散歩者goo 

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20241023 水 昨日記(退院後初めての外来)追記:関連情報情報重要メモ

2024年10月23日 21時18分23秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
午後から国立大阪医療センターへ、地下鉄で行った。地下鉄の階段の上り下りや、最寄り駅から病院までの歩行や、病院内での移動で、体力筋力の衰えを実感した。1週間以上にわたる安静や全身麻酔の影響は非常に大きかった。階段や道では、ほぼすべての道行く人に追い抜かれた。早く歩く筋力がなくなっていると実感した。
 今も右側の腸骨動脈には、3.5センチ程度の動脈瘤があり、時限爆弾を抱えている。破裂すれば命にかかわる。したがって、血圧は140以下に収まるよう注意しながら運動や生活をしている。当然、以前のように時速5~6kmの速足で歩いたり、軽く走ることはできない。今日は、初めて交通機関を利用して市内に出たが、改めて2週間の入院生活で入院前の筋力や体力が低下したことを実感した。
 こうした事態を予測して、退院した日から、ジムで病院でのリハビリを参考に時速4.5kmの歩行から運動を始めていたが、筋力や持久力は思ったほどには回復していない。今後の再入院に備え、できる限り血圧を抑えながら筋力や持久力を上げようと努力中だが、しかし、血圧を140程度に抑える運動では、筋力や持久力の回復は限られるだろうが、命を守るためにしかたない。

 初めて、地下鉄の駅から病院の正面玄に向かった。病院の受付で、採血やX線撮影や心電図等の検査場所に行くのに毎回迷いながら検査を受けた。最後に予約時間に心臓血管外科の外来に行き診察を受けた。先生と相談して、おおよその手術の日程を聞かされた。その後病院の入院支援担当者が来て、明日入院センターに行き、入院と手術日を決定することとなった。
 診察と再入院関係の外来を終え、最も気がかりな会計関係の窓口に行った。無保険での入院費は、250万円前後で、とても私の手に負えない。計算の受付でマイナカードを入力し、後期高齢者の健康保険による費用の計算が始まった。かなり時間がたってから、今日の外来の費用も含めた計算金額が出て、支払い窓口に呼ばれた。何とか支払える金額だったので、カードで支払い、今日の外来診療も含むすべて清算が完了した。もし請求金額が大きければ、数十分割で支払い、徹底的な貧乏生活を送るしかないと覚悟していたが、そんな事態にならずに、ほっとした。同時に日本の社会保障制度の充実=政治の有用性を実感した。アメリカの保険制度なら、私は診療すら受けられず、時限爆弾の動脈瘤が破裂して死ぬ運命だろうと想像した。やはり政治は大切だ。(日本は国民皆保険であり、だれでも貧富の差にかかわらず同じ治療を受けることができる。収入の少ない人には、それに応じた減免制度があるし、高額医療には、限度が決められている。こうした制度は政治で決められたものである。国民から選ばれた議員により制定されたものだ。このように考えると、政治が、日常の隅々まで議員により作られた様々な法律や予算を通して、生活に影響を与えていることを実感する。)

支払いを済ませ、地下鉄で中央図書館まで行き本を借り、いつものファストフードに行きコーヒーを飲みながら、ゆったりした気分で借りた本を読んだ。

重要メモ20241025 0050
今回の腸骨動脈瘤の原因で思い当たることがあり、このブログを調べた。
 その結果2019年11月24日の記載(ブログ投稿日は2020年1月7日)に「今から考えるとこのメニューは非常に無理のあるメニューと思っていて、11月末から12月に起きた大殿筋とハムストリングの小規模な肉離れの原因だと考えている。」という記載があった。 この記載以降、長期間にわたり、左足ハムストリングや大殿筋の激しい痛みを、筋断裂と判断して様々な対応をしていた記載が多くある。
(例:2020年2月28日から3月1日までのこと()・・・2020年3月投稿記事)
その具体的状況は再三ブログの記載に登場する。たとえば画廊回りの時も足が痛かったといった記述もある。今から考えれば左腸骨動脈の血栓により、左ハムストリングや大殿筋が虚血状態になり筋肉痛が発生したと考えれば説明がつく。今回の主訴であった足の痺れの範囲と、この時の筋肉痛の範囲が一致していることも参考になる。(一部左右を間違えて記載していました。足の痛みや血栓は左足で、左腸骨動脈瘤の先に造影剤の流れから大きな血栓が分かりました。20241201訂正)
 今回の入院時の造影剤注入CT検査では、左動脈瘤の先に、大きな血栓があり、血流はわずかしかなかったように記憶している。(画像を時間をかけて十分に見ていなかったが、先生の説明を聞きながら造影検査の画像を見ると、動脈瘤の先に大きな血栓があり、血栓の先にほんのわずかに血液が流れていたように記憶している。  短い時間先生の説明を聞きながらCT画像を見ていた。)
 当時から、血栓によりハムストリング等の筋肉が虚血状態になり、筋断裂に似た筋肉痛が発生していた可能性がある。この状態が発生してから現在までの数年間の間に、動脈側から血栓による血流不足を補うための新しい動脈が形成された可能性もある。そう仮定すれば、時速8kmでも1分間走れる血液が供給できるようになったと考えれば現在の状況の説明がつく。医療関係者の仮定の話だが、入院前に動脈瘤が膨れて神経を圧迫し、痺れを起こした可能性も考えられるという意見もあった。

