神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

神足勝記と池辺義象

2023-12-10 18:01:13 | 勝記日記

  

 きのうは、池辺側の意思決定には「親族会議」が重要な役割を果たしていることを紹介しました。きょうは、池辺と神足が親族としてどのようなつながりになっているかを紹介することにします。

 『御料局測量課長 神足勝日記 -林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))の明治39年9月11日の項に次のようにでてきます。

「・・・出局前、・・・池辺喜幾の病気を訪ふ。○夜、池辺義象より母の死を報す。池辺幾喜子は余母方の従姉妹、即ち加藤堯敬の姉、故池辺軍次の妻なり。」 

 この記述と、勝記の残した『神足家系録』などを頼りに、勝記の方からたどると、まず、「余母方の従姉妹」といってますから、「勝記の母伊喜と池辺幾喜の母(幾久)は姉妹」です。ただ、勝記は母伊喜を三池源十郎二女と家系録で書いていますから、幾久が長女かもしれません。しかし、伊喜の長女の誠(せい:勝記の姉)が天保2(1831)年生まれで、幾久の長女の幾喜が天保9(1838)年生まれであることからすると、伊喜が姉の可能性もあります。

 つぎに、伊喜の旧姓は三池氏ですから、幾久も三池氏のはずですが、次回とりあげる予定の戸籍の父欄には「金山」とあり、正確なつながりは不明です。この当時のことなので「養女」などの関係もあり得ます。

 幾久には、壽喜・幾喜・堯敬・千勝・チマの5人の子がいました。このうち壽喜は、『勝記日記』のどこにも見えず不明。ほかの4人はしばしば出てきます。とくに、堯敬は侍従職にいましたし、チマの夫長田足穂は医者で、勝記や家族の治療でよく駆けつけています。

 さて、幾喜は池辺軍次と結婚します。生まれた子は、上から順に源太郎・義象・松・遊亀の4人です。このうち、源太郎は次回に、また、松と遊亀は義象との関係で知られているようなので、いまこれを略します。そうすると、ようやく義象です。

 ようするに、義象は勝記の従姉妹の子、5親等の親族です。ですから、昨日書いたように、義象が小中村家に養子入籍結婚する際も、離縁離籍する場合も、親族会議が開かれたわけです。ブログですから、短くこれが結論です。

 ところで、前にこのブログで紹介した勝記の母伊喜の日記『清壽院殿御日記』を読んでいたところ、伊喜が上京して後の明治15年に次のような記述が出てきました。

 1月2日 ・・・池邉秀雄・又彦来る。

 そこで、残念ながら『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-」(日本林業調査会(J-FIC))には入っていませんが、『勝記日記』と照らし合わせると、「池邉義象・三池親信来駕」とありました。これから「秀雄は義象のことだ」と思われましたから、その目で見ていくと、1月9日「池邉秀〔雄〕来たり」、2月11日「源太郎、秀雄来る」と出てきた後、4月13日「義象来る」、4月25日「池邉源太郎、池辺義象・・・。」と出てきて、もう「秀雄」はなくなりました。

 国文分野の門外漢ですから、もうわかっていることなのかどうかも含めて、研究のことは言えませんが、『勝記日記』と『清壽院殿御日記』とから「義象の幼名」は「秀雄」と言えるのです。

 ではまた明日に。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池辺義象・小中村義象

2023-12-10 00:19:47 | 勝記日記

 

      朴

 ネットで「池辺義象」と検索すると、彼についての多くの研究業績が見られます。もちろん、ネットで全研究を知ることができるわけではありませんが、その中のおもなものとして『池辺義象氏(1861~1923年)著作目録(新訂・初稿)』が注目されましたから打ち出したところ、A4判で123枚の大研究でした(筆者は不明)。

 改訂に改訂を加えたこの研究は、私が見た2013(平成25)年も改訂中でしたが、これでわかったのは、池辺について、やはり、「国文学者としての業績」の面と、「小中村義象としてのある種の騒動の主人公」の面の二つの面があること、それについてかなり詳しくわかっているらしいということでした。(大筋では最近も変わっていないようです。)

 「やはり」というのは、『御料局測量課長 神足勝記日記ー林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会(J-FIC))の編纂過程で、この二つの面が見られたからです。

 国文学者の面は私の門外なのでいまおいて、後者の、池辺義象の小中村家への養子・婚姻と、小中村義象の離縁のことは、親族問題として登場し、そこに神足勝記ほか在京の親族・熊本人国友重章・増田于信・飯田武郷他が集まって会議をすることがしばしば『神足日記』に出て来ます。

 もちろん、各人の意見が具体的に書かれているわけではないものの、動きはよくわかります。これが歴史的に注目されるべきことらいしいことが上記の研究などからもわかるので、削らずにすべて残してあります。関係者にはぜひ検討していただきたい処です。

 一口に言って、この時代はまだ「個」はないでしょう。まだ「個」よりも「家」が優先する時代です。私の記憶では、いろいろな差別問題も含め、昭和の40年代でもまだその性格が強かったと思います。

 結婚も、離別も、「池辺義象の対応」は「池辺側の対応」であって、意思決定としての「親族会議」を経た対応であったはずですが、上記の研究をはじめ、見た限りでは、事歴が詳しいほどには意思決定を探求したものに出会いませんでした。

 この時代(あるいは現在でも?)、家族の重要事項を決定する場合、個人が独断で決めることはなかったでしょう。強いて言えば、その手続きを踏まない決定は「無効」だった。親族の意見を「無視」したり、押し切れば、断絶たったのではないかと思われます。『神足日記』で見る限り、勝記の上京にしても、息子・娘の結婚にしても、そのほか重要なことは、諸事かならずしかるべき相談(親族会議)を経て決定しています。勝記自身も、娘の婚姻では、相談相手になりうることを期待していたようです。

 それでは、池辺と神足はどういう関係だったのでしょうか。長くなるので、これについては明日に回すことにします。

ざくろ

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする