神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

影を追って

2023-12-27 22:33:08 | 余録
 7月28日、沼津の千本浜公園へ行きました。

     千本浜より伊豆半島方面:
     向こうも沼津市とは知りませんでした。

 朝、『御料局測量課長 神足勝記日記』の出版について相談するために内幸町に行き、その後、新橋11:50の小田原行に乗り、途中の鴨宮で後続の熱海行きに乗り換え、熱海で浜松行きに乗り換え、15:00頃沼津に着きました。
 途中は、駅も沿線も、どこも神足勝記のゆかりの場所です。彼はこの辺を、最初は歩いて、のちには人力車に乗り、さらに鉄道に乗り、何回も移動しています。それを知っていますからキョロキョロとしすぎて、まさしく変なジイさんをジでいってました。

 沼津の千本浜公園には若山牧水の碑があります。というと、いかにも私がここをよく知っていて訪ねたかのように思われるかもしれませんが、そうではありません。そこが牧水の縁の地だということは、訪れてから知りました。
 
 じつは、ひょんなところから父の写真が出てきました。それは、松林の大きな石碑の前に座って撮った写真でしたが、どこでいつ撮ったものかわかりませんでした。
 ところが、ほかの写真を見ているうちに、鶴岡八幡宮で撮った修学旅行と見られる集団写真に服装がほとんど同じで映っているものがあり、これから鎌倉の近くのどこかという手がかりが得られ、しかも、父は中学校の教員でしたから、はっきり修学旅行時の写真と判断がついたのです。

 集合写真をよく見ると、映っている何人かから、撮影時期が昭和36年と特定できました。このころは、箱根や富士山あたりの整備が進み、人気の観光コースになってきていたようです。しかし、場所は鎌倉の近くの大きな碑の前で記念写真を撮る所くらいしかわかりませんでいた。
 
     千本浜公園の牧水の歌碑:
    碑前は、3段の階段状から、平地に整備されたようです。また、
    碑の形は、撮影角度の違いからか、違ってきているようです。

 そこで、写真を天眼鏡で拡大してみると、碑文が「幾山河こえさりゆかば」と読めました。
 上にも述べましたが、牧水の碑がどこにあるかを知りませんでしたから、ネットで「牧水 碑 幾山河」と入れてみたところ、「千本浜公園」が出てきました。
 
 ともかく沼津駅につきました。でも、そこからが大変でした。

 バスに乗ろうとしたら、バスの運転手の情報が曖昧・不正確、結局バスを乗り過ごす羽目になりました。仕方なくタクシーの運転手に聞くと「わかる」というので乗って付近にいくと、「あれ、この辺のはずだけど」ということで、結局、自分で歩く羽目になりました。途中、マウンテンバイクの練習をしている中学生に聞くと、親切にあちこちと見てくれましたがわからず、牧水記念館があるというので行くことにしました。

 記念館についてひとわたり見たところで、石碑の場所を聞くと、先ほどの辺りとわかりまた戻りましたが、戻ってもよくわからず、結局、諦めて帰ることにしました。
 歩いていると、川の脇に花屋さんがありました。入って聞くと、「幾山河の碑でしょう、あそこにあるはずだけど・・・」といって、車に乗せて連れいってくれ、林をかなり入ったところに見つけることができました。
 わかればなんということもないところにありましたが、見つけるのに苦労しました。
 「知っている人は知らない人のことがわからない」とつくづく思いました。
 いやそれよりも、60年以上前に父のたどったところを踏んだ嬉しさは、なんとも言いようのないものでした。
 
  牧水記念館で見た歌:
  お気に入りですが、恋の詩とは知りませんでした。
 


 

 



 
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神足勝記の山梨巡回 4 精進湖・右左口峠

2023-12-26 23:44:10 | 勝記の巡回
 神足が芦川べりを通過した最後は、南の精進湖から北の右左口に抜けた巡回です。
 この時のことは『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)の182~3ページに出てきます。

 それを簡単にたどると次のようになります。
 11月26日に10日間の日程で静岡支庁と宇都宮事務所管内への出張を命ぜられます。このうち27~29日は栃木県の芳賀御料地を視察して帰ります。
 ついで12月1日に静岡支庁管内へ出発します。
 朝、新橋を出て、御殿場ー須走ー篭坂峠をたどり、山中湖西側の山中に泊まります。 
 (鳴沢・青木ヶ原 出典:富士山富士五湖Map)

