神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

青森・三沢・六ケ所

2023-12-14 22:47:11 | 御料地

 

    六ヶ所村の道で見た看板

 2012年6月21日朝7時頃家を出て、大宮8時28分発に乗り、13時5分青森着きました。自宅から6時間ほどでした。着くとその足で森林管理局青森事務所に向かい、担当者の青山さんにお会いしました。

 青山さんには、電話と手紙で、『御料地測量簿』のどの箇所がどういう理由で研究に必要かを説明して、青森事務所管内の文書の収集にご理解をいただいていました。同時に、青森事務所で直に現物調査をする許可もいただいていました。

 これが青森行の目的の一つでしたが、残念ながら、管内の旧御料地に関する新文書の発見には至りませんでした。あえなく15時30分頃に辞去。(しかし、飲むには少し早いので、三内丸山遺跡に行きました。これについてはまたいずれ。)

 翌日、朝一番に青森事務所へ挨拶訪問。今後をお願いして辞し、8時45分青森発の青い森鉄道に乗り、9時50分三沢駅着。

 三沢市街は三沢駅からやや離れていて手間がかかり、10時40分に市役所総務課文書係長田代さんと面会。資料の閲覧と撮影許可をいただき、市立図書館に入りました。これが今回の第2の目的でしたが、結局、ここにも三沢周辺の『御料地測量簿』の類はなく、関連文書の収集しかできませんでした。これで、この回の目的は終わり。成果なしでした。

 そこで、三沢市内を歩くことにしました。ずいぶん歩きました。大きな町でしたが、かなりはシャッターが降りていて寂しく、そこへ米軍機の音が響くという違和感のある印象でした。

 翌朝、せっかく青森へ来て収穫なしでは不本意なので、三沢市の街をバスで見物することにしました。

 じつは、かつての三沢の駅名は古間木(ふるまき)といい、駅の東方に下田村古間木、北東の一帯に三澤村三澤という御料地があり、この2村2字よりなる「三澤御料地」がありました。三沢はこの御料地の上にできた町です。これをぐるぐる見て帰ろうかと思ったわけです。

 ところが、7時30分に市内循環と思って乗ったバスが、南の方へどんどん行ってしまい、どこをどう走っているかもわからなくなってしまいました。それで、終点まで見物しに行くことにし、着いてから、折り返しの準備をしている運転手に、一番北へ行くにはどうするとよいか聞いてみました。

 すると、このバスが、街中を通って小川原湖の北の追舘まで行くというので、このまま乗ることにしました。バスは、小川原湖の東側の根井・谷地頭というところを通過して、二股に分かれた高瀬川を北に渡り、射爆場のある天ケ森を経て、もう一方の高瀬川を西に渡り、倉内・平沼とたどり、9時15分に追舘に着きました。

 時刻表を見ると、この路線は便数が1日に2本しかありません。それでも、平日はこの先の六ヶ所村尾駮(おぶち)まで行きますが、この日は土曜日なので運休。つまり、夕方の帰りのバスを待つか、このまま帰るかしかないことがわかったのです。

 そこで、運転手に六ヶ所村尾駮からのバスの便を問うと、「役場があり、大きい町だから、北の泊(とまり)の方へも、野辺地(のへじ)の方へも出られる。ビジネスホテルもある」といいます。

 そこで、さらに尾駮までの距離を問うと「10km位」といいます。地図を見ると確かにそうでした。そこで、「ゆっくりでも3時間歩けば着ける。昼までには着けから歩きます」と伝えると、運転手は「なんでこんなところへわざわざ来るのか。スカイツリーの方が面白いのではないか」と話すので、「いやこういう景色の方に興味がある」と話すと、笑い出し、「われわれと別世界の人だ」といって三沢へ折り返していきました。

   

   六ヶ所村の沿道の湿地に咲いていた花:とてもきれいでした

 9時25分、追舘を発し、新納屋・鷹架(たかほこ)と経て、11時30分尾駮に着きました。前に出てきた高瀬川の一帯からこの鷹架までは旧御料地です。廃村跡や核燃料サイクル基地・それに関連するのであろう大型車両が行き来するところを通って無事着きました。

 むつ湾側の横浜町の方から伸びてきた旧御料地は、尾駮の付近で太平洋側につながっているが、南は鷹架まで、北は津軽海峡沿いの野牛までもうありません。すべて陸奥湾側に面しています。このことを『御料局測量課長 神足勝記日記』日本林業調査会(J-FIC)の口絵を見ていただきたい。

 六ヶ所村の尾駮沼の脇で昼食をとってバスを待ち、12時36分、泊・白糠・小田野沢まで太平洋岸を北上し、内陸部に入ると峠を越えて、田屋を経てむつ市に着きました。この間もいろいろなことがありましたが、書けばまた長くなりますから、この辺でやめます。

 ただ一言。この間の太平洋側に御料地がなく、むつ湾側にばかり御料地が連なるのはなぜか。それがまた、御料地形成問題を考える場合の要点なのだと考えていることだけを書いておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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