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昨日記20241228 土 近況(孤独孤立問題 進まない筋力体力の回復)

2024年12月28日 15時27分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
TV番組は、年末特集になりつまらなくなった。
年末恒例のニュースや話題の振り返り番組も多い。

私も振り返れば、今年80歳になり、いつものように一人で、普段の生活と変わらない誕生日を迎えた。
そもそも、両親や兄が亡くなって以降、誰にも誕生日を告げていないので、お祝いをいう人もなく、無論自分自身で自分の誕生日を祝うつもりもないので、100%普段と変わらぬ生活を送った。
世間では誕生日を祝い、お盆や正月や祭りやクリスマスといった年中行事で、家族や友人で祝い事をするが、独居老人の場合、社会参加もせず近隣付き合いもほとんどない人が多いと思うので、私のように孤独に祝い事に関係なく過ごしている老人が多いのではないかと想像される。
たとえ、お金があっても、紀州のドンファン事件を見れば、彼が孤独であったことは明らかだろう。
私の推測だが。彼はお金で疑似愛情を買っていて、精神的には孤独であったろうと勝手に推測している。

私は、以前から哲学や思想にも関心を持っていて、今も現代思想のダイジェスト版を読み、ノートを取っているが、近代から現代をどうとらえるかということが重要な哲学的社会学的テーマであることを知った。
その中で注目すべきことは多くの哲学者・思想家や社会学者が、近代の孤独や孤立の問題に触れているのだ。(例えば、マックス・ウェーバーの「鉄の檻」やニーチェの「末人たち」も構造的原因をたどれば、効率化を求める官僚化<ほとんどの民間の会社組織もウエーバーの言う官僚組織の構造で活動している>の中にあり、マックス・ホルクハイマーの言う道具的合理主義がそうしたことに関連するのかもしれない。)
例えば、エーリヒ・フロムは、近代人が中世の封建的身分制度から解放され、伝統的絆から自由になったが、その結果孤独と孤立の感情に悩まされるようになったという。(彼はそうした心情にファシズムが入り込んだと分析している。)
この問題は、現代でも地方と大都市の問題にも通じる社会的現象であるように思う。
多くの都市住民は、田舎の伝統的人間関係や絆から解放され、誰にもお節介されることがなくなったが、人間関係は表面的で希薄になり、家族内ですらお互い干渉しなくなって家族の絆も薄れ、外見上は問題なく平和な家族であり社会人であっても、実は各人が精神的に孤独・孤立の問題を抱えていることが多いのではないかと想像する。(そうした実例も多く見聞きする。)

私も孤独な独居老人であるが、幸い多少ともジムで運動しながら、ジムでの知人たわいもない話をすることもよくあり、最近は行かなくなったが、画廊回り)をして馴染みの作家と話すことも多いので、そうした範囲で多少世間とも接点を持っているし、それ以外読書やクラシック音楽といった趣味もあり、普段は私自身の孤独孤立感はあまりない。
しかし9月10月と11月の2度の入院の際は、私が社会制度上や人間関係でも孤独孤立している独居老人であることを思い知らされた。

11月13日入院し、15日に3.5センチの右腸骨動脈瘤の手術を終え、11月24日に無事退院した。
12月10日に病院に行き、各種検査を受けた後に外来受診した結果、順調に回復しているということで、先生から激しい運動をしてよいと告げられた。
しかし、激しい運動をしようにも、今やそれだけの、筋力や体力はない。
2度目の退院直後は、トレッドミル(ランニングマシン)で時速4kmで10分間ハンドルを持ちながら歩いて右の腰あたりの筋肉が痛み出しリタイアした。
この時は、今後杖が必要になるのかもしれないと落ち込んだ。
12月10日の外来に行くまでに、病院のリハビリメニューに準拠した運動プログラムを考えて実行し、トレッドミルで時速5km程度でも、計測バーを握りながらなら歩けるようになった。
しかし、10日に病院から図書館によってから本を借りて帰宅したが、病院への行きかえり(図書館含む)の全行程を見ると、道を歩いていてもあらゆる人に追い越されたし、歩行中も帰宅後も強い疲れも感じた。
実際歩いていて、杖が欲しいとも感じた。
それだけ、筋力体力が低下しているのだ。
無理もない、2度目の入院は、一回目の退院から約1か月後だった。
そのときも、2回目の入院直前の筋力体力は、あまり回復していなかった。
その後の2週間の入院生活で、さらに筋力体力は低下したのだ。

12月19日に、日本の現代美術画廊の代表的存在の一つであった、大阪市北区西天満にあるギャラリー白が今年で閉店するというので、久しぶりに西天満の画廊を回った。
しかしその行き帰りは、大変だった。
道を歩いていてもほとんどの人に追い抜かれ、地下鉄の階段は、手すりにつかまりながら上った。
外来の先生から、激しい運動をしてもいいと言われたが、筋力や体力が大きく失われ、激しい運動をしたくても出来ないことを改めて実感した。
せめてもの救いは、歩く速度が12月10日の病院往復時より多少早くなったと感じたことだ。

今は、足の筋力持久力と体力の回復に、集中している。
しかし、年末年始でジムは休業なので、体力筋力の低下が心配だ。
自主トレをやる気はあるが、残念ながら強い寒波の中で、外歩きをする気合は失せている。
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昨日記20241213 金 近況(退院後初めての外来)追

2024年12月13日 13時43分05秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
退院以来、自分なりの方法でリハビリを行った。
退院直後は想像以上の、筋力や体力の低下に愕然とした。
例えば、退院直後は、腕や足の皮膚はたるみ、老人らしい大きなしわが出来、皮膚をつまんでも放して戻るまで1-2秒かかった。
明らかに栄養不足と考えた。
とにかく、今まで通りの自分で考えた食事やに戻しサプリを摂取し、筋トレやリハビリをすれば元に戻ると考えた。
退院後4-5日は家事をしていても強い疲労を感じた。
そこには、2週間家を空けたため、その間の食材の廃棄や処理や食材の買い出しと、副菜や冷凍ご飯の製作、たまったメールや事務的処理、急に進んだ季節の変化(急激に寒くなった)に対する衣料や寝具の入替等様々な処理に追われたので健康な状態であっても疲労したであろう局面だった。
貧困の独居老人である私には、だれも頼れる人はいない。
(そのため普段からフレイルにならぬようジムに行き体を鍛え、図書館に行き本を借りて読み、知的能力の低下を防止した。入院時に病院に持ち込んだ荷物は現代哲学のダイジェスト版や川柳入門書で、病院のイートインスペースでコーヒーを飲みながらノートをとっていて、入院生活の楽しみの一つだった。)
大変な退院後の1週間を乗り越えたころには、疲労感もかなり減少した。
体の表面的状態も大きく変化した、
老人らしい大きな皴もなくなり、皮膚をつまんで放しても、放した瞬間に元に戻るようになり、皮膚の張り艶も回復した。
 しかし、筋力体力の回復は、時間がかかっている。
12月9日に、西長堀の大阪市立中央図書館に行き、本を返却し新しく本を借りた。
その往復には、自転車でメトロの駅まで行った後は、地下鉄の階段を上り下りをしなければならず、疲れてエスカレーターやエレベーターも使ったが、それでも家に着いた時には強い疲労感を覚えた。

その翌日の10日午後に病院の外来に行った。
病院に行くまでの歩行距離は、乗り換えがあり地下鉄のホームの端から端まで歩き
更に改札口はその先になり、改札を出てもその先にまだ長い地下道がありうんざりする。(大阪城やNHK方面への地下道)
病院に着いてからも、外来受診前に採血や心電図やX線検査を受けたが、各診療科を受けるのに長距離歩き疲れた。
待合の広いロビーで体を休めた。
かなりの時間待って、外来で受診した。
心臓血管外科のNS先生の診察を受けた。
診察前の検査データや手術後の傷の状況から、術後の回復は順調で激しい運動をしてもよいと言われた。
その時、CTの画像も見せてもらったが、手術で挿入したステントとその横に、腸骨動脈瘤の大きな球が見えた。
主治医のNK先生は、手術前に左に4.5センチ右に3.5センチ程度の腸骨動脈瘤があると言っていた。
診察を終え、次の外来(CT検査)を予約し、次の診察はNK先生が担当すると告げられた。

その後、帰りに中央図書館に寄りで本を読んでから帰宅した。
帰宅後、ステントで封鎖された4.5センチの動脈瘤の大きさを考ええたが、ステントで動脈瘤を封鎖せずに破裂した時の状況を想像すると、本当に命を落とす可能性もあることを認識し、恐ろしくなった。
(親指と人差し指で輪を作ったときの内径程度の大きさの血で満たされた風船のような瘤が、骨盤の裏に左右<右足と左足に血液供給する動脈>に一つづつ動脈の途中に動脈自身がが膨れて存在している。動脈が破損すると血圧で、血が噴き出し、止血が困難。検査をせずに突然動脈瘤が破裂すると、出血原因や出血場所がわからず、処置に手間取り、失血死や周辺組織に血液があふれかえり、内出血の処理で大変なことになることが想像される。)

現在もジムに通いリハビリに励んでいるが、体力筋力は徐々に向上していることを実感している。
だが、現在の筋力体力の回復速度を見ると、入院前の状態まで回復することは、年齢の問題もありかなり難しいように感じている。
それでも、せめて時速7から8キロ程度で、10分程度でも走れるようになりたいと思う。(現在時速5km以下、多分4.5kmで30分間程度で歩くのが限界だ。)

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昨日記20241130 土 退院後1週間の近況・筋力持久力の低下

2024年11月30日 17時36分19秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
11月24日午前10時過ぎに退院手続きを済ませてから病棟を出て病院の1Fで、強い疲労感に襲われ病院内の売店でコーヒーを買ってイートインスペースでコーヒーを飲みながら体を休めた。
日曜日の退院は、入院費の清算が、玄関から離れた救急やDMATのある場所で、私のいた病棟から一番遠くにあった。
そもそも国立大阪医療センターの建屋は想像以上に広く病棟から休日受付窓口で清算するまで、道に迷ったりして、かなりの距離を歩き非常に疲れた。
更に、退院時に病棟での確認手続きを終え病棟を出るときには、入院時に持ち込んだ重いリュックを背負って帰ることになる。
入院時は、リュックの重さが気にならなかったが、退院時は事務手続きで歩き回ったこともあり。非常に重く感じ病院の売店で休まなければ歩けないほど疲れていた。
この日、朝食後までは体調も良く、元気な状態で家に戻れると思っていた。
しかし、筋力体力は想像以上に低下していて、病棟を出るときに受けとった、私がその日の朝にパッキングしたリュックは、中身は入院時と変わらないはずなのだが、非常に重く感じた。
病院を出てから長い距離を改札まで歩き、地下鉄を乗り継ぎしながら、たびたび立ち止まり休んだ。
地元の駅到着後も、激しい疲労を感じながら家まで歩いたが、途中の喫茶店で耐え切れず入り休んだ。

退院したその日からジムに行き、自分なりのリハビリメニューを作り実行した。
退院日はストレッチのレッスンに参加し、その後自転車こぎを病院のリハビリメニューと同じ要領で行ったが、何の問題もなかった。
翌日トレッドミルで歩いてみた。
時速4kmで10分間、前のバーを持ちながら歩いたが、右大殿筋あたりに激しい疲労を感じ歩行を中止した。
このことに、大きな不安を感じた。
将来、ゆっくりとしか歩けなくなるのではないかと思った。
その後、今日まで、雨の日以外はジムに行き必死にリハビリを行っている。
退院当時は、歩いていて多少ふらつきを感じたが今はない。
ただ、トレッドミルの歩行で判明した右足の筋力や持久力の低下は、少しずつよくなりつつあるが、その回復力はかなり遅い。
そもそも、9月の左足手術も実はそうだったのであろうが、右足が健常なので左足をカバーしていたようで、こうしたことに気が付かなかったようだ。
これからは左右の脚が弱体化した現実を受け止め、今後のリハビリでどれだけ回復するのか、しっかりとみていきたい。
実は2週間近い入院生活で、姿勢を制御する筋肉群も衰えているようだ。
骨盤周辺の筋肉群(大殿筋、中殿筋、・・・・)は人体の姿勢制御にも関連しているが、入院時に歩いたり、立ったりすることは、日常生活から比べるとほとんどなかったので、安静状態に近く、かなり衰えているようだ。
現実に、家事をするときに、退院直後から大きな疲労を感じていたが、日がたつにつれ、疲労感は少しずつ軽くなっているようだ。


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20241126 火 近況短信 2度目の手術入院

2024年11月26日 20時20分11秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
11月13日水曜日 手術を受けるため国立大阪医療センターへ入院し、11月15日に手術し、11月24日日曜日退院。

これまでの経緯
9月25日に左の足腰がしびれ力が入らなくなり、ジムから救急車に乗せられた。
しかし、救急車は停止したまま、救急隊員が細かく私の病状を聞き取り、受け入れ病院を探し始めた。
その結果、周辺の病院に全く空きがなく、たまたま大阪城近くの国立大阪医療センターなら外来のみ受診ということで私は了解し、救急搬送された。
実は病院に運ばれたときに、こんなところに病院があったのかと思ったが、以前国立大阪病院と言っていたところかなと気づいたが、どの程度の病院かよく知らなかった。(大阪城周辺や難波の宮近辺は、よく自転車で通っていたが、病院を気にしたことは無かった。)。
病院到着後救急外来で9時ごろまで救急外来で問診や検査を受け、看護師からこのままだと外来で湿布薬を貰って帰宅することになりますと告げられ、その後の手続きを待ち、地下鉄で帰る準備をしようとした。
そのころには、左足腰のしびれもかなり収まり、痛みはなく足に多少力が入るようになった。
その後、再度同じ医師2人が来て(後の主治医)が来て、念のためにもう少し検査しておこうと言って、CT室に運ばれた。
CT撮影後に救急外来に戻ってしばらくして、医師が来た。
腸骨動脈瘤で左右に一つずつあり4センチ前後の大きさだと告げられた。
初めて聞いた病名だが、とにかく動脈瘤で4センチとは、破裂すると内出血し命にもかかわるだろうし、ただ事ではないと思った。
先生は、動脈瘤は2センチを超えると処置をするのが一般的だといった。
即入院と思ったが、その通りになり9月30日の手術日まで救命救急病棟で、元気なのにベッドから一歩も降りられない日々を送った。
結果、9月25日のジムからの着の身着のまま(運動時の服装)入院し、9月30日に左側の4.5センチの動脈瘤を全身麻酔で処置し10月9日に退院したが、自覚症状がなければ見つけることは困難で、本当に運がよく不幸中の幸いだったと思っている。
(もし9月25日に湿布薬を貰って帰宅していれば、ある日突然動脈瘤が破裂し、原因や破裂部位が不明のため、大量出血で命を落としたり、足腰に大変な障害が残ることになるかもしれなかったと想像している。)

今回は、右側の約3.5センチの動脈瘤を処置するための入院で、11月15日に全身麻酔をかけ4-5時間の手術をしたようだ。
手術後は18日午前までICUにいたため、移動はすべて車いすで、ベッドから降りることが許されなかった。
18日に、一般病棟に移り、手術後の経過は順調で、11月24日に退院した。

1回目の退院時にも痛感し、退院後ジムで必死にリハビリに励んだが、時速5キロメートルで20分歩くと息があがった。(運動直後の血圧145で5分後は120台)
今回の退院後の筋力体力も、予想通り驚くほど低下していた。
退院時は一人で重い荷物をリュックに詰め、地下鉄に乗り一人で家まで歩いて帰ったが、途中耐え切れず2回喫茶店に入り休んだ。
健康な時には全く考えられないことで衝撃を受けた。
(1回目の退院時は病院からタクシーに乗りジムまで行き、ジムに置いていた自転車で自宅まで戻った。)

病院内で、リハビリしていた時に、すでに筋力体力の低下を感じていたが、実生活に戻ると想像以上に低下していた。
入院前の筋力体力に戻るのは、年齢を考えると無理かもしれないが、あきらめず頑張るしかないのだろう。
それでも、普段運動した積み重ねが、体力筋力の回復を早めてくれると信じている。

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20241023 水 昨日記(退院後初めての外来)追記:関連情報情報重要メモ

2024年10月23日 21時18分23秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
午後から国立大阪医療センターへ、地下鉄で行った。地下鉄の階段の上り下りや、最寄り駅から病院までの歩行や、病院内での移動で、体力筋力の衰えを実感した。1週間以上にわたる安静や全身麻酔の影響は非常に大きかった。階段や道では、ほぼすべての道行く人に追い抜かれた。早く歩く筋力がなくなっていると実感した。
 今も右側の腸骨動脈には、3.5センチ程度の動脈瘤があり、時限爆弾を抱えている。破裂すれば命にかかわる。したがって、血圧は140以下に収まるよう注意しながら運動や生活をしている。当然、以前のように時速5~6kmの速足で歩いたり、軽く走ることはできない。今日は、初めて交通機関を利用して市内に出たが、改めて2週間の入院生活で入院前の筋力や体力が低下したことを実感した。
 こうした事態を予測して、退院した日から、ジムで病院でのリハビリを参考に時速4.5kmの歩行から運動を始めていたが、筋力や持久力は思ったほどには回復していない。今後の再入院に備え、できる限り血圧を抑えながら筋力や持久力を上げようと努力中だが、しかし、血圧を140程度に抑える運動では、筋力や持久力の回復は限られるだろうが、命を守るためにしかたない。

 初めて、地下鉄の駅から病院の正面玄に向かった。病院の受付で、採血やX線撮影や心電図等の検査場所に行くのに毎回迷いながら検査を受けた。最後に予約時間に心臓血管外科の外来に行き診察を受けた。先生と相談して、おおよその手術の日程を聞かされた。その後病院の入院支援担当者が来て、明日入院センターに行き、入院と手術日を決定することとなった。
 診察と再入院関係の外来を終え、最も気がかりな会計関係の窓口に行った。無保険での入院費は、250万円前後で、とても私の手に負えない。計算の受付でマイナカードを入力し、後期高齢者の健康保険による費用の計算が始まった。かなり時間がたってから、今日の外来の費用も含めた計算金額が出て、支払い窓口に呼ばれた。何とか支払える金額だったので、カードで支払い、今日の外来診療も含むすべて清算が完了した。もし請求金額が大きければ、数十分割で支払い、徹底的な貧乏生活を送るしかないと覚悟していたが、そんな事態にならずに、ほっとした。同時に日本の社会保障制度の充実=政治の有用性を実感した。アメリカの保険制度なら、私は診療すら受けられず、時限爆弾の動脈瘤が破裂して死ぬ運命だろうと想像した。やはり政治は大切だ。(日本は国民皆保険であり、だれでも貧富の差にかかわらず同じ治療を受けることができる。収入の少ない人には、それに応じた減免制度があるし、高額医療には、限度が決められている。こうした制度は政治で決められたものである。国民から選ばれた議員により制定されたものだ。このように考えると、政治が、日常の隅々まで議員により作られた様々な法律や予算を通して、生活に影響を与えていることを実感する。)

支払いを済ませ、地下鉄で中央図書館まで行き本を借り、いつものファストフードに行きコーヒーを飲みながら、ゆったりした気分で借りた本を読んだ。

重要メモ20241025 0050
今回の腸骨動脈瘤の原因で思い当たることがあり、このブログを調べた。
 その結果2019年11月24日の記載(ブログ投稿日は2020年1月7日)に「今から考えるとこのメニューは非常に無理のあるメニューと思っていて、11月末から12月に起きた大殿筋とハムストリングの小規模な肉離れの原因だと考えている。」という記載があった。 この記載以降、長期間にわたり、左足ハムストリングや大殿筋の激しい痛みを、筋断裂と判断して様々な対応をしていた記載が多くある。
(例:2020年2月28日から3月1日までのこと()・・・2020年3月投稿記事)
その具体的状況は再三ブログの記載に登場する。たとえば画廊回りの時も足が痛かったといった記述もある。今から考えれば左腸骨動脈の血栓により、左ハムストリングや大殿筋が虚血状態になり筋肉痛が発生したと考えれば説明がつく。今回の主訴であった足の痺れの範囲と、この時の筋肉痛の範囲が一致していることも参考になる。(一部左右を間違えて記載していました。足の痛みや血栓は左足で、左腸骨動脈瘤の先に造影剤の流れから大きな血栓が分かりました。20241201訂正)
 今回の入院時の造影剤注入CT検査では、左動脈瘤の先に、大きな血栓があり、血流はわずかしかなかったように記憶している。(画像を時間をかけて十分に見ていなかったが、先生の説明を聞きながら造影検査の画像を見ると、動脈瘤の先に大きな血栓があり、血栓の先にほんのわずかに血液が流れていたように記憶している。  短い時間先生の説明を聞きながらCT画像を見ていた。)
 当時から、血栓によりハムストリング等の筋肉が虚血状態になり、筋断裂に似た筋肉痛が発生していた可能性がある。この状態が発生してから現在までの数年間の間に、動脈側から血栓による血流不足を補うための新しい動脈が形成された可能性もある。そう仮定すれば、時速8kmでも1分間走れる血液が供給できるようになったと考えれば現在の状況の説明がつく。医療関係者の仮定の話だが、入院前に動脈瘤が膨れて神経を圧迫し、痺れを起こした可能性も考えられるという意見もあった。