 2・3日は雨。鬼丸技手の作業地でおもに内業に従事します。『富士山御料地測量簿』によると、鬼丸技手は西湖への里道の事業を担当していました。

 4・5日は、鳴沢村付近の青木ヶ原を通って精進湖・本栖湖に通じる里道を担当していた高津技手・仁科技手の事業を視察します。139号線の辺りと見られますが、私が歩いた舗装路でも、起伏がかなりあってしんどいです。
 
 
 いよいよ6日に精進湖の北の「女坂」を越えて古関〔ふるせき〕に出ます。
 峠を越えてからは、358号線の西にある寺川に沿う道に出て古関に下ったようです。古関は、明治14年の通過から17年がたっての再来ですから、さぞ懐かしかったでしょう。そこから芦川に沿って下り、右左口〔うばぐち〕峠を越えて甲府に出ました。
 つまり、御殿場から甲府まで、篭坂・女坂・右左口のいずれも1000m超の3峠を越えて歩いたわけです。
 神足のこの後の業務については日記をご覧ください。7日・8日・9日とも忙しく動いて帰宅しています。

 なお、私は、ミニサイクルを持参して富士吉田から139号を精進湖までたどり、女坂を少し歩いてみてから、精進湖トンネルをくぐって358号を下り、そのまま右左口トンネルをくぐり、甲府へ出ました。
 この時は、自転車のパンクもあって、かなりつらい旅となりました。

 もう30年前になりますが、『山梨日日新聞』(1992年3月25日)に「皇太子御来村の日(中道)」という記事があり、読むと、村の長老が、「峠の道がよく整備されていたのはあの時じゃなかったか。いい道になった。後にも先にもあの時が一番良かった。」と回顧していました。
 あの時というのは大正11(1922)年10月5日のことで、「その日、皇太子(のちの昭和天皇)が富士山麓周遊の帰路、精進から右左口峠を越え」たということです。
 つまり、この回の神足の巡回が明治31年ですから、さらに24年近く後になって道が整備されたわけで、神足が通った道はどんな道だったのか、驚きます。
 私はこれを自分の目で確かめたいと思いつつ、まだ果たせないままです。かならず女坂から走破したいと思っています。
 
 さて、神足の芦川(古関・鶯宿)周辺の巡回はこの3回です。
 そのうち3回目にあたる栃木・静岡・山梨の巡回は、『神足勝記日記』183ページにあるように、「年内に予定の結了を見るの覚束なきを以て、補助員派遣の儀を佐々木〔陽太郎〕主事へ稟議す」るべく、実地に実情を見るという必要性から行われたものであったようです。この点は、同『日記』38ページの「進程表」の「(10)富士山」の項を見る限りでも、かなり多勢が投入されていて、大事業地だったということがわかります。ぜひご覧ください。
 
 ちなみに、この後、神足が行った塩山の大藤村は樋口一葉の父の出身地とのことです。神足がこれを知っていたということはないと思いますが、この地を訪れたときに撮ってきた写真がありますからこれを紹介しておきましょう。
 なお、杉浦重剛と神足は大学南校での同窓生です。
 

 
 


 
 
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神足勝記の山梨巡回 3 鶯宿・鳥坂峠

2023-12-25 21:23:42 | 勝記の巡回
  芦川・鳥坂峠:(富士山富士5湖Mapより)

 つづきです。
 神足は、明治14年10月3日、鶯宿(おうしゅく)から芦川をさらに遡り、東の黒岳にある水源を目指したようです。ところが、中芦川(学校の記号があるあたり)で休んだあと、距離を測る量程車が具合悪くなってしまいます。そこで、代わりに帯尺〔巻き尺のようなものでしょうか〕を使用して上芦川まで測り、その日は村役の家に泊めてもらいます。
 翌4日、水源まで到達することを目指して出発しましたが、とうとう量程車が壊れてしまい、修理のため甲府に向かうことにしました。そして、その後のことを神足は次のように書いています。
 「上芦川村を下り、字新村より北折、天神峠を超へ、奈良原村を経て・・・
 石和駅に出・・・」た。 
   
 私は、ここを読んで、「天神峠」はどこだろうか、「鳥坂峠」(地図中央上部)と違うのかなと思いました。そこで、昨日書いた古関(ふるせき)の帰りの余った時間に村の人何人かに確かめてみましたが、誰も知らないといいます。それなら、そもそもどんなところか見ることも必要と考え、日を改めて出かけてみました。