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私の日常が別世界に変わった日々。3  20240925

2024年10月22日 23時09分43秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
救急車から運び込まれたジムに持ち込んだ私のリュックに入れた荷物の中から、ジムに行くときにはいていた普段着の短パンを出し、そのポケットから腕時計を取り出した。それまで救急車の中にも、雑然と機器やストレッチャーが置かれた作業場のようなパーテイションだけで区切られた救急の診察室?にも、時計はなく、時間が分からなかった。腕時計をして、そのときが夜の7時過ぎだと初めて分かった。ジムを出たのは、たぶん5時前後と思っている。ずいぶん時間がかかった。足の痺れはベッドに寝かされている間に多少よくなった。

確か救急車で運ばれ病院のベッド(ストレッチャー)に移し替えられたときにも、医師が来て病状を質問され、患部の範囲や痛みの有無や触診や、簡単な左足の動作確認をしていたようなきがする。その後医師は、どこかに行きその間、私はベッドの上で寝かされたまま待っていた。
やがて再び二人の医師が現れた。病状を聞かれ、多少痺れは、ましになったといった。左足に力が入らないのも多少力が入るようになっていた。それから、ベッドに寝たままその場で、左右の足首の血圧の同時測定や、心電図やエックス線等の検査を受け、医師たちは再び元に戻っていった。
しばらく、時間が過ぎ8時過ぎになっていた。時間を持て余しているときに、看護師が書類を持ちながら近づき、「このまま何もなければ、湿布薬を処方してもらい自分で、帰宅してもらうことになります。」と告げられた。その話を聞き、私はどのように帰宅するか考えをめぐらし、夕食はどこかで外食することを考えた。自宅から乗ってきた自転車はスポーツセンターに置いてあるので、地下鉄でスポーツセンターまで戻ることにした。しかし足の痺れがかなり良くなっているとはいえ、病院から地下鉄までの距離や、地下鉄の階段や最寄りの地下鉄からスポーツセンターまで、かなりの距離があるのが不安だった。
そんなことを思案していると、突然近くで作業していた看護師が、「白髪のジムの人があちらの部屋でずっと待っておられますよ。」、と言った。白髪のジムの人に心当たりはなかったが、この時間までわざわざ来て付き添ってくれたのかと思い、驚いて呼び込んでもらった。
 やはり、名前を名乗られたがその方は初対面の人だった。私は、8時過ぎまで待っていただいたことにお礼を述べた。そのうえで、看護師から伝えられた話を伝え、帰宅後数日休養してからまたジムに行くと伝えた。そして、ジムでお世話になった人たちによろしくお伝えくださいと伝えた。ジム白髪の人は、私が次にジムに行くときは、お世話になった人たちに先ずお礼を伝えてください、と言われた。私は改めて来ていただいたことに感謝のお礼を述べ、お帰りいただいた。
 しばらくして再び二人の医師(以後先生)があらわれた。すぐに病状を聞かれ、私は「痺れはかなり収まり、足にも多少力が入る感じがします。」と答えた。先生は、「一応念のためにエックス線CTを撮る」と告げられた。
ああ、これで帰りが遅くなると思った。ひょっとすると地下鉄がなくなりタクシーでスポーツセンターまで帰らねば、と思った。その前に外来診療の診察検査費用も支払わねばならず、月7-8万円で生活する貧困の独居老人にとって、とりあえず今日の支払いが不安だった。とにかく、ジム行くときの財布には、常にスーパーで食材を購入するクレジットカードと現金2千円しか入っていない。タクシーにしろ、病院代にしても、全てクレジット決済するしかないと思った。それ以前に、救急車で運ばれたときに聞かれた健康保険証も持ってきていないので請求金額は、大きくなると思った。こうなれば、成り行き任せと腹をくくった。

