幸せの深呼吸

幸せは自分の中にある。
幸せは自分が決める。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」が描かなかったリアルなQUEEN、代表曲の難解な歌詞に隠された意味

2019-01-01 | Music

ちょっと違うかなというところもありますが、時代感が分からないので参考になります。

https://netallica.yahoo.co.jp/news/20181231-70004886-exrev

QUEENがブレイクを果たすまで

 

QUEENがスタートしたのは1973年の夏。彼らは少し遅れてきた存在である。と言っても、今となっては全然遅くないのだが。70年代初頭にロックの有り様が変わるビッグウェーブが起き、その波が沈静化したタイミングでQUEENは現れた。
すでにLED ZEPPELINは5枚のアルバムを発表していた。異星人に変身して時代を変えたデヴィッド・ボウイもいた。YESやGENESISは限界にまで達しようとしていた。DEEP PURPLEとTHE WHOはとっくに超大物。アート・ロックのポジションにはロキシー・ミュージックがいた。イギリスの労働者を励ます“国民的”の座席にはエルトン・ジョンやロッド・スチュワートが自薦他薦両者からのリクエストでデンと居座っていた。

QUEENは先駆者ではない。もう革新的な楽器は開発されなかったし、創造の手法も発明し尽くされていた。

では、70年代中頃はどういう時代だったか? 60年代末から活動していた大物バンドの解散や活動休止が目立ち出した時期なのだ。QUEENがヒットシングル「Killer Queen」をリリースしたのは74年である。

70年に解散したビートルズ以来、ロックを自国の誇りとするイギリス……というかEMIは有望株を商業ベースに乗せたがっていた。「Killer Queen」によってQUEENはタイミングを捉えた。

同曲がイギリスでトップ5入りを果たした頃、フレディは発言している。
「僕らはアイデンティティを見つけた。今、僕らは誰にも負けない気がしているんだ。僕らはずっと、最もビッグで、最も優れたバンドを目指してきた。今そこに手が届くところまで来ているんだよ」

ロックが産業化した時期が60年代末〜70年代初頭だとすると、70年代中頃は過渡期だった。ビートルズは人生を3分間の曲で表現していたが、後に出てきたツェッペリンはドラムソロに30分を費やした。グレイトフル・デッドのライブなど夜通しである。
1stを“LED ZEPPELIN風”、2ndを“YES風”と喩えられたQUEENが3rdで選んだのは、改めてのコンパクト化だった(「Killer Queen」の尺は約3分)。それまでのバンドに必須だったブルーズっぽい土臭さも彼らには皆無だ。QUEENは70年代型ロックを総括し、洗練させ、締めくくった。

QUEENを発見したのは日本のリスナーである。その中心となったのは女の子。「ロックは汗臭さだけではない」というQUEENによる新境地が、ロックに市民権をもたらした。今とは比べ物にならないほど洋楽がパワーを持っていた当時の日本。時代は洋楽至上主義。中でも、QUEENはさらに先を行った。何しろ、当時のQUEENの日本のファンクラブを運営していたのは渡辺プロダクションである。「ロックに市民権」どころか、ロックを芸能の領域にまでズンズンと押し進めたのがQUEENだ。

「僕らは素晴らしく薄っぺらだ。僕らの歌はビックの剃刀みたいなものでね。大量消費と使い捨て用に作られているんだよ」
フレディの発言は皮肉に満ちており、QUEENの“音楽”の本質はあえて言い当てていないが、QUEENという“バンド”の本質は説明していると思う。

代表曲「Bohemian Rhapsody」の難解な歌詞に隠された意味とは

 

3rdまでを「初期」とカテゴライズすると、彼らのキャリアにおける華は4〜7thだ。何より、4th『オペラ座の夜』にとどめを刺す。

 

 

泣く子も黙る名曲「Bohemian Rhapsody」を聴いて何も感じない人間がいるのだろうか? 約180回にまで及ぶオーヴァーダビングを駆使した音作り。多種多様な人間の趣味嗜好の壁をブチ破る極上の「普遍的」をこの曲は提示している。