 
    鳥坂峠(天神峠):向こう側が芦川方面 左が釈迦ヶ岳方面

 石和温泉駅から前回と同じ時間のバスに乗り、奈良原を通り、鳥坂トンネルを通過したところのバス停で降りました。持参したミニサイクルを置いて脇に入ると、すぐに見つかりました。
 地図の「鳥坂トンネル」が現在の道路(新道)です。「鳥坂峠」とある方は旧道で、この地図だと今でも通れるかの印象を受けますが、すでに完全に封鎖されていて通行不能です。
 問題の「天神峠」は「鳥坂峠」旧道のほぼ真上にあり、新道のトンネル付近からいくらかのつづら折れの道を登るとここに到達します。道幅もあり、旧道の隧道(トンネル)が作られる前は、石和・奈良原方面との重要な峠だったことがうかがわれました。
 ここが、神足が通過した「天神峠」だろうとは思われましたが、証明するものにまだ出会えてはいません。

 さて、この日は秋でした。そこで、この鳥坂トンネルから西の市川大門まで、神足が日記で書いていることをあれこれ照合しながら、紅葉を楽しむことにしました。神足が上ってきたところを、ミニサイクルで下るのですから、少々後ろめたかったですが、それでも結構歩きました。
 それを書くのは別の機会にして、楽しんだことを2つ書きましょう。

 一つは、タヌキと話したことです。
 古関を出て少し下って高萩というあたりへ来た頃でしょうか。崖下に落ちた栗を2・3個拾っていると、前の方を急に黒っぽい物が横切って、反対側の田んぼへ入って行きました。タヌキでした。野生のタヌキを見るのは珍しいので、急いでそっちへ行って見ましたが、姿が見えませんでした。それで「やっぱりすばしっこいな」と思いながらキョロキョロ見回すと、すぐ脇の管の中に潜んでいるのがわかりました。
 

 見ると、居心地悪そうな中で、気まずそうにしてこっちを見たり、下を見たりしていました。そこで少し説教をしてやることにしました。
 「おい、こんなところで何をやってたんだ。びっくりしたじゃないか。いいか、お前の肉のことを牡丹ていうんだ。〔注:ボタンはイノシシ肉。誤りです。でも、確かにこう言ったのに、タヌキは反論もせず黙ってました〕。ヘタしたら鉄砲で撃たれて喰われちゃうんだぞ。わかってるか」などとあれこれ言うと、ますます困った風にして、下を向いたり、こっちを伺ったりしています。それがちょうどこっくりしたように見えて面白い。そこで、「今の国際社会はなんだ、ひどいな・・・」、「日本もな・・・」、「温暖化、心配だな・・・」、・・・「ワシの本はいつ出版できるんだ・・・」とワケの分からないことを次々にしゃべり続けて、最後に「おいどうだ」と聞くと、下向いて考えこんでしまった。そこで「お前は考えようとするだけエライ。今日は、ワシでよかったな」というと、上を向いてニコッと・・・そしてコックリと頷きました。
 いや、本当の話ですよ。以心伝心です。

 おまけに、この日はアケビのたわわに生ったツルを見つけて、5個も食べました。これが二つ目です。では。
 我が家のアケビ:
 10個も実をつけたのに、全部落ちてしまいました。

 
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神足勝記の山梨巡回 2 鶯宿・古関・右左口

2023-12-24 23:22:51 | 勝記日記
 稜線の南は富士河口湖町 北左は甲府市 北右は笛吹市
   (富士山富士五湖Map)
 『御料局測量課長 神足勝記日記 ―林野地籍の礎を築く―』日本林業調査会(J-FIC)を刊行して10日になろうとしています。
 みなさんが、この本によって、神足勝記や御料局測量員の業績を知っていただけますよう期待しております。
 日本の林野地籍は100年以上前の成果が今も現役で使われているのです。

 さて、上の地図の地域を神足勝記は2回通過しています。(この東方にある御坂峠を越えて河口湖付近も通過しましたから、それを入れると3回です。もちろんすべて徒歩です。)
 私はその足跡を3回に分けてたどってみました。今日からからこれについてちょっと書きましょう。
 
 神足の1回目は、明治14年9月25日の所です(解題の13ページ下にもあます)。元の日記には、西の市川大門の方から芦川を遡ってきて、10月2日に古関(ふるせき)の田中与平方に泊まり、3日「・・・古関を発し、溪河を左右し・・・里許、漸{く}顱丘{ろきゅう:円頂状の山}の麓に出て鶯宿(おうしゅく)に至」るとあります。
 私はここにある「田中与平方」と「顱丘」を探してみることにしました。
 
 この地域へ到達するには、JR石和駅から右上の鳥坂峠を越えて鶯宿までのバスか、西の方から古関までのバスのいずれかとなります。東京から行くには石和からが便利です。そこで、私は、鶯宿着10:26、同発12:55と決め、2時間半で鶯宿・古関間を往復することにしました。なお、バスの本数は1日3本です。

