年末になると、母はガラス障子を拭き、神棚や仏壇をきれいに拭いていた。
それから、門松、注連縄、鏡餅その他の正月飾りを買い込み飾っていた。
餅つきは、我が家の年末の恒例行事だった。
私が子供の頃は、餅つきは多くの家庭でやっていた。
父が元気な時は、我が家でも暮れになると、餅をつき、鏡餅や、普通の餅や青海苔や黒豆や海老の入った餅を作った。
母が作った餡があまり美味しくなかったので、あんこ餅は好きではなかった。
市販の餡入りの餅や和菓子は大好きである。(今思うと母の餡子餅は砂糖の量が少なかったように思う。)
餅つきのときは、羽釜にせいろをセットし餅米を蒸す。
蒸しあがると、石臼に移し、杵で餅米を練る。
ある程度満遍なく練って粘りが出ると、いよいよ餅つきだ。
餅を反すのは、母の仕事だった。
子供の頃は、兄と父の二人で餅をついていたが、私が成長すると、私も持ちつきに加わった。
事前に餅箱に片栗粉を敷いて準備しておき、餅がつき上がるとすばやく餅箱に入れ、家族で餅箱の周囲を囲み、餅をちぎって丸めて、丸餅にして並べるのだが、最初は必ずお鏡餅を作った。
神棚と仏壇と水神様の3個のお供え用の、鏡餅を作った。
私がサラリーマンになり、家庭内出の発言力が増すにつれ、私は正月スキーにいったりした。
そして兄が転勤でいなくなっても、しばらく持ちつきは続いたが、いつの頃からかやらなくなった。
多分石臼を裏庭から玄関へ持って来れなくなったためではないかと思う。
父の力がなければ、私一人で石臼は動かせないのだ。
それに餅を食べる人が少なくなり、餅がいつまでも残る。
正月を迎えると、両親がいた時は、元旦に神棚を拝み、家族揃って、父親の「おめでとうございます」の一言でお酒を一口飲んで新年のお祝いしてから、雑煮を食べていた。
そのときお酒も飲むので、元旦の朝は、ほろ酔いでコタツに入ってうたた寝していることが多かった。
子供の頃は、近くに叔父さんの家があったので、叔父さんが来てお年玉をくれたように記憶している。
正月は、童謡の詞どおり、凧揚げやこま回しに熱中したし、女の子は新しい羽子板を買い羽付をしていた。
近くの氏神様への参拝も子供にとっては、屋台めぐりでわくわくしていた。
今は、そんな懐かしい光景もほとんど見かけない。
それから、門松、注連縄、鏡餅その他の正月飾りを買い込み飾っていた。
餅つきは、我が家の年末の恒例行事だった。
私が子供の頃は、餅つきは多くの家庭でやっていた。
父が元気な時は、我が家でも暮れになると、餅をつき、鏡餅や、普通の餅や青海苔や黒豆や海老の入った餅を作った。
母が作った餡があまり美味しくなかったので、あんこ餅は好きではなかった。
市販の餡入りの餅や和菓子は大好きである。(今思うと母の餡子餅は砂糖の量が少なかったように思う。)
餅つきのときは、羽釜にせいろをセットし餅米を蒸す。
蒸しあがると、石臼に移し、杵で餅米を練る。
ある程度満遍なく練って粘りが出ると、いよいよ餅つきだ。
餅を反すのは、母の仕事だった。
子供の頃は、兄と父の二人で餅をついていたが、私が成長すると、私も持ちつきに加わった。
事前に餅箱に片栗粉を敷いて準備しておき、餅がつき上がるとすばやく餅箱に入れ、家族で餅箱の周囲を囲み、餅をちぎって丸めて、丸餅にして並べるのだが、最初は必ずお鏡餅を作った。
神棚と仏壇と水神様の3個のお供え用の、鏡餅を作った。
私がサラリーマンになり、家庭内出の発言力が増すにつれ、私は正月スキーにいったりした。
そして兄が転勤でいなくなっても、しばらく持ちつきは続いたが、いつの頃からかやらなくなった。
多分石臼を裏庭から玄関へ持って来れなくなったためではないかと思う。
父の力がなければ、私一人で石臼は動かせないのだ。
それに餅を食べる人が少なくなり、餅がいつまでも残る。
正月を迎えると、両親がいた時は、元旦に神棚を拝み、家族揃って、父親の「おめでとうございます」の一言でお酒を一口飲んで新年のお祝いしてから、雑煮を食べていた。
そのときお酒も飲むので、元旦の朝は、ほろ酔いでコタツに入ってうたた寝していることが多かった。
子供の頃は、近くに叔父さんの家があったので、叔父さんが来てお年玉をくれたように記憶している。
正月は、童謡の詞どおり、凧揚げやこま回しに熱中したし、女の子は新しい羽子板を買い羽付をしていた。
近くの氏神様への参拝も子供にとっては、屋台めぐりでわくわくしていた。
今は、そんな懐かしい光景もほとんど見かけない。