しかし、曲とは反対に歌詞には不明瞭な部分が多い。「ママ、人を殺してしまった」と告白し、「まだ人生は始まったばかりなのに/時々、生まれてこなければ良かったのにとさえ思う」と諦めの感情を吐露する主人公。彼が殺めたのは一体誰なのか? 映画『ボヘミアン・ラプソディ』で字幕監修を務めた音楽評論家の増田勇一氏は以下の解釈を提示した。

「この曲で彼が殺したのは、外ならぬファルーク=バルサラ(=フレディの本名)なのだと僕は考えている。イギリス生まれの白人ではないという出自を隠し、類いまれな才能の持ち主であるにもかかわらずコンプレックスめいたものを抱えながら、セクシャリティの部分での苦悩も抱えていたファルーク。その彼が自分自身のそれまでを消し去り、フレディ・マーキュリーという新たな名のもとに生きていくことを決意したことによって、この楽曲と歌詞は生まれ得たのだと思う。彼がどうしてもこの曲をシングルにしたかった理由、この歌詞の背景について多くを語ろうとしなかった理由もそこにあるのではないだろうか」(「BURRN!」2019年1月号より)

QUEENと精神性は水と油

 

QUEENの音楽は、間口が広い。最大公約数のリスナーにアピールするような曲ばかりだ。マジョリティゆえに、産業化したロックの象徴と捉えられてしまったこともある。「QUEENを嫌う態度がロック」とする風潮さえあった程。

少なくとも日本において、80年代のQUEENは冴えてなかった。84年に、まだアパルトヘイトが存在していた南アフリカのサン・シティで8日間にわたるコンサートを開催し、世界中から非難を浴びたQUEENであるが、ここで言いたいのはそんな大仰な問題についてではない。当時のQUEENが攻撃されたのは、スピリッツ(精神性)である。

彼らの精神性の希薄さを端的に表しているのは、1977年にリリースした6th『世界に捧ぐ』だ。このアルバムには、代表曲の一つ「We Are the Champions」が収録されている。

 

 

空気、読めなさ過ぎではないだろうか? パンクが全盛を迎える時期のイギリスで、「友よ、俺たちは王者だ」と脳天気に歌い上げるフレディ。偽悪的に言うと、彼らは何も考えていない。ロックに夢見るリスナーの仮想的となるのは必然だったのかもしれない。
(ちなみに、『世界に捧ぐ』とSEX PISTOLSの『勝手にしやがれ!!』が同時期に同じウェセックス・スタジオでレコーディングされたことは有名。パンクの永遠の名盤が生まれようとしている隣で、あんな大右翼作が制作されていたというのも運命的である)

フレディの死因によって“劇的”とさえ評されがちな彼らだが、実のところ、活動期間中のQUEENはドラマ性とは無縁のバンドだった。だって、ロックミュージシャン然とした精神性を持ち合わせていないから。
「グラフィックデザインかファッションの仕事に就こう」とぼんやり考えイーリング・カレッジ(卒業生にピート・タウンゼントやロン・ウッドがいる)に入学、次第に音楽の世界に入り込んでいったフレディ。元は天文学者で、バンドに参加した当時は大学院で「惑星間ダストの動き」の研究をしていたブライアン・メイ。ロジャー・テイラーは歯科医から転身したドラマーだ。ジョン・ディーコンは科学を学ぶ学生だった。

では、何がQUEENをスターへ押し上げたのか? 元も子もないが、音楽である。QUEENのわかりやすさは、その“ポップさ”にある。
QUEENのやっていることは複雑だ(未聴の人は『QUEENII』収録の「The March Of The Black Queen」を体験してほしい)。複雑なものを簡単に見せる能力を彼らは持っている。曲展開だけではない。ブライアン・メイのギター・テクニックは数多いるギター小僧をはねのけたし、フレディの声には天賦の才があった。

