかの艦船が居たのかと思うだけでなんだか熱くなりました。
当家の資料は、品川から宮古・函館へ向えという辞令、次は、箱館戦勝利の酒宴の書き付けなのですが、福島の史料にはその間の戦いや艦船・陸軍の動向が記されていました。
作戦時の丁卯艦等の配置図もありました。村長に燃料石炭の補給を依頼するも、他の大型の艦船だけで石炭が底をつき、丁卯艦は青森側三厩へ慌てて補給をしに行った史料とかも・・こういった小話は当時の村長や宮司の日記などから読み解くのだそうです。
気になっていた、わずか236tの小さな丁卯艦がどこまで役に立っていたのか?
については、「小さい故に大きな活躍ができた」とのことでした。旧幕府軍の開陽や咸臨丸が座礁しているように、津軽海峡の蝦夷側は遠浅が随所にあり、大型の艦船が動くのには不向きだったようです。丁卯艦は奇襲も含めてずいぶん素早く、また陸に近く活動したようでした。
旧幕府軍の開陽が座礁してから、アメリカが旧幕府軍を見放し、新政府軍の勢いが増したことからも、小さいものには小さいものなりの働き方があると分かりましたし、船一隻が歴史を変えることもわかりました。
新政府軍の艦船4隻は仲良く並んでくるくる回りながら艦砲射撃をしたそうです。信長が行ったと伝えられる火縄銃の三段構えの海洋版のようなものと理解しました。この戦法が功を奏したので、これはその後旅順港(203高地)でも作戦に使われ、第二次大戦では逆に日本が焼け野原になりました。
昨年オープンした五稜郭内の箱館奉行所(中は資料館)にも箱館戦の展示がありましたし、ちょうど函館市立博物館でも幕末の企画展を催しておりましたので、いろいろ回って、あちらこちらで「丁卯」という文字を見つけることができました。
現地を訪れてみて、福島では、つくづく戦争は戦地となってしまった地域の人々を苦しめる。と思いました。それと、函館ではヒーローは榎本・土方ら旧幕府軍で、だれも薩長はじめ新政府軍には興味がない。これも肌で感じました。
先に記した「殿様街道」機会があったらお出かけください。萩往還を思わせる佇まいがありますが、落葉樹ばかりの森の中、木々の緑がとても優しくて、地面がふかふかで、冬でなければすてきな街道です。途中に松前藩が幕府に内緒で砂金を洗ったという池がいくつもありました。
最後に福島町の方々に、明治が落ち着いてからも久太郎は、「丁卯艦や別の艦で、ラッコの密猟取り締まりと測量のためこの地方を訪れているんですよ。」とお伝えしたら、とても興味深そうに話を聞いてくださいました。福島大神宮の当時の宮司の「日記にそんな話が出てくるかもしれませんね。」なんて仰って、今後も村長や宮司さんの日記の解読を進められるそうです。地道な研究活動に頭が下がりました。
おみやげに萩のしそわかめを持って行きました。
以上 長くなりましたがご報告まで。
江戸期までは箱館、明治9年から函館と表記するのだそうです。