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私の日常が別世界に変わった日々。3  20240925

2024年10月22日 23時09分43秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
救急車から運び込まれたジムに持ち込んだ私のリュックに入れた荷物の中から、ジムに行くときにはいていた普段着の短パンを出し、そのポケットから腕時計を取り出した。それまで救急車の中にも、雑然と機器やストレッチャーが置かれた作業場のようなパーテイションだけで区切られた救急の診察室?にも、時計はなく、時間が分からなかった。腕時計をして、そのときが夜の7時過ぎだと初めて分かった。ジムを出たのは、たぶん5時前後と思っている。ずいぶん時間がかかった。足の痺れはベッドに寝かされている間に多少よくなった。

確か救急車で運ばれ病院のベッド(ストレッチャー)に移し替えられたときにも、医師が来て病状を質問され、患部の範囲や痛みの有無や触診や、簡単な左足の動作確認をしていたようなきがする。その後医師は、どこかに行きその間、私はベッドの上で寝かされたまま待っていた。
やがて再び二人の医師が現れた。病状を聞かれ、多少痺れは、ましになったといった。左足に力が入らないのも多少力が入るようになっていた。それから、ベッドに寝たままその場で、左右の足首の血圧の同時測定や、心電図やエックス線等の検査を受け、医師たちは再び元に戻っていった。
しばらく、時間が過ぎ8時過ぎになっていた。時間を持て余しているときに、看護師が書類を持ちながら近づき、「このまま何もなければ、湿布薬を処方してもらい自分で、帰宅してもらうことになります。」と告げられた。その話を聞き、私はどのように帰宅するか考えをめぐらし、夕食はどこかで外食することを考えた。自宅から乗ってきた自転車はスポーツセンターに置いてあるので、地下鉄でスポーツセンターまで戻ることにした。しかし足の痺れがかなり良くなっているとはいえ、病院から地下鉄までの距離や、地下鉄の階段や最寄りの地下鉄からスポーツセンターまで、かなりの距離があるのが不安だった。
そんなことを思案していると、突然近くで作業していた看護師が、「白髪のジムの人があちらの部屋でずっと待っておられますよ。」、と言った。白髪のジムの人に心当たりはなかったが、この時間までわざわざ来て付き添ってくれたのかと思い、驚いて呼び込んでもらった。
 やはり、名前を名乗られたがその方は初対面の人だった。私は、8時過ぎまで待っていただいたことにお礼を述べた。そのうえで、看護師から伝えられた話を伝え、帰宅後数日休養してからまたジムに行くと伝えた。そして、ジムでお世話になった人たちによろしくお伝えくださいと伝えた。ジム白髪の人は、私が次にジムに行くときは、お世話になった人たちに先ずお礼を伝えてください、と言われた。私は改めて来ていただいたことに感謝のお礼を述べ、お帰りいただいた。
 しばらくして再び二人の医師(以後先生)があらわれた。すぐに病状を聞かれ、私は「痺れはかなり収まり、足にも多少力が入る感じがします。」と答えた。先生は、「一応念のためにエックス線CTを撮る」と告げられた。
ああ、これで帰りが遅くなると思った。ひょっとすると地下鉄がなくなりタクシーでスポーツセンターまで帰らねば、と思った。その前に外来診療の診察検査費用も支払わねばならず、月7-8万円で生活する貧困の独居老人にとって、とりあえず今日の支払いが不安だった。とにかく、ジム行くときの財布には、常にスーパーで食材を購入するクレジットカードと現金2千円しか入っていない。タクシーにしろ、病院代にしても、全てクレジット決済するしかないと思った。それ以前に、救急車で運ばれたときに聞かれた健康保険証も持ってきていないので請求金額は、大きくなると思った。こうなれば、成り行き任せと腹をくくった。

 先生がCT検査すると言われて、すぐにストレッチャーは、病院内に運ばれCTの部屋に連れていかれ、初めてCT撮影を受け、再び外来の部屋に戻った。
 先生は、なかなか現れなかった。10時半ごろ?2人の先生が現れた。CTの写真を見せてくれた。「ここに瘤がある。」動脈瘤と告げられた。左右に約4センチ前後の動脈瘤があるという。確かに写真を見ると、左側の腸骨動脈と右側の腸骨動脈に1つずつ瘤が見える。その大きさ左が4センチ余りで右側は3.5センチ程度に見えるという。先生は通常動脈瘤は2センチ前後になる処置をするといい、こんな大きさでは、いつ破裂してもおかしくないと言う。痺れの原因は腸骨動脈瘤から来たものではないかと告げられた。
 それを聞いた途端、泣きそうになった。腸骨動脈のことは知らなかったが、骨盤近くにあり脊椎あたりから動脈は、骨盤付近で左右に分岐し、左右の脚に伸びる主要な動脈であることは画像を見て分かった。これが破裂すれば、大出血を起こし命に係わる事態になるであろうことは素人の私でもわかる。先生は、これを処置する時、開腹手術は極めて困難な場所で、ステント手術になると告げられた。
 このとき、入院は不可避で、数週間単位の入院の可能性があると悟った。私は先生に、「今ジムから着の身着のまま来ているので、とりあえずタクシーで、自宅まで戻り必要なものを取りに戻りたい」と訴えたが、無駄だった。外来のストレッチャーからベッドに移し替えられ、そのまま緊急病棟(ICU病棟?)に運び込まれ、様々な書類にサインをさせられた。スポーツシャツに短パン姿のジムの服装のまま、点滴や心電計が体に繋がれた。ベッドから降りることは許されず、小便は毎回看護師を呼んで、尿瓶にすることになった。
 ベッドは多少V字型に角度がついていて、しかも、マットがふかふかで寝返りが打ちにくく寝苦しかった。夜中に頻繁に部屋への出入りがあり各種機器のアラームがあちこちで鳴り響き寝られなかった。さらに病院近くを通る中央大通りでは暴走族が騒音をまき散らしていた。

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私の日常が別世界に変わった日々。2

2024年10月20日 23時12分40秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
予想通り、5分間待っても救急車は来なかった。今問題になっている救急車の安易な使用による混雑の影響なのだろう。それからしばらくして救急車が来た。車いすを救急車のそばに持って行った。その時、車いすの周囲にいて、私をサポートしていただいたスポーツセンター関係者にお礼を言った。
私は、車いすからストレッチャーに乗り替えてから、そのまま救急車の社内に入れられ、後ろの扉が閉められた。
救急車は、長い時間停止したままだった。その間、先ず救急隊員から、詳しいそれまでのいきさつと病状の説明を求められ、それに答えた。左側の大臀部からハムストリングにかけての強烈な経験したことのない足の痺れと力が入らない状況は、全く改善しておらずいなかった。痛みはなく、左足ふくらはぎの下肢や足首には麻痺はなく、右足は、全く異変はなかった。

