神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

笠原義人先生と・・・

2023-12-03 18:54:27 | 勝記日記

 2006年8月5日、宇都宮大学の笠原義人先生から封筒がとどいた。開けると、写真の「最終講義記録 森林政策学と私」(約50ページ)が入っていた。先生はこの年の3月をもって定年退職されたのだった。

 普通、こういうことを書くと「先生の学問は・・・」となったりするものだが、私の場合はちょっと違う。

 1977年の秋、大学院の修士論文のテーマとして木曽の御料林をとりあげることにした。そしてそのことを農水省に就職していたT君に話した。すると、少しして「林野庁に萩野敏雄さんという詳しい人がいる」といってきたので、仲介を頼んでお会いした。萩野さんはご自身の著書「戦前期における木曽材経済史」やその他の文献を紹介してくださったほか、目黒の林野資料館や林業文研センターなど、いろいろと教えてくださった。しかし、林野資料館に伺ったときはすでに解体が始まっていて、文書類は林野庁図書館、つくばの公文書館、宮内庁に3分割されて移管されることが決まっているものの、どの文書がどこに送られるかわからず、どこに問い合わせても「整理がつくまでお答えできない」とまったくお手上げだった。

 それから約10年した1988年、林業経済学会から「関東部会で報告してほしい」と連絡があった。お伺いすると萩野さんの推薦とわかったので、お引き受けして「御料林研究の一視点」という標題で報告した。その内容は汗顔ものだったはずだが、「御料林」と銘打った報告に驚いた笠原先生が出席されて、後日コメントを『林業経済』に発表された。丁重な講評で、爾来、先生にいろいろとお教えいただくことになった。

 私は、大学紛争で荒れて授業がないとか、アルバイトのためとか、いろいろなことを理由に不勉強で、学部の三年からはいったゼミで取り上げた『資本論』しか読んで来なかった。そういうものが、先行研究の乏しい「御料林」を扱うことにしたから難儀した。林業については一からやらねばならなかった。そもそも、山育ちなのに林業の現場を知らなかった。そこで「現場を知りたい」と先生にお話しすると、先生は何度も秋田などの現地視察会に誘ってくださった。しかし、悲しいかな、生活費を稼ぐための仕事とことごとく重なり、一度も参加することができなかった。そうこうしているちに先生の退職となり、先の封筒が届いたわけである。

 だいぶ前置きが長くなったが、ここからが本論である。いただいた冊子の19ページに先生の「小学校時代」が書かれている。

「朝鮮半島から引き揚げ後郷里に帰り、父母は群馬県多野郡中里村の橋倉分教場の教員として勤務することになった。橋倉(当時集落戸数約20世帯)には自動車道は無くバス停まで山道を徒歩で30、40分かかった。・・・分教場に隣接して教員宿舎があり、小学校5年まではそこに住んでいた。・・・」

 橋倉とは上の地図の左上である。付近の左に八倉(ようくら)、右に平原(へばら)とある所である。年譜によれば、先生は1952年10月までここに住まわれていた。同じころ、私の父は村役場もある神ヶ原(かがはら、地図中央)の中学校で教員をしていた。だから、まだ私は小さかったが、お会いした可能もないわけではなかったのである。母にそのことを話すと、はっきりとした記憶はないが、役場や本校に用事で来ることはあっただろうから、その機会にお会いしているかもしれないと答えた。もちろん、これを先生にもお知らせしたが、手紙だったので反応はわからなかった。普通、先生から返事があるが、この時はどうだったか。いくぶん抗議めいたことを書いたから、なかったかもしれない。

「水田はなく、山間畑作地帯であり、コンニャク、炭焼、養蚕が主たる収入源であった。・・・コメのご飯を食べるのは年に盆と正月の2回程度である。動物性蛋白は不足ぎみ、兎、蛙、蛇などを食べた。松本清張の小説に、山奥の野蛮な人たちが蛇を捕まえて食べるという一節があるが、「失礼なやつ」と思ったことがある。」

 先生の住まわれた村奥と村の中心部との違いや、戦後すぐと、私が物心ついた戦後5~6年後とでは食糧事情も違ったかもしれないが、蛙や蛇を食べる習慣を私は見たことがないので、そのことをお伝えした。八倉・橋倉へは、1955・6年ころに父の家庭訪問に連れていってもらった。そのとき父は、「負けずに歩いて、40分ほどで橋倉まで上がった」と、嬉しそうに母に話したそうだ。

 群馬のこのあたりは、谷が深くて「山中谷(さんちゅうやつ)」とか、やや差別的に「群馬のチベット」といわれたことがあるが、明治17年の秩父事件の時には、敗れた困民党が三津川(さんづがわ)沿いに南の秩父から逃れてきて、ここから西の長野方面に落ち延びていった。そして、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』(日本林業調査会(J-FIC))の解題にも書いたが、ちょうど同じころ、困民党とは逆に、神足が北の下仁田の方から山越えをして平原に降り、神ヶ原をへて南東にある叶山(かのうさん)に登るのである。叶山の一帯は地質学的に有名で、南の埼玉県にある両神山とともに、地質学者E・ナウマンらが注目した山である。しかし、石灰質のこの山は、今日では秩父の武甲山と同様にセメントの原料として削り取られてしまっている。上の地図からもその様子がうかがえる。

 だいぶ前、私は秩父の小鹿野の方から二子山(この地図の右下にあたる)に登ったことがある。その時、北西に白く海のように広がる一帯に気づいた。それは無残に削られた叶山の跡だった。

              

左が叶山、右が田処(たとろ)山

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする