散歩者goo 

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私が始めて無職になった時

2012年01月11日 17時15分15秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
私は、工業高校を卒業して環境試験装置の会社に入った。
当時は中小企業で、木骨で作った冷蔵庫のような製品もあったような気がした。
会社の中に、風呂場もあったように記憶している。

その後会社は、一流メーカや、国からの受注もあって、会社はどんどん大きくなった。
入社後10年近く立った頃、本社機能は残し、兵庫県の工場団地に工場を移転する話が進みだし、技術部は移転対象になっていた。

当時私は、設計―製造―検査―開発と様々な部門を移動したが、ほとんどは設計開発部門にいて、それなりに高い技術も持っていて、仕事にも満足していた。

私は、生まれ育った大阪市を離れたくなかった。
そして、年末の人事移動の時、将来的に移動したくないということで、辞表を提出した。
すると、同じ設計チームに配属の決まっていた後輩の数名もやめると言い出したので、一ケ月ずつずらしてやめることになり、私は1月に会社を辞めた。

初めての、無職を体験した時は、落ち着かなかった。
後で、展示会場で私の一ランク上の上司に会った時に聞いた話では、部長は私がどこかに引き抜かれてやめると思っていたという。

それなりのたくわえは、あったが不安ですぐに職安に行き、手続きをした。
職安の紹介では、小さな会社が多かった。

一方新聞広告に、技術者募集で、私にピッタリの仕事が数社出ていたが、それはいつも打合せをしていた計測器メーカーで、応募しようか迷ったがやめた。
職安ではいいところが無いので、人材センターに登録した。

すると、待遇もいいが、一年間缶詰で社内教育を受けてから仕事をするという条件で、私がOKすれば入社できた。
当時やっとICが普及し始めた頃で、今から思えば、そこは半導体製造に欠かせない機械を作っていて、最先端の技術が集積されている装置メーカーだった。
私は、最先端の技術にしり込みし、そうした一流企業を断り、逆に小さいところで技術を生かしてみようと考えるようになった。

その後、職安で仕事探しに励み、東大阪の中央環状線沿いにある町工場と面談した。
センター興行といって、その昔石炭ストーブを作って大儲けしていたというのだ。
そこは、元一部上場企業で、当時再建が決まり再出発したところで技術者が必要で、今後会社も規模拡大させる予定だという。
当時は農事用温暖機や石油ファンヒーターを作っていた。

4月にその会社に入社し、一月に伸び盛りの環境試験装置の会社を辞めて以来、始めて経験した2ヶ月間の無職の時代は終わった。
その会社では、ある程度仕事が自由に出来て面白かったし、様々なことを経験した。
経営状態は、経営者に問題があったのか、急速に経営が悪化し賃金の未払もあり、労働争議も経験した。
その会社は、4―5年後再び倒産した。
その後のことは知らない。

「思い出・生き方・生活住環境」(このブログは左記リンクのカテゴリー別「思い出・生き方・生活住環境」ホルダーに収納しています。)(自分のメモとして)
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新年会・忘年会・飲会

2012年01月03日 15時50分29秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
年末年始は忘年会や新年会と飲会の多いシーズンだ。
サラリーマン時代は主に忘年会が多かったが、脱サラ後は忘年会はほとんど無くなった。
忘年会や新年会は主に組織もしくは、グループが前提となる場合が多い。
二人や三人でも、忘年会や新年会だが、普段の飲会との区別が付きにくい。

やはり、忘年会や新年会は、親しい人達や、そうでない人も、グループなり組織として、一緒に関係のあった人達が酒を飲んで親交を深めチームワークをよくすることに繋がるのだろう。
無論、新年会や忘年会が、そんな面倒くさいことを目標にやっているはずもなく、習慣的に懇親会や慰労会を兼ねてやっているのだろう。
海外ではそのような習慣はあるのだろうか。
それにしても日本では、何かあるたびに飲むことが多い。
飲むことそのものが楽しいし、飲んだ後親交が深くなることが多く、いわゆる飲み友達になる。
でも下戸の人にとっては、飲会は苦痛なのだろうが、中には、飲めなくても飲会が好きという人もいた。

私のサラリーマン時代は、毎週一回以上同僚や友人たちと主に、梅田あたりにのみに行った。
工業高校を卒業して最初に10年弱勤めた会社が、大阪市北区の天神橋筋近くにあったための実に行くところが、自然に梅田に向ったのだ。
その当時、残業を終えて週数回は、阪急東通りを大阪駅に向かい、馴染みの飲み屋やスナック(ほとんどが友人や先輩が開拓した行きつけの飲み屋だ。)に通った。
ある程度馴染みになった店では、一人でも飲みに行った。
会社を変わってからも、新しい会社の同僚たちとの行きつけの飲み屋は、梅田になった。

脱サラしてからも、友人や元同僚たちのたまり場のスナックや、飲み屋があったので、週一回程度通ったが、その後こちらの懐具合が怪しくなったのと、お店も廃業したので、それ以来飲食店に通う習慣は無くなった。
最近の飲会は、同窓会程度で、後はギャラリーでのパーティーに参加する程度だ。

ギャラリー関係のパーティーは良く開かれる。
ギャラリーが元気あった頃は、毎週のごとく多くのギャラリーでオープニングパーティーをやっていた。
そのようなパーティーは、ギャラリー主催の場合と、作家主催の場合があって、作家主催の場合も多い。
ギャラリーや作家主催のパーティーの場合、持ち込み歓迎の場合や会費制の場合もある。
出来るだけお互いに出し合って、ギャラリーや作家の負担を減らし、お互いに楽しもうという傾向だ。
ただ、懇意にしている作家がしていても、初めてのギャラリーで遠くにある場合は、行かないことが多い。
遠方の場合行き帰りに時間が掛かるし、酔っ払って土地勘の無いところから帰るのは、何が起こるかわからないので、避けている。
よく知っている画廊の場合は、そのような制約は少なくなり、懇意にしている作家の場合は、行ってみたいとも思うが、後は時間の都合や、交通費との兼ね合いだけである。(ぎりぎりの生活をしていると交通費も重要なファクターになる。)


飲会に参加すると二日酔いになりやすいが、その対策は以前のブログ「二日酔い対策」にまとめてある。http://blog.goo.ne.jp/sksoo/e/8f594f83a87d9511c40c13071063cbf8

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暇な正月にライフスタイルを見直す

2012年01月02日 16時46分17秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
年末年始や盆の時期は、一人住まいのものにとってはある意味災難でもある。
平日であれば、TV番組もいつも観ているお気に入りがある。
ニュースもいろいろ入り、ニュースを見て。批判したり、喜んだり、怒ったり、悲しんだりする。

盆、正月は、大きなニュースも少ない。
オーム真理教の平田が自首してきたのも大ニュースだが、正月ではワイドショーや、ニュース情報番組も無いので盛り上がらない。
ワイドショーやニュース情報番組は、井戸端会議のような役割を果たしているのかもしれない。
正月特集番組もどこを観ても同じ感じで、観ると確かに笑えるが、何か物足りない。
笑うなら、漫才や落語をじっくりと聞いた方がましだと思う。

何より、この期間ジムやプールが使えないのが、もどかしい。
それらの施設は、単に体力維持増強だけでなく、運動によるストレス発散や井戸端会議の役割も果たす。

お金に余裕でもあれば、また様子は違うかもしれない。
若い時にスキーに一は、別段苦とは思わないし、行った先でいろんな人と交流することが多い。
実際に、中南米の首都は、仕事も兼ねて(民芸雑貨収集)一人旅した。
その途中で、友人の家に行ったり、現地で飛行機で隣り合わせた日本人のおかげで、日系ペルー人たちと親しくなり、お世話になったりもした。
その他の国での一人旅も結構楽しかった。

冬でなければ、近くの山の山歩きをするのも、余暇を過ごす方法かもしれない。
思い出せば、若い時は冬でも六甲や金剛山や北山を歩いていた。
山歩きの、装備はそれなりに充実していて、日帰りのハイキングだが、10kg近いリュックを担いで中にラジュースや非常用にツェルトやシュラフや着替えも持っていて、厚い皮の登山靴を履いていた。
今では、多分捨ててはいないが、そうした装備は下駄箱の上に放置してあるが、使い物にならないだろう。

今は年金暮らしだし、つつましく暮らす工夫をするしか無いだろう。
それに、被災者の方々から見れば、恵まれた生活と感謝しなければなるまい。

よく考えてみると、お金を使わず過ごす方法は他にもいろいろありそうだ。
昔は映画もよく行った。
特に安い料金で名画を見る映画館がいくつかあってよく通ったが、今はほとんど無くなった。
探鳥会も毎週のように参加していたし、泊りがけの探鳥会にも参加した。
金剛山で、秋の朝に鷹渡りを観た時には感激した。
博物館の友の会で、自然観察会にもよく参加したし、面白かった。
振り返ればいろいろヒントがありそうだ。
年の初めに、ライフスタイルを見直してみたい。
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コタツで居眠りから無暖房で活動的生活へ

2011年12月27日 15時04分23秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
今朝は良く冷えた。
室温は8.1度だ。
家では、暖房は一切使っていない。
暖房する程度の余裕だ無いわけではない。
今までの経験で暖房をつけるとコタツから動かなくなるのでやめたのだ。

子供の頃の暖房は、炭火のコタツと練炭火鉢だった。
炭火のコタツの中で動くと、コタツに風が入りその灰が飛び、布団が灰まみれになるので、よく怒られた。
大人になった頃には、やぐら炬燵と石油ストーブを使っていた。
そのうち、石油ストーブが不完全燃焼を起こすと臭いので、ガスストーブに切り替えた。
大阪ガスが、天然ガスに切り替える頃には、火災に気をつけるため、より安全な電気ストーブに切り替えた。
床には電気カーペットが敷かれていた。

両親が順次他界して一人になってから、経済的に状況が悪化し、電気ストーブの使用をやめた。
コタツと電気カーペットのみで暖をとった。
寒さの面では、それほど問題なかったが、問題が発生した。
一度電気カーペットが敷かれた、コタツに入ると、すぐに横になる癖が付いた。
とても気持ちがよく、すぐに居眠りを始め動かなくなる。
目覚めても、コタツから出るのがおっくうになる。

冬の休日は、ほとんど外にもでず、TVを見ながらうたた寝をする日が多くなった。
そのうち、こんなぐうたらな生活が定着するのではないかと、ある種の罪悪感と恐怖を覚えるようになった。

そんなある日、思い切って一切の暖房を切ってみた。
寒かった。
しかし、若い頃スキーに行ったり雪中登山もよく行ったりしていたので、山の装備や防寒具は揃っていた。
すぐに、雪中登山や、スキーの装備を取り出した。
オーバーズボンをはき、分厚い羽毛服を着た。

すると日常生活は全く問題なく快適に動けるようになった。
しかし、畳に座るとやはり冷え込む。
始めは、レスキューシートを畳みに敷いた。
銀色にピカピカ反射するのが気になったが、すぐになれた。
その数年後には、アルミ箔の断熱シートが市販されるようになり、それを買い込み使っている。
フローリングには、厚手のスリッパで対応していてほとんど問題ない。

その結果、今では暖房ゼロで過ごしていて、このブログも寒さを感じることなく打っている。
それでも、手先は冷たく感じるし、膝の防寒が少し手薄なので、ひざ掛けをしている。
机は冷えて冷たいので、布のテーブルクロスを使うことで、冷たさは感じなくなった。
そんな中、三食のけんちん汁風の汁椀の暖かい食事とその後にコーヒーを飲むのは嬉しい時間だ。

このようなことを振り返ると、室温20度のエアコンの聞いた部屋で過ごすのが理想だが、今の経済状況を考えると、コタツに電気カーペットにストーブの暮らしも問題ないが、自由に動ける無暖房で防寒するほうが、生活の質を保てると判断している。


無暖房生活の勧め

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ヒメウズラ2

2011年12月14日 00時31分36秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
ヒメウズラは家の中を良よく走り回ったが、ほとんど飛びはしなかった。
私がおやつを食べている時、おやつを差し出すと、気が向くと走ってきて食べた。
走るときは、直線に走って、止ったかと思うと、首をおもむろに2段階で持ち上げた後、だんだん伸ばし上を向いて、体に似合わず大きな声で、怒鳴るように、クワォックワォーと鳴いて、俺は偉いのだと誇るように身震いするのだ。

首を持ち上げる時に頭を抑えてやったり、「止めろ」と言うと、鳴くのを止めるが、すぐに又鳴こうとする。
彼の縄張り宣言だったのだろう。

名前を呼ぶと、気が向くと走って膝に乗るが、すぐに走ってよそへ行った。
捕まえては上に放り上げ、飛ぶ訓練もしてやったので、放り上げると2m以上飛ぶようになった。
美味しい物をやるとクックックと小さく鳴いていた。

放し飼いにして困ったのは糞だ。
どこでもするので知らずに、踏みつけることも多かった。
文鳥と違い糞も大きかった。

ヒメウズラは人にべったりと甘えたりはしないが、かといって無視しているようでもなかった。
彼の家は鳥篭だが、幼鳥の時はおなかがすくと自分から入ったが、大きくなるとなかなか入らず捕まえて入れることが多かった。
捕まえるときは、抵抗はしなかった。

春から夏になると、鳥篭を時折裏庭に降ろし、裏庭で放し飼いにし、日が暮れると鳥篭に入れて部屋にいれ鳥篭を布で覆い暗くした。
裏庭では、いろんな虫を追いかけていた。
あるとき縁側に腰をかけてみていると、何か捕まえてクックックといいながら、私の前を歩きながら通っていった。
嘴一杯に、ゴキブリをくわえていた。
大きくて食べあぐねていたのか、自慢したかったのか分らないが、とにかくご機嫌だったようで、クックックと鳴きながら、歩き回っていたが多分飲み込んだのだろう。

その後、鳥籠を家の中に置くようにした。
鳥篭から出してやると、縁側の戸が開いていると、勝手に裏庭に下りて遊び、気が向けば、縁側に飛んで上がり
鳥篭にはいって、餌や水を飲むようになった。

そのうち、だんだんと飛ぶ力が付いてきた。
あるとき、急に何かに驚いて庭から塀を越えて向かいの家の庭に行った。
わざわざ、仕方ないのでそのまま放置して置いた。
裏のうちでも女の子がいて可愛がっている声が聞こえた。
やつの、甲高い鳴き声も聴こえた。

数日後ヒメウズラが飛んで裏庭に戻った。
自分で戻ったのか、裏の家で管理が大変なので追い出されたのか理由は分らない。
その後も、何も無かったようにヒメウズラは、我が物顔に裏庭で走り回り、家の中にも上がって遊んでいた。

9月になって、日暮れも早くなったが、その頃から日が暮れても、座敷に上がってこなくなった。
いつも捕まえて鳥篭に入れるのだが、逃げ回るようになった。
仕方なく放置しておくと家の中に飛び込んできて入りまわっているところを捕まえて鳥篭に閉じ込める毎日が続いた。

そんな日が続いたので、しつけのため裏の戸を締めた。
すると、どんどんと何度か縁側の戸にぶつかる音が聴こえ、ころあいを見計らって戸を開くとすぐに飛び込んできた。
いつも捕まえては説教するが、分るはずもなく、私の手のひらに包むように押さえつけられて座り込み目をきょとんとしていた。


そうしたことが続いたある日、夕方になりとを閉めてしばらくすると、いつになく激しくぶつかってくるので、戸をあけたが、ヒメウズラは飛び込んでこない。
おかしいと思って横の塀を見ると、イタチがヒメウズラを加えてこちらを見ていた。
ヒメウズラはぐったりしているようだったが、イタチはそのまま塀の梁を伝わって消えた。
それを見ながら、これも自然の摂理だと自分に言い聞かせた。
しかし、悔しさ寂しさはしばらく頭の中から消えなかった。
ヒメウズラが戻らない、空の鳥かごが、部屋の中に残された。

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ヒメウズラ1

2011年12月13日 19時35分19秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
確か、サラリーマンになってからのことである。
会社を終え、JRの駅から自転車で帰る途中、小学校前で夜店が開かれているのに会った。
夜店は月のうち2の付く日とか決めて開かれる。