 バスの終点で運転手に、帰りもかならず乗るから、バス停でなくても拾ってくれるように頼み、近くで道を聞き、時たま車が通るだけの山間を行くと、下りだったせいか予想外に早く11:05頃に古関に着きました。

 神足たちが泊まるのはお寺とか大きな旧家と決まっていますから、急ぎ2~3軒当たると、すぐに見つかりました。間違いないことがわかったので、手短かに話しを伺い、後日の訪問をお願いして30分ほどで辞去しました。
 
     水ノ沢山の突端(正面方向が鶯宿、右はロッジ・スポーツ場)
 
 帰りの鶯宿までの所要時間を80分みておきました。
 神足は昔の道を歩いたのですから、今の舗装路とは違うはずだ・・・と、沢の方を見下ろし、山の形を確かめながら行くと、突然、沢の正面に山が現われました。すぐにこれだと納得しました。

 神足が見たものを今見ていると思うと、沸き立つ感動を抑えられず佇立。

 思いのほか簡単に見つかり、30分以上も時間を余らせて帰ることができました。余った時間で辺りをうろうろしていると、バスが来て無事拾ってもらえました。もちろん、このほかには顱丘{ろきゅう:円頂状の山}は見当たりませんでした。
 つづきは明日にしましょう。
 
 帰り道で見た花

 
 
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神足勝記の山梨巡回 1 柳沢峠

2023-12-23 22:28:14 | 勝記の巡回

   柳沢峠からの富士山

 神足は、宮内省入る前に地質調査所で全国調査に従事していました。しかし、『御料局測量課長 神足勝記日記 ー林野地籍の礎を築く-』(日本林業調査会調査会(J-FIC))では、ページ数を考慮して、その部分を割愛し、代わりに『回顧録』から抜粋して入れました。
 いずれかの日にこの部分も公刊したいと思いますが、今日は、解題に書いた山梨県巡回の第1回、それも柳沢峠付近について紹介します。できれば、地図を見てください。

 まず神足は、明治13年9月17日出発、11月16日帰宅しますが、その行程は次のようなものでした。
 東京板橋発・中山道を通過ー碓氷峠越えー軽井沢ー浅間山登頂ー群馬県に入り妙義山西側通過ー下仁田から西へー長野県臼田から南へー海ノ口から東へー十文字峠越えるー埼玉県三峰神社・武甲山登頂ー名栗を通過ー東京・青梅の二俣尾に出るー青梅街道西へー氷川(奥多摩)を経て丹波山通過ー柳沢峠を越えて山梨県に入るー塩山・山梨・甲府を通過ー鰍沢から船で富士川を下るー松岡に上陸ー東海道を東へー沼津・国府・伊勢原・八王子ー甲州街道を通り帰宅。
 
 私が『神足日記』の元のものを見た限りでは、出発後の予定変更はありません。この行程は出発前に決められていたままと見られます。ということは、地質調査所の事業として「この行程」がどういう決まったのかも重要な研究課題となると思われますが、研究も、問題意識も、有無自体がまだわかっていません。
 
 これを私の研究関心(の一つである皇室財産形成)の方に引き付けて言いますと、具体的には、山容と分水嶺をを見るという観点でいえば、浅間山登頂からあとはすべてその範囲に入ってきます。
 
 尾崎行雄水源林踏査記念碑(丹波山と柳沢峠の途中の道路沿い)
 
 とくに、多摩川の流域に関していいますと、名栗から峠越えした青梅・丹波山・柳沢峠までは、今日は東京都の水源林地帯です。『多摩川誌』712ページに拠れば、東京は大正・昭和期に奥多摩湖周辺の私有林を買収しますが、これより前、丹波山村の南北の稜線部一帯を明治34年に御料局より譲り受け、丹波山から奥の柳沢峠までを明治43年に帝室林野管理局から譲り受けています。 
 
 私は、ここを2013年12月に歩きました。青梅線で奥多摩まで行き、バスに乗り換えて丹波山まで行き、ミニサイクルを押して歩き、途中で遊んだ時間も入れて、柳沢峠まで約5時間で着きました。峠からは、ミニサイクルで塩山までほぼ下りです。
 

 神足がここ(このあたり)を歩いたことは確かですから、昔の道が少しでも見えないものかと期待して葉のない冬期を選んだのですが、ホンの何ヶ所かそれらしいところに気が付いた程度でした。
 
 いいところですよ。
 車ではもったいない。大変でも歩く方がよいです。
 なお、5月ころには、塩山から柳沢峠を越えて、東京側の鶏冠山・黒川山登山口の落合まで、日に朝晩2本バス便があります。(季節バスに付、要確認)

 






 


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