朝日新聞の記事で、
経産省官僚のブログでの発言(http://digital.asahi.com/articles/TKY201309250648.html?ref=comkiji_txt_end_kjid_TKY201309250648)が問題になっていることが報じられていた。
官僚のこの手の発言は、以前にもあった。
その度に、公務員は公僕であること忘れるな、官僚としての高い倫理意識や志を持て、といった意見が出る。
私は、その意見には賛成だが、今までの体験から同時に違った見方も持っている。
私は、仕事やプライベートで、一流大学出身の、経営幹部やマスコミ関係者を伴侶とする人や、その他、いわゆる社会的に地位もあり経済的にも豊かないわゆるエリートと呼ばれる何人もの人たちと、友人知人や仕事関係者として話した経験がある。(現在の友人知人ではありません)
ただ、一流大学を出ても経済的に貧しければエリートとはいえないだろう。
また、今の世の中では、博士号や弁護士といった資格を持っていても貧しい人が少なからずいるという。
このような、エリートの人たちと付き合っていて、ある程度親しくなると彼らの本音が出てくる。
そうした人の中には、わざと差別用語を自慢げに使う人も何人かいた。
私は、驚いたが、学歴も資産もない私を仲間と見ているのか分からなかったが、そうした意見に賛同も出来ず、うなずくいたり、仕事上や、友人知人関係を壊さないために、意に反して相槌を打ったこともある。
そのような人たちは、人前で言っている言動と、相手を仲間と見たときの打ち解けた話とは全く違い、みんなの前ではいえないけど・・・という前置きの話が多く、隠語もつかう。
しとやかに見える人でも、内心強烈なエリート意識・差別意識を持っている人もいる。
たとえば、40代の頃ある裕福な人は、私との別れ際に「あなたとは、住む世界が違う」といったが、バブル崩壊後どうなっているだろう。(恋愛関係や、あこがれもない、単なる友人知人であっただけに、なぜそんな差別的なことを言ったのか<言われる心当たりや筋合いも無いが>わからない。)
すこし前にも、週刊朝日の差別記事の問題があったが、そうした関係者に差別的考えや強いエリート意識を持った人がいるらしいことを知っていたので、その時はやはりとおもい、驚かなかった。
私は、こういう人を見下す人は、いつの世にも一定割合いると思っている。
そういう人は、官僚やジャーナリストには不適だと思うしなるべきではない。
ただ、そういう差別意識、エリート意識を持っている人は、他人の痛みを感じない人が多いし差別意識に罪悪感は持っておらず、そういうことに本人達は気付いていないのかもしれない。
人権問題や差別の問題は、知識として知っていても自分のこととして思っていないようだ。
ついでの話だが、こういうことを言うと嫌われるのだが、私は多くの学校の教員の方や美術団体のリーダー的方々や先生方及び、会社の経営者の方と接することが多かったが、専門外のことでも指導的に(偉そうに)発言する人が少なからずいるようだ。
各人の専門分野に関しては、指導する場合は当然上から目線が当たり前で、偉そうに発言し指導しても、何も問題ない。
ところが、中には少ないが、専門以外のことでも上から目線の態度が見え隠れすることがある。
俺のほうが多くのことを知っているから、おれの指導に従えというような姿勢が見える人がいるのだ。
専門分野はそうであっても、全人格的にその人が勝っていて人を、指導できるという保証はない。。
更に極端なことを言えば、私は、科学系以外の文化芸術、特に芸術に関しては、真理というものは無いと思っていて、人間の価値観により評価は大きく変わるのである。(哲学系は別)
人文系の学問は、それに与えられた条件の範囲での真理を追究していると考えている。
例えば、歴史観にしても、同じ事実を取り上げても個人・民族・国家の価値観の違いで評価は大きく違うことは、紛れもない事実であり、国際紛争にまで発展している。
考古学等の多くの範囲は、自然科学と同じ方法を取り入れているので、発掘や分析結果は、人間の価値観により評価が変わることは少ないが、考古学の事実をどう解釈するかの判断は、人間の価値観が入るので、邪馬台国論争のようなことが起きる。
これに関する問題は、文化人類学的視点やサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」で指摘されていることを見れば明白である。
芸術に対する見方もそうである。
ある人は、工芸・工芸的作品を軽視し、ある人は現代美術を軽視または無視をする。
このように、ある人にとって大切なことや興味あることでも、他の人にとっては気にもかけないことかもしれないのだ。
個人、社会(グループ・職場・学校・地域・民族)、で様々な価値観が違うのであり、各人の専門以外のことに関しては、上から目線でなく対等の立場で、接するなり議論すべきだろう。
議論を重ねれば、どの分野でどの人が造詣が深いかおのずと見えてきて、風通しのよいグループであれば、造詣の深い人が、年齢性別肩書きや社会的地位に係わらず、リーダーシップをとるようになる。
風通しの悪いグループは、肩書き・社会的地位、年齢、学歴、性別、といった様々な要素の価値観による権威主義が幅をきかし、議論は停滞する。
エリートの思い上がりは、自分の考えだけが正しいと信じ、周囲や全体が見えていないことに起因する。
ある意味「裸の王様」的であり、わがままで他者のことや周囲の環境に想像が及ばない、非常に子供っぽい世界の理解の仕方をしているといえる。
この問題は、最近話題の降板した有名キャスターの、マスコミで報じられるその後の言動にも(それが事実であれば)、共通するのかもしれない。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより 美術芸術や健康や情報機関関係もリンクグループ化しています。