イノダコーヒー本店で朝食を済ませ、この日は人力車で嵯峨野をめぐることにした。
この人力車の旅は4年振り(2017-10-2付ブログ京都の旅その3 嵯峨野竹林の旅参照)だが、
今回は思い切って2時間貸切りのいにしえの旅にした。
嵐山渡月橋のたもと車折神社に事務所を構えている総本店えびす屋さんにお願いした。
当社は1993年3月創業で現在全国展開中だ。
彼が今回お世話になった勝木翔馬君。
地元京都出身の好青年で彼のお陰で素晴らしい嵯峨野の旅ができた。
彼は府立洛北高という超進学校の出身で、えびす屋の俥夫を7年もやっているベテランだった。
前回もそうだったが、最初のビューポイントは「竹の小径」という竹林エリア。
入口の所は歩行者と同じ道を進むが、途中から安全のため人力車と歩行者の道は分かれる。
この人力車用のバイパスみたいな道は竹林の素晴らしさを独占できリッチな気分になる。
ここで「えびす屋」さんのPRをすると、ガイドブックには載っていない
地元スタッフならではの穴場を季節に合わせて案内してくれる。
その地域の観光大使のような存在でありたいがコンセプト。
彼、勝木君はそれを絵に画いたような俥夫であった。
ここ野々宮神社は天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所。
黒木鳥居と小柴垣に囲まれた清浄の地を選んで大同4年(809年)に創建された。
その様子は源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。
主祭神は野宮大神(天照皇大神)で学問・恋愛成就・子宝安産等のご利益があるとか。
野乃宮神社を過ぎるとJR山陽本線、そしてトロッコ列車に乗れる嵯峨野観光線の踏切りに出る。
コロナ禍前のインバウンド客が大勢来た頃は
外国人がみだりに立ち入ってトラブルがあったと勝木君が言っていた。
踏切りを渡るとまたまた竹林の散策路に出る。
えびす屋の俥夫が着ているTシャツはその土地にまつわる文字が背中に入った衣装を着るとか。
この地は「嵐」だった。
「嵐山の嵐」と「ジャニーズの嵐」をかけて命名したのか?
この竹林の散策路はご覧のように立派な竹林なのに意外と人が来ていない。
この竹林は2015年秋に新たな観光スポットとして登場したばかりで、
まだあまり知られていないのかも?
ここの竹は孟宗林が多く、根元に竹の皮が付いている竹は今年生えたものとか。
因みにもう一つの竹林コースは野乃宮神社から大河内山荘に向かう方にあるらしい。
3枚目の写真はここのフォトスポットで皆俥夫が写真を撮ってくれる場所となっている。
そういえば4年前アルゼンチンから来日したアレ君ともここで撮ったっけ。
この一枚は勝木君が撮ったプロテクニックの一枚。
その撮り方はデジカメを竹の幹に当ててシャッターを押していた。
見ていて「ヘー」だ。
次に向かったのは清凉寺。
清凉寺の創建は寛和3年(987年)奝然によって開基。
浄土宗のお寺で山号は五台山。
嵯峨釈迦堂の名で知られ、本尊は国宝の釈迦如来だ。
宗派は初め華厳宗として開山し、その後、天台、真言、念仏宗を兼ね、
室町時代より「融通念仏の道場」として発展した。
当寺には第58代衆議院議長の前尾繁三郎のお墓がある。
ここで俥夫・勝木君が記念写真を撮ってくれた。
だいたいコースのフォトスポットは決まっているようでその都度撮ってくれる。
それにしても勝木君は学生時代ラグビーをやっていたというが
足の太ももとふくらはぎのすごいこと。
嵐山コースは坂が多いので太くなったと言っていた。
えびす屋の俥夫のニックネームは「えびすけ」。
口癖は「顔晴ります(ガンバリマス)!」ですって。
清凉寺の斜め隣りにある宝筐院(ほうきょういん)。
ここは平安時代、白河天皇の勅願寺として建てられた。
当院は秋の紅葉と南北朝時代の将軍の首塚で有名な臨済宗の単立寺院だ。
室町幕府2代将軍・足利義詮と南朝の筆頭武将・楠木正行の菩提寺という寺伝がある。
