この日はブログを追加修正したり、食材の買い出しに行ったり、副食製造をしたり、と断片的な作業を効率悪く、だらだらと行った。
昼頃に、珍しく電話があったので取った。
普段は、ほぼ98%は、売り込みか、アンケートの電話なので、放置しておくことが多い。
留守番電話を入れてあるので、本当に必要な要件であれば、留守電にコメントを残すだろう。
この日は珍しく、迷惑電話と思いつつも電話を取った。
すると、電話の主は、高卒後20代の間、私が10年間務めた会社E社(当時の社名は、社長や専務の氏名である田葉井製作所だった。)の仲間のFだった。
多分、1-2年ぶりの電話だ。
彼は、会社E社を、親戚の事業を手伝うという理由で私より数年早くやめたが、年齢は近く(確か同学年か1年年下)現場の管理職をしていた。
業務上、設計と製造の打ち合わせの会議でよくFと顔を合わせて議論していたので、気心は知れていた。
彼とは仕事以外、労働組合の設立に関し、最初に話を持ち掛けた一人である。
というのは、組合設立前年に、私は会社からの指名(毎年交代制)で、技術部代表として給与委員会の委員をさせられていて、委員の互選で私が給与委員長になった。
その時、Fは製造部の板金班代表で会社から指名されていた。
給与委員会には、経理担当者や総務課長も参加していた。
給与委員会は、春の賃上げの額を会社に答申するのが仕事で、それに向け毎月1回会社の業績の勉強会を開くことになっていた。
さて賃上げの話になると、会社側は、関経連の業種・年齢別の賃金表を持ち出していた。
それでいくと、給料は上がらない。
私は、組合側の資料がないとおかしいという話をし、みんなで組合側の話を聞くため、当時の民社党系の全金同盟に行った。
その時、当然総務課長や経理の担当者も、メンバーとしてついてきた。(首になるのではないかと怖かったし、覚悟もしていた。)
その結果全金同盟の賃金資料を、関経連の賃金資料を比較しながら検討し、確か10%近い賃上げを提案し、実現した。(当然のことながら総務課長<=経理・人事・総務の管理>の意向が強く反映されていた。)
しかし、当時多くの組合を持つ大企業は、10%から20%以上の賃上げを実現していた。
その翌年は、毎年交代制なので、私は給与委員会の資格は解かれ、新しい給与委員長は、溶接係のW氏(彼は大卒で、熱心なクリスチャン。当時溶接といった現場作業は中卒・高卒の仕事で、大卒で現場作業をする人は、まずいなかった。)に決まった。
翌年、大企業が軒並み20%以上の賃上げをしていたが、W氏がまとめた賃上げは、世間の半分以下の賃上げとなった。
ただでさえ、低賃金で離職者が多いのに、このまま会社にいても望みはないと思い、昼休みに会社の屋上でF氏と話し合った。
結局、組合を作るか、会社を辞めるかという話になった。
その後、F氏が製造の元給与委員を集め、同じようなことを話し合い、とりあえず組合を作ってみることにした。
私は、事前に全金同盟の前回会った地協の幹部と面会の予約を取った。
当日、総務・経理・営業を除く元給与委員が、用事を口実に残業を止め、秘密に社外で合流し、以前訪問したことのある全金同盟に行った。
一度しか顔合わせをしたことのない、全金同盟の地協幹部とそれこそ解雇覚悟の面談を行った。
はじめは、会社の状況や参加者の割合等を聞かれたように記憶している。
賛同者が、あまりに少ないと失敗するし、組合を作っても実績が上がらないということを念押しされた。
みんな、失敗すれば会社を辞める覚悟だったし、失敗した場合全金同盟で身の振り方(就職先等)を保証してほしいと話し組合の了承を得たので、その場で全金同盟の地区協議会幹部と一緒に、組合結成の計画を練った。
その当時、会社は全社員加盟の親睦会を組織していて、その下に給与委員会、労働委員会、・・親睦会等の委員会が組織されていた。
一番の問題点は、参加者の署名を集めることだった。
この時に会社側に、漏れる可能性が一番強い。
組合結成大会の日、上司に見られないよう署名簿が回された。
設計では、机の下から部長や課長や係長に見られないよう、タイミングを見計らいながら、署名簿がまわされた。
夕方になり、組合に参加する人は用事があると上司に告げ、てんでんばらばらに、会社を出た。
しばらくすると、同盟会館に向かう道に長い行列ができていた。
全金同盟で結成大会が開かれた。
全社員の四分の一程度?が参加した。
組合長をW氏に指名しFが副組合長、私が書記長についた。
翌朝緊張した面持ちで、会社入り口で全金同盟の地協幹部と合流し、始業後、社長室に入った。
会社は、大慌てだった。
組合結成情報は、漏れていなかったと思った。(実際には総務課長の指示で、経理担当者が、会社スパイとして組合の会計担当として入れられていたことが、本人が退職する前に明らかにされた。彼は組合設立総会の時に自分で立候補していた。)
翌日の朝礼(全社員集まって朝礼する)で、社長が今後も親睦会の給与委員会で給料をきめることに変わりないので、そのまま親睦会を中心に参加するようにと訓示した。