救急隊員は、救急車停止期間中に市内の多くの救急病院とやり取りしているようだった。「法円坂もダメだった」と、がっかりした会話が聞こえた。法円坂に病院があったのかなと思った。その後もしばらくいろんな病院とやり取りしているようだが、話の内容は聞こえてこないので、車内で不安な時間だけが過ぎた。やっと、国立医療センターが、外来診療だけなら診察すると言っているが、入院できず帰りは自分で帰宅することになるが、どうかと聞かれた。私には選択の余地はなく、「それで結構です」と返事した。診察を受けた後は、タクシーで自宅に戻るしかないと思った。
 救急車は動き出すと、すぐに止まった。多分中央大通りを法円坂方向に向かって走り出したのだろうが、「5・10日」と夕方の渋滞に巻き込まれていたようだ。かなり長い時間がたって、やっと国立大阪医療センターの救命救急室に入り、ストレッチャーのまま診察室に入り、病院のストレッチャーに移し替えられた。そこで、しばらく救急隊員から病院に引継ぎが行われ、救急車は帰った。
 すぐに、担当の看護師により症状を聞かれ検温や血圧測定が行われ、診察後は、帰宅してもらいますというようなことを念押しされたような記憶がある。(思い込みかもしれないが)それから診察を受けるまで長い時間待った。
 その間、帰りはどうしようかと考えていた。外の景色は、全くわからず、法円坂のどの辺にいるのもわからなかった。ただ昔の谷町4丁目にある国立大阪病院らしいことは、分かったので、帰りは地下鉄でジムまで帰り、そこから自転車で家に戻ろうと思っていた。
 病院のストレッチャーに乗せられている間も、ジムで運動している衣服のままだった。(半袖のスポーツシャツに短パン姿。)待っている間に、靴だけは運動靴をリュックに収め、家からジムに行くときの外出用の靴に履き替えていた。
 左足の状態に、回復の兆しはなかった。
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私の日常が別世界に変わった日々。1

2024年10月19日 22時22分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
2024年9月25日水曜日、いつものようにジムでの30分間のストレッチのレッスンのあと、ジムの受付横にある長椅子で一息ついてから、トレッドミル(ランニングマシン)に向かった。
最近ランニングができなくなっていたので、先ず競歩のように時速6kmで30分歩ける筋肉と持久力をつけて、時速7kmから8kmのランニングができる体力をつけようとしていて、この日のウオーキングもそのトレーニングのひとつと考えていた。

それまで、5月6月は、トレッドミルのハンドル(脈拍測定バー)を持ったり離したりしながら時速6kmから9kmの範囲で30分間休まず歩いたり走ったりしていて、時速8kmなら1分間は、ハンドルを持たずに走ることができた。しかし7月8月は無冷暖房の我が家の環境を考え、オーバーワークによる過労(早朝でも常時31℃以上の室温のため、暑さで疲労回復できない。)防止のため、時速5.5kmから6.2kmで2-30分間歩くようにしていた。この夏9月も猛暑が続いていたが下旬になり、気温も下がり、我が家の室温も30℃を切るようになったのでので、歩くスピードを上げ、ランニングできるようにしたいと考えていた。

この日も、トレッドミルで時速5.5km~6.5kmのインタバルのウオーキングを行って5-6分過ぎたころ、急に左足に異変を感じ、ウオーキングを止め受付横のベンチに座った。左臀部からハムストリングにかけて、しびれだしその痺れは、時間とともに強くなった。いたたまれずエレベーターホール横のマットを置いてあるスペースに移動することにした。しかし左足に力が入らない。壁伝いに壁に寄りかかりながら歩きエレベーターホール横のマットにうつ伏せになりながら倒れこんだ。不気味な足の痺れは強くなった。
 30分ほどたったころ尿意を催した。立とうとしたが、左足に力が入らないことに愕然とした。何か体内で大変なことが起きているのかもしれないと考えた。とにかく壁につかまりながら動きにくい左足を引きずりながらトイレまで行った。途中2mほどの廊下を横切れるか不安だったが、右足を軸にして廊下を渡った。小用を済ませ再びマットの上にうつ伏せになった。
 それから10分たっても良くなることは無く、激しい痺れは続いた。今私の体の中でただならぬことが起きている事を改めて認識した。必死に立ち上がり、意を決して壁伝いに受付に行って状況を説明しイ、ンストラクターのk氏に救急車の手配を依頼した。
K氏は事務所と連絡おとり、救急車が来ることになった。スポーツセンターの車いすが運ばれてきて載せられた。更衣室のロッカーから私の持ち物をすべて出し、私の膝に乗せられた。その後スポーツセンターの玄関で救急車を待った。その間膝の上の私の荷物をすべてリュックの中に詰め込んだ。救急車が到着するまで少し待った。運動時の半袖短パンのトレーニング姿のまま救急車を待った。足の痺れは変わらなかった。

着の身着のままの状態で、持ち物は食材買い出しのための財布だけで、スマホもない。これを考えた時に、今自分が置かれている状況が、貧困の独居老人で頼る人がいない現実の中で、突然の身体の大きな異変に遭遇して日常生活に大きな影響がありそうなことが自分の身に起きていることの意味を改めてかみしめた。
こうなれば、まな板の上の鯉でしかない。自分では、何もできない。すべて成行きに任せるしかないので心配しないことにした。連絡先は、警察(交番の地域住民調査)の巡回の時に話してあるが、連絡先は高齢なので動けないだろうし、とても頼れないと考えているので、通常の場合緊急連絡先はなしにしている。とにかくすべて自分で処理するしかない。
続く
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20240922 日 中国のSNSによる各国への世論操作分断工作に注意

2024年09月22日 23時08分50秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
秋雨前線の南下で涼しくなった。
数日前まで、たまに台風や低気圧の影響で数日30℃以下になることはあったが室温は寝る前でも32℃程度で朝でも30度以下になることはほとんどなかった。
そのため無気力になりがちで、だらだらと成行きの日々を送っていた。
この間世間では、いろいろなことが起きた。(時間があれば後日記載)
能登半島は、今、大雨により大規模な水害の被害を受けているようだが、全貌は不明だ。
正月の震災に加えての大水害。
被害が、少なくなることぉ祈るのみだ。

先ほど、NHKスペシャル中国のSNSによる世界の世論調査に関する調査報道をみた。
SNS上の世論の中には、中国からの操作で操られていることもあるらしい。
これは陰謀論ではなく、NHKが各国の情報専門家やセキュリティー企業とともに、中国からの膨大な流出文書をもとに、解明したものだ。
結論から言うとネット上では中国により大量のボットが作られ、そこで中国に都合の良い偽情報や中国寄りの意見が拡散されるというのだ。
現実に、台湾ではインド人労働者増員反対集会が多く開かれ、社会問題になった。
その集会の起点になったのは、SNS情報だった。
SNS情報の発信元から多くのボットを中継し拡散された、
その文面の言葉遣には、台湾で使用されない言葉があり、中国が関係する疑いが浮上した。
彼らは多くのボットを作り、それを使い大量に拡散し、若い女に不安を与え多くの集会が行われ、社旗問題になったという。
この番組では客観的なデーターが提示され、中国による戦略的世論操作の実態が明らかになった。
日本でも同様のことが行われているという。
福島第一原発の処理水放出問題で偽情報を投稿しSNS上で2000件近くのリポストがあったが、NHK他日本のマスコミの正確な情報による指摘があり、世論工作失敗した。
こうした状況を見ると、中国は常に情報戦を行い、戦略的に関係国の世論の分断対立や混乱を狙っているようだ。
数十年前は、中国は侵略しない国で自衛隊を強化する意味がないと信じていた。
しかし、尖閣問題や南シナ海の中国の武力侵略の実態を目の当たりにし、そうした考えは吹っ飛んだ。