勝木君曰く「ここは紅葉の穴場でオススメ」と言っていた。
そもそも嵯峨野は京都市内ではなく貴族公家の別荘地帯。
その流れ、歴史を汲んでか、今でも静かで落ち着いた髙級豪邸が立ち並ぶエリアだと
人力車に乗ってゆっくり説明を受けるとよくわかった。
また、高級住宅街をちょっといくと自然あふれる田園地帯にも出る。
やはり京都の市街地とは違う素晴らしい風景を見ることができる。
ここがまた1つ京都の魅力的なところだ。
このこんもりした森の奥が、作家・瀬戸内寂聴が開いた寺院、曼陀羅山寂庵がある。
寂聴さんは今年99歳。
僧位は権大僧正だ。
このことは俥夫の説明がなければわからない。
嵯峨野は京都市街地の西北に当たり、最も奥に鳥居本がある。
保存地区は清滝を経て愛宕神社へ通じる愛宕街道に沿った約600メートルの範囲で、
仏野念仏寺の参道があり、奥に愛宕神社の鳥居が建つ。
ここは茅葺で農家風の建物と瓦葺で町屋風の建物が混在し、
洛外のひなびた伝統的建造物群の保存地区になっている。
因みに京都にはここをはじめ産寧坂地区、祇園新橋地区、上賀茂地区の4地区が
国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けている。
この道標と簡単な地図を見るとこの辺り一帯の感じがわかるのでは・・・。
各お寺名の下に英語で書かれてある所が国際観光都市京都の状況を伝えている。
ここ檀林寺は承和年間(834年~838年)に創建された真言宗系単立寺で
京都で最初の禅寺で12の塔頭を持つ壮大な寺院だったが、
平安初期の仏教文化の一中心地でしたが平安中期に廃絶になってしまった。
昭和39年に再興したが平安期の檀林寺とは関係がない。
実質的には骨董屋というユニークな門跡なのだそうだ。
1200年の時を越えて美しい景観に包まれた天台宗の寺院。
百人一首にも詠われた小倉山の麓に広がるこの寺は、
紅葉の名所として名高く、四季それぞれの情景は絶景。
本尊・釈迦如来・阿弥陀如来の二如来を祀ることから二尊院と称された。
承知年間(834年~848年)慈覚大師円仁が開基。
応仁・文明の乱のあと法然の弟子湛空が再興した。
この総門は慶長18年(1613年)伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたもの。
尚、ここには角倉了以、素庵父子の墓、鷹司家の墓、
四条家、三条家、二条家の墓、そして阪東妻三郎、田村高広親子の墓もある。
二尊院から常寂光寺に向かう途中にちょうど蓮の花が咲いていたかなり広い池に遭遇。
そして池の所にはカメラマンがシャッターを押していた。
常寂光寺参拝を終え、いよいよ人力車の旅も終盤に入った所で
「MUSEUM 李朝」というミュージアムの前を通った。
ここはどうやら韓国の美術館のようだが、
なぜか土佐四天王といわれた坂本龍馬、中岡慎太郎、
武市瑞山、吉村寅太郎の像が入口の所にあった。
ここ落柿舎(らくししゃ)は松尾芭蕉の弟子・向井去来の別荘として使われていた場所で、
その名の由来は庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによる。
芭蕉も3度訪れて滞在をし「嵯峨日記」を著した場所としても知られている。
現在の庵は明和7年(1770年)に俳人・井上重馬により再建されたもの。
この庵の裏手には去来の墓がある。
ここも久し振りだったので是非寄ってみたかったが、
人力車の時間切れということで今後の宿題となった。
意外や意外。
この落柿舎の奥の山が8月16日に行われる京都五山の送り火の
最後に点火される鳥居形の曼茶羅山だ。
いよいよ帰路につく。
道中いろいろ注文した為、約20分のタイムオーバー。
たった2時間20分といえばそれまでだが、彼とは一期一会、
変な友情みたいなものが芽生えていた。
ランチのお店の推薦情報ももらい、とても充実した人力車の旅であった。