もの思う秋。
デカルトの『方法序説』を読み帰したい。
探せども見当たらない。
以下は覚書ノートよりの抜粋。
『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトは歴史学・文献学に興味を持たない。
もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。
これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。
17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という表現を掲げつつ、二元論を唱えた。
デカルトは、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる物質)
思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる心)の二つの実体の存在に気がついた。
デカルトは方法的懐疑を用いて、人間の感覚、知覚や思考の中に現れてくるすべての事象を一旦棚上げした。
そうすることで「思考する我」つまり「精神的存在としての私」の存在を表面に抽出する。
この際、疑いの対象となったものの中心は、通常我々が物質と呼ぶものである。
物質の存在性は、我々が日常そう思っているほど堅固なものではない。
それはいくらでも疑う必要のあるものなのだ。
これが、デカルトの『方法的懐疑』の核心をなす主張であった。
物質というものは、我々自身の身体も含めて、抗いがたいりアリティを以て我々に迫ってくる。
我々の感覚や知覚の多くは、我々自身の精神の中に起源を持つというよりは、外界から現れてくるように思える。
また想像力や情念の多くも物質を考慮しないでは想起し得ないように思える。
デカルトは、方法的懐疑をへて「考える我」の実在性を定立した。
後に、一旦棚上げしたこの物質というものの実在性について、改めて考察の対象とした。
その結果、この世界には精神的な実在と、物質的な実在とがあるという事。
その明証性は神によって裏付けられているのだという、結論に至る。
自分のノートの記述に添いながら書いている。
W老師とともに「哲学の会」で読んだ筈。
『方法序説』が見つからない。
誰かに貸したのか。
今日一日、本探しに狂奔した。
見つからない。
秋は実りの秋『とき』
我思うと我思う。
故に我ありと我思う。
収穫と言う言葉の定義は広い。
デカルトの『方法序説』を読み帰したい。
探せども見当たらない。
以下は覚書ノートよりの抜粋。
『方法序説』第一部にも明らかなように、デカルトは歴史学・文献学に興味を持たない。
もっぱら数学・幾何学の研究によって得られた明晰判明さの概念の上にその体系を考えた事が原因として挙げられる。
これに対して後にヴィーコなどが反論する事となった。
17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という表現を掲げつつ、二元論を唱えた。
デカルトは、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる物質)
思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる心)の二つの実体の存在に気がついた。
デカルトは方法的懐疑を用いて、人間の感覚、知覚や思考の中に現れてくるすべての事象を一旦棚上げした。
そうすることで「思考する我」つまり「精神的存在としての私」の存在を表面に抽出する。
この際、疑いの対象となったものの中心は、通常我々が物質と呼ぶものである。
物質の存在性は、我々が日常そう思っているほど堅固なものではない。
それはいくらでも疑う必要のあるものなのだ。
これが、デカルトの『方法的懐疑』の核心をなす主張であった。
物質というものは、我々自身の身体も含めて、抗いがたいりアリティを以て我々に迫ってくる。
我々の感覚や知覚の多くは、我々自身の精神の中に起源を持つというよりは、外界から現れてくるように思える。
また想像力や情念の多くも物質を考慮しないでは想起し得ないように思える。
デカルトは、方法的懐疑をへて「考える我」の実在性を定立した。
後に、一旦棚上げしたこの物質というものの実在性について、改めて考察の対象とした。
その結果、この世界には精神的な実在と、物質的な実在とがあるという事。
その明証性は神によって裏付けられているのだという、結論に至る。
自分のノートの記述に添いながら書いている。
W老師とともに「哲学の会」で読んだ筈。
『方法序説』が見つからない。
誰かに貸したのか。
今日一日、本探しに狂奔した。
見つからない。
秋は実りの秋『とき』
我思うと我思う。
故に我ありと我思う。
収穫と言う言葉の定義は広い。