我々は、ネット情報の真偽を疑い、陰謀論に惑わされないようにしたい。
少なくとも、NHKや有力紙の報道は、幾重にも事実の検証がおこなわれ、おおむね信用してよいと思う。
それでも、まれに誤報道が見つかることもあるので、常に批判的にニュースを見ることが必要だ。

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黄色くなったブロッコリーは食べられる、梅雨の中の猛暑 20240706 土

2024年07月06日 23時13分22秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
今日は、プチ断食を実施した。

断食も終わり、夕食を作ろうとブロッコリーを出すと、1日で黄色くなっていた。
ブロッコリーの開花だ。
念のため、AIに尋ねた、
予想通り開花なので問題はないが、多少甘みが増しわずかながら栄養価が減るらしい。
食べて全く問題はないという。
以前は、黄色くなったブロッコリーを捨てていたが、これから、食べることにする。

それにしても梅雨の時期なのに暑い。
ここ数日、梅雨前線が北上し、真夏の気圧配置になり、日本全国記録的高温が続出し、最高で39℃台を記録。
無冷房の我が家の今朝5時ごろの室温は32℃。
パジャマも汗でべたべただ。
それでもよく寝ている。
口呼吸で口が乾き、夜中に起き上がらずに寝たまま枕元に置いたペットボトルの水を飲んで、そのまま即寝るが、尿意を催し4~5時頃トイレに起きることが多い。
数日に1回は夜中にトイレに一度も行かない日があるが、それには条件がある。
日中にある程度運動していないと、夜中に目覚めるのだ。
そういう意味でも運動不足は体に良くないと思っている。
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近況 20240630 日

2024年06月29日 15時32分33秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
以下の一文はFBに投稿したものの一部ですが、近況や交友関係も記載していて、公開しても支障がないので、私の日常の記録の一部の記録として投稿しています。私の記憶の掘り起こしの手掛りにもなります。


以下三宅忠夫(ギャラリーくるせを経営していたが後に倒産)のお詫びと谷口氏との関係
谷口氏とは、堀尾さんの主宰する旧「ぼんくら」(震災前)の会合で知り合いになりました。
その後、「ギャラリーくるせ」で谷口新展を行い、中谷氏も紹介され、お二人の展覧会や個展も行いました。

参考 :中谷氏のFB投稿より一部抜粋:
(昨年10月27日に突然別れも告げず逝ってしまった友人、谷口新に捧げる追悼展覧会、『谷口新とその友人達』(仮題)を開催したいと考えています。    谷口の作品をお持ちの方、また展覧会に参加していただける方を、ご存知でしたら是非お知らせ下さい。
7月末までにご連絡を頂けましたら幸いです。
コンテンポラリーアートギャラリーZone ディレクター 中谷 徹
メール:nakatanitoru46@gmail.com(中谷徹)
電話:080-3106-3177(コンテンポラリーアートギャラリーZone)

私事ですが、生活保護保護以下の年金暮らし(無冷暖房・・)をする独居老人の日々を送る私は、生鮮食料品高騰の影響で、日常生活・自炊等に追われ生活に余裕がなくなり、加齢の影響もありFBを見たりブログやSNSへの投稿も激減しました。さらに数週間前の大雨の日の深夜に2度停電があり、同時にOSの更新が重なり、それ以後メインで使っていた10年前に購入したPCが動かなくなりました。多くのデーターや文書が使用できなくなりました。現在までいろいろ対応したが回復しません。(起動しなくなったPCはウイドウズ.8.1からのバージョンアップしW10ではうまく使用していたがハード面でW11に全く対応できない)昨年末には、ウインドウズ11対応に危機を感じ、2020年?モデルのノートパソコンW11に対応してあるものを購入し、現在これを使用して投稿しています。しかし、大容量のエクセルのデータ処理動きには不安定なところも見受けられます。旧PC内に保存してあった画像データは、外付けHDにコピーしていましたが、そのHDからワードやエクセル文書は取り出せましたが画像は未確認です。
そんなことも重なり投稿が遅れましたことを改めたお詫びします。
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20240606 木 昨日記 近況

2024年06月06日 13時06分15秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
日々惰性に流され、何となく生きている生き方を改めようと、ここ数年考えていた。
日々の生活パターンは決まっている。
午前中は、朝食後に昼寝と株をチェックし新聞を読みTVを見ること。
新聞は、とりあえずすべての紙面に目を通し、気になった記事や投稿を読んでいる。
1ページ文字で埋められた、特集テーマをもとにした投稿記事を読むことも多い。
政治、経済と科学文化芸術や読書関連の記事を読むことが多い。
いわゆる三面記事やスポーツは、TVのワイドショーもよく見るので、そちらのほうが情報も早く、情報量も多いので、新聞ではタイトルを見てパスをする。
午後になると、食材の買い出しを兼ねて、スポーツセンターで汗を流し、その帰りにスーパーに寄ることが多い。

ジムでは、自分で運動メニューを作っているが、いつも体力の限界にチャレンジするメニューを入れているので、2日間連続して通うと疲労が蓄積して休むことが多い。
例えば、70歳前半(5年以上前)では、時速9kmで30分間(約4.5km)走れたが、コロナ等の休みが続き、さらに加齢の影響で、時速7kmで5分間も走れない。(なにも補助がない状態)
そのため、トレッドミル(ランニングマシン)のバーを交互に1分間交代で持ったり離したりしながら、30分間走ったりしている。
別の日には、時速7km・8km各1分 9km・10km各30秒(トレッドミルのバーにつかまって走る。)、これを1から3回行うといった多少無理な運動もする。
こうした運動をすると、帰宅後は疲労のため1-2時間TVを見たり、居眠りして過ごしているて、翌日も体が重く眠気を催している。
疲労が回復していないのだ。
それ以外にも、ジャンプや台の上り下り(約20cmの台に上り向こうに下り、そのままバックで上り下りして往復する運動を前後左右計60往復したりするかこれも非常にきつく、初めの頃は尻や腹筋や足の筋肉痛に見舞われ、回数を短くして始めたが、多少無理を感じつつ今もスケジュールを組んで行っている。

最近、生活スタイルを分析して、スポーツセンターでの運動がオーバーワークで、その結果翌日に疲労を残し、帰宅後と翌日の午前中は何となく無気力にぶらぶら過ごしたり、昼寝をしたりする結果となっていると考え始めた。
今、そうしたことを見直そうと試行錯誤を始めた。
オーバーワーク気味の運動は、年寄りの冷や水的な要素もあるが、運動能力の向上も実感している。
今も翌日まで疲労を残し、オーバーワークになっているが、同時に体力筋力の向上も実感している。
例えば、敏捷性や左右のバランスを強化するため、昨年から反復横跳びを始めた。
初回は、10往復するだけでオーバーワーク状態となり、足はふらつき息が上がり運動継続ができない状態になり、翌日には腹筋や足や尻の筋肉群のひどい筋肉痛に悩まされ、強い疲労感もあった。
それが、現在では、反復横跳び15往復1セットで2セット実行してもオーバーワークは感じなくなった。