 先生がCT検査すると言われて、すぐにストレッチャーは、病院内に運ばれCTの部屋に連れていかれ、初めてCT撮影を受け、再び外来の部屋に戻った。
 先生は、なかなか現れなかった。10時半ごろ?2人の先生が現れた。CTの写真を見せてくれた。「ここに瘤がある。」動脈瘤と告げられた。左右に約4センチ前後の動脈瘤があるという。確かに写真を見ると、左側の腸骨動脈と右側の腸骨動脈に1つずつ瘤が見える。その大きさ左が4センチ余りで右側は3.5センチ程度に見えるという。先生は通常動脈瘤は2センチ前後になる処置をするといい、こんな大きさでは、いつ破裂してもおかしくないと言う。痺れの原因は腸骨動脈瘤から来たものではないかと告げられた。
 それを聞いた途端、泣きそうになった。腸骨動脈のことは知らなかったが、骨盤近くにあり脊椎あたりから動脈は、骨盤付近で左右に分岐し、左右の脚に伸びる主要な動脈であることは画像を見て分かった。これが破裂すれば、大出血を起こし命に係わる事態になるであろうことは素人の私でもわかる。先生は、これを処置する時、開腹手術は極めて困難な場所で、ステント手術になると告げられた。
 このとき、入院は不可避で、数週間単位の入院の可能性があると悟った。私は先生に、「今ジムから着の身着のまま来ているので、とりあえずタクシーで、自宅まで戻り必要なものを取りに戻りたい」と訴えたが、無駄だった。外来のストレッチャーからベッドに移し替えられ、そのまま緊急病棟(ICU病棟?)に運び込まれ、様々な書類にサインをさせられた。スポーツシャツに短パン姿のジムの服装のまま、点滴や心電計が体に繋がれた。ベッドから降りることは許されず、小便は毎回看護師を呼んで、尿瓶にすることになった。
 ベッドは多少V字型に角度がついていて、しかも、マットがふかふかで寝返りが打ちにくく寝苦しかった。夜中に頻繁に部屋への出入りがあり各種機器のアラームがあちこちで鳴り響き寝られなかった。さらに病院近くを通る中央大通りでは暴走族が騒音をまき散らしていた。

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私の日常が別世界に変わった日々。2

2024年10月20日 23時12分40秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
予想通り、5分間待っても救急車は来なかった。今問題になっている救急車の安易な使用による混雑の影響なのだろう。それからしばらくして救急車が来た。車いすを救急車のそばに持って行った。その時、車いすの周囲にいて、私をサポートしていただいたスポーツセンター関係者にお礼を言った。
私は、車いすからストレッチャーに乗り替えてから、そのまま救急車の社内に入れられ、後ろの扉が閉められた。
救急車は、長い時間停止したままだった。その間、先ず救急隊員から、詳しいそれまでのいきさつと病状の説明を求められ、それに答えた。左側の大臀部からハムストリングにかけての強烈な経験したことのない足の痺れと力が入らない状況は、全く改善しておらずいなかった。痛みはなく、左足ふくらはぎの下肢や足首には麻痺はなく、右足は、全く異変はなかった。

救急隊員は、救急車停止期間中に市内の多くの救急病院とやり取りしているようだった。「法円坂もダメだった」と、がっかりした会話が聞こえた。法円坂に病院があったのかなと思った。その後もしばらくいろんな病院とやり取りしているようだが、話の内容は聞こえてこないので、車内で不安な時間だけが過ぎた。やっと、国立医療センターが、外来診療だけなら診察すると言っているが、入院できず帰りは自分で帰宅することになるが、どうかと聞かれた。私には選択の余地はなく、「それで結構です」と返事した。診察を受けた後は、タクシーで自宅に戻るしかないと思った。
 救急車は動き出すと、すぐに止まった。多分中央大通りを法円坂方向に向かって走り出したのだろうが、「5・10日」と夕方の渋滞に巻き込まれていたようだ。かなり長い時間がたって、やっと国立大阪医療センターの救命救急室に入り、ストレッチャーのまま診察室に入り、病院のストレッチャーに移し替えられた。そこで、しばらく救急隊員から病院に引継ぎが行われ、救急車は帰った。
 すぐに、担当の看護師により症状を聞かれ検温や血圧測定が行われ、診察後は、帰宅してもらいますというようなことを念押しされたような記憶がある。(思い込みかもしれないが)それから診察を受けるまで長い時間待った。
 その間、帰りはどうしようかと考えていた。外の景色は、全くわからず、法円坂のどの辺にいるのもわからなかった。ただ昔の谷町4丁目にある国立大阪病院らしいことは、分かったので、帰りは地下鉄でジムまで帰り、そこから自転車で家に戻ろうと思っていた。
 病院のストレッチャーに乗せられている間も、ジムで運動している衣服のままだった。(半袖のスポーツシャツに短パン姿。)待っている間に、靴だけは運動靴をリュックに収め、家からジムに行くときの外出用の靴に履き替えていた。
 左足の状態に、回復の兆しはなかった。
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私の日常が別世界に変わった日々。1

2024年10月19日 22時22分39秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
2024年9月25日水曜日、いつものようにジムでの30分間のストレッチのレッスンのあと、ジムの受付横にある長椅子で一息ついてから、トレッドミル(ランニングマシン)に向かった。
最近ランニングができなくなっていたので、先ず競歩のように時速6kmで30分歩ける筋肉と持久力をつけて、時速7kmから8kmのランニングができる体力をつけようとしていて、この日のウオーキングもそのトレーニングのひとつと考えていた。

それまで、5月6月は、トレッドミルのハンドル(脈拍測定バー)を持ったり離したりしながら時速6kmから9kmの範囲で30分間休まず歩いたり走ったりしていて、時速8kmなら1分間は、ハンドルを持たずに走ることができた。しかし7月8月は無冷暖房の我が家の環境を考え、オーバーワークによる過労(早朝でも常時31℃以上の室温のため、暑さで疲労回復できない。)防止のため、時速5.5kmから6.2kmで2-30分間歩くようにしていた。この夏9月も猛暑が続いていたが下旬になり、気温も下がり、我が家の室温も30℃を切るようになったのでので、歩くスピードを上げ、ランニングできるようにしたいと考えていた。

この日も、トレッドミルで時速5.5km~6.5kmのインタバルのウオーキングを行って5-6分過ぎたころ、急に左足に異変を感じ、ウオーキングを止め受付横のベンチに座った。左臀部からハムストリングにかけて、しびれだしその痺れは、時間とともに強くなった。いたたまれずエレベーターホール横のマットを置いてあるスペースに移動することにした。しかし左足に力が入らない。壁伝いに壁に寄りかかりながら歩きエレベーターホール横のマットにうつ伏せになりながら倒れこんだ。不気味な足の痺れは強くなった。
 30分ほどたったころ尿意を催した。立とうとしたが、左足に力が入らないことに愕然とした。何か体内で大変なことが起きているのかもしれないと考えた。とにかく壁につかまりながら動きにくい左足を引きずりながらトイレまで行った。途中2mほどの廊下を横切れるか不安だったが、右足を軸にして廊下を渡った。小用を済ませ再びマットの上にうつ伏せになった。
 それから10分たっても良くなることは無く、激しい痺れは続いた。今私の体の中でただならぬことが起きている事を改めて認識した。必死に立ち上がり、意を決して壁伝いに受付に行って状況を説明しイ、ンストラクターのk氏に救急車の手配を依頼した。
K氏は事務所と連絡おとり、救急車が来ることになった。スポーツセンターの車いすが運ばれてきて載せられた。更衣室のロッカーから私の持ち物をすべて出し、私の膝に乗せられた。その後スポーツセンターの玄関で救急車を待った。その間膝の上の私の荷物をすべてリュックの中に詰め込んだ。救急車が到着するまで少し待った。運動時の半袖短パンのトレーニング姿のまま救急車を待った。足の痺れは変わらなかった。

着の身着のままの状態で、持ち物は食材買い出しのための財布だけで、スマホもない。これを考えた時に、今自分が置かれている状況が、貧困の独居老人で頼る人がいない現実の中で、突然の身体の大きな異変に遭遇して日常生活に大きな影響がありそうなことが自分の身に起きていることの意味を改めてかみしめた。
こうなれば、まな板の上の鯉でしかない。自分では、何もできない。すべて成行きに任せるしかないので心配しないことにした。連絡先は、警察(交番の地域住民調査)の巡回の時に話してあるが、連絡先は高齢なので動けないだろうし、とても頼れないと考えているので、通常の場合緊急連絡先はなしにしている。とにかくすべて自分で処理するしかない。
続く
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