精神性の欠如が、逆にQUEENの音楽性を際立たせている。手垢にまみれた表現で恥ずかしいが、彼らの音楽は間口が広くて奥が深い。

四面楚歌を打ち破った「LIVE AID」

 

今まで偉そうに語ってきた筆者だが、QUEENに初めて触れたのはベスト盤である。きっかけは、かの有名な『GREATEST HITS』。

 

 

内容は、もちろん抜群だった。いい! 当然、『GREATEST HITS II』のほうにも食指を伸ばした私。期待十分で再生ボタンを押した。
「あれ? あんまり良くないかも……」

初期QUEENの売りの一つに、「nobody played synthesizer」なるクレジットがあった。どのように作られたかまるで見当のつかない摩訶不思議なサウンド。QUEENの1st〜4thでプロデューサーを務めたロイ・トーマス・ベイカーは「QUEENはシンセサイザーを使うべきではない」と確信していた。特殊効果が必要な箇所に差し込まれたのは、エフェクトの効いたブライアン・メイのギターである。なのに、80年代の幕開けとともにリリースした『THE GAME』では“禁じ手”だったはずのシンセを大っぴらに大量導入!

 

 

『GREATEST HITS II』に収録されているのは、82年発表『HOT SPACE』以降の楽曲だが(アナログ期には『HOT SPACE』収録曲「Under Pressure」は『GREATEST HITS』のほうに入っていた)、次第にQUEEN熱が冷めていく日本のファンの心模様は後期の楽曲に触れると何となく察することができる。産業ロックっぽいし、フックがないし、ヤワい。我が国でオワコン化していくQUEEN。「買って損した!」「もう、ここからは聴かなくていいんだな」と、中学時代の筆者はヘコみながら確信していた。

そんな私の落胆を打ち消してくれたのは、1つのライブ映像だ。「LIVE AID」である。

 

 

ロケットのようなライブだった。「Hammer To Fallってこんなにいい曲だっけ!?」「Radio Ga Gaで大観衆が頭上で手を叩く光景はノーベル平和賞もの!」と、ライブを契機に一曲一曲への印象が180度変換されてしまうのだ。

南アフリカでのライブ開催が原因で、「LIVE AID」出演者リストにQUEENが加わった際は非難の声が上がったという。当時、彼らは四面楚歌だった。「LIVE AID」でのパフォーマンスをブライアン・メイは振り返る。
「本当に素晴らしい時間だったよ。ほとんど期待していなかったんだ。何しろ、僕たちはあの出演ラインナップの最後に加わったバンドだったからね。しかも僕たちの参加が発表される前に、チケットは完売になっていたんだ。だから、あの場にいるのはQUEENのオーディエンスではないということを僕たちは把握していたし、ステージに出て行く瞬間もさほど大きな期待は抱いていなかった。むしろ、ちょっと部外者のような感覚も持っていたと思う。だからこそ、あの反応にはものすごく興奮したよ」(「BURRN!」2019年1月号より)

映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、QUEENならびにフレディの歴史に必ずしも忠実ではない。彼らにとって最初の全米ツアーはモット・ザ・フープルの前座としてだし、フレディがエイズに冒されているとメンバーに告げた時期にも明らかな差異がある。
しかし、今作を近年のロック伝記映画の中でもベストの一つに挙げることに何の抵抗感も抱かない。QUEENというバンドならびにフレディ・マーキュリーの特異さと不可思議な魅力を存分に伝えている。フレディが死の間際まで制作に携わっていた遺作『INNUENDO』(1991年)について描写せず、「LIVE AID」をクライマックスに配したのにも合点が行く。エイズと闘うフレディの姿を客の想像に任せ、余韻を残して突っ走るには「LIVE AID」をエンディングにするのも手である。Don’t Stop Me Nowなのだ。