日常生活の中で、運動能力維持のためのスポーツセンター通いは、主な柱の一つに間違いないし、ある意味生きがいの一つでもある。
それと同時にもうひとつの生きがいがある。
読書である。
特にいまは考古学関連と哲学関連の本を読んでいる。

キエルケゴールの話は以前の「昨日記」で触れたままになっている。
先月その本は読了した。
そもそも、キエルケゴールの本を読み始めたのは、実存主義への疑問からだったが、その本を中心にウイトゲンシュタインから分析哲学へと視点が移っている。
今まで、高校時代に読んだ河合栄次郎の「学生にあたう」を手始めに、弁証法やギリシャ哲学やデカルトやカント関連の哲学や、精神分析論、記号論・構造主義等様々な本を読み漁った。
哲学以外、アメリカ語学留学時に取り上げたマックス・ウェーバーの社会学や構造主義にも関連する文化人類学にも興味があり、関連する本も読んだ。
それ以外、若い時の本業だった技術・科学関連には強い興味があり、関連したTV科学番組は欠かさず見ている。
また健康や運動に関連するTV番組や新聞ネット情報もよく見ている。

長くなるので、キエルケゴールとウイトゲンシュタイン関連の話は、次回に。



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20240514 火 再び風邪ひき寝込む

2024年05月14日 13時17分00秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
5月9日木から気管に異変を感じ咳もではじめた。
本格的な感染性の風邪(病原菌ウイルスは、インフル RSウイルス アデノウイルス 肺炎球菌・・・等無数にある)を感じた。
翌日からは、終日体調不良で夜中には咳き込んで再三目が覚めることも数日あった。
日中も体調が悪く、1日の多くを安静にして過ごした。
前回の3月19日頃から始まった風邪を思い出した。
今回も、ほぼ完治するまで10日間を覚悟していた。
幸い、現在たまに痰が出るが、咳やくしゃみもなく、鼻や気管の違和感もほぼなくなり、体調も良くほぼ完治だろう。
詳細は次回に。

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近況と 飲み屋の思い出話 20240504土 追

2024年05月04日 18時18分08秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最近ブログを書かなくなって気になっていた。
何時も使うブログの下書き原稿の終わり、書きかけの文章が残っていたので、何となくそれに加筆修正を加えた一文を載せておく。

近況
健康状態問題なし、日課として、ジム通いは継続中。
ここ数年は、副食製造がずれ込み深夜1―2時が、常態化している。
副食製造の生産性は向上しているのだが、ジムでの運動疲れの影響か、午前中昼寝をすることが多くなりそのため副食製造が夜中にずれ込んでいる。
その原因としてジムでのオーバーワークによる疲労回復に時間を取られ、さらにトータルの睡眠時間を増やす行動を始めたことが関係している。
また哲学関連のノート取作業にも、多くの時間を取られている。
さらにこのブログ書きが加われば、改善不能になる。
こうした事態を改善することが急務だ。 

今、図書館で借りている本、キエルケゴールと実存哲学の系譜の返却期限が迫っていて、この本のノート取りに懸命である。
実存主義は、分かったつもりでいたが、その系譜をたどると非常に面白いし、同じ実存哲学でも各人で方向性が違っている。
ハイデガーやサルトルがキエルケゴールを宗教的著作者とみなしたことも理解できる。
同時に哲学者には「けったいな人」も多いと思っている。
ノートを取りつつ、世の中の思想のながれ(構造主義 実存 人権 自由 政治 ジェンダー 価値 多様性 宗教・・・)を作ったのはギリシャ時代から続く哲学であることを再認識した。
現在の日本や民主主義諸国では、普段全く意識していない民主主義や人権や自由も、思想家・哲学者の築い多様な思想の流れの上に、多くの市民が共感し、彼らの犠牲の上で実現したものであることを忘れてはならない。。
事実、数百年前まで市民に自由はなく様々な制限を加えられていたし、現在も多くの権威主義国や独裁国では自由はなく人権も無視されている。

現在ウイトゲンシュタインとキエルケゴールや実存との関わりを読み進めている。
キエルケゴールはキリストとの関係で、自由と不安とその結果認識される実存を見出した。
それ以後のハイデガーやヤスパースやサルトルは、キリスト教の要素を骨抜きにした実存を打ち出した。
ウイトゲンシュタインは、構造主義的考えを持ち言語について考えたが、第一次世界大戦従軍前後から友人との関係で、キエルケゴールに関心を持つ。
その後の展開を今読んでいるところだ。


さて、10年近く前の話だが、FBを見ていてFB友達の友達であるギター演奏家の名前が気になった。
聞き覚えのある名前である。
FBで友達申請すると、やはりその人物A氏で、教室も開き今はプロのギタリストになっていた。

5~10年まで北区の阪急東通り商店街の端の雑居ビルに、クラシックギター専門のスナックグラナダ(今はない)があり、その店は十数人で満員となる小さな店で、クラシックギター愛好家のたまり場だった。
その店の居心地がよかったので、40代のころ、その店に毎週通っていて、マスターや店員も含め、店に来る客はほとんどがお互い顔なじみで、話も弾んだ。
そこで当時A氏は一時期演奏者兼店員をしていた。
この店は、クラシックギタリスト志望の若者が、数か月から1年程度店員になり、小さなステージで演奏もしていて、それ以外に審査に通過した地方からの演奏希望者や学生が演奏していた。
グラナダのオーナーはラテン音楽の弾き語りでステージに立ち、またアーチェリーの選手で、話し上手で人気を集めていた。
この店を知るきっかけになったのは、確か40代の頃、アメリカから帰国後、一時期北区のYWCAスペイン語の教室に数か月通ったことがあり、その教室で知り合った男性に1軒の飲み屋を紹介してもらったのがグラナダで、それ以降月に数回一人で通うようになった。

グラナダに通ううちに、グラナダと親しいラテンアメリカ系の居酒屋の店の話を聞くようになり、そこにもたまに行くようになった。
国境の南という酒場で、南米のフォルクローレの楽団(プカソンコ・・)が生演奏していることが多かった。
客席は数十人程度収容でき、ステージ兼踊れるスペースもあった。
そこでは、大フィルのメンバー達が、打ち上げで来ていて、話をしたこともあった。
コロナ前には国境の南の入っていたビルは取り壊されて更地になっていた。
しかし、偶然ジムに通っている顔見知りのイラストレーターが、国境の南のオーナーG氏と懇意にしていて、家にも行ったという話をしていた。

その近くに、もう一軒行きつけの飲み屋があった。
その店は、30代の頃扇町プールに泳ぎに行った帰り、疲れたので何か飲みたいと思い、偶然見つけた炉端焼きの店で、その店は20代の頃会社帰りに同僚たちがよく集まって飲んだ炉端焼きの店に似ていたので、試しに入ってみると、おなじオーナーが店名を変えて営業していた。
(阪急東通り商店街の端に、母娘で営業している小さな炉端焼きの店があり、その店は20代の頃に、10年間勤めていた会社の同僚達のたまり場で、私は週に1-2回程度だったが、他の同僚は週に数回はその店に飲みに行っていた。その店は、母親と一緒に店を手伝っていた長女が、結婚してからその店は閉店したが、何年か後に再開したらしい。)
その時は、次女が看板娘となっていた。
早速、20代に勤めた会社の元同僚や、当時勤めていた会社の同僚たちにその店を紹介した。
その後、私はその店に行かなかったが、しばらくたってから再びその店を訪れると、いつの間にか、私の古くからの友人や当時勤めていた会社(30代の頃)の同僚のたまり場になっていて、店が休みの日や休日でもみんなでハイキングに行ったり、花見に行ったりしていた。
その店の行き返りには、JRの天満駅を使用することが多かった。
JR天満駅と天神橋筋商店街は、20代の頃に10年間勤めた南同心町(天神橋筋3丁目の東)にある当時はまだ小企業だった会社(環境試験装置 現在東証1部)への通勤経路でもあり、懐かしい地域だ。
20代の頃は、残業を終えて同僚たちと共に天神橋筋から西に扇町公園を抜けて、阪急東通り商店街の行きつけの、スナックや炉端焼きに飲みに行くのが楽しみの一つだった。
上記のYWCAは、馴染みの居酒屋と環状線JR天満駅との途中にあり、アメリカ・中南米から帰国後、友人たちがたむろしているなじみの炉端焼きに行く途中で、YWCAにスペイン語教室の案内があったのを見て教室参加した。
アメリカでの英語留学後、アメリカ人のルームメイトの紹介でメキシコのクエルナバカにあるスペイン語学校に数か月間入り習ったが、片言の会話しか出来ず、その後中南米の首都を回り、民芸雑貨を買いまわったが、スペイン語が片言しか話せず大変苦労した。(当時中南米では英語はほとんど通じなかった。)
そのため、再チャレンジのつもりでYWCAのスペイン語教室に通ったが、数か月で挫折した。

それ以外に、もう一軒阪急東通りの1本北側の辻に行きつけの飲み屋があった。
そこは、40代になってギャラリーを始めた時に、木版画家から紹介されて通い始めた家庭料理の店だった。
その店は、十数人入るといっぱいになるスタンド型の店で、客層は新聞や出版会社の編集者、学者、芸術家といった人が多かった。
年4回文集も出していた。
たまたま隣り合わせた客と話ししていると、スイスで別荘の留守番を頼まれたというような大きな話をするので、酔っぱらいのほら話だろうと話を聞きながら疑っていると、女将が、この人は某大学の有名な数学教授だと言い出したので納得した。
(同じ数学仲間の親しい外人教授の別荘とのことだった。)
先代のママや今のママとも気軽に話していた。
その店は今も営業中で価格帯も普通の店と同じだが、生活保護以下の生活をする私には、外食する余裕はない。

サラリーマン時代(40歳以前)は同僚たちとたまに行くカラオケスナックが、東通り周辺に2軒あったことを思い出したが、今はない。


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20230331 日 風邪ほぼ完治 フレイルとジムと現在の体調

2024年03月31日 16時09分49秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
主要ニュース
小林製薬 紅麹問題 死者5名 影響企業多数社会問題化 政府も動く 工場立ち入り調査
ミャンマー内戦国軍劣勢か 国軍式典に戦車ミサイルなし
昨日大阪も桜開花 以上高温で全国的にかなり遅い開花始まっている。同時にひどい黄砂襲来

風邪、ほぼ治癒した様子。
3月19日の鼻かぜ自覚から風邪症状が今日なくなるまで10日余りかかった。
昨日まで粘性の強い鼻汁が大量にでたが、今日はそれがなくなった。
26日 (火)家の中では数時間に一度大量の鼻水と痰
27日 (水)プールへ プールではくしゃみや咳はなし。家の中では、数時間に一度大量の鼻水と痰。 前日より頻度少 気管支からのボコボコ音なし
28日(木)夕方ジムに行き軽く運動をした。ジムではくしゃみ咳なし 家の中では数時間に一度大量の鼻水と痰 前日より頻度少
29日(金)ジムに行き、ストレッチのレッスンを受けた。ジムではくしゃみ咳なし 鼻腔の鼻汁前日より強い粘性絡み
30日(土)は、株の研究と、副菜製造をおこなった。

来月(明日)からスポーツセンターの管理者が替わり、レッスンのプログラムも一部変更になるが、インストラクター等のスタッフは管理職を除きそれほど変化ないようだ。
もともと、スポーツセンターは、数年契約の運営委託で、企業連合体で運営しているので、スタッフはほぼ非正規で、一部の人が企業連合体の親会社に雇用されることもあるようだ。
そのためスタッフには学生や子育て中の母親が多いようだ。
人手不足の今、スタッフの募集も大変だろう。
当然のことながら、スタッフの待遇の改善と教育も必要だろう。
新聞広告で、民営のスポーツジムが区内や近隣の区にいくつも開業し、競争も激化しているが、市立スポーツセンターの人気は高いようで、ジムも午前中は中高年の人であふれている。

公園や路地では、自力で歩行運動に励む老人を多く見かける。
その中には手押し車を押す人も多いし、どのコミュニティーにも属さない孤独な独居・孤立老人も多いのではないかと推察する。
そういう人こそ、ジムで科学的に運動管理をして肉体状況を改善しつつ、ある意味社会的なコミュニティーへの接点を持ち孤立状態を改善するべきだろう。
同時に、手押し車を使う前の段階で、ジムに行って適切な運動をすることでフレイルの予防をし、QOLを高めるべきだろう。
こうしたフレイル予防は、国の医療費や福祉予算軽減にも大きくかかわる話で、国や自治体はもっとフレイル予防政策に予算をつぎ込み、フレイル予防のための啓発運動や仕組みづくりを進めるべきだと思う。

そもそも私がジムやプールに通いだしたのは、60歳になったのがきっかけだった。
当時、画廊回りに疲れを感じるようになり、御堂筋を歩いていると、ほとんどの人に追い抜かれるようになった。
このままの状態では、70歳になると杖が必需品になるのではないかと思った。
また、当時から生活保護以下の生活をしていたので、病気になってもこのままでは医療費を支払えないと思った。
当時確かジムの定期は、5-6千円ほどしたが、病気になり医療費がかかったり、歩けなくなって活動範囲が狭くなることを考えれば、ジムに行って体力をつけ肉体を鍛え健康になるほうが、ジムへの経済的費用を節約するよりはるかにメリットが大きいと考え、ジムに通うようになった。
その予想は的中した。

もうすぐ80歳になるが、先日の健康診査も肝機能を除きすべて異常なしだった。
ただ、肝機はAST50 ALTが44で、コロナでジムが休みの時は正常で、それ以外の時は今回と同じような値で要観察だった。(要指導や要医療ではない)
ASTは骨格筋の状態でも変化するので、ジムでランニング等の激しい運動をすると上がりやすいので、気にしていない。
事実、最近息の上がる激しい運動や筋肉痛になりかけの激しい運動は頻繁に行っている。
ジムで行った肉体年齢は60代だったし、たぶん同年代では筋力等は平均以上ではないかと思っている。
医療面では、歯科には通うが内科や外科には通ったことがない。(耳鼻科はあり)
たまに、今回のように風邪をうつされることもあるが、熱を出して医者に通ったり寝込まないで済んだのも、スポーツセンターで運動をして、免疫力が強化されている効果だと推測している。



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