幼い頃は、神社のお祭りの屋台は、子供にとって最高の娯楽の一つだった。
氏神様の境内は狭いので屋台の数も限られていたが、小学校前の道路は長くたくさんの屋台が並んでいた。
その小学校は隣の学区の小学校なのでその道路は、普段余り通らなかった。
大きくなってからは夜店には行かなかった。
久しぶりなので、立寄った。

その中でヒメウズラを売っている屋台があった。
鶏のひよことどう違うのか、面白いと思って見ていた。

小学校の頃に、鶏もひよこから育てたことがあった。
鶏は、それほど懐かなかったが、それでも可愛がっていた。
ある日突然、小学校から帰ると鶏はお袋がゴミ屋にやったというので泣いた。

そのような思い出があるので、飼ってみたいという気になった。
姫鶉なら、鶏のように大きくならないし、お袋も説得できると思った。
値段も今まで飼っていた文鳥と比べるとはるかに安い。
ヒメウズラを購入して、帰宅した。

帰宅した日はヒメウズラのひよこを菓子箱に入れて育てた。
その後、文鳥を飼っていた50-60cmの鳥篭に入れて飼った。

始めは、餌をいろいろ工夫したが、今は記憶に無い。
確か米ぬかのような物も入れたように思った。
成鳥になってからは雑食性になった。

お袋が砂浴びするはずだから砂を入れてやれ、というので水浴びの容器に砂を入れてやった。
すると、砂浴びをはじめた。
そこまでは良かったが、砂が家中飛び散った。
また、邪魔にならない時は、家の中で放し飼いにしたが、そのため羽に付いた砂が家中にばら撒かれ、畳みはざらざらしていた。

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美しかった村治佳織の聖歌伴奏

2011年12月12日 21時54分46秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
NHKの鶴瓶の「家族に乾杯」で、ギタリストの村治佳織氏が、美しいカトリック教会で演奏する場面があった。
彼女の演奏を何度かFMやTVで聞いていて、世界的に活動している実力のある好きなギタリストなので、この番組での演奏を期待していた。
教会の管理人との話の成り行きで、聖歌の伴奏という形で演奏が聴けたが、美しい伴奏だった。
これを見て、約24年前のメキシコでホームステイしていた時のことを思い出した。

アメリカで語学留学を切り上げた後、帰国前に南米の民芸雑貨を仕入れて帰ろうと思った。
そのことを始めの英語学校のルームメイトだったアメリカ人のA氏に相談すると、メキシコのクエルナバカにあるイデルスペイン語学校を紹介し手配してくれた。
ホームステイ先は、スペイン語学校が手配してくれたように記憶している。

そして英語学校を終了後、スペイン語学校へ行くまでには様々な事を経験した。
メキシコに渡ってスペイン語学校に入学し、4週間余り?クエルナバカ市内のB氏の家にホームステイした。
そのB氏一家は、とても家族的だった。
B氏一家では、息子たち2人が多少英語を喋れたが、私よりはレベルが少し低かったようだ。

その家には、アメリカ人やイギリス人の同じスペイン語学校の留学生がいた。
アメリカでは、スペイン語は、第二外国語でとして高校で勉強している人も多く、彼らはそれなりにスペイン語を話せるようだった。

そのような、メキシコでのホームステイで、B氏一家は日曜日になると一家揃ってカトリック教会に行く。
そして、そのたびによければ、一緒に行かないかと誘われ、暇だったので同行した。

その教会で目にした物は、ミサのなかで、賛美歌がギター伴奏で歌われていたことだ。
私はクリスチャンではないので、教会にはクリスマスの見学以外で行ったことはなく、普通のミサについて知識は全く無かった。
それでも、クラシク音楽でミサ曲などよく聞くので、ミサではそのような曲が、パイプオルガンで演奏される荘厳な雰囲気を想像していた。
しかし実際は全く違っていて、なんとなく荘厳さが足りなかったが、ある意味明るく軽快で家族的な感じだった。