ただ、QUEENのキャリアは「Killer Queen」で始まり「LIVE AID」で終わったわけではない。もしも映画で彼らに興味を持ったならば、是非とも『INNUENDO』にも触れてほしいし、映画でさほど触れられていなかった初期2作も体験してほしい。何しろ、QUEENは最初から出来上がっている。1stも凄いのに、2ndはもっと凄い。『QUEENII』でフレディが全曲を手がけた通称「サイド・ブラック」は、ロック史上最強のB面だと私は評価している。個人的に、ビートルズ『ABBEY ROAD』のB面メドレーより凄い。
QUEENの真骨頂は、音楽。何度も言うが、間口が広くて奥が深いのがQUEENの音楽だ。

コメントから

クイーン精神性は希薄などではなかったよ
南アフリカに行ったのも、政治と文化交流は別だと言う強いメッセージ
We are the championsも発表された直後から強いインパクトがあり
ともすれば敗者になりそうな気持ちを「俺たちみんながチャンビョンだよ」と肯定してくれた
彼らの高い音楽性のみならず、そのメッセージ性あってこそ映画のヒットがあるのではないだろうか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紅白観た?

2019-01-01 | Music

明けましておめでとうございます!

紅白もバラエティーに飛んでいて、見所がたくさんありました。

イリュージョンや素敵なダンスや、コラボもここでなければ観られないステージで。

けん玉が歌っている三山さんが最後で120人成功したのは、感激、驚きました。昨年は、早くに失敗したから。みんなの緊張は、半端なかったでしょう。ギネス成功!

YOSHIKIさんがサラ・ブライトマンさんと競演しているのも、観に行きたいと思っていたら観られたし。

島津さんもレコード大賞でも、上手いなぁと思ったのですが上手かったですし。HPがダウンですって。

ミーシャさんが、最後ハイトーンもありの熱唱でしたし。

USAは、みんな練習したのかな、全員で踊って楽しかった。

DORM TAOは、かっこいい!

米津玄師さんの生歌が聴けて、美術館をバックでミケランジェロのバチカンのシスティーナ礼拝堂の再現の中、ろうそくが500本良かったし、ユーミンも豪華メンバーと。

ユーミンが会場に現れた時には、うるっときた。

最後のサザンは、盛大な盛り上がり。ユーミン、キスして、旦那さんいたけれど大丈夫?

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181231-03144835-tokushimav-l36米津玄師さん紅白で「Lemon」披露 地元・徳島県鳴門市の大塚国際美術館から生中継

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181231-00000138-dal-entサザン 大トリ後のラスト唱で大暴れ…桑田佳祐、松任谷由実からキス

NHKホールでの紅白歌唱は、1983年以来35年ぶりとなった。
 2曲目の「勝手にシンドバッド」では、北島三郎と握手し、松任谷由実から右ほほにキスを受け、最後はやり切ってステージ上に倒れ込むなど大暴れ。歌い切った桑田は「夢の中にいたようです。まさかユーミンさんとサブちゃんとご一緒出来るとは」と感無量の表情だった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今度はこの人がスクリーンに甦る。ホイットニー・ヒューストン

2019-01-01 | Music

ホイットニーは、声域が同じなので歌ったりして憧れの存在。

亡くなり方とか、娘さんの突然の死とか謎も多い。

観に行きたい。

マリア・カラスやエリック・クラプトンのドキュメンタリーも行きたいけれど、そんなには時間が取れないか。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saitohiroaki/20181231-00109696/

2017年の『ラ・ラ・ランド』に『美女と野獣』、2018年の『グレイテスト・ショーマン』に『ボヘミアン・ラプソディ』と、ミュージカルや音楽を前面にフィーチャーした作品が、予想を超えるヒットにつながっている。ドラマや映像だけでなく、映画館で「音楽」にカタルシスを味わうというライヴ感覚がブームになっていることで、音楽映画のポテンシャルは以前以上に高くなっており、そこに『ボヘミアン・ラプソディ』のように同時代を体験した人々のノスタルジーが重なると、最強となる。ホイットニー・ヒューストンは、フレディ・マーキュリーほどのカリスマ性はないかもしれないが、1980年代後半から1990年代前半にポップスに親しんだ人にとって、彼女のヒット曲を聴くことは「上がる」体験になるだろう。劇中には当時のカルチャーや社会情勢とともに曲が流れるシーンもあり、その歌唱力と曲の素晴らしさに時間を引き戻される感覚がもたらされる。

泥沼化する私生活にもフォーカス

『ボヘミアン・ラプソディ』と違って、ドキュメンタリーならではの見どころは、ホイットニー・ヒューストンの暗黒面である。栄光とスターの座を得た代償は大きく、ボビー・ブラウンとの結婚は、ホイットニーの方が人気が高いゆえの「格差婚」と称され、夫婦間の溝はどんどん深くなる。このあたりは、やはり現在公開中の音楽映画『アリー/ スター誕生』の「リアル版」として観比べて欲しいところ。

こんな貴重なプラーベートの瞬間も映し出される

そしてホイットニーの栄光やギャラに群がる人々との関係、いわれなきバッシング……。共同生活も送った親友ロビン・クロフォードも登場するが、彼女こそホイットニーが生涯で最も心を許した「恋人」ではなかったかと思われる。そして当然、ドラッグに溺れ、キャリアを失う過程にもシビアに向き合い、後半には、観てはいけないものを観たような、悲痛で衝撃的なステージ映像も盛り込まれる。

より深い作品の見方として

1985年に最初のアルバムをリリースしたホイットニー・ヒューストンだが、その大きなきっかけになったのが、1983年に初出演したTVショーでの歌唱である。歌った曲は「Home」。これは『オズの魔法使』を黒人キャストのみでミュージカル化した「ザ・ウィズ」の最初と最後に流れる曲。ダイアナ・ロス、マイケル・ジャクソンの出演で映画にもなった。今回のドキュメンタリーでも2回、この「Home」を歌うシーンが登場し、本当の「Home=帰る家」を求めていたホイットニーの思いが代弁されているようで、胸が締めつけられる。

監督を務めたケヴィン・マクドナルドは、ボブ・マーリーのドキュメンタリーも手がけた人で、劇映画、ドキュメンタリーの両方で多くの佳作を残してきたが、ひとつコアなネタとして紹介しておきたいのが、彼の祖父である。エメリック・プレスバーガーだ。筆者がかつてケヴィン・マクドナルドにインタビューした際、祖父がマイケル・パウエルと共同監督を務めた『赤い靴』に話がおよんだ。赤いトウシューズを履いたことで、死ぬまで踊りが止められなくなったバレリーナの物語である。「歌う」宿命を背負ったことで、悲劇的な死へと導かれたホイットニーの姿が、時を超えて『赤い靴』とも重なる。祖父から孫へ、無意識に受け継がれたテーマであり、映画史的にも興味深い一面を発見できるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酷暑から一転、来年は「冷夏」? エルニーニョ現象が影響

2019-01-01 | 気象 大気

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181231-00010003-nishinpc-sctch

 今季は暖冬傾向で、気象台は「来年春までは暖かさが続く」とみる。根拠の一つは10月に発生したエルニーニョ現象だ。西日本は南からの暖かい空気が流れ込みやすく、寒気は入りにくい状態が続いている。

 エルニーニョが5月まで続く確率は80~90%、6月までは70%と高い。夏まで続くと、今夏の猛暑を引き起こしたメカニズムとは逆に働く。フィリピン沖の海面水温が下がると太平洋高気圧の張り出しが弱まり、日本では日照時間が減少。冷夏の原因となるという。

 もう一つ、冷夏を予想する根拠がある。インド洋熱帯域の水温だ。上昇すると冷夏になりやすく、現在は上昇傾向だ。ただし、エルニーニョが発生し、インド洋の水温が上昇した10年夏は冷夏予想が外れ、記録的猛暑となった。気象台は「傾向は予想できるが、絶対ではない」としている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽちっと宜しくお願いします。


人気ブログランキングへありがとうございました。