朝礼後、組合幹部はすぐに全金同盟と連絡を取り、組合つぶしの報告をし、その後の行動の指示を受けた。
確か、その後組合幹部は職場に戻らず、全金同盟幹部の指示に従い、会社入り口で全金同盟幹部の到着を待った。
すぐに全金同盟幹部が駆け付け、社長室に行き社長を含む会社役員と面談し、組合つぶしは重大な法令違反であることを伝え、もし強行するなら組織を挙げて戦うつもりであるという意味のことを伝え、会社に組合を認知させ、組合活動が始まった。
この時、オーナーで現場のガラス職人<普段からカブを乗り回し理化学機器のガラス製品製造の仕事をしていて、ある意味私も尊敬していた。>でもある高齢の普段おとなしい社長は、怒鳴り散らし激高していたが、それを弟の専務以下会社役員がとりなしていた。
その後も朝礼で社長が、組合はあるが実績のある運命共同体の親睦会があるので、みんな親睦会を中心に活動してほしい、というような訓示を数回行い、そのたびに全金同盟に連絡し不当労働行為を行わないよう申し入れし、その後、そうした呼びかけは無くなったが、会社側も組合の様子を見ていたようだ。
後日話し合いで、社内の空き部屋を会社が提供し、組合事務所が設けられた。(確か、単独の部屋ではなく、当時の食堂兼集会所を組合事務所としても使用してよいということだった。)
組合設立の翌年の春闘では、ストライキ決行を決議し、地協の応援を得て、地域の全金同盟傘下の組合旗が入り口にずらりと並べられ、昼休み後から始まるストライキに向け労働歌が流され、組合員は全員鉢巻をして待機し、騒然とした雰囲気となった。
スト決行直前に、会社役員が来て、団体交渉に応じるということになり、スト中止指令を出してから深夜まで話し合い、25%の賃上げや時短(週休5日制に近づける)といったことを勝ち取った。
その代わり、組合は会社の合理化に協力するということになった。(人員削減とかの合理化ではない。)
翌日は、普段通りの設計業務についたが、居眠りをしたり、鉛筆の芯を折ったりして、仕事にならなかったし、Fも現場で仕事にならなかったと言っていた。
その後、翌年の第1回目の組合定期大会を開く時に、「議事録」で大変な目にあったことを、以前昨日記に書いた覚えがある。
冒頭で、書いた電話のあったF氏は上記の荒波を一緒に潜り抜けた仲間である。
その後勤めていた会社E社は東証一部上場企業となり、社員株主の中には、金持ちになった人もいるとのうわさがあり、当時の上司だった人達や同僚後輩は、取締役や会社幹部や系列会社の役員になった。(会社が不景気の時にボーナスが払えず、株券で支給し、希望者には後日会社が株券を買い戻すことになっていた。また当時株を買い増すことは自由であった。会社退職時は会社が株を買い取ることになっていたが、持っていてもよいということだったので、私はE社の株を持っていた。
その後も会社は社員株主を優遇し、多くの株を持つ社員もいて、そういう人たちは、株式上場後は多額の資産を得たことになる。<額面50円が1000円以上になった。>会社が大阪証券取引所2部に上場したのは会社を辞めてから確か10年ぐらい後だった。その後は大証1部から東証1部上場の大企業になった。私が高卒でこの会社に入社した時は、従業員100数十人の町工場だった。
会社を辞めるころには、<自分で自慢するのもいかがなものかと思うが、しかし、何も言わなければ誰も知らないので言うが、>それなりの設計開発技術者になっていたと自負しているが、その能力はこの会社で磨き上げたもので感謝している。。
((参考:30代になって10年間務めた食品関連機械(F社)の会社では、前の会社で培った技術を多方面(冷凍・電子制御・計測(温度制御)・電気設計・板金設計・電気炉設計・大型乾燥機設計・製造工程を含む品質管理 コーヒー抽出の研究)にわたり駆使し、製造工程の改良・不良品の大幅削減や生産性の向上や、特許をとれる新技術<高温制御による高圧コントロール・・>を使った新製品の開発を行った。これらの技術は20代の時に勤めていた、E社で学び創り上げた技術が生かされている。))
E社で組合設立に加わった者は、会社から冷遇されたわけでもなく、幹部候補として期待されていたものも多かったが、なぜか10年程度で会社を辞めた。
私も、会社を辞めた翌年、その会社が関係する業界団体の展示会を見に行った時、元の上司から私の席を空けていると言われた。
私が他社からの引き抜きにあったと思っていた、ということだった。
余談になったが、F氏とは電話で当時の組合関係者の話や身の回りのよもやま話をした。
昔はよかった、話をしだすと、年を取った証拠でもあるので、これでやめておく。
電話で昔を思い出し興奮したが、この日は、全体的に何もすることなくばらばらに家事をしたり、TVを見たりして、さえない日であった。
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