日曜日にいつも通っていた教会は、クエルナバカのセントロにあって、非常に古い教会だったようだが、又この教会に関係したことを、取り上げることがあるかもしれない

追 私の記憶に間違いがなければ、この教会に豊臣時代の伊達藩からローマに派遣された遣欧使節団の肖像か何かが壁画に描かれていたといった話があったように思う。
今(20191213)ネットで確認すると、その通りだった。
セントロノ教会に行ったときに、ホームステイ先の家族から説明された記憶がある。当時半信半疑で説明を聞いていた。



思い出・私的生活住環境(このブログは左記リンクのカテゴリー別「思い出・生き方」ホルダーに収納しています。)(自分のメモとして)
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皆既月食・天文ファンだった少年時代

2011年12月11日 00時44分22秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
夜の11時のニュースを見ていた。
皆既月食のニュースが放送されライブ映像が流れた。
11時5分ごろ皆既月食になるという。

そのニュースを聞いて急いで外に飛び出した。
月がどこにあるのか探そうと、取り合えす真上を見上げると、そこに月があった。
端のほうがまだ光っていた。
11時5分を過ぎても光っていたが、数分後強く光る部分は消えて、すべて暗くオレンジ色に光る部分になった。
皆既月食だ。
外は、かなり冷え込んでいて、路地には、人通りも無く、月食を観測しようというような人も無く、TVの音も聞こえず静まり返っていた。
夜空はわずかに雲がある程度でほぼ快晴状態で、少し風があって凍てつくような冬空に、星が美しく光っていた。。
皆既月食を見届けると、寒いのですぐに家の中に入った。

この原稿を打ちながら、11時5分に皆既月食が始まらなかったのは、東京と大阪の時差の問題だと理解した。
皆既月食のニュースは、何日か前から知っていた。
しかし以前に何度か見たこともあり、天文学的意味も余り無いのでほとんど興味も無かった。

先ほど夜空を見上げて、中学生時代を思い出した。
小学生から中学生の頃は、理科が大好きだった。
とりわけ、天文学が好きで、中学では天文部にはいっていた。
私の母校は出来て間もない大阪市立の中学で、私は中学校の第3期の卒業生だ。
クラブ活動は天文部を理科の教師が作ったので入部したが、天体望遠鏡で惑星や、星雲や銀河を見せてもらえると思っていたら、直系2-3m程の半球形の太陽熱反射器の制作が中心となり、毎日大量の鏡の貼り付けでうんざりした記憶がある。
それでも、何日かは、夜に集合して天体望遠鏡で土星や木星を観察し、土星の輪や木星の衛星が見えたので感激した事も覚えている。
そんなことをしながら、天文学情報も、熱心に新聞をスクラップして集めた。

その当時、丁度自我が目覚めた時で、自我とは、自分とは何かと、よく自問自答していた。
哲学書は読んだ事は無かったが、雑誌や、学校でもそのあたりのことが取り上げられていた。

当時の天文学では、島宇宙に関する研究が進展していることが、新聞の連載に報道されていたが、そのとき頭に浮かんだのは宇宙を考える自分、自我とは、何かということに考えが走った。
当然宇宙の果や、神の存在や、まだ確定していない自我や自己認識についても考えたが、そのつど天文学と自我・認識・存在が絡んで頭が混乱し、天文学のことを考えるのが嫌になった。

本格的に認識とか自我に向き合ったのは、確か高校生の頃だったと思う。
多分高校生の頃と思うが、河合栄次郎の「学生にあたう」を必死で読み、カント哲学にあこがれた事もあった。
自分が通っている、工業高校と哲学的なことに興味を持つ自分とのギャップにも悩まされたりもした。
高校の授業にあった、高校生製レベルでも分るようにした物性論(半導体の理解に必要)では、物理学史も挿入しながらの授業だったので、この世界を見る目も、科学中心に捉えるようになり、自己存在や天文学や哲学への混乱も少しずつ無くなった。
(通っていた工業高校には、当時、私以上に哲学少年だった同級生もいた。現在私は哲学や科学その他様々考え方を吸収し、当時の考え方から大きく変わっている。)

それでも、再び天文学のことを冷静に考えることが出来るようになったのは。20代になってからである。
皆既月食に絡んで、私の若い時の思い出の一端を引き出す事が出来た。
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初めて海外旅行が、ミラノへの一人旅

