神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

神足勝記と品川弥二郎

2023-12-02 23:03:53 | 勝記日記

 神足勝記の恩人といえば、貢進生に推挙した兼阪熊四郎・母伊喜・姉久尾・叔父神足勘十郎・・・そして何番目かはわかりませんが、品川弥二郎が入るでしょう。

 写真は、東京都千代田区北の丸公園の田安門に向かって右の堀脇に立つ品川の像です。コロナ蔓延の前、宮内公文書館に閲覧に行った帰り、夕暮れの桜の中に立つ品川のシルエットに気づいて撮ったものです。品川の屋敷はこのあたりにあったとのことです。

 明治40年12月10日、神足は、明治26年から40年の間におこなった本州の御料地の境界測量事業が完了したことを受けて報告書を作成し、それを局長に提出しました。そして、午後に品川の銅像の除幕式がありました。この像を見た感想を『御料局測量課長 神足勝記日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会 J-FIC)で神足は次のように書いています。

「2時20分、九段坂に安置せられたる卿の銅像除幕せられ、恰も生ける子爵に酷似  せる銅像顕れ、一同礼拝。三時過式終る。余、卿の眷顧を蒙る浅からす、本州御料地測量完了を報告するの今日、恰も卿銅像の除幕式に遭ふ。卿に報告するの思ひあり。又、偶然にあらさるへし。」

 「生ける子爵に酷似」・「卿に報告するの思ひあり」と述べていますが、同感です。日記に神足は品川のことを何回か書いています。それをいくつか挙げてみましょう。

 まず、明治12年4月7日です。神足は、西南戦争で焼け出された母と姉を安心させるために上京して外国語学校の教師となりますが、この就職は自分の素志ではなかったので品川に斡旋を依頼して工部省鉱山局に転職し、阿仁鉱山分局に赴任することになります。

 ただし、従来、神足が工部省に入ったことをもっていかにも重要な役割を果たしたかにいう議論がありますが、それは間違いです。『日記』によれば、4月7日発令、4月14日阿仁へ出発、5月3日到着、5月23日阿仁を出発、6月2日帰京、6月30日辞表提出、7月10日依願解雇となっています。つまり、発令から解雇までで3ヶ月、出発から帰京までで1ヶ月半、現地滞在20日ですから、いわゆる「使用期間」にも満たないほどだったことがわかります。わからないものは「わからない」としないと、重大な誤りを犯すことになります。

 つぎは、同年12月11日です。工部省を退職した神足は、この日、品川の斡旋で内務省に就職します。そして(細かい経緯は略しますが)品川を局長、和田維四郎を所長とする全国調査事業での功績から、抜擢されて神足は御料局測量課長になるわけです。

 最後は、明治33年2月26日の品川の死亡です。これについては、同27日に長い回顧文がありますから、それに譲りましょう。『日記』の明治26年7月4日のところ品川の揮毫「信与誠」を入れておきました。神足は、終生、品川のこの言葉を忘れることはなかったようです。

 

 

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