神足勝記は熊本藩の貢進生として上京した人としても知られています。
勝記が藩よりその内命を受けたとき、母は「進んて奉命の意あり」でしたが、しかし「親戚一同か異議を唱へし為め、やや躊躇の色ありしも、神足勘十郎氏の懇切なる賛奨に因り、先妣は意を決し、衆議を排して敢然命を奉し、勝記を上京せしめたり」(『回顧録』)と書いています。
のちの勝記を知れば、母の決意は勝記にとって感謝してもしきれなかったことがよく理解できます。そして、その母の決意を促した勘十郎の存在も大きかったと言わなければならないでしょう。
上の写真は、昨日の母伊喜の写真と同様、神足勝文様より借用した文書類の中の封筒に小分けして入っていたものです。封筒には「神足勘十郎」とあるのみですが、左の人が「神足勘十郎」です。右は誰かというと、封筒に「神足勘十郎」の写真が入っていることがわかればよい人、あえて名前を記すまでもない人、つまり所持者「勝記」です。
神足勘十郎は、西南戦争で熊本城に籠城して戦死した「神足大警部」として知られた人で、西南戦争に関するたいがいの本に書かれる有名人です。勝記は、定年後の昭和4年に、自分の日記から「神足勘十郎氏に関する自分日記抜粋」をおこない、また「明治十年役警視隊熊本籠城日注抜記」などを作って勘十郎の事歴を書き残す作業をしています。ここではこれを略しますが、勝記は勘十郎を評して「父の如し」(『勝記日記』6年9月1日)と言い、「剛毅実直の士にして実学派米田監物・横井平四郎・津田山三郎等と交り、常に勤王開国を主唱し、維新の際、夙に洋式軍隊の修練に努め、因循姑息の群議を排して坪井党の士気鼓舞に努力せり」(『神足家系録関係(家族親族事歴)』と書き残しています。
上の写真の撮影時期は不明です。封筒に記載がなく、勝記日記にも見つからないからです。服装を見ると、勘十郎は正装にも見えますが、勝記は平服ですから、勘十郎が思い立って撮影を言い出したということでしょうか。
勘十郎が上京するのが明治6年。その後何回か熊本へ帰省していますが、大きな別れとなるのは、明治9年の熊本神風連の乱と10年の西南戦争の2回です。しかし、どちらもゆっくりと別れを惜しんだ気配がありません。いま、とくに根拠はありませんが、10年とすれば、勝記は1854年生まれですから、23・4歳ころとなります。それでも、私が知る限り、これが勝記の最も若い時期の写真となります。
この写真は、勝記の写真としても、勘十郎の写真としても、貴重なものです。なお、劣化対策として撮られたとみられる勘十郎の顔部分だけのコピー写真も入っていました。これも機会がありましたら紹介することにしましょう。