2011年12月08日 21時56分24秒 | 私的思い出・生き方・生活住環境
私が始めて海外に出かけたのは社長のお供だった。
お供といっても、日本からではない。
指定されたホテルで会うのだ。
確かミラノだったと思う。

約30年前会社に勤務していた時、突然技術的打合せや製品を見たりするため、社長と一緒にいくつかの会社を廻るというものだった。
そのときビザは持っていなかった。

大急ぎで戸籍謄本を取りに行き、パスポート申請に行った。
当時英語は、ほとんど喋れなかった。
英文も、辞書を使っても満足に読めない程度の、英語力だった。
それでも技術に関することは、そのときに取り扱っていた製品は、簡単な冷凍機器であったので、初歩的英語で
何とかできた。
何より、貿易部があったので、英訳は日本語で事足りた。

相手方の当時個人商社のイタリア人とは、技術打ち合わせを通じ顔馴染みだった。
イタリアを中心にいくつかの国と会社を廻る予定だった。
そのとき、社長は度々別行動をするので、その間顔馴染みのイタリア人A氏と同行することになった。

スーツケースを買い、旅行用品を買い、着ていく服や下着を揃え、カメラを用意し、大変だった。
とにかく、不安が一杯の海外旅行となった。
伊丹から、成田へブリティッシュエアーラインで行き、その後確かアンカレッジ経由でロンドンのヒースローに行きそれから、乗り換えて、確かパリ経由で、ミラノまで行った。

ブリティッシュエアーラインで、先ず伊丹―成田へ行く時のことだった。
富士山上空あたりで、乱気流に巻き込まれた。
機体が大きくガタガタと揺れた。
ミシミシと音がした。
恐ろしかった。

成田からアンカレッジ経由で北極経由ロンドンに行く時は、順調に飛行した。
隣のシートは、同じサラリーマンで、話をするとやはり同じ技術者だった。
そんな関係もあって、お隣さんとすっかり打ち解けて話をした。

ところが、同じ技術者でもレベルが違った。
話を聞くと、橋の設計をしていて、数キロメートルという大きな橋の設計をしているといい、設計上の話を分りやすく説明してくれた。
今から思えば、瀬戸内海の橋の関連だったようで、学会に行くような話だったと記憶している。
更に驚いたのは、彼の機内食の食事と振る舞いが非常に上品なことだった。
当時、大企業から、零細企業までいろんな営業マンや技術者とも会い、会食したこともあるが、これだけ上品に流れるように食事する人は見たことは無かった。
飛行機の中のやり取りは、すべて彼のお世話になり、作法も教えてもらった。

その後、ロンドンのヒースロー空港では、乗り継ぎ方法が分らす、ゲートの位置や移動ルートも分らず、英語の意味も分らないので、大変だった。
その上、時間待ちもありとにかく、一人で耐えた。
ミラノに着くまで、ストレスの連続だった。

空港について驚いたのは、警官が軽機関銃?を持っていたことだ。
到着ゲートでは顔馴染みのイタリア人A氏が出迎えに来てくれていて、彼の車でホテルにチェックインした。
そのホテルは、かなりいいホテルということだった。
無論部屋は、シングルだが申し分無かった。
窓の扉の、青緑色や建物のレンガの色や屋根にヨーロッパを感じた。

着いてしばらくすると、外が騒がしくなった。
窓から下を覗くと、石畳の路地の両側に多くの人が集まっていた。
マイクを持った人もいた。

A氏に聞くと、何でもイタリアでは有名な自転車レースという。
当時私は、ヨーロッパでは、ツールドフランスのように自転車レースが、非常に大きな国民的イベントとは知らなかった。
自転車が次々と入り、歓声が沸きあがった。
選手を、マイクを持った記者が取り囲んでいた。
私のホテルの部屋の真下でその光景が繰り広げられていた。
当時私は、奇妙な競輪があるのだなと思っていて、ここにいる人達は、競輪に掛け金をかけて、車券?を購入している人達と思っていた。
そのとき、その価値を理解していなかった。
猫に小判